おはようございます。
畠山重忠公ゆかりの地めぐり、本日は埼玉県・深谷市編の前編、
どうぞ、おつきあいくださいませ。
畠山重忠(長寛2/1164~元久2/1205)。
源頼朝からの信頼が篤く重用されたものの、非業の死を遂げます。
けれど死後も、物語や演劇の中で生き続け、庶民に愛されました。
(我が祖母もそのひとり→こちらの記事)
「武蔵武士の鑑」として今、再び脚光を浴びています。
ちなみに大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、
中川大志さんの演じられている、イケメン武将です♥
畠山重忠公ゆかりの地めぐり、
今回は、さかのぼって、誕生の地を歩きます。
比企郡から埼玉県深谷市へ移動しました。
深谷市って・・・
去年の大河「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一(吉沢亮 )の故郷です。
2年連続、大河ドラマで話題になったんですね~(ラッキー!)
実際、目的地・畠山重忠公史跡公園のすぐ手前に、
「青天を衝け」の大看板が残っていましたw
(車で通り過ぎたので撮影できず・・・)
まずは、畠山重忠公史跡公園。
重忠の父・重能の館「畠山館」があり、
一族が「畠山」を名乗ることになった、発祥の地でした。
館跡が今、史跡公園として整えられていました。
ここで有名なのが、畠山重忠公の銅像。
重忠公は、なんと、馬を背負っています!
これは、源平争乱の一の谷の合戦(元暦元/1184.2)での
有名な場面なのです。
一の谷の裏山・鵯越(ヒヨドリゴエ)は、平氏の軍勢を見下ろす断崖絶壁。
源義経以下、源氏軍の誰しもが斜面を馬で下りることを
ためらっていました。
すると、重忠公は
「この難所を、愛馬に乗って下りるなんて、かわいそうだ」と、
自分が愛馬・三日月を背負って、駆け下りたのです。
ホントに!?
そりゃないだろ~!
実際のところは、どうだったのでしょう?
このとき、指揮をとていたのは源義経。
義経は本隊を預け、70機ほどの別働隊を率いて、
鵯越に向かいました。
鎌倉幕府研究の基本史料「吾妻鏡」によると、
重忠公は「源範頼軍」にいたことになっており、
馬を背負った話には触れていないのだとか。
しかも、この逸話が出てくるのは、わずかな軍記物だけ・・・
重忠公については「源範頼軍にいたけれど、大将の器ではないからと、
義経軍に乗り換えた」とあり、実にあいまい。
信憑性が低いのだとか。
今では、怪力の持ち主・重忠公が、心優しい人物であることをも
語りたいがための、後世の創作と、考えられているそうです。
(だろ~な~)
それでも、地元の小学校の運動会では、馬を背負う競技があるとか。
地域では「重忠様」として、今も語り継がれているそうです。
(今週、NHK「首都圏ネットワーク」で観ました)
このお姿・・・たしかに、インパクトはあります!
令和のわたしたちには、荒唐無稽な話ではありますが、
むかしむかしの庶民にとっては、
怪力男の優しい行動は、胸に染み入る物語だったのでしょう。
(産湯の井戸跡)
さて、画像でもご覧いただいておりますが・・・
公園内には重忠公と家臣の墓とされる、五輪塔が六基残り、
回忌法要など、ご供養の跡も伺えました。
(墓石の撮影は避けましたが、「般若心経」を唱え合掌。)
また、重忠公が産湯を使ったという井戸をみることもできます。
重忠公の代になって、この館から
すぐに「鎌倉道」へ出られる土地に館を移しました。
それが嵐山町「菅谷館」。
(訪問記→「菅谷館跡へ」)
「いざ、鎌倉」に備えてのことでした。
桓武平氏の血を引く一族の出身ですから、
源氏に仕えるにあたり、いっそう心を砕いていたのでしょう。
まじめなお人柄が偲ばれます・・・
それなのに、、ああ、それなのに・・・
謀反の濡れ衣を着せられるなんて・・・
通説では、牧の方(ドラマでは「りく」)の策略・・・
(宮沢りえさん、腹黒です・・・)
(かつての館の土塁<土盛り>の跡がうかがえると言うけれど・・・
う~ん、かなり厳しいなぁw)
今夜の「鎌倉殿の13人」は、いよいよ「亀の前事件」です。
(ゆかりの地・訪問記→「頼朝のお墨付き!?」)
鎌倉殿の愛妾に、妻・政子と義母・牧の方が結託して
「うわなり打ち」をします。
HPの宮沢りえさんと小池栄子さん、お顔がむちゃくちゃコワイですっ!
対する江口のりこさんは、どう出るのでしょうか!?
ガッキー八重さんは!?
今夜も楽しみです♫
中川大志さんの畠山重忠公が活躍するのは、もう少し先の話。
拙ブログでは、深谷市の重忠公ゆかりの地を、もう少し歩きます。
どうぞ、またお立ち寄り下さいませ。
本日もおつきあいいただき、どうもありがとうございました。
📖参考
現地の案内板を元に、以下を参照しました。
埼玉県立嵐山史跡の博物館『菅谷館の主 畠山重忠』
(嵐山史跡の博物館ガイドブック1)
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