フランス人交友記録

フランス人との交流を通して感じたことを書いています。

空港を通り過ぎた!?最後の最後でまさか!!のハプニング!! 

2021-08-25 09:53:31 | 2016年秋の旅行(パリ・コートダジュール)

帰国の朝を迎えた。

ミッシェル夫妻宅に泊まるとき、今まで全日空だったので、夜便で少しゆっくりして帰ることができたのだが、今回はエールフランスなので、午前中にパリを出発しなくてはならない。

 

出発ターミナルもエールフランスと全日空とでは違う。

その時は、それほど、気にもしていなかった。ただゆっくりできなくて残念だなと思ったくらいだった。

 

支度もできていたので、余裕を見て少し早めに出発することにした。

 

あっという間にパリを出ていた。

意外と道路も空いていたので、「早くつけるね」と言ったら、「空港近辺で混むかもしれないけどね」とミッシェルさんは言っていたが、それでも十分余裕があった。

 

そして、いよいよ飛行場に近づいた、と思ったその時だった!!!

ミッシェルさんが「あっ!」と言った。

一瞬何が起こったかわからなかった。

しかし、すぐに「高速を降りなければいけないところで、降り損ねた」ことがわかった。

 

でも地理もよくわからない私は、「次の降りるところで降りればいい。時間もあるし」と全く心配していなかった。

ミッシェルさんに「大丈夫。時間はあるから、気にしないで」言うと、ミッシェルさんは、苦笑いをしていた。

 

しかしジャンヌクロードがぴしゃりと無口になり窓の外を向き始めた。

 

そして走れど走れど、降り口の表示は現れない。それどころかアミアンまで何キロみたいな表示が現れだした。

さすがの私も「あーずいぶん走ってきた。降り口があってもまたUターンして戻ると、飛行機に乗れないかもしれない」と思えてきた。

 

しかし、こういう時、そんなことを言っても何の解決にもならないとすぐに思いなおした。

乗れなければ乗れなかった時の事。それこそフランス人がよく使う「セ・ラ・ヴィ」(直訳は「それもまた人生」だが、憂いても仕方がないという意味だろう)だ。



30分以上走ったところで(時速100キロ以上出ていたであろう)、やっと降り口の表示が見えた。ほーっとミッシェルさんと私は微笑んだ。相変わらずジャンヌクロードの表情は硬いままだ。何も話さない。

こういう彼女を見たのは、オランジュリー美術館を探していた時以来だ。その時方向音痴のミッシェルさんが、反対側の同じ形の美術館を見て、「閉館だ」と言い、向かいにオランジュリーがあったことが分かった時、ジャンヌクロードは呆れて、無口になったのだ。

 

とにかく、引き返す。今来たスピード以上で。

 

そして、奇跡的に何とか、出発までに空港に到着することができた。

荷物のチェックインもスムーズにできて、あとは手荷物検査の方へ行くばかりだ。

しかし、時間が迫っているとはいえ、何もなしにサヨナラするのは申し訳ないと思った。

そこで「コーヒーを一緒に」と持ちかけた。ジャンヌクロードは、「時間がないでしょ」と言ったが、「少しだけでも」と、15分くらいだったろうか、一緒にコーヒーを飲んで、再びジャンヌクロードの笑顔を見てから、お別れすることができたのだった。

そこからの私は、ダッシュ、ダッシュ、空港でこれだけ走ったのはもちろん初めて。

まさかのターミナル移動の電車にも乗らないといけなかった。焦る焦る!!!

