Drマサ非公認ブログ

犯人の動機は大切じゃないらしい?ということへの雑感

 一昨日、20歳ぐらいの男性が「岸田首相襲撃犯の動機について報道するのは良くない」「テロが自らの主張を打ち出す手段になる」「真似する人が出る」「結局テロを肯定している」と主張していた。

 まあ僕はちょっと横にいて、話が耳に入ってきただけであるが、思わず聞いていた。某喫茶店での一コマである。彼に同調して「そうだよねえ」と首肯く友人たち。彼は主張を持つが、友人たちはなんとなくといった感じで、本当は大した関心を持つわけではない。

 僕は側耳を立ててるだけだが、彼は自分の主張に正義があるという雰囲気である。そう簡単に正義なんか主張しないほうがいいよなあ・・とか頭に出てきたり、正義の主張が行きすぎるという点で、テロ犯と心理似ているんじゃないかと思っていた。

 彼は動機の解明をマスコミが行うと、社会に悪影響があると指摘していた。で、こんなことを思ってもいた。

 僕が若い頃学んだ社会科学の方法では、謎があれば、当然謎解きをするためには、犯罪捜査の方法のような手法が頭に描かれると。この場合、テロを行った動機の解明が重視される。社会学では、この動機の理解による容疑者(犯人)の動機の意味解釈することによって、社会的出来事の意味を了解可能なものにする。

 これは理解社会学につながるが、このテロ行為という出来事の意味を社会的に共有することは、この社会がなんであるのか、どういう状態であるのか、そういう理解に開かれることである。とすれば、その意味に蓋をしてしまおうとすれば、この社会のありようについて考察する機会を失うことになる。

 だから動機を明らかにして、そのような動機を生み出す社会構造を反省的に振り返ることことは、当然必要である。彼は社会に悪影響があると言っていたが、彼には悪影響がないのだから、特権的場所に存在していると思っているのだから、悪影響あると彼が考える社会を実は見下している。

 国会議員のtwitterを引用しておこう。

 短絡的な意見だと思う。僕は犯人を肯定する気は当然ない。不遇や不幸が犯人にあるにしても、それらと犯行の間には乖離がある。繋がりはしない。でも、それは理性的な判断だ。人間というやつは乖離をつなげてしまうことがあるということ、それは悲しい現実である。

 実は僕が感じていることは違うことだ。犯行から多少の報道に触れる中で感じたのは、こんなことをしてしまう人間の哀しさである。そういうことでしか、彼の人生の中で受け入れざるを得なかった不幸や不遇、それらを表現したり、解消したりするしかない、そういう彼という存在のありようである。

 彼は僕であったかもしれないではないか。僕は運のいいことにそうならなかった、ただそれだけのことのように思える。他人として、僕自身に関係ないと、どうもできない、そんなことを考えていた。

 安倍さんのテロも同様な感じを持っていた。山上徹也という存在が哀しい・・・そんな思いが生じていたのだから。

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