十字架上で、「他人は救ったが、自分は救えないのか」とあざ笑われているイエス様の話を、先日の礼拝メッセージでロボタン先生がして下さり、今私もその礼拝テープを聞いている。
今日は母上、体調が良いのか、朝から畑へ大根のタネを蒔いて来ると言って出かけた。
その間にまたまた私は便意に襲われ、一時間あまり苦しめられた。
ほんのつかの間の夢のような日々だったが、介助者のいない時は布団で過ごす人と一緒にいた時は、私も排泄介助をやってあげたこともあるのに、自分の排泄の準備ができないんたから、イエス様のようにバカにされているような気分。
でも“人”という字が2本の棒で支え合って成り立っているように、人は支え合って生きるようにつくられているということなんだろうな。
今日は母上、体調が良いのか、朝から畑へ大根のタネを蒔いて来ると言って出かけた。
その間にまたまた私は便意に襲われ、一時間あまり苦しめられた。
ほんのつかの間の夢のような日々だったが、介助者のいない時は布団で過ごす人と一緒にいた時は、私も排泄介助をやってあげたこともあるのに、自分の排泄の準備ができないんたから、イエス様のようにバカにされているような気分。
でも“人”という字が2本の棒で支え合って成り立っているように、人は支え合って生きるようにつくられているということなんだろうな。