MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

#2773 平成ニッポンは失敗ばかりしてきたのか?

2025年03月16日 | 社会・経済

 近年、「失われた30年」「失われた平成」などと言う言葉をよく耳にするようになりました。振り返れば、「歌舞音曲の自粛」や「バブル経済の崩壊」の中で「昭和」が静かに幕を引き、不安の中で迎えた「平成」は、日本経済の衰退の歴史を体現するものだといっても過言ではないかもしれません。

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてられ、しばらくはGDPランキングで(アメリカに次ぐ)2位をキープしていた日本も、2010年頃には中国に抜かれ、2023年には人口が約3分の2のドイツにも抜かれる有様です。2023年のアメリカのGDPはおよそ27.36兆ドル、中国は17.793兆ドル、3位ドイツは4.46兆ドル。一方、日本は4.21兆ドルで(少なくとも)上位2か国との間には大きな差があります。

 実は、1995年時点の日本のGDPは5.55兆ドル(ちなみにその時、ドイツのGDPは2.59兆ドル)で、日本のGDPはこの25年間でほぼ変わっていない(むしろ減っている)ことがわかります。その意味するところは、日本経済が30年にわたる停滞によって、(相対的に)ズルズルと後退してきたということ。今の日本を支える40代の人々ですら、「成長」という言葉を知らずに育ったと思えば何とも不思議な気分です。

 それでは、その「失われた30年」「失われた平成」は、この日本の社会にどのような爪痕を残したのか。2月6日の「婦人公論ONLINE」に、経営コンサルタントの倉本圭造氏が『国を閉ざして昭和の価値観で運営してきたから日本は衰退した?』と題する興味深い論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 半導体投資で沸く熊本県菊陽町や、ウィンターリゾートとして活況を呈している北海道ニセコの話を、ニュースなどで見聞きした人も多いだろう。中でも、国際的なスキーリゾートとして開発が進んできたニセコでは、清掃業などの仕事でも時給2000円を超えるというような話すら聞くと、氏はこの論考の冒頭に記しています。

 これらは非常に特殊な例のように見えるが、(実は)グローバルな経済の流れに自然に乗っかっていくとある程度こういう感じにはなるものだと、氏は状況を説明しています。ここ20年以上、日本は言葉の壁もあって世界経済の流れとは遠いところで引きこもり気味に経済を運営してきた。なのでわかりにくいが、例えば英語圏の国などは問答無用にこういう流れに呑み込まれ、そこら中に菊陽町やニセコのような存在があるというのが氏の認識です。

 それらの国々と経済発展の度合いを数字で比べ、日本が劣後するのはまあ当然のこと。それでは過去20年の日本の不調は、過去の延長にこだわって国を閉ざし、内向きにグダグダと惰性の運営をしてきた“昭和の殿さま”たちが「100%悪い!」ということになるのかどうか。

 その問いに対する私(←倉本氏)の答えは「NO」だと、氏はここで断じています。そういう片方だけからの発想では、日本に横たわる本当の課題を解決することはできない。社会を経済という一面でとらえず、多方面から比較してみる必要があるというのが氏の考えです。

 「普通にグローバル経済やってました」というような欧米の国と比べると、日本社会は何より安定していると氏は話しています。犯罪率はとにかく低いし、失業率も異例に低い。欧米(特にアメリカ)でよくあるような、都市の中心部で薬物中毒者が徘徊しているということもほとんどないと氏は言います。

 まだまだ製造業が頑張っている土地も多く、一握りのインテリに限らず幅広いタイプの職業人の自己効力感が生きている。アメリカの「ラストベルト」と呼ばれるエリアのように、地域全体が無力感と恨みをため込んで、巨大な政治的不安定さの原因になっている地域もないということです。

