【3】へ
エレヴェータに閉じ込められること、三十分は優に過ぎた。
空調が効かないせいで空気が淀み、箱の中はさながら台風一過後の凪の浜辺だ。暑いというより熱が籠もって息苦しい。
閉鎖された空間だから、心理的な作用もあるのだろうが、それにしたって……。
手塚はシャツの第二ボタンまで外す。自分は男だから胸元を肌蹴るのもなんなくできるが、柴崎はそうはいくまいと気の毒になる。
柴崎はぐったりと手塚にもたれたまま、ねえと抑揚のない声で呼んだ。
「うん?」
「あんたさー。もしもこのまま助けが来なくて、ここにずうっと閉じ込められたままだったらどうする?」
まるで空中に目に見えない文字で書いてあるのをただなぞったような、平坦な口調だった。
手塚は困惑する。そんなことを切り出した柴崎の意図がつかめない。
「お前……こういう状況でなんでそう自分を追い詰めるようなこと言うんだ」
自殺行為とまではいかないが。
柴崎は待ち時間に飽きた子供のように、床に投げ出した足先をぶらぶらと左右に動かしてみる。
開き直った風に言った。
「いいじゃない別に。もしもの話よ。も・し・も」
柴崎の様子を見て、じっと黙っているほうがきっとストレスがかかるんだろうなと手塚は踏んだ。柴崎としてはなんの話題でもいいからとにかく誰かと何か会話していれば気がまぎれるのだろう。
気は進まなかったが、つきあってやることにした。
「もしもずっと閉じ込められたら、か。そうだな。ダメもとでここの天井ぶち抜いて、脱出ルートを探るかな」
きっと通用口があるはず。それを通って天井を抜けて、箱の上部に上がる。そしてエレベータを吊っているワイヤーを登れば突破口が見えてくるはず。
手塚が頭の中でシュミレーションしながら答えると、じっと彼の横顔に視線を当てていた柴崎が、口角を少しだけ釣り上げて見せた。
「ワイルドね」
手塚でなければ微笑んでいるとはわからないぐらいの淡い微笑。この場に似つかわしくないアルカイックスマイルだと手塚は内心感嘆しつつ、
「俺は特殊部隊だからな。自分にできる限りのことはとりあえず何でもやってみて最後の最後まで抗ってみるさ」
簡単にくたばるのは癪だしな。
そう言うと、柴崎は今度はむうっと頬を膨らませた。
「なんか、やな感じ」
「やな感じ?」
手塚は戸惑う。柴崎はたたみかけた。
「だって、やっぱ最後の切り札は体力だってことでしょ? あたしのこの灰色の脳細胞をもってしても、ここから自力で脱出は無理だもの」
不貞腐れたように言葉をぞんざいに投げる。
「灰色の脳細胞って、お前……、ポアロかよ」
しかも自分をかの有名な名探偵になぞらえるか、と半ば呆れて手塚は漏らした。
柴崎はますます面白くなさそうにむくれた。
「だっていくらあたしが美貌の持ち主だからって、頭が抜きんでてよくったって、このエレヴェータから抜け出すだけの腕力がなけりゃ元も子もないんだもん。そんなのぜったい悔しいじゃない」
いじけっ子のように膝を抱えてしまう。
手塚は呆れ顔を崩した。
くっと吹き出し、
「お前、バカだなあ」
思ったことをうっかり口にしてしまう。
見る間に柴崎の柳眉がきりりと吊りあがった。
「バカって何よ、バカって。喧嘩売ってるのあんた」
えらい剣幕で食ってかかる。握りこぶしが腕を直撃し、手塚は顔をしかめた。
「いてて。そうじゃない。喧嘩なんか売ってない」
「だってあたしのことバカって言った!」
「言った。言ったけど! バカはバカでも、可愛いほうのバカってことだよ」
言われた柴崎が虚を衝かれ、目を見開く。
何にも取り繕えない、素の表情が飛び出した。それを見て手塚も惑う。
あれ。今俺、何かまずいこと言ったか。
しかしいったん口にしたものは引っ込めるわけにはいかない。ままよ、と勢い言葉を継ぐ。
「お前が俺に腕力で張り合ったってしようがないだろ。もともと男と女で性差があるんだ。そこを悔しがったって意味がない。お前はお前で俺より勝ってるところが山ほどあるんだから、体力や腕力のところでいじけてどうするよ」
柴崎は、暗がりの中でもそれと分かるほど赤くなっているようだった。
意地になって手塚と視線を合わせようとせず、
「……手塚に説教されるとは。あたしも落ちたもんね」
と減らず口を叩くしかできなかった。
それが照れ隠しだと分かっていたので、手塚は笑いながら「あーあー、たまに落ちてみろ。めったにないんだからな。俺がお前に説教かますなんて。ごくたまにだから効くだろ、こういうときなら」と柴崎の頭をぽんぽんとはたく。
なによ。いい気にならないでよね。
小声でつぶやいた柴崎の拗ね具合が何ともいえず可愛らしくて、手塚の目元は緩みっぱなしだ。
「大丈夫。いざとなったらお前の一人や二人ぐらい、俺が抱えてここから脱出してみせるから。心配しないでいい」
大丈夫だよ。
繰り返された手塚の声のまっすぐさに柴崎は打たれる。
その場しのぎの嘘の気配が、微塵も潜んでいない。心からそう思って言っているのが手塚の体温を通じて伝わってくる。心地よい低音の響きにうっとりとなる。
ほんとう?
