少し前の話ですが、夏の盛りの8月11日、人気のお笑い芸人「やす子」に対するSNSでの不適切な投稿があったとして批判を浴びていたYou tuberのフワちゃんが、芸能活動を休止すると自身の「X」(旧ツイッター)で発表し話題を呼びました。
この日の投稿でフワちゃんは、関係者らに「大きなご迷惑とご心配をお掛けしていることをお詫びいたします」と謝罪した上で、「この度の件の責任の重さを考え、一つの区切りとして、しばらくの間、芸能活動をお休みさせていただくことにしました」と報告。「活動休止期間は、自分のことを見つめ直す時間にできればと思っております」と綴ったということです。
超ド派手な服装とハイテンションなキャラクターがトレードマークとなり一躍テレビでブレイクしたフワちゃんですが、今回の不適切な書き込み以外にも、芸能界のルールを外れた様々なトラブルが指摘されていたのも事実のようです。
時間を守れない、先輩芸能人にもタメ口、時折見せる感情の爆発、飛行機や新幹線などの公共空間での迷惑行 為…などなど、時と場所をわきまえない彼女の突飛な行動に苦言を呈する業界人も多く、ネット上には発達障害の可能性について触れる言説も多く見受けられます。
そういえば、一般的に「生きづらい人」を指す言葉としてずいぶんと一般的となったこの「発達障害」という存在。なんでもかんでもその一言で片づける風潮はどうかと思いますが、確かに近年のメディア(で注目されている人)を見ていると、「この人、相当変わっているな…」と感じることが多くなったような気もします。
ま、芸能関係の人ばかりでなく、例えば政治の世界などでもこの「相当変わった」人たちが注目され、活躍しているのが今のご時世というもの。「みんなと同じように」「世の中になじむ」ことよりも、常識を突き抜けた才能や個性が世の中に求められているということなのかもしれません。
いずれにしても、ある意味(社会生活を営む上で支障となる程度の)「強い個性」を意味する「発達障害」が、ここまで一般化するようになったのは何故なのか。9月28日の『週刊現代』に『「小学生の10%に発達障害の可能性」ってホントですか...「子供たちが被害者」となっても学校が「いい加減すぎる運用体制」を取る「衝撃の理由」』と題する特集記事が掲載されていたので、参考までにその内容の一部を残しておきたいと思います。
2002年に文部科学省が教育現場での調査結果を発表し、社会全体での認知度が上がっていった「発達障害」。しかし、その結果過剰ともいえる診察が横行し、子供たちがその最大の被害者となっていると記事はその冒頭に記しています。
授業を聞かず友達と大声で話す。同級生とケンカをする等々…一昔前であれば、「ひょうきんな奴」「ヤンチャな子」として先生や保護者が温かく見守り、成長するにつれ落ち着くようになっていった子供たちが、今では「ちょっとした問題」を起こしただけで、「障害のある子供」として扱われてしまうケースが急増していると記事は言います。
実際、文部科学省の最新の調査結果によれば、発達障害によって特別支援教育(通級指導)を受けている子供は、'06年は6894人だったのに対し、'22年は12万2178人と16年で約18倍にも増えている由。そして驚くべきことに、同じく文部科学省が発表した別の資料によれば、小学生の実に10・4%が「発達障害の可能性がある」とされているということです。
記事によれば、発達障害とは、ADHD(注意欠如多動症)、ASD(自閉スペクトラム症)、学習障害など多くの疾患の「総称」で、実際にはそれぞれ別の特徴があるとのこと。「ADHDは、多動で忘れっぽい」「ASDはコミュニケーションが苦手でこだわりが強い」「学習障害は読み書き計算が苦手」といったように、その特徴は大きく異なっているということです。
1944年にオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーが、認知や言語の発達は正常だが、偏りがあって社会参加が難しい人がいることを発表。以降、「アスペルガー症候群」として社会に浸透してきた発達障害は、今では誰もが知る言葉となったと記事はしています。
SNSを少し覗けば、クラスに馴染めない子供を持つ親たちが、「うちの子、発達障害かも…」と悩みを共有する時代。認知度が上がったことで親がすぐに疑うようになったのも、急増の要因の一つとされているというのが記事の認識です。
また、親の価値観の多様化も発達障害の増加に関係していると記事は指摘しています。昔は「先生の言うことは正しく、指導には従うべき」という社会文化が一般的だった。しかし現在では、親の価値観の多様化や教師不足、学校現場の疲弊などから「育てにくい子」「指示が聞けない子」が『発達障害かもしれない』と特別視され、一般教室から排除されがちになっているということです。
もちろん、①離席が多い、②話し続ける、③すぐに手が出てしまう…といった子供たちは昔から一定の割合で存在していた。しかし、当時は(現在とは違い)こうした子供たちは、『ディフィカルティチャイルド(難しい子供)』として扱われるだけだったと記事は言います。
集団生活になじめない子供たち。そうした中には実際に障害のある子がいるとしても、集団生活ができない子供のすべてが発達障害であるわけがないというのが記事の認識です。教室の中に発達障害の子供が増えたわけではなくて、教育現場の人たちが、育てにくい子供をすぐに発達障害とレッテル付けすることに問題があるということです。
そして、問題はそれだけではない。教育現場で摩擦を生じる子供の言動に対し、(親や教師の求めに応じ)対処療法として薬を処方し子供を落ち着かせようとする医師もいると記事は話しています。
記事によれば、特にADHDとASDの併存が疑われる場合、ADHD治療薬と抗精神病薬などの薬を組み合わせて投与する医師がいるとのこと。実際、ADHD治療薬の場合は、脳内の快楽物質であるドーパミンの働きを強める作用があり、子供を落ち着かせるという意味で一定の効果が出る可能性があると記事は言います。
しかし、投薬によってもたらされた状態は、あくまで一般的に言う「治癒」とは異なるもの。しかも、もしもADHDではない子供が飲み続けた場合、ただ薬漬けにされるだけで問題解決には至らないということです。
基本的な認識に立ち返れば、発達障害は病気ではなく特性として扱う必要がある。発達障害は「足が速い」というのと一緒で、環境が整えばよい方向にも働くものだと記事は改めて指摘しています。
個々人に違いがあるだけで、優劣があるわけではない。トラブルになったからといって、すぐに障害があると疑うのは子供の個性を否定することに繋がりかねず、(安易なチェックリストで子供の人生が変わってしまうことのないよう)周囲が知識を得、理解することが肝要だということです。
さて、冒頭のフワちゃんの態度が「発達障害」に依るものかどうかは私の立場で知る由もありませんが、彼女の個性や視点が「特別」なものであることは私にも何となく理解できるところです。そんな彼女を「ルールに従わない」と切り捨てるばかりでなく、周囲のフォローによって、その個性や魅力が発揮できればいいのになと、思わないではありません。