あの日・・・「大阪のほうで地震らしい」朝一番、ラジオを聴いていた夫からの言葉で起きました。
えええっ?! あわててテレビをON、やがてどうも神戸付近がたいへんと、次々と入ってくる映像に茫然。 知っているはずの場所の風景が知らない姿に変貌していました。
大阪市内の実家は留守番電話(父はたまたま郷里の石川県にいて無事)、海外にいる友達への電話、関西方面への電話はすぐにつながらなくなってしまいました。 近所の方から神戸方面へ物資を運ぶトラックが出るからと聞いてお水などを渡して・・・気がついたら、ずっとパジャマにガウンという格好のままでした。
しばらくはニフティサーブ(パソ通)では地震関連の利用が無料になり、安否情報、物資情報、ボランティアの方への銭湯情報、などを書き込みました。
年月が過ぎて周囲でささやかれる「もう大丈夫よね」との言葉に、そんなわけない!と思い続けました。
2011年の震災のときには、震源から遠く離れていても経験したことのない大きく長い揺れが繰り返し起き、とても怖い思いをしました。 全面的にではありませんが、交通に支障が出たり物資が不足したりも。 そんなとき、阪神方面の友達に助けられました。
とても心強くうれしくて・・・翻って、わたしはあの時、何ができたんだろう? もっとできることがあったのでは?と思いました。
もう20年も経つんですね。 でも、これから先も1月が来るたぴに思い出さないことはないでしょう。
えええっ?! あわててテレビをON、やがてどうも神戸付近がたいへんと、次々と入ってくる映像に茫然。 知っているはずの場所の風景が知らない姿に変貌していました。
大阪市内の実家は留守番電話(父はたまたま郷里の石川県にいて無事)、海外にいる友達への電話、関西方面への電話はすぐにつながらなくなってしまいました。 近所の方から神戸方面へ物資を運ぶトラックが出るからと聞いてお水などを渡して・・・気がついたら、ずっとパジャマにガウンという格好のままでした。
しばらくはニフティサーブ(パソ通)では地震関連の利用が無料になり、安否情報、物資情報、ボランティアの方への銭湯情報、などを書き込みました。
年月が過ぎて周囲でささやかれる「もう大丈夫よね」との言葉に、そんなわけない!と思い続けました。
2011年の震災のときには、震源から遠く離れていても経験したことのない大きく長い揺れが繰り返し起き、とても怖い思いをしました。 全面的にではありませんが、交通に支障が出たり物資が不足したりも。 そんなとき、阪神方面の友達に助けられました。
とても心強くうれしくて・・・翻って、わたしはあの時、何ができたんだろう? もっとできることがあったのでは?と思いました。
もう20年も経つんですね。 でも、これから先も1月が来るたぴに思い出さないことはないでしょう。
朝6時起床、ニュースを見ようといつものようにテレビをつけた瞬間の映像が忘れられません。
アナウンサーは無言。ヘリの音だけ。…それは数秒だったかもしれない、けれど、私にはとても長く感じられました。
病気への不安でつぶれそうになっていたはずの自分は、どこかに吹っ飛んでしまい、自分と同じような境遇の患者さんや医療関係者の皆さんの無事をひたすら祈り、ベッドサイドのわずかなお金を握りしめて大学内の郵便局から募金したこと、忘れられません。