 氏によれば、この日本は、経済が世界一レベルだった全盛期に比べれば、全体として緩やかに衰退しているのは事実だが、グローバル経済に裸で飛び込んでしまったような国が抱え込んでいる「解決不能の問題」からは(その分)距離を置くことができているということ。「過去の日本をぶっ壊せ!」と言うだけでその先のビジョンは特にない。「アメリカみたいになんでできないの?」と言うだけでその先を具体的に考えなかった平成時代の「もっと“カイカク”が必要だ」という論調を、シャットアウトしてきた意味もあったということです。

 平成の日本は、社会の安定性をグローバル経済の荒波から守るため、ほぼ世界一だった「昭和の経済大国の遺産」を冷凍保存して食い延ばすような政策を採ってきた。なので、その恩恵の行き渡り方が独特のイビツな分布になってしまっている面は(確かに)あると氏も認めています。

 具体的は、例えばいわゆる伝統的な大企業の正社員や公務員の立場はものすごく守られる一方で、その完璧に守られた椅子と経済の荒波とのギャップは全て、派遣社員のようなかなり不安定な立場の人たちが“衝撃吸収材”として(ダメージを)一手に引き受けてきた。また、離婚したシングルマザーのような立場の人が色々な意味でシワ寄せを受け、苦労する社会の構造になっていることも事実だということです。

 そういう過去20年の間“割を食う”立場になってしまった人が、今の日本の秩序を憎悪する気持ちは理解できるし、一種の正当性のようなものもあると氏は言います。しかし、そういう人たちですら、日本国全体が「昭和の経済大国の遺産」を食い延ばすことで毎年巨額の経常黒字を維持し続け、世界1位の対外純資産を積み上げてきていることの恩恵を、実はかなり受けているというのが氏の認識です。

 「日本国全体としては稼げている」という状態を必死に維持してきたからこそ、国家の債務のGDP比率が世界一にまでなっても問題が顕在化しなかったともいえる。そうやって大きな財政支出を継続して行い、社会の安定を維持し続けてきた過去の日本の政策は、ある意味で“割を食う”立場になってしまった人のためでもあったということです。

 なぜなら、もっと徹底した「本物のネオリベ政策」に飛び込んでいたら、そういう人たちの生活は今よりもさらにもっと悪くなっていたことは容易に想像できるから。もちろん、“割を食う”立場になってしまった人は日本社会に対して貸しがあるといっていいし、そういう人たちが自分の「取り分」を主張していくことは大変大事なことだと氏は改めて指摘しています。

 しかしその一方で、現実に国の取ってきた針路が(単に時の政権の利益のためだけではなく)、日本社会全体のためのものであった側面もあるということ。損な役割を担わされた人たちのニーズを満たしていくためにも、主権者である国民はその辺りを丁寧に理解することが必要だというのが、この論考で倉本氏が主張するところです。

 結局のところ、私たちの日本はどのような国を目指すのかというところ。目の前の損得ばかりを論じるのでなく、長期的な国の形、社会の形を視野に入れて変化に対応していく必要があると考える氏の指摘を、わたしも大変「バランスの取れた」意見だなと改めて受け止めたところです。


#2772 日本の賃金はなぜ低い

2025年03月15日 | 社会・経済

 昨年1年間、国内で働く人の1人当たりの現金給与の総額は、33年ぶりとなる高い伸びを示したものの、物価の上昇を考慮した実質賃金では0.2%減少し3年連続のマイナスだったと2月6日の新聞各紙が伝えています。

 厚生労働省の発表によると、基本給や残業代などを合わせた働く人1人当たり現金給与総額(2024年)は、1か月平均で34万8182円。前の年を2.9パーセント上回り、4年連続で上昇したとのこと。比較可能な2001年以降、過去最高の伸び率となったということです。

 しかし、これを物価の変動を反映した「実質賃金」でみると、前の年を0.2パーセント下回り、3年連続でマイナスとなった由。賃上げは大企業を中心に進んでいるが、働き手の多くを占める小規模な事業所では十分に上がらない状況も顕著になっているとされ、物価高に賃金上昇が追いつかず、家計は厳しさを増しているようです。