免税店も駆け抜けた。

そして、搭乗前にトイレにと思って行ったら、3基あるところの二つが水浸し。

よって、少し並ぶことになった。

そして、やっとのことで、搭乗ゲートまで来た。

エールフランスの地上係員に「マダム、遅すぎます!」としっかりお叱りを受けたが、ギリギリのところで名誉(不名誉?)の「最終搭乗者」としてゲートが閉まる直前に滑り込めた。(出発時間は遅れず)



こんなふうに私はフランスに来るたびに、強くなっていく。

だからこの翌年に予定のTGVに乗り損ねたとき、またこの二年後に、搭乗予定の飛行機が日本を発って少しして落雷に遭い、無事パリについたものの点検を要することになり、結局その日は搭乗できなかったときにも、驚きはするものの、なんとか、気持ちを切り変えることができるようになったのだ。

 

しかしコロナのせいで、かねてから計画していた夢のフランス短期滞在ができていないことについては、「セ・ラ・ヴィ」と簡単に切り替えることができず、今でもずーっと悔しい思いをひきずっている。




マルチーヌは二人の妹さんに、いつも威張っているのだ。

2021-08-24 08:53:25 | 2016年秋の旅行(パリ・コートダジュール)

マルチーヌの家に到着。

 

リンゴの木から落ちて骨折し、手をつった痛々しいすがたのマルチーヌが待っていた。

双子の妹の一人で、トゥールーズで農業を営むベルナデットもきていた。

ミッシェルさん夫妻はもちろん何度もあっているようだったが、私は初対面になる。

もう一人の双子の一人フランシーヌとは、2012年にパリ郊外の家を訪ねたときに会った事があった。(この旅行記は完結できていないので、ブログでは、紹介できていない。いずれまた、続きを)

 

マルチーヌやミッシェル夫妻からも聞いてはいたが、この双子の姉妹は風貌も、意見も全く似ていない。そして、性格も全く違うことがすぐにわかった。

 

ベルナデットは明るく働き者だ。にこにこしている。フランシーヌは大人しくとても繊細な感じの人だった。

 

きびきびとアペリティフの用意をして、持参の自家製のフォアグラを切り分けてくれたのはベルナデット。

シャンパンを開けるのはもちろんミッシェルさん。

 

ベルナデットはお姉さんが骨折してからずっと郊外の妹さん宅のオニーにいて、今日初めて電車に乗ってパリに来たという。

 

いつもならここで夕食となるところだが、時間も少し早めの時間で、これからマルチーヌとベルナデットはまたフランシーヌの待つオニーへ戻るということだった。

 

それなので、アペリティフの後は、デザートタイムで、美味しいケーキをいただいた。

マルティーヌは普段はリンゴの木から落ちたことでもわかるように、少しおっちょこちょいなところがあり、それがユーモラスなのだが、妹さんたちには,とても「お姉さん風」を吹かせるなといつも感じる。つまりいつも威張っている。そのギャップに驚かされるし可笑しい。

 

またオニーに戻るということで、同じメトロに乗って、RERに乗りかえる駅まで一緒だった。そこで、マルチーヌとベルナデットにさよならをした。

 

お土産に、ベルナデット手作りのジャムをいただいた。

四つあって、ミッシェル夫妻と半分ずつということだったが、「好きなのを選んで」とジャンヌクロードが言ってくれたので、大好きなあんずジャムと、めずらしいスイカのジャム(透明感のある薄い黄緑色だった)を持って帰ることにした。

 

いよいよ、明日は帰国。

 


パリでベトナム料理のおいしい店

2021-08-23 14:56:20 | 2016年秋の旅行(パリ・コートダジュール)

今日がこの旅の最終観光日だ。

 

ミッシェル夫妻と言えば、共通の友人のマルチーヌだが、最終日まで会わなかった、いや会えなかった。これには、訳がある。

彼女は、この旅の直前に、彼女が週の半分を過ごすパリ郊外の実家で、今は妹さんが暮らす家の庭のリンゴの木から落ち、骨折してしまったからだ。

嘘のような本当の話であった。

 

最終日の夕食を彼女と一緒に取ることになったようだ。

 

今日のお昼は、ベトナム料理店だそうだ。ミッシェルさん曰く「とても美味しいんだけど、お店は快適ではないんだよ」とのこと。

さて、どんなお店なのか。

フランスで、ベトナム料理を食べるのは初めてだった。

フォーと言う麵が有名なのは知っていた。しかしミッシェル夫妻が頼んだのは、「ボブン」と呼ばれるものだった。

よく見ると、アジア系の人はみなフォーを食べている。しかし、フランス人にはこのボブンが人気らしいことが分かった。

この店は小さいし、予約もできない。だから外に並んで待つ。近くに同じようなベトナムの料理店がいくつかあるが、この店だけが人気店で店の前に人が並んで待っている。

そして入っても、ぎゅうぎゅう詰めの相席だ。今のコロナ下で、どうしているのだろうか。

相席の年配のカップルに話しかけると、彼らはイスラエル人で、二人はロシア語で会話しているとのことだった。旅行中のようだった。日本にも来たことがあると言っていた。

 

