次のようなtwitterが注目を浴びている。
「貧しさとは、牛丼店で食うことではない。店員に怒鳴るオッサンになることだ」体験に基づく“哲学的な投稿”が大反響 https://t.co/vaUAPm9ZEg
— ソノ欲ヲ満たセ (@lupin3rd_japan) January 12, 2022
昭和世代、上流の下流にいる自分からしたら違和感ある記事。日本はもはや1億中流でなく、1割の上流と9割の下流で成立つ国か。
Yahooでも「まいどなニュース」さんを引用し、<「貧しさとは、牛丼店で食うことではない。店員に怒鳴るオッサンになることだ」体験に基づく“哲学的な投稿”が大反響>とある。https://news.yahoo.co.jp/articles/8122756ee897797692d10edaf1771d9107b4aab0
松屋で飯を食っているということに、格差を感じるような社会なのかと、僕は感じてしまった。僕が大学生の頃、そんな意識はなかった。
哲学的かどうかは別にして、僕が大学生の頃だから30年以上前には、松屋が貧しさを表現することと結びつくことはなかったから、日本は変わってしまったということだ。だから社会学的な問題意識として意義がある。
接遇が重要な社会となっているから、「あの店はサービスがいい」とする時、良い接遇が入っている。「あの店は態度悪いから、二度と行かない」というアレである。
昔も態度の悪い親父はいたものだ。だから、「店員に怒鳴るオッサン」はいた。変わったのは、そういうオッサンに対するこちら側、店員さんやその店にたまたま居合わせた人たちの態度であろう。
そのような社会関係(店員とオッサン)を変質させたのが、接遇に対する社会的期待の閾値が高くなったことである。
そもそも接遇には、いくつかの意味が含まれているが、「あしらい」という意味が含まれていた。「店員に怒鳴るオッサン」程度は「あしらい」を受けて、流されたりしたものである。だから接遇から「あしらい」が抜け落ちている。
どちらにしても「オッサン」を「こんな風にならないようにしよう」という反面教師にすることは、あまり変わっていないのかもしれない。
それにしても、こういう「おっさん」に簡単に傷ついてしまうようになったのではないかとも思ったりする。