MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯240 都市の活性化とアートの力

2014年10月18日 | アート・文化


 今年は11月3日まで、横浜の都心臨海部を中心に「横浜トリエンナーレ」が開催されています。

 このイベントは、横浜市で3年に1回開催されている現代アートの国際展で、2001年の第1回から、すでに今年で開催5回目を数えています。

 横浜トリエンナーレは、これまで、国際的に活躍するアーティストや無名の気鋭アーティストを内外に広く紹介してきました。世界最新の現代アートの動向を国内に広く発信することで、現在では国内のアートシーンにおいても一定の影響力を持つようになっています。

 特に首都圏においては、一般の人々を巻き込んだ国内最大規模の「市民参加」のアートフェスとして、都市とアートとの関係や都市におけるアートの存在価値について様々な視点を投げかけてきたイベントと言えるかもしれません。

 組織委員会の公式ホームページによれば、横浜トリエンナーレの開催目的は、「アートを通して、まちにひろがり、世界とつながり、横浜のまちづくりに寄与しつつ、新しい価値を世界に発信することを目指す」こととしています。

 実際、2011年に開催された前回の横浜トリエンナーレでは、約3500人の市民サポーターが広く運営を支えました。そして、83日間の開催期間中の入場者は延べ33万人余りを数え、開催に伴う経済波及効果は43億6000万円と推計されています。

 国内におけるこうした(特に現代アートに焦点を当てた)アートイベントは、経済的には「失われた」と呼ばれるこの20年間の間に、全国各地で開催されるようになってきています。

 横浜トリエンナーレの例のみならず、古くから北陸の中心都市であった金沢市や「大地の芸術祭」の新潟県の越後妻有地域、「直島アートプロジェクト」で知られる瀬戸内海に浮かぶ香川県直島(なおしま)町など、地域の関係者の参加・共働のもとで、アートによる地域資源の新たな活用の活用を切り口とした地域の活性化が試みられています。

 こうした、アートの力を用いた市民参加型の地域活性化政策は、昭和の時代、高度成長期の日本では、地域の中になかなか受け入れられにくい存在ではなかったかと思います。

 しかし、長期にわたる経済の低迷を経験する中、現代アートとアーティストの活動がこうした形で地域の中に実際に根を張り、住民ばかりでなくかなり広域的(場合によっては国際的にも)に高い評価を受けている事例がいくつも見受けられるようになったことは、日本の社会がそれだけ「成熟」しつつあることの証左であると言えるのかもしれません。

 さて、先日、こうしたいわゆる「アートによるまちづくり」の試みを進めていることで知られる大分県別府市で、様々なアートイベントを仕掛け、自ら現代アートのトリエンナーレである「別府温泉混浴温泉世界」の総合プロデューサーを務めるNPO法人 BEPPU PROJECT 代表理事の山出淳也(やまいで・じゅんや)氏の講演を聞く機会がありました。

 別府市とは地縁、血縁のまったく無い山出氏が、ひょんなことから衰退していく温泉街のアートによる活性化を志し、市内に散在する空き店舗をギャラリーなどで活用しつつ、地元の観光協会や商工団体、行政などを巻き込みながら、地元の人が気が付かなかった様々な地域資源を活用した取り組みで周囲を驚かしていった様子を、大変興味深く伺ったところです。

 さて、山出氏の経験談を聞きながら、こうした都市の活性化というシーンにおいて、「アート」が持っている力とは一体何だろうかと少し考えました。

 「アートによる地域の活性化」と聞くと、私たちはつい、「街中で面白いことをやって話題性を高めお客さんを呼び込む」手法と考えがちです。しかし、アートが都市にもたらす力(影響力)は、交流人口を増やすとか、そんな小さなものではないと山出氏は考えています。

 アートの本質のひとつには、「人を驚かすこと」があると山出氏は言います。質の高いアートに触れることで人々は驚き、触発され、感性が活性化される。また、(これはアートの質の問題とは直接関係ないのですが)創造性の高いアーティスト達と触れあうことで、日常生活がリフレッシュされ人々は自分でも動き出したくなるというものです。