店にはきびきびと働き者の年配の女性がいた。

この時は聞けなかったが、後年再訪したときちゃんと頑張って働いていて、尋ねたらカンボジア人だということだった。ベトナム人かと思っていたが、私には見分けがつかない。

 

本当に安くて美味しいので、おすすめの店だ。

その後日本で、何度かベトナム料理を食べる機会があったが、「ボブン」は「ブンチャー」と呼ばれるものに似ている。これをフランス人向けにアレンジしたものであるようだ。フランス人向けにアレンジされると、たちまちどこか上品な料理に代わるから不思議だ。クスクスを使ったタブレというサラダもしかり。



食後のデザートのために、彼らはすぐ近くのパン屋さんに入った。

チョコレート好きのミッシェルさんは、チョコレートケーキ、ジャンヌクロードはパステルデナタ、いわゆるエッグタルトだったので、私もそれにした。

このパン屋さんは、翌年ブルーノ夫妻の家に滞在したとき、すぐ近くだったので、何度かパンを買ったりお菓子を買うくらい好きになった。



そして、いよいよアールズメチエから、ゆっくり歩きながらエリザベス女王が訪れた老舗のケーキ屋さんをはじめ、美味しいお店が立ち並ぶモントルグルユ通りを通り、ポンピドーセンターの近くのマルチーヌの家に向かう。






ジャンヌクロードが交渉すると、大抵「ウイ、マダム」という返事。

2021-08-22 07:56:14 | 2016年秋の旅行(パリ・コートダジュール)

今回の旅もいよいよ終盤。

 

今までミッシェル夫妻のところに何度も泊まり、それもほかのかぞくのどこよりも一番長く滞在してきた。

にもかかわらず、彼らとともに散策をしたり、出かけたりというのは、一回の旅行で、一日中一緒というのは1日で、もう1日行動が全く同じ時間があったとしたら、夕食にミッシェル夫妻の友人を呼んだパーティーへの参加ぐらいだった。

 

今回は、短い滞在ながら、パリでもあまり他の友人に連絡せず、ミッシェル夫妻と行動を共にすることを優先した。

と言っても6泊で、中身5日しかなく、そのうち3日ということになる。

1日はジェルブロワに行った。

残り2日はパリ散策。

 

今日は、ジャンヌクロードがいろいろ予定を立ててくれていたが、昨日「シャルティエ」でランチをしたと言ったら、たいそうがっかりされた。

「私たちも今日シャルティエに行くはずだったのに、あなたがぶっ潰したのよ。」というような言い方だった。と言っても直訳ほどはきついものではない。

 

「同じ店が続いてもいいよ」と言ったが、別の店を考えてくれたようだ。

 

まずは日本へのお土産を買うため、ギャラリーラファイエットに一緒に行った。

彼らはデパートはここがお気に入りの様で、ボンマルシェは「店の名前だけが安いという意味で、実際は安くないよ」と言っていた。

飾りがいつもとてもきれいなので、それを見るだけでもラファイエットは素晴らしい。

 

そして、お腹が空いてきた。お昼は,中華のようなお店でビュッフェだった。つまりバイキングスタイルで自分でとってきて食べる。つい食べ過ぎてしまうので注意が必要だ。なぜかお寿司もある。

実は秋のフランスは初めてなので、楽しみにしていたことがあった。それは栗を食べることだった。

秋の風物詩、焼き栗だ。しかし、それは少し早かったようで、食べることができなかった。

それならと、マロングラッセを買おうと思った。

 

マロングラッセも通年販売しているところもあるが、シーズンにならないと販売しないお店も多いようで、なかなか見つからないのだ。年中イチゴのケーキが食べられる日本に驚くフランス人が多いことでもわかるように、果物はその季節に味わうものなのだ。

