史跡ハンター 臥龍

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地元横須賀の軍事施設跡散策

2015年03月07日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月7日(土)
今日はちょっと買い物ついでと運動がてら、明治以降に設立された軍関係の施設跡を自転車で巡って来たよ。
朝から雨が降ったり止んだりでさ…買い出しの本番は毎週日曜(明日)なんで雨が降り続きそうなら明日行こうと思ったけど、午後は大丈夫そうだったし土日の日中ってテレビもつまらないんだよね~


まずここは家から自転車でも1、2分で着く「坂本中学校」と「桜小学校」とが併用している門です。
この門は、かつての陸軍「横須賀重砲兵連隊」の正門で、明治40年に竣工されました。
横須賀市内に残る数少ない明治時代の建造物で、門に連なる塀は明治24年に完成したといわれています。
明治23年5月に「要塞砲兵第一連隊」として誕生したのが始まりで、大正9年に「横須賀重砲兵連隊」と改称されたみたい。
俺の母校も兵舎だったのが戦後に中学校になったんだってさ…ウチの父も同じ中学だから、その当時の校舎は兵舎のままだったかもね。

それから用事で池上を経由して国道16号線を北上…

ここは田浦にある「海上自衛隊 第二術科学校」です。

「海軍通信教育発祥記念碑」です。

「海軍水雷学校跡」碑です。

この辺りは旧「海軍水雷学校」の敷地で、明治26年水雷や通信技術を身につけることを目的として水雷術練習艦の「迅鯨」を長浦湾の近くにおき、「水雷術練習所」を設置したことに始まります…その後、明治40年(1907年)に名称が「海軍水雷学校」となりました。
日露戦争で活躍した「広瀬武夫」中佐も練習所時代のこの学校に入り、練習艦「迅鯨」で水雷術を学んでいたといいます。
連合艦隊司令長官「山本五十六」も明治40年に4ヶ月間教育を受けてたんだって。


ここはJR田浦駅北口側…ほとんどの人は南口を利用してると思うよ。

相模運輸倉庫が保有する専用線が分岐しているよ。

アスファルトで埋設された線路跡です。

一部は枕木など線路が残ってるよ。

吾妻川に架かる吾妻橋です。

川…か?

平面交差してるトコ…先にあるのは「旧海軍軍需部 長浦倉庫」だよ…専用線で軍の物資を輸送してたのかな。

その先のトンネル内には穴を塞いだ跡が一定間隔であったけど…倉庫か?

そのすぐ先には「横浜DeNAベイスターズ」の総合練習場があるよ。

もう沖縄のキャンプは終わったんだろうけど…今こっちには誰も練習しに来ないのかな?
来週はファーム(イースタン・リーグ)の開幕戦が横須賀スタジアム(追浜)であるんだよ。


ここは「吉倉公園」です。

ここには「芥川龍之介の文学碑」があります。

「芥川龍之介」は横須賀に一時期住んでいたこともあり…「蜜柑」という小説は大正8年(1919年)5月に「新潮」に発表された短編小説です。

JR横須賀駅です…「芥川龍之介」は大正5年(1916年)東京帝国大学卒業後、すぐに就職口が見つからず12月より横須賀の「海軍機関学校」にて英語の嘱託職員として働き始めました。
当初は鎌倉に下宿していたそうなので、鎌倉からの通勤でこのJR横須賀駅を利用してたんだろうね。

ヴェルニー公園にある「逸見波止場衛門跡」で、旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所として明治末期から大正の初期頃に建てられた建築物です。

ここは「三笠公園」へと続く「横須賀学院」前です。

この辺りに「芥川龍之介」も教鞭を執った「海軍機関学校」があったんだって。
1874年、横須賀に海軍兵学寮分校が置かれ、1878年に海軍兵学校附属機関学校となり、1881年に「海軍機関学校」となりました。
1887年(明治20年)に廃止されるも1893年(明治26年)に再置されますが、関東大震災によって校舎が罹災したため、1923年~1925年は江田島の海軍兵学校内に移り、1925年に京都府舞鶴に移転しました。

それから「どぶ板通り」を通ったんだけど…昨日(6日)放送の「セカンド・ラブ」観てたら、最後の方に「亀梨和也」が出て来たアパートって「どぶ板通り」だったの?
チラッとしか画面観てなかったんだけど、この商店街に掲げられてる「DOBUITA STREET」のペリーが描かれた旗?だけは分かったんでさ。

「芥川龍之介」は大正6年(1917年)9月に汐入の下宿先に引っ越して来ます…この辺りにあった「尾鷲梅吉」方で大きな家だったらしいよ。

やっぱ教師と執筆を両立させるには通勤が苦だったみたいね…この酒屋は当時からあるんだって。
でも翌2月には婚約者と結婚するんで汐入の下宿は出たんだとさ。
「芥川龍之介」(1892年【明治25年】3月1日-1927年【昭和2年】7月24日)は35歳で服毒自殺したんだね…その8年後に創設された新人文学賞「芥川(龍之介)賞」は日本で最も有名な文学賞として今も続いてるから、そっちでとても知られてるよね。

後は関係無いけど「横須賀市立中央図書館」に本を借りに行ったよ。

この「読書公園」があるトコは配水池があったんだって…子供のころ既に配水池は無かったと思うけど公園になる前の跡地は何となく憶えてるよ。

ここ緒明山は伊豆・戸田村出身で我が国近代造船業の発展に尽くした「緒明菊三郎」所有の山だったんでそう呼ばれているらしいよ。
さいか屋と西友の跡地に建設中のマンションがここからも見えるんだね。

ここには緒明山教会ってのが昔あったんだって…そういやこの階段を上がったトコに跡(火事になったらしい)みたいのがあったような、何も無かったような…

子供のころは図書館左奥の今は駐車場になってるトコが公園(そこが緒明山公園って認識だった)で、友達とコマやったりしてたんだよ。

ここは「はまゆう公園」です…ここも陸軍用地なんだよ。

今はこんな立派なサッカー場になり、もうじき桜もキレイに咲く公園なんだけど…かつて陸軍の病院があったんだって。
この場所に陸軍の病院が作られたのは1891年(明治24年)で、1890年(明治23年)に新設された「要塞砲兵連隊」の医務室を移転して病院としたのが始まりで、昭和20年に東京湾要塞司令部だった場所に移り、横須賀国立病院(現うわまち病院)として診療を続けてきました。
陸軍病院が移転して建物が取り壊された後は関東学院グラウンドとなるんだけど…俺が子供のころは既に草ボーボーの荒地で遊ぶこともできなかったよ。
その後、昭和63年にサッカー場が造られ、「横須賀シーガルズ」(現横浜FCシーガルズ)が一部の試合を「はまゆう公園」で行っていたらしいんだけど…「横浜FCシーガルズ」になってから?は、さすがに母体が大きくなったからか?ほとんど横須賀には来てなさそうだね。

先週はさいか屋で「横須賀製鉄所パネル展」を観たけど、明治期~戦前・戦後くらいの地元をもっと知りたいな。
横須賀は陸海軍の施設が数多くあった要所なんだね…俺が今この地に住んでるのも祖父が海軍にいたからなのだろうか?
またどっか情報を入手したらレポしまーす


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