 記録的な円安基調が続き訪日外国人の数が大きく伸びる中、「安いニッポン」で最も安いのが賃金だとなれば、インバウンドの増加に喜んでばかりもいられません。そうした折、2月4日の情報発信サイト「nippon.com」に東短リサーチ代表取締役社長でエコノミストの加藤 出(かとう・いずる)氏が「なぜ日本人の年収は他国よりこんなに低いのか?」と題する論考を寄せているので、その指摘を小欄に残しておきたいと思います。

 OECDに加盟する主要国の平均年収(2023年)を最近の為替レートで円換算すると、アメリカは1241万円で日本(491万円)のおよそ2.5倍。スイスに至っては1616万円とは3.3倍と、差は広がるばかりだと加藤氏はこの論考に記しています。

 約20年前の2004年はどうだったのか? 日本は466万円でアメリカは450万円。スイスは698万円で日本の1.5倍だが、今より差が随分小さかったと氏はしています。

 因みにスイスは最低賃金(時給)も驚くほど高く、ジュネーブ州、チューリッヒ州で4100円前後とのこと。日本の全国平均は1055円なので約4倍の開きがあり、来日した外国人観光客の多くが「安い!安い!」と大喜びしている背景も理解できるというものです。

 もっとも、いくら賃金が高くても、物価がそれ以上に高かったら国民生活は豊かにならない。スイスは物価が高い国だとよく言われるが、確かに英エコノミスト誌の「ビックマック指数」でも、スイスのビッグマックは日本の2.6倍だと氏は言います。しかし、(前述のように)スイスの平均年収は日本の3.3倍、最低賃金は4倍近いので、スイス人は日本人よりもビックマックを安く感じているはずだというのが氏の見解です。

 日本とスイスの違いはどこから来るのか? 第一の理由は、生産性の差にあるというのが氏の指摘するところ。スイスには高い競争力を持つ優良企業が多く、例えば、米フォーチュン誌による2024年の「グローバル企業500」にランクインしている企業数では、日本は人口100万人あたり0.3社だが、スイスはその4倍の1.2社もあると氏は話しています。

 実は1995年には日本も1.2社だった。しかし、バブル経済崩壊以降家電や半導体産業などが衰退し、他方で新たな産業が台頭して来なかったため、気が付けば中間層が以前よりも薄くなってしまったと氏は言います。

 世界競争力ランキング(IMD)で見ると、1989年の世界1位は日本、2位はスイスだった。だが、その後日本は凋落し続け、2024年は38位まで落ち込み、一方のスイスは、(いったん下落を見せたもののその後盛り返し)08年以降ずっと世界のトップ5を維持しているということです。

 何がここまでの差になったのか。まず、財政の健全さで、スイスと日本では雲泥の差があると氏は指摘しています。スイスは憲法で財政赤字を原則禁止しており、いわゆる財政のバラマキ政策は行わない。2024年の政府債務残高の対GDP比は32%と非常に低く、日本の251%(IMF推計)とは比較にならないということです。

 こういった経済の“地力”の差が為替レートに影響を与えているのは否めない。もともと為替の世界では、スイス・フランと円が危機時の避難先通貨(Safe Haven)と見なされていたのは日本人もよく知るところ。しかし、日本円はこの10数年でその地位から見事に転げ落ち、(近年の激しい円安を見てもわかるとおり)国際比較における日本の年収の低さ、つまり対外購買力の弱さに繋がっているということです。

 日本銀行は以前から、非常に緩和的な金融環境を維持することでインフレ率を押し上げ、目標の2%に定着させれば「賃金と物価の好循環」が実現すると主張してきたと氏は話しています。

 1月24日に日銀は政策金利を0.5%へ引き上げたが、極めて緩和的な状況に変わりはない。政策金利から総合インフレ率を引いた実質政策金利はマイナス3.1%で、米FRB(連邦準備制度理事会)のプラス1.5%程度と比べても圧倒的に低いというのが氏の認識です。もちろんお金は、実質金利が低い方から高い方に流れやすい。つまり、今の日銀の政策は円安誘導を事実上行っているような状態だというのが氏の見解です。

