【20】へ
「……重いんだけど」
おはよう、ではなく、柴崎の朝の第一声はそれだった。
目が覚めると、彼女の顔があった。
しかも天地が逆のような感じで。自分を覗き込んでいる。
夢を見ているのかと思った。いい夢だ。手塚はもぞもぞと寝返りを打つ。
と、そのとき初めて気がついた。
いつもと、枕の感触が違うことに。
ニ三度、頭の置き所を変えてみても、違うような気がする。
へんだなと思ってもう一度仰向けになる。と、夢の中だと思っていた柴崎と目がばっちり合い、
「……重いんだけど」
不機嫌そうな声で言われた。
手塚はようやく悟った。自分が柴崎の膝枕で眠っていたことを。
瞬時に眠気が吹っ飛んだ。
「うわ」
がばっと身を起こす。腹筋だけで上体が持ち上がった。
柴崎は自前のモスピンクのコートを羽織り、毛布とコートを手塚の身体に掛けてくれていた。それらが一気に床に滑り落ちる。
アームレストまで飛び退った手塚を呆れ顔で見ながら、柴崎が言った。
「なによ、その化け物にでも遭ったみたいな反応は」
朝から感じ悪いわね、と眉を寄せる。
不整脈に陥った手塚の心臓はどきどきを通り越してばっくばくだった。
必死に左胸を押さえつけて手塚は体勢を整える。
「お、お前、いつから。お、俺まさか、ず、ずっと?」
「落ち着いてよ。獲って食ったりしないから」
柴崎は両手を頭の上で組んでうーんとひとつ伸びをした。
手塚はソファの上に正座して柴崎の言葉を待った。ミリタリーブーツの踵が尻に食い込んで痛い。
身体をほぐし終えて柴崎が「ん」と立ち上がる。靴下のまま窓辺に寄って外に目をやった。
「晴れたわよ。見て」
確かに窓枠に切り取られた空は、薄桃色から上空にいくにつれて蒼に達するグラデーションだった。もうじき太陽がビルの間から顔を出す時刻だろう。雪は止んだ。
手塚は記憶を必死でさらう。
何で俺が柴崎の膝で寝てたんだ? ていうか、いつ寝てしまったんだ。
昨夜はあれから二人でソファで話をしたのだった。
披露宴での級友とのやりとりのことも、お互いの子供の頃の話もした。
サンタクロースが本当にいるって信じていたか、とか、いつまで信じてたとか。そんな取り留めのないことを、静かなトーンで。ずっと。
やがて自分の肩に柴崎の頭が載った。
かすかな寝息が聞こえ始めたところまでは覚えている。
優しい気持ちになった。規則正しいその呼吸音に耳を澄ませているだけで。
闇の中にしんと光る真珠を見つけたような。触れたいけれど。じっとそのまま見守り続けたいような。そんなほのかな想いが心に宿った。
ああ、そうだ。安心したような柴崎の息遣いで俺も安心したんだ。
それで……。
手塚は顔を手で拭った。駄目だ。思い出せない。
頭が、砂を詰められたように重かった。首を振る。
「いま、何時だ?」
「さあ。あたし時計がないから。じきに始発ってとこじゃない?」
腕時計を見る。柴崎の言うとおりだった。
彼女はヒーターのスイッチを入れた。唸り声を上げて、それは無事稼動する。
「電気も戻ったみたい。夜のうちね、きっと」
「……柴崎」
「遅くなったけど、おはよう」
「あ、ああ。おはよう」
「あんたはぐっすり眠れたみたいね?」
揶揄する口調に手塚は頭をぐしゃっと掻くしかない。寝癖はついていないようだ。
自分も正座を解いて床に降り立つ。
「……ごめん。俺、そんなとこで寝てたなんて、全然気がつかなくて」
窓辺に立つ柴崎の隣までいって、謝った。
「そんなとこで悪かったわね」
む、と眉根を寄せる。
「い、いや。そうじゃなくて。~~ってお前わざとだろ」
「分かった? だってあんた今夜は眠れそうにないとか言って、すぐに寝落ちしちゃうんだもん」
舌を出す。
「……一晩じゅう、貸してくれてたのか。膝」
柴崎の第一声を思い出す。
「さあ、どうかしら。その辺は知らぬが花ってことで」
彼を見上げて柴崎は笑う。でも、と声をひそめた。
「……誰かに膝枕なんてしたの、生まれて初めてよ」
はにかむように呟いた柴崎の頬は、夜明けの薄いピンク色の光に彩られて艶やかだった。
手塚はやられた、と思う。その言葉と表情で。完全に俺の負けだと。
柴崎とのクリスマスの攻防戦、結果は見事な白旗だった。
「……殺されちまうな、お前のファンにばれたら」
「お互い様でしょ。あんたのファンも潜伏してるの込みなら結構な数よ?」
二人は顔を見合わせて自嘲っぽく哂った。
はっとしたように、柴崎が頬を押さえて俯いた。
「……あんまし見ないでよ。化粧剥げちゃってほぼすっぴんなんだから」
「それは、レアだな」
「やだ。見ないでってば」
視線を避けて背を向けた彼女に、手塚はそっと言葉を差しだした。
