【21】へ
「ただいまあ。柴崎、具合どーお?」
郁の声とドアを開閉する音が柴崎を浅い眠りから覚ます。
うっすらと目を開けた。
喉が焼けるように痛い。と思ったのと同時に柴崎は咳き込んだ。
ベッドのカーテンをそっと開いて中を覗いた郁が、
「……大丈夫じゃないみたいね」
と心配そうに声をひそめた。
「熱は?」
「……分かんない。まだあるかも」
答えた声が自分のものじゃないみたいだった。かすれている。
「どれ」
郁が仰向けになった柴崎の額に手を添えた。
でも郁の手じたいがぬくいので、比べようがない。
「あーもう。こども体温か、あたしは!」
苦しいと分かっていながら、つい柴崎が噴いた。げほがほげほがほっと激しい咳が立て続けに出る。郁が慌ててひとしきり背中をさすってくれた。
「待ってて、寮監にまた体温計借りてくるから」
ベッドの傍らから腰を上げる気配。
悪いわね、と言おうとしたときにはもう郁の足音はドアの向こうに遠ざかっていた。
ひどい風邪を引いた。
こんなにタチの悪いやつは数年ぶり、というくらい、重い風邪だった。
高熱、咳、関節の痛み、くしゃみ。諸症状に見舞われ、柴崎は完全に寝込んだ。まともに起き上がることさえできない。
12月26日、本日のことだった。
きのう、25日は。
なんとか動き出した電車の始発に乗って、柴崎と手塚は武蔵野に帰寮することができた。
同じ車両に乗って帰ると、基地関係の人間と鉢合わせたときまずいということから、わざわざ別々の車両に別れた。その上、柴崎が先に寮に入り、駅中のマックで手塚が時間を潰してから戻るという時間差攻撃まで繰り出す念の入れようだった。
おかげで寮の関係者にも職場の同僚にも、二人が一夜を過ごしたのを怪しまれずに済んだ。手塚は実家に泊まり、柴崎は披露宴会場からカラオケに流れ、最後はファミレスで電車が動くのを待っていたとアリバイを捏造した甲斐もあった。
雪のせいで24日の夜帰寮がかなわなかった寮生がまだ他にいたことも幸いし、柴崎も手塚も何事もなかったように25日の朝のシフトから仕事に入ったのだった。
体調に異変を感じたのは、25日、クリスマスの午後辺りから。
あれ、変ね、おかしいわ。そう思っているうちにあれよあれよと熱が上がり、まともに立っていられなくなった。柴崎は事情を話してカウンターから外れて書庫に降りて作業をさせてもらったが、それもしんどくなって結局早引けした。
這うようにして寮に帰り着いて、そのままベッドへ直行。以来まともにそこから抜け出すこともできない有様だった。
差し入れの桃缶やアイスなどをコタツテーブルの上に並べながら郁が言った。
「やっぱさあ、病院行ったほうがよかったんじゃない? 我慢してないでさあ」
気遣わしげな声。
柴崎は冷えピタをおでこに貼ったまま、「んー」と生返事を返す。
内診があるから病院はなるべく避けたいとまでは言わない。医者は断然男性の確率が高い。言っても笠原には分かるまい、と思うこと自体が失礼か。
そこで、ピピっと体温計が鳴った。
「何度あった? 見せてみ」
「……38度5分。死ぬわー」
柴崎は手の甲で目を覆った。
「あんた平熱低いもんね。辛そう」
何か食べたいものある? と訊いても「ありがと、今はいいわ」と首を横に振るだけだ。
郁は心配そうにベッドの柴崎を見やった。この同室が元気がないと、どうも調子が狂う。
アイスが溶ける前に冷凍庫に避難させながら、呟く。
「よっぽど今年の風邪はタチ悪いみたいだねー。手塚も今日早退したよ」
え?