 さらに氏は、現代アートには、人に、「他人との違い」を受け入れることができるようにする力があるとしています。芸術性や優劣を競うのではなく、違いを受容し、尊重し、そして楽しむ。作品に込められた様々な視点を肯定的に捉え、人々を「前向きにする」力だということです。

 こう考えてくると、都市とアートとの関係性においては、その中に飛び込み、さらには自ら創造に参加することに大変重要な意味があるように感じます。

 都市の中のアートは日常的な生活空間の中に非日常的な空間を作り出し、また住民は創作活動に参加することによって日常とは違った時間を体験する。さらに、様々なアートやアーティストに接することで住民は自らの創造性を触発され、自らも創造に取り組み、またアートイベントなどの集団的な取り組みにも参加したくなる。

 アートによりアクティブに活性化された住民は、アートによって繋がり、活動の拠り所となる地域に興味を持つようになる。自分たちの街をどうしようかと考えるようになる。つまり、都市(地域)にアートの要素を持ち込むことによって、住民は都市(地域)への帰属意識を高め、住民が活性化することにより都市自体が活性化することになるというものです。

 山出氏は、自らを「アジテーター」(扇動者)と標榜しています。

 人々に議論を吹き掛け、人々の感性を揺さぶり、行動に導く。自らが実際のアートの主体として中心的な役割を果たすのではなく、むしろ地域の多くの当事者(住民)を触発し実際の行動に移ってもらうことを目的としている。そして、住民が自ら考え、それぞれに内在する創造性を発揮することにより自らが暮らす街の活性化を実現してもらうことが、自身の役割だということになるのでしょうか。

 アートには人を活性化し、人々が暮らす都市(地域)をも活性化させる力がある。(きっとそうだろう…)でも、道端に彫像を置くだけでは人々は動き出さない。そこには住民の心の導火線に火をつけ、感性を揺さぶる優秀な「アジテーター」の存在が不可欠なのだろうということを、小出氏のお話を聞きながら改めて感じたところです。


♯149 ジャクソン・ポロック

2014年04月12日 | アート・文化


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 あまりの見事さに思わずカメラを向けた「満開」の桜の木。パソコンのディスプレイに拡大してみると、どうもどこかで見たような雰囲気が…。

 写真の下の絵は、戦後のアメリカを代表する抽象画家ジャクソン・ポロックの代表作と言われる「インディアンレッド地の壁画」(1950)です。現在はイランの「テヘラン美術館」に収蔵されており、クリスティーズで200億円という評価額を付けられた世界で最も高額な絵画のうちの一枚と言われています。

 何年か前、国立近代美術館でポロック展が開催された際に話題になり、どうしても見てみたくなって出かけましたが、1時間ほども並び目の当たりにした実物は確かにものすごい存在感で、その迫力にしばし圧倒された記憶がよみがえってきました。

 さて、この二つ。並べてみて「さあ、どうだ?」と問われると、目を細めて見て「そう言われれば何となく…」という程度の感じではありますが、先端に向けて分かれていく枝の広がりやむくむくと増殖するような花房の「たわわ感」が、両者をつなぐ生命の躍動感というのでしょうか、共通したパワーを感じる所以だと思います。

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年、アメリカのワイオミング州に生まれたジャクソン・ポロックは、その後ロサンゼルス、ニューヨークでアートを学んだと記録にあります。メキシコ壁画運動の影響を受けながら壁画を中心に比較的大型の様々な作品に取り組んだ後、第2次大戦後はインディアンの砂絵の技法をもとにキャンバスを地面において筆をふるう「オールオーバー」と呼ばれる独自の方法を生み出し、アクションペインティングの中心的な作家としてその地位を確かのものにしたとされています。

 その後、長期にわたるアルコール依存症に悩まされながらも、幾たびかのスランプを繰り返しつつニューヨークのイーストハンプトンの山荘(アトリエ)で創作活動を続けていたポロックですが、1956年に自動車事故を起こし、愛人らとともに44歳の若さでその命を閉じることになりました。

