本日は地元で開催された、戦没者追悼式の式典に参列をしてまいりました。
私の母親の父親、私から見て祖父は 太平洋戦争当時にアリューシャン列島沖合いで、
乗船していた船が米軍に砲撃されて、海の中へ船ごと沈没してしまい戦死したと聞いております。
何でも祖父は、軍艦ではなく、後方支援隊の食糧や物資を運搬する船に乗船し、基地や戦艦に
食料や物資を運んでいて、軍艦ではない船が、退路を断ち切るための船として襲撃されてしまいました。
祖父の職務は、船員200名に食事を作る料理長の御役目をしていたそうで、
以前ブログで、橋(タカハシ) の性は、料理の神様に起因している事を投稿しましたが、
祖父も他界するまで、料理と関係をしていた職務で活躍をしていたようです。
本日の式典に参加している間、私は胸に言葉が詰まり、何も言葉が見つかりませんでした。
この感覚は、東日本大震災の後に被災地に仕事や救助活動で訪れた際に、避難所にいる方々へ
一日でも早く、足が伸ばせる仮設住宅を入居していただくために、石巻市から八戸市にかけて
沿岸部の応急仮設住宅の躯体工事を施行し、急ピッチで各作業所に出面していましたが、
行く先々の中で、特に状況が厳しい地区では顔の表情や目力に冴えが無く、言葉を失っている現実を
聞くだけの対応や励ましていた時、自分の頭の中も何の整理がつかずにいながらも、ただ満身創痍だった
事と使命感だけモチベーションにしながら、日々が過ごした日々の感覚と重なり合い、同感しました。
遺族を代表して、お話をされた遺族会会長さんのお父様についての内容ですが、
そのお方は、身体が弱く病気がちな方だったそうで、召集令状が届き、奥様が駅で見送る際に
会話で、「おそらく、俺のような者にもおよびがかかる今の祖国の状況は相当に厳しいのであろう。
俺が先か?家族が先か?命を落とす事もあるかも知れないが、宜しく頼む」と言われ旅立ちました。
しかし、戦後に旧ソ連国のシベリア地区にて捕虜とされ、収容所で監禁されて強制労働を行う事になった
そうです。
しかしながら、病気がちで身体が丈夫でないため、作業に耐えられず、満足に手当ても受けられないので
動けなくなり、俺の衣服や靴はみんなが使ってくれ、みんなは汽車で祖国に帰れ、俺は馬車で帰るから」
と言わたのが最後で、数日後に収容所の仲間が外で作業をしていた時間に、建家から白く大きな魂が
空に登って行くのを何人かの方々が目撃し、「あれは◯◯じゃないのか?」と思い、建家に戻ると
やはりご臨終をなされて御霊を見たのだそうです。
仲間の方々が、シベリアの極寒の氷の大地に、つるはしにて穴を掘り、仮の埋葬したのですが
数日後、狼か?野良犬か?にそのご遺体は連れ去られてしまったのだそうで、祖国に骨を持ち帰る事は
仲間の方が帰国できる際には、残念ながら叶わなかったそうです。
私の祖父もアリューシャン列島沖合の極寒の地で、万が一、海に落ちれば凍死であろうと
いわれていた場所で命を落とし、◯◯さんもシベリアの極寒の地で、お亡くなりになりました。
私たち日本人の英霊の方々は祖国を思い、祖国を守るために命を捧げた方々がいましたが、
第二次世界大戦終戦時までに、日本人全体で300万人の方々の尊い命が大戦にて失なわれ、
皆、永遠の平和を信じて、私達子孫に託した事を、最近の日本人は鑑みて感じるべきだと思います。
昨今の公序良俗を見て、先祖様、祖霊様達は、如何な祖国に感じているでしょうか?