「柴崎。ありがとな」
「え」
「膝貸してくれて。……嬉しかった」
彼女が自分の眠りを守ってくれたようで。……自分がそうしたいと思ったように。
「いつお返しをすればいいかな」
さりげなく誘いをかけてみる。でもさらりと交わされる。
「気にしないで。あたしもレアなの拝めたから。――あんたの寝顔」
無邪気に眠るあんたも悪くなかったわよ。そう言ってウインクをする。
……やれやれ、敗北の上に完全に振り出しだ。手塚は肩を竦めたくなる。
何を言っても、柴崎にやり込められる関係。イニシアチブは彼女が握っている。イブの前と同じ。
でも、――一概にそうとも言い切れないか。
確かに何かが変わった気もしている。
何が、とはっきりいえない。例えるなら自分たちを取り巻く空気のようなもの。
共有した時間が、少しだけ親密さと優しさを自分たちに与えてくれた気がする。
それは恋とか愛とか、激しく心を揺さぶる感情とは遠いところに位置するのかもしれないけれど、それを足がかりにして彼女と静かに関係を紡いでいくことも可能かもしれない。柴崎の言葉を借りるなら、それも【悪くない】。
焦らず、時間をかけて。
手塚はそんな風に思った。柴崎の横顔を眺めながら。
「……何? 何かついてる? 顔に」
「……いや」
手塚は首を振った。
「お前じゃなく、空を見てたんだよ」
そう言って目で促したビルの向こうに、透き通るように輝く東の空があった。
屋根から滴る雪溶けの雫が、朝焼けを映してダイヤのように輝く。
きれいだな。並んで空を見ながら、手塚が呟く。
そうね、と言ったきり柴崎も口を閉じる。
朝の光を浴びて、世界が一瞬まばゆいほどの白に反転した。
「なんだよ、もう帰るのか」
暇を告げに事務室を覗くと、熊谷店長は意外と言うか何というかもう起き出していた。ひどい寝癖であったが。インスタントコーヒーをスプーンを使わずどばどばと目分量で淹れている。
手塚だけ、先に挨拶しに来た。柴崎は今身支度を整えている。
「ええ。お世話になりました。始発が出そうなんでとりあえず駅まで行ってみます。店長のおかげで助かりました」
低血圧なのか、それとも寝起きで機嫌が悪いせいか、――多分後者だと手塚は踏んだ――店長は憮然と寝癖のついた髪を振った。
「俺は寝てただけだ。何もしてない。――ん、温いな?」
ポットから注いだお湯で仕上げたコーヒーは口に合わなかったようだ。
「昨夜停電があったんですよ。だからだいぶ保温になってなかったはずです」
「停電? ほんとか。全然気づかずに寝てた」
手塚は苦笑した。
「暢気で羨ましいです。長生きしますよ」
「馬鹿言え、店の中にカップルがいると思うとおちおち寝つけなかったんだぞ。よろしくやってる声が聞こえてきたらどうする」
「店内巡視、一応俺出ましたけど、店長高いびきでしたよ」
「あれ? そうか」
ちら、とそこで店長は手塚を窺う。
「で、首尾はどうだったんだ。よろしくできたのか、あの美女とは」
「残念ながらだめでした」
「そっかー」
店長は自分のことのようにがくりと肩を落とした。
「見るからに手ごわそうだもんな。彼女は」
やはりこの人の目にもそう映るか。そう思うと何だか愉快だった。
手塚はきっぱり言った。
「一晩二晩でどうにかなる女じゃありません」
「だろうなー。厄介だな」
「いや、覚悟できてますんで。気長に、それこそ数年がかりで落としますよ」
手塚の晴れやかな顔を見て、店長は厳粛な面持ちで両手を合わせた。頭を僅かに垂れる。
「お前さんの後ろに、後光が射して見える」
「それは正真正銘の朝日です」
事務室に明るい笑い声が響いた。
今日は、晴れそうだった。
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覚悟の出来た手塚が眩しいですねー拝んじゃうイエティじゃなくてもww
こんな良い男を待たせ続ける柴崎は凄いなぁと感心しながらも、気の短い私には絶対出来ない芸当だわーとため息をつきました。
でも、こんな二人だからこそ、別冊Ⅱのラスト前が生きてくるんですけどね。あーまた読みたくなりました。
有川ガイドラインを遵守の方向なので(笑)別冊Ⅱの前のフライングは絶対避けようとこころにきめてました。
手塚のけなげさには、つい書いてるわたくしめも手を合わせそうになりましたよ。。よよよ、立派になって(立派過ぎるか・汗)~
私も別冊Ⅱは戦争シリーズでも別格です。青のカバーよ永遠なれ!(笑)
書き終わったら存分に読み直すつもりです>Ⅱ
>たくねこさん
手塚にとってはきっと至福のクリスマスだったと思います。読んでくださった方が、ほんわか満たされてくれるとなにより嬉しいです。