 さて、ポロックの作風は、「ただ描くために描く」という、近代絵画の作品至上主義とは異なるアクションそのものの持続により生み出された結果として成立するアートとして知られており、作品の画面からは具体的なイメージが一切消え失せていることが特徴です。

 ポロックの制作風景は映像により克明に残されており、床においたカンバスに筆や棒の先など絵具やラッカーを滴らせ、あるいは振り撒き、そうした躍動感あふれる瞬間の飛沫によって空間を動きのある線や点で埋めていくという手法を堪能することができます。

 このような形で瞬間を二次元におきかえるダイナミックな手法から生み出された開放的な作品は、それまでの近代絵画が表現できなかったエネルギッシュな空間をキャンバス中に閉じ込めることに成功し、大戦後のアメリカンアートシーンの自由な気風に共鳴する形で全世界の人々から高い評価を受けるに至りました。

 そんなポロックの作品には「意外な秘密」が隠されているという指摘が、これまでも様々な批評家からなされてきています。その代表的なものが、作品中に広がる一見デタラメな線や色彩の中に、実は自然界に見られるのと同じ秩序である「フラクタル」というパターンが広範に潜んでいるというものです。

 植物の根や樹木の枝ぶり、雲の成長、地面のひび割れ、山なみの形成など、自然の中に存在する一見すると不規則に見え、それでも総体的に見ると一定の秩序を保った図形は「フラクタル」と呼ばれています。このフラクタルという理念(理論)が一般に知られるようになったのは1970年代のことだとされているので、批評家の指摘が事実であれば、ポロックはフラクタルが発見される25年も以前から直観的なフラクタルを(勿論ポロックにとっては無自覚に)出現させていたことになります。

 さて、日本の春を彩る満開の桜の枝ぶりとニューヨークで描かれた200億円の抽象画と。自然の摂理がもたらす一瞬のきらめきを切り取った画像として見れば、さほど違ったものではないのかもしれません。

 心理学的な実験の結果、フラクタルには見る人の心を癒す力があることが分かっているのだそうです。今となっては、ポロックが何を考えて創作活動を行っていたのかは知る由もありませんが、鑑賞者の心持ちを揺さぶりながら、そのイマジネーションをどんどんと拡大していく可能性を秘めている優れた抽象画の存在を改めて確認したところです。




♯105 芝浜

2013年12月26日 | アート・文化
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 師走も暮が近づき、朝晩の通勤時の寒さもじんと身に沁みる季節になりました。そんな時分になると毎年思い出すのがこの落語。

 天秤棒を担いで巷を売り歩くぼて振りの魚屋「勝五郎」は無類の大酒呑み。酒を飲んでは仕事もせず、失敗が過ぎてうだつが上がらずに今日も長屋で貧乏暮らしを続けています。

 師走のある明け方、勝五郎はしっかり者の女房に尻を叩かれ金杉橋の長屋からようやく魚河岸にでかけます。増上寺の鐘の音を聞きながら、用意してもらった飯台や天秤棒を担いで早朝の街道をタッタ、タッタと浜に向ったのですが、時間を間違え早く着きすぎてしまいました。

 「まあいいか…」と江戸前は芝浜の海岸に腰かけて、海の水で「おお、冷てぇなぁ」と顔を洗い、煙管を取出し一服つけたところで足元の海中にゆらゆら揺れる皮の財布を見つけます。

 三代目桂三木助の十八番として名高いご存知「芝浜」は、まるで映画のワンシーンのように聞く者の目に浮かぶ早朝の海岸の描写が人気の、この時期定番の演目です。

 芝浜と言えば、今でいうところの港区は三田の辺り。田町駅の少し北、バブルのころにジュリアナ東京があったあたりでしょうか。今では信じられませんが、戦後の一時期まで芝の海岸は山手線のすぐ下にあり、鉄橋の橋脚を波が洗っていたということです

 芝浜は、江戸時代は享保年間の出来事に題材をとった結構古いお話だそうですが、現代でも十分ありそうなこのシチュエーションに、聴衆はどんどんと引き込まれていきます。

 財布の中には目を剥くほどの大金(五十と四両)が…。飛んで長屋に戻った活五郎。女房をつかまえて、「酒だ、酒だ、酒持ってこい…」。御近所を呼んでどんちゃん騒ぎの大宴会を始めます。