 エネルギーや食品の自給率が低い日本では、為替レートが大きく下落すると生活必需品の価格が上昇し、実質賃金が悪化して国民の暮らしはかえって苦しくなると氏は言います。もともと、中央銀行の金融緩和で生産性を向上させることはできないし、せいぜい賃金と物価がパラレルに上がる状況を生み出せるくらいだというのが氏の指摘するところです。

 日銀が設定した「インフレターゲット」という言葉が独り歩きし、あたかも「インフレになれば景気が好転」するかの言説が目立っていた昨今ですが、そもそも「インフレに期待する」のはあくまで金融政策の世界のこと。国民生活にとって、物価が安いに越したことはないのは「あたりまえ」だということでしょう。

 スイスは(日本と同様に)低インフレ国として知られ、過去20年間の総合インフレ率の平均は、日本もスイスも同じ0.6%だと氏は話しています。それなのにスイスは世界一の高賃金国。一方の日本は、賃金の面から言えば先進国の落ちこぼれだと氏は言います。

 その意味するところは、インフレ2%を目指す政策は、実は大して大事ではないということ。企業や人材の競争力をいかにして高めていくか、というリアルな面での地道な改革が、今のわれわれには何よりも重要だと話す加藤氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2771 大相続時代の不動産事情

2025年03月14日 | 社会・経済

 総務省の調査(2023年10月)によると、国内の住宅総数に占める空き家の割合は過去最高の13.8%で、その数は5年間で50万戸増の899万戸と過去最多となっている由。特に問題視されているのが、長期にわたって不在で使用目的がない「放置空き家」で、2003年からの20年間で、1.8倍に増えているということです。

 放置空き家は建物の劣化が進みやすく、景観の悪化や悪臭・害虫の発生、倒壊の危険といった生活環境の悪化につながると懸念されています。こうした空き家は(人口減に歯止めがかからない)地方を中心に増え続けているとされ、都道府県別では、最も高い和歌山県と徳島県(21.2%)で、次いで山梨県(20.5%)、鹿児島県(20.4%)、高知県(20.3%)など、軒並み5軒に1軒が空き家という想像以上の状態です。

 因みに、首都東京(都内)の空き家率は10.9%と全国で4番目に低いのですが、そこはそれ人口密度の高い大都会のこと。たった10.9%とはいえその実数は実に89万6500戸に及び、全国でダントツの空き家密集地域ということもできます。

 同調査によれば、空き家所有者が「空き家」を取得するに至った経緯は、半数以上が相続によるものとのこと。家の所有者が亡くなった際に、別の場所に住む相続人が、自身が住むこともできず、管理が行き届かないまま放置されるケールが多いということです。

 だったら売却すればいい…と思うかもしれませんが、古い家屋は痛んでいたり立地が不便だったりして買い手がつかないことが多く、だからといって解体するにも労力やコストがかかる。さらに、土地を更地にすればしたで(その分)固定資産税が高くなったりするので、手が出せないという相続人も多いようです。

 決定的な解決策がないまま、(田舎や都会を問わず)こうした状況は今後も長く続きそう。そうした中、2月4日の経済情報サイト「PRESIDENT ONLINE」に プレジデントオンラインにオラガ総研代表取締役で不動産事業プロデューサーの牧野知弘(まきの・ともひろ)氏が、「東京23区の住宅地から始まる不動産市場の"地殻変動"」と題する論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 牧野氏によれば、東京都内の死亡者数は2006年から2020年までの15年間で172.5万人であったものが、2020年から2035年では243.7万人と40%もの増加が見込まれている由(東京都政策企画局「2060年までの東京の人口推計」)。毎年(ざっと)16万人が亡くなっていく計算で、(2020年の死亡者数は約12万人と比べても)今後も加速度的に死亡数が増えていくことが予想されると氏はこの論考に記しています。