ほんとにあんたがあたしを守ってくれるの?
そう思うだけで、なんだか不意に涙腺が緩んでしまいそうになる。ここに閉じ込められてからというもの、いくら強がっていても心細くて仕方がなかった。それは手塚がいてくれるからということだけではどうしても払拭できないものだった。
やばい、泣く。と思った瞬間。
ぎりぎりで柴崎は繕った。
「ふーん。大きく出るわね」
違う! そうじゃない。
自分突っ込みを入れるが、時すでに遅し。
心と口とが正反対の動きをするのを、柴崎は止められない。
「そんなこと言って、いまガタンとでかいやつがきたら真っ先に自分だけ逃げ出すんじゃないの?」
あああ、あたしのバカ!
違うったら。こんなこと言いたい訳じゃないの。
本当に言いたいのは、感謝の言葉なのに。
ありがとう。そんな風に言ってくれて。
口にしてくれて、うれしい。
そう言いたいのに。どうして、あたしはこんなに――
柴崎が内心後悔でぐるぐるになって混乱しているとも知らず、手塚はちょっぴり苦笑して見せた。
「そんなことするかよ。誓ってお前を見捨てたりしないよ」
そこまで言ってから、これではあまりに気障いと思い当ったのか、手塚はあわてて付け足した。
「万が一自分だけ逃げだしたりしたら、後でお前に何言われるかわかったもんじゃないからな」
あ、しまった。
今のは余計だった。と手塚が口を押さえかけた。
だが、当然ながら間に合うはずもない。
柴崎は、手塚の言葉によって揺れる乙女心を銀河のかなたまで吹き飛ばされた。
一瞬目の前が真っ暗になり、音が消えた。
そして視力と聴力が再び機能を取り戻したとき、彼女の怒りが沸き立っていた。
しかし表面はクールに見えた。たとえるなら、高温の星が限りなく青白く光って見えるように、その外見は冷んやりとしていた。
「ふうん、やっぱしね。あんたがあたしを助ける、置いていかないってのは、後からあたしに何言われるか怖いからなのね。ふうううん」
ようく分かったわ。
柴崎は涙声にならないよう、死にもの狂いでそう言った。
「ち、違う。誤解だ」
取り成そうとするも、手塚は一蹴される。
「誤解なんかじゃない。あー分かったわよ。あんたって男の本性が。そうか。そうだったのねえ。ようく分かった」
「待てよ、柴崎。話を聞いてくれ」
「聞く耳持たないわ」
「そう言うなって。ごめん。泣くなよ」
「だ、誰が泣いてるのよ! あんたの目は節穴かっつうの!」
「そ、それはだな」
喧々諤々。
犬も食わないなんとやら、が狭い密室の中で始まろうとしていた。
その、矢先。
言霊というのは本当に怖いもので、二人がぎゃあぎゃあやりあっているうちに、本当に来た。
でかい揺れが。出し抜けに。
ガクン、と何かつっかえが取れたかのように手塚と柴崎を囲い込む箱が揺さぶられ、急降下した。
ふ、と束の間無重力になり、そのとき初めて手塚は「落ちる!」と認識することができた。
できたが、――なす術はなかった。
【5】へ
web拍手を送る