養老孟司さんがこんな感じのことを言っていたのを記憶している。
いじめられた経験のある人物の体験記を読むと、人間のことしか書いていない。そこに花鳥風月、つまりは自然が登場しないと。
我々は幸せかどうかを気にして生きている。いい友人がいるとか、悩みがあれば信頼できる人に相談できるとか、そういう人間関係によって、幸せを実感する。良い人間関係が幸せの要件である。
とすれば、ひっくり返って、悪い人間関係は不幸の要件である。その典型がいじめである。
そこに花鳥風月が出てこない訳だから、人間は人間とのみ関係を築いている。花鳥風月、自然との関係が大切になっていれば、人間は人間と自然と2つとの関係で生きている訳だから、自ずと人間の関係の重要性は相対化される。
確か養老さんは人間が関係するのは、あと道具とか機械もあると言っていたように思う。僕自身は道具と機械の違いに気づかされる。どう違うというのかといえば、道具は人間が使うものだから、どこか人間臭さを持っている。人間が動くのをやめれば、道具は何もしない。
ところが、機械は違う。スイッチをONにすれば、人間とは無関係に動く。そう自律的である。そこが違うのである。その代表がコンピュータである。スイッチを切ればいいのだが、社会システムとしては、いつもスイッチがはいっている。それを正常としているのだが、本当だろうか。
さて自然との関係というが、僕たちは自然を見たり聞いたり触ったりするだろうか。確かに少しはあるだろうが、すでに機械との関係に乗っ取られていないだろうか。
その機械が自動的に作動している状態と関係を結んでいる。そうすると、人間が関係するのは、人間・自然・道具という三種の神器から、人間と機械となっているのが現状であるから、自然は押しやられていることになる。スマホをいじっている日本人からは、自然が剥奪されている。
自然をメタファーすると、大地である。僕たちはすでに大地の上を歩けない。実際にアスファルトの上を歩いていて、土の上を歩くことはないし、土の上を歩くことに不快さえ感じるではないか。
さて考えてみれば、そのスマホの中で流通する情報は人間の出来事ばかりだから、人間中心の世界がすなわち人間の生きる世界である。あるいは機械とだけ触れる人間がそこにいるかと思うと、なんだか不気味である。
僕は他人のブログを見るとき、いつも花鳥風月の写真が載ったブログを見るとホッとする。これもまたスマホやPCという機械との関係性であるのだが、どうにか自然とのつながりが残っているのだと少しホッとする。
自然は人間に脅威も与えるが、なぜかしら人間は自然と触れないと、平衡を失うように思うのだ。