物価が上がっても富裕層は困りません。そこで参政権に代表される政治的民主主義だけではなく、社会的な平等、社会的デモクラシーの要求に向かいます。
そこで富裕層、フランス革命であれば、富裕なブルジョアにとって自由経済による資本主義の恩恵を受けたいがゆえに、色々な理由をつけて社会的デモクラシーを拒否するのです。しかし大衆は資本主義を押しとどめるかのような運動を行い、社会的デモクラシー、つまりは平等の方に向かいます。
なんだかデモクラシーとか平等というと、皆が全て同じように税金を払うとか、同じ負担をすることと考えてしまいますが、フランス革命を思い出せば、物価が上がって困る大衆が困らないようにする政治をするか否かという問題として立ち現れます。
実際にはフランス革命時には資本主義という概念が広まっていたわけではありません。ですから当時の民衆、農民を含めて、パンを要求したのです。いえ、正確にいうと、適正な価格でパンを買えるようにと要求したのです。ただ民衆に要求を実現する知恵はありません。それを批判したのはルソーです。ルソーは「赤い司祭」と呼ばれるグループに属していました。
ルソーは制定されたばかりの憲法を批判し、富裕層の独占によってパンを食べれない社会状況のどこに平等があるのか?と。民衆運動の担い手たちの元にパンが届く場所になければならないと。これら民衆がパンを手にすることができること、これこそ革命の意義であろうと。
これを現在の物価高に当てはめると、物価高で電気代ガス代が上がり食料品の物価も上がっている時、生活必需品の価格統制をすることが政府が可能なことです。しかしながら、そんな物価統制をしてしまえば、儲けが減る社会層があり、彼らが拒否する。現代では賃金を高くすることによって物価高に対応することも可能だが、自由経済に固執している社会層はやはり拒否する。それが現在の日本であれば、当然のこと経済的に力あるものたちである。
面白いことに、これだけ高度消費社会になっているのだから、この拒否は民衆の消費を浮揚させることがないことになり、景気はよくならない。
そういえば国内の牛乳の生産量を現在統制して、牛乳を廃棄する政策をおこなっているが、気が狂っているとしか言いようがない。何を守ろうとしているのだろうか。ひょっとして、フランス革命の時の富裕なブルジョア層とは、現在の日本経済に力を持つものたち、その力を削がないようにする政策を行うという意味で官民一体になっているのではないだろうか。そしてこの民には我々民衆は含まれないのに、官民一体という言葉で、民衆も包摂されているような勘違いをさせているのではないだろうか。