「!」
柴崎が声を出す間もなかった。
零コンマ何秒かといった数瞬、二人を乗せた箱は大きく揺れながら落下した。
どのぐらい落ちたのか。どこまで落ちるのか。判断できない。
手塚は反射で柴崎を腕の中に抱き込む。庇った。
このまま落下し、地面に叩きつけられたら、――箱ごとひしゃげてお釈迦かもしれない。
最悪、死ぬかも。
手塚の脳裏を不吉なものが過ぎる。
余計柴崎を抱く手に力を込めた。
――柴崎、
せめてお前だけでも。
手塚は知らず目を閉じた。
すると、祈りが通じたか。
ぎぎぎぎぎ、とワイヤーが何かにこすれるような耳障りな音が立ち上がったかと思うと、エレヴェータががくんがくんと途中突っかかったような小停止を挟んで制止した。
それでも手塚は柴崎を離さない。柴崎も彼の背に手を回して必死にしがみついたままでいる。
どのくらいそうしていただろうか。
「……」
現実を見るのが怖かった。生きているのか、死んでしまったのか。
手塚はそろそろとまぶたを開けた。
真っ先に飛び込んできたのは柴崎の頭だった。自分の胸に顔をきつく押し当てているので、表情は見えない。
ほ、と安堵が押し寄せる。どっと汗が出た。
落ちてない。生きてる。
緊張していた全身の筋肉が弛緩する。でも気はぎりぎりのところで緩めず、辺りに神経を張り巡らせる。
静かだった。警報も鳴り響いていないし、非常灯も点滅していない。
――まるで嵐の前のような。
「……柴崎」
こくりと喉が鳴った。喉はからからなのに、生唾を呑み込んで手塚が呼ぶ。
「柴崎、大丈夫か」
反応がない。手塚は彼女の身体をそっと離して顔を覗き込んだ。
真っ青だった。唇に血の気がない。
「――止まった、の」
それだけを、必死に紡ぎだす。
手塚は力強く顎を引く。
「ああ。大丈夫だ。生きてる。しっかりしろ」
手塚は柴崎の後頭部に手を当てる。支えた。
柴崎は四肢を硬直させて、手塚のシャツにきつくしがみついていた。
目だけが左右に泳ぐ。大きく見開かれたその奥にはパニックの影が差し込む。
「て、手塚、離さないで」
絶対に。
「ああ、分かってる。何も言うな。息を大きく吸って」
手塚は声をしっかり出して励ます。うろつく視線を定めようと繰り返した。
「柴崎、俺を見ろ。大丈夫だ。ここにいる」
「て、づか」
柴崎の目に透明な滴が浮かびあがって下まつげにこんもり盛り上がる。
怖い。
目が訴える。もう声にはならない。
そして、発作が起きた。
手足に痙攣が走り、管から空気が漏れ出るような、ひゅううという息が吐き出された。血の気の引いた唇も細かく震え、涙が頬を滑り落ちる。
手塚は異変を読み取った。
「柴崎!」
過呼吸症候群だ。
極度のストレスに晒されたため、誘発された。
柴崎は声を出すこともかなわない。墜落ではなく、発作がもたらす死の恐怖に打ち震えている。
「柴崎、しっかりしろ!」
手塚は、誰か、と助けを求めかけた。
しかしここは閉ざされた箱の中。呼びかけても応えてくれる者はいない。
俺しかいない。
いないのだ。
手塚は柴崎の身を支え、何度も名前を呼んだ。
柴崎の顔色がどんどん悪くなり、土気色になっていく。
心臓に氷を当てられたように、手塚の胸に刺し込みが入る。
罰があたったのか。
エレヴェータで鉢合わせしたとき、内心ラッキーと思った。故障でここに閉じ込められても、柴崎とならついてる。こっそりそんなことを考えた自分にツケがきたのか。
少しでも長くこの女と二人きりでいたい。――そう思ったことが悪かったのか。
ああ、だったら。
罪は俺に着せてくれ。
柴崎じゃない。苦しむのは俺でいい。
どうか、助けてくれ。
この女に何かあったら俺は、
俺は――
目が覚めると、見知らぬ部屋に寝かされていた。
枕元に郁の顔がある。
柴崎はかすかにそちらに首を巡らした。
身体が自分のものではないように重かった。
「気がついた?」
声のトーンを落として郁が優しく話しかけてくる。
柴崎はうん、と言おうとして喉の奥に引っかかりを感じる。郁が敏感に察して、
「無理して話さなくていいよ」
「……ここは」
しわがれた声が出た。おばあさんみたい、と自分で笑いたくなるような、力のない声だ。
「病院、救急車で担ぎこまれたんだよ。大変だったね」
それを聞いて、ようやく自分の置かれた状況が理解できた。
「そう。……助かったのね、あたしたち」
と言って、柴崎は半身を郁に向ける。
「手塚は?」
病室に姿はない。どうしたのだろう。
まさか、と思うとぎりっと心臓が縮まった。
郁の見えないブランケットの下で、柴崎は制服のブラウスの上から胸を押さえる。
「廊下で待ってるよ。柴崎の意識が戻るまでって。何を気にしてるんだか。中で待てばって言っても、俺は男だからとかなんとか訳分からんこと言って頑なに入ろうとしないんだよね」
郁が首を捻る。頑なという形容がぴったりで笑いそうになったが、安堵の気持ちのほうが大きかったので、柴崎はそっと吐息を漏らした。
「よかった。無事ね」
「手塚はねー。でも救出したときあんたが意識がなかったから泡食っちゃったよ~。心配した」
「あたし……どうなってたの」
一気に頭が冷える。意識がない間、自分がどんな失態を見せたのか。あの男に。
同期で唯一自分と互角。そう認識しているあいつに。
あたしは、と青くなった柴崎に、郁が説明した。
「過呼吸だって。パニックになって発作が出たんだねってさっきお医者さんが言ってた。エレヴェータの中で手塚が処置してくれて、大事なかったんだけど、それでも病院でお医者さんにちゃんと診てもらったほうがいいって篤さんとかが言ってさ。大事取って救急車呼んだの。で、あたしと手塚が付き添ったの」
それを聞いて、柴崎は呆然とした。
「全然憶えてないわ……」
「しようがないよ。発作だったんだもん」
大変だったねえと郁が労わる。
「血液検査とか一応したけど、たぶん何もないでしょうって。血中の酸素濃度も問題なしだって。過呼吸は後遺症も出ないんだってね。だからもう平気だよ」
あ、検査結果聞いてからじゃないけど帰れないけどね、と続ける。
柴崎はほつれた髪を掻き上げた。
「過呼吸なんて起こしたの、初めて」
「しかたないよー。あんな状況だもん。発作も出るって。ほんと、災難だったねえ」
「映画の話みたいよね、まるで」
ふふと笑う余裕がやっと出てきた。郁が安心して笑みを浮かべる。
「手塚が一緒でよかったね。いざというとき、頼りになるから」
「……まあ、それは否定しないわね」
素直じゃないなあと郁は内心肩をすくめる。席を立ち、
「あたし手塚呼んでくるね。あんたが起きるの、きっと首を長くして待ってると思うから」
とドアへ行きかけたのを、柴崎が慌てて止めた。
「ま、待って! 笠原! タイム。呼ばないで」
手塚に合わせる顔がなかった。
「こんなみっともないカッコのとき、手塚になんか会えないわ。やめて」
【最終話】へ
web拍手を送る