 さんざん飲んで酔い潰れ、翌日の早朝、目覚めた活五郎に女房はあきれ顔で言います。「昨日はさんざん大酒食らったと思ったら、なんだいお前さん。いつまでも寝てないで、早く河岸に仕入れに行っとくれよ。夕んべ呑む時そういう約束をしたじゃないかい。」

 「何言ってんだい、べらぼうめ。こっちにゃあの財布が…、あれ?財布はどこだ。」

 「あんた何馬鹿なこと言ってんだい。酔って夢でも見てたんだね。あんたもおめでたい人だねぇ、そんなこと言ってる暇あったら早く河岸に行っておくれよ。」

 人情話として知られる芝浜は、演じる噺家によってまるで違った物語のように聞こえます。さて、この後、勝五郎の人生は一体どうなったのか…。

 さて、3年後の大晦日。女房が活五郎の前に泣きながら酒を差し出して言います。「お前さん、堪忍ね。もう大丈夫だから飲んどくれ。」

 「そうかい、悪いな。3年ぶりかぁ。おっとっと、こりゃいい香りだ。」

 ぐい呑みを口元まで運んだ勝五郎は、ふと我に返ってこう言います。

 「よそう…。また夢になるといけねえ。」

 今年たくさんの良いことがあった皆さんも、ふと目が覚めたら「全部夢だった…」というようなことがないように。一年一年を大切にお過ごしいただきたいと思います。2014年も素敵な年でありますように。

 それでは、お後がよろしいようで…。




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♯20 何だこれは!

2013年06月22日 | アート・文化

 今から2年ほど前の話です。

 奈良市内から車で法隆寺に行こうとしたのですが、慣れない関西で土地勘もなく、どこをどうしたものかと道に迷って、結局高速道路に乗って気がついたらここは一体何処だ…という状況になっていました。

 その時、トンネル状のアンダーパスを抜けると、突然、本当に何の前触れもなく、にょっきり目の前に現れた巨大な「それ」に、家人と二人、本当に驚きました。

 そこまでは、都会の何処にでも見られるようなニュータウンの景色が普通に続いていたのに、「それ」の姿が見えたとたん周辺の空間が日常から隔絶されて、まるで「それ」に支配された異界となっているかのように私たちには感じられたからです。

 「太陽の塔」は日常的な空間を切り取ってしまう。今でもそれだけのパワーを持っているようです。

 大阪の万国博覧会の時、小学生だった私は真夏の太陽の下、陽炎が揺れるお祭り広場で初めて「それ」に出会いました。ニュースや写真を見ていたので当然そこに「それ」があることはよく分かっていたはずなのに、実物を目にすると、何故そこにそんなものが必要なのか、少年の心では全く理解できませんでした。

 「あるべきでないモノがそこにある…」。世紀の祭典に沸く多くの日本人が、一方で、ある種の違和感と不安感を持って「それ」を見上げたはずです。

 後に東京都庁の設計者となる建築家の丹下健三が設計した「お祭り広場」。近代技術の粋を凝らしたその大屋根を貫いて立ち上がり周囲を睥睨するその姿は、開場にしつらえられた「近未来」の建築群の中にあってあきれるほどの異彩を放っていました。

 岡本太郎は、その生涯において「芸術は爆発だ!」「芸術はきれいであってはいけない。うまくあってはいけない。 心地よくあってはいけない」と繰り返し叫んでいます。

 ほとんどの日本人が経済成長や近代化に魅了されていたあの時代に、岡本の目には確かに「違うもの」が見えていたのかもしれません。爆発させなければならないエネルギーが岡本の感性の中に芽生え、その爆発に揺さぶられた何千万人もの人の心がそこにはありました。

 「何だこれは!」…テレビカメラをにらみつけて放つこの台詞には、彼のパッションの全てが込められているような気がします。

 岡本太郎は、「自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ。」と言い切ります。強い心は、強いが故に時に理解されない。それを自明のこととして敢然と受け入れた岡本は、その変人ぶりを超えた本物の「芸術家」でありました。