目の上にかざされていた柴崎の手の甲が外れる。
首を郁に巡らした。
郁は柴崎の様子に気づかずに、彼女に背を向けて冷蔵庫の中に買い込んだ食料を仕舞った。
「いや、朝出勤してきたときから調子悪そうにしてたんだけど。篤さ、堂上教官が早退しろ、無理するなって言っても言うこと聞かなくてさ、あいつ。そのうち熱が出て顔とか真っ赤になっちゃって。のびて強制送還よ。小牧教官と二人がかりで退去させられたわ。ああいう時ってでかいと動かしづらくて大変だね」
「……大丈夫なの?」
熱でかすれた声が、自分の耳にも不安げに聞こえた。
「多分ね。上官二人に付き添われたから。きっと病院にも連行されたんじゃないかなあ。本人の意志は無視の方向で。
――あ、気になるんなら堂上教官に訊いてみようか? メールで」
最後のは、気を回されたと分かった。
柴崎は布団を被る。
「いや別に」
「……そお?」
郁が背中で逡巡した。そして、
「あんたはともかく、あの手塚が伏しちゃうなんてね。ほぼ同じくらいのタイミングだよね。珍しい」
さりげなく探りを入れて遣した。
柴崎は完全にベッドで布団に包まって郁の視線を遮断する。
「たまたまでしょ。あたしも手塚もひとの子ってことよ」
「そうだけどさあ」
いぶかしむ口調。
郁は気づいているのかもしれない。うすうす。
24日の夜から次の日の朝にかけての自分たちのことを。
寮で柴崎から聞いた話と、職場で手塚と話したこと。会話の断片をつなぎ合わせて、真実をかぎ当てているのかもしれない。動物並みの嗅覚で。――柴崎は背筋が強張った。熱のせいなのか警戒したためか、そのどちらもなのか、原因は分からない。
「とにかくゆっくり休むしかないわ。もうじき御用納めだし、早く復帰しないと迷惑かかっちゃう」
「うん。でも無理はしちゃだめだよー。お互い様なんだからね、体調の悪いときは」
「ありがと。ってついでに飲み物所望してもいい?」
「いいよ、ポカリとか?」
「栄養ドリンクがいいんだけど。ある?」
栄養ドリンクかー。買ってきてないや。郁は言うなり立ち上がった。
「もっかい外行ってくる。何がいいんだっけ。ユンケル?」
「悪いわ。仕事から帰ってきたばかりなのに」
「いいっていいって。どうせ寮監に体温計も返さなきゃだし。ほら、貸して」
「うん」
コートを羽織って郁が支度を整える。ドアから出て行きがてら、
「ちゃんと寝てなね。すぐに戻るから」
そっと声をかけて笑みを見せた。
ん、と頷いてドア向こうの足音が完全に遠ざかるのを待って、柴崎はベッドの上半身を起こす。
笠原ごめん。心の中で詫びて枕元においてあった携帯を取った。
メールにしようか番号を呼び出すか、ちょっとだけ迷い、番号にした。
布団を鼻先まで引っ張り上げて電話する。
長めのコール音を聞いてから、相手が出た。
「……もしもし」
死人のような声だった。でも自分も大差ないのだろう。柴崎は訊いた。
「手塚、今いい?」
同室がいないか、いたとしても話をして大丈夫な状況か。
柴崎の意図は伝わったらしい。
「……ああ。大丈夫だ。まだ帰ってきてない。そっちは」
ひどくくぐもった声。体調の方は全然大丈夫じゃなさそうね。
そう思ったが、口には出さなかった。
「笠原は外してる。――あんた、倒れたんだって? 平気なの」
むううっと口を引き結ぶ形相が携帯の向こうに浮かぶ。
手塚は唸るように言った。
「大袈裟な……。一体なんて伝えたんだあいつ」
「あんたが仕事場でのびて教官二人に担ぎこまれたって。玄田隊長もだったかしら」
「ばかそんなわけあるか! ……!」
語尾は激しく噎せこんだせいで言葉の体裁をなさない。
柴崎は手塚の状態が落ち着くのを待った。
「……とにかく、笠原の言うことは話半分くらいに聞いとけ。俺はたいしたことない。お前こそ、大丈夫なのか? ひどいんだって?」
「ひどいわよー。昨日の晩からろくに食べてないわ。これじゃまた痩せちゃう」
「……口はいつもどおりなんだけどな。声はガラガラだけど」
「人のこと言えるの。あんたも大概ひどいわよ。
薬とか、補給物資とかサプリとか、そういうの足りてるの?」
柴崎の声音に、手塚は遅まきながら気がつく。ふっと笑みを零すような時差を伴って答えが返ってくる。
「うん。教官たちがあれこれ買い足して冷蔵庫に入れていってくれた。さっき」
「そう、良かったわね。気が回る上官に恵まれて」
「ありがとな、気にかけてくれて」
「別に。――あたしはこういうとき笠原に気安く頼めるけど、あんたはどうかなって思っただけよ。倒れるときも気兼ねなく倒れたいじゃない?」
「ほんとだな。でも大丈夫だ。遠慮なくぶっ倒れてる」
切り上げ時だった。長電話をしている場合ではない。
いつ郁が帰ってきてもおかしくない。特殊部で鍛えられている郁の足は速い。
でも、なんだかそこで話を畳んでしまうのは惜しい気がした。
あの夜以来だった。二人きりで向き合って話すのは。
たとえそれが電話越しであろうとも。
柴崎も、手塚も。もう少し繋がっていたい――そう思ったし、互いにそう思っていることに何となく気がついていた。
「……ねえ、ひとつ提案があるんだけど」
風邪が治ったらさ、改めてお礼に行かない? 真誠堂さんに。
囁くように柴崎が切り出すと、手塚はすぐに察してくれた。
「そうだな。俺は近いうちにと思ってたけど、お前も行くか」
「うん、お世話になったもの。恩人には礼を尽くさないと」
「じゃあ、お互い風邪が治ったらな。今年中に顔を出すか、もう一回。お前、帰省いつだっけ」
「29日の予定よ」
「じゃあその前に」
「ええ。今度は雪降らないといいわね」
「そう願うよ」
二人は笑みを交わした。熱っぽくて喉も腫れていて、体調は最悪なのに、何だか声を聴いているだけでふわふわと心地よかった。
「早く治せ。あったかくしてな」
手塚が言うと、柴崎は不意にイブに彼に抱きしめられた時のことを思い出した。
手塚の、男性特有の固い身体。筋肉を纏ったしなやかな肢体。
セーター越しに伝わった、心臓の鼓動。
自分を芯から温めたもの。あの夜いちばん確かだったもの。
揺るぎなかったもの。
全部手にしている男は優しく彼女に囁いた。
「おやすみ。電話、サンキュー。……元気でた」
【最終話】へ
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電話柴崎可愛いって他にも声を寄せられています。嬉しい嬉しい。最後にそう言う風に書けて。
後一話、なにとぞよろしくお願いします~。