 

結局フランスのお菓子屋さんにはなく、仕方なくベルギーのチョコレート屋さんの物を少しだけ買うことにした。もちろん今頃あるということは、去年のものには違いなかったが、ミッシェル夫妻にあちこち同行してもらったので、お礼の意味も込めて買ったのだ。でもジャンヌクロードは「いいのよ。私たちは何時でも食べられるから、持って帰りなさい」と言った。

 

それから装飾美術館へ向かう。ここも初めてだった。パリには本当にたくさんの美術館があるので、まだまだ知らないところはあるのだろう。

建物がやっぱり美しい。モードの国、フランスだけあって、数々の美しい衣装が展示されていた。

そのあと、エッフェル塔がよく見えるシャイヨー宮へいき、お茶を飲むことに。

とてもシックでいい感じのところだった。ミッシャルさんは背が高くダンディーなムッシューだし、ジャンヌクロードはとてもエレガントなマダムだから、ミッシェル夫妻と一緒なら気後れすることもなく、安心してこういうところを楽しめる。

また、どこでもジャンヌクロードが交渉すると、よほどのことがない限り「ウイ、マダム」という返事が返ってくる。

 

私が、フランスで一番「ガウンの似合う夫婦」と思っている二人だ。

 

さて、明日もまた二人と一緒に出掛けることになっている。


初めてパンテオンのキュリー夫人のお墓にも行った。

2021-08-21 13:28:26 | 2016年秋の旅行(パリ・コートダジュール)

パンテオンへ着いたのは、四時を過ぎていたと思う。

エスカレーターは帰りのTGVももちろん予約してあるので、私のほうが大丈夫かと気が気ではなかった。

 

ここでも入る前に荷物のチェックがあった。中世美術館より少し厳しめの検査だったが、それでもやはり日本人には甘い。

フーコーの振り子↓

ジャンジャックルソー↓

ユーゴー↓

ジャン・ジョレス↓

エスカレーターは私に見せたい要人の場所を的確に教え、いくつか一緒に見て、私も一緒に帰ろうと思っていたが、彼は「私たちは電車の時間があるから、もう出るけど、あなたはもっとゆっくり見ていきなさい。」という。

それではあんまりなので、一緒にと何度も言ったが、言い出すと頑固なおじさん、初めからそのつもりだったのであろうと察し、ここで見送ることにした。

予期しないお別れだったが、「楽しい一日をありがとう」とお別れをした。

朝早くから出発し、このためにパリまでお土産をもってやってきてくれる彼らには感謝の気持ちでいっぱいだった。

 

ここで見たかったのは、やっぱりキュリー夫人のお墓だ。小学生のころ初めて読んだ外国人の伝記がキュリー夫人だったのもフランス好きになる一歩だったのかもしれない。もっとも彼女のオリジンはフランスではなくポーランドなのだが、両方の国籍を持っていたとか。

夫のピエールキュリーと同じ場所にあったが、なぜか写真が見つからない。

 



言葉通り、ゆっくりして、この近くを少し散策した。

というのも初めての個人旅行で来た時、宿泊したのが、パンテオンの近くのプチホテルだったのだ。とても近く何度もパンテオンの前を通っていたのに、なぜか中に入ることがなく、その後も機会がなかったのだ。

 

その時の宿はグランゼコールという宿で、その時はリーズナブルだったが、その後改装され、宿泊費は倍以上になっているようだ。いつかまたという気持ちになるほど、宿の人たちもいい感じの人たちだったが、予算をはるかにオーバーしてしまったので、それはかないそうもない。

 

初めて、何もわからずに泊まっていたわりには、なかなか落ち着いたいい場所で、徒歩圏で行けるところも多く、何より安全だったので、いいセレクトだったと今も思う。

 

さあ、そろそろ、ミッシェルさんところへ帰ろう。

ミッシェルさん宅での夕食で、珍しいソーセージの一種?が出て、奥さんが勧めてきた。

追記*唯一見つかったキュリー夫人のお墓?の写真がこれでした↓


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