 高齢化の進展が速い他の3県も含めて考えると状況はさらに厳しく、首都圏全体の死亡者数はこの先15年平均で30%から40%増加していく。その結果、首都圏では毎年45万人から50万人、15年間で675万人から750万人の相続が発生するということです。

 そこで、(不動産コンサルタントとして)気になるのが「住宅」の問題。首都圏の持ち家率はおおむね55%なので、今後15年間で370万~413万件の自宅が相続対象物件となる見込みだと氏は話しています。規模で言えば、年平均で25万~28万件となり、(このうちどのくらいの割合で不動産マーケットに登場するかはわからないが)、市場にかなりのインパクトを及ぼすことは間違いないというのが氏の感覚です。

 なぜかと言えば、現在の首都圏における新築マンション供給戸数はわずか2万7000戸弱、中古マンション成約件数は3万6000戸弱、中古戸建て住宅成約件数は1万3000戸弱、合計約7万6000戸にすぎないから。相続対象物件の3割がマーケットに新たに登場してくるだけで8万戸。その供給圧力の大きさは容易に想像できるということです。

 さて、ここから始まるのが(かなり)具体的な話。地域的には、まず都区内の住宅地からスタートし、世田谷区、目黒区、文京区、杉並区、大田区、練馬区などの戸建て住宅が、ポロポロと売りまたは賃貸に出て来るだろうと氏は予想しています。戦後まもなくに東京に出てきた人たちが最初に家を構えたのがこの近辺。戦前・戦中世代のこの人たちは、既に80代半ばから90代なので、ここ5年から10年でほぼ確実に相続が発生していくというのが氏の想定するところです。

 このエリアは富裕層も多く、相続人がそのまま所有を続けるケースも(それなりに)考えられることから、①相続税の納税用に売却する、②賃貸マンション、賃貸戸建てとしてリニューアルを施して運用する…などの事例が多発する。さらにこうした(相続に伴う市場の)動きは、3県のニュータウンに広がるだろうと氏は見ています。団塊世代以降は急速に地価が上昇した東京を離れ、1980年代から1990年代にかけて郊外ニュータウンに家を構えた。この世代で相続が発生すると、すでに流動性を失っているエリアでは空き家が増加。そうでないエリアでは売却物件が急増するというのが氏の考えです。

 団塊世代以降で相続が本格化し出すのは、2035年前後から。この頃になると3県の人口減少はより顕著になり、ニュータウンでもよほど特徴のあるエリアでなければ、家の流動性を確保できるところはごくわずかになり、ゴーストタウン化が進むところも多くなるということです。

 そして、不動産マーケットを彷徨うことになるのは戸建て住宅ばかりではない。現在でも、首都圏のマンションストック395万戸のうち、築30年超のマンションは(現在でも)152万7000戸を数えると氏は話しています。これらのマンションのほとんどが、2030年には築40年超になる。都心物件であれば借り手も付くが、これらを「空き住戸」にしていると管理費や修繕積立金の支払いから逃れられない。このため、相続などをきっかけに賃貸や売却に供される築古マンション多数登場することは必至だというのが氏の見解です。

 こうして、「家は資産」という日本人のDNAにしっかりと組み込まれてきた不動産神話が、これからわずか5~10年で崩壊していく可能性が高い。「持っていればまた上がるかもしれない」「家の片づけが面倒なのでとりあえず空き家にしておこう」などと問題の先送りを続けていると、いざ処分をしたいとなった時に不動産マーケットはその姿を大きく変えている可能性が高いと、氏はこの論考で厳しく指摘しています。

 個人住宅空き家は、首都圏にあっても「負動産」化するリスクが年々増していく(ある意味「時限爆弾」的な)存在と言える。空き家は早めに出口を探しておかなければ、将来さらに厄介者になる可能性が高いということです。

 まあ、サブスクリプションやシェアリングエコノミーが一般化しつつある昨今のこと。Z世代と呼ばれる若い人々にとっての「住居」に対する感覚は、放っておいてもどんどん変わっていくかもしれません。

 「家」は、その時々に必要な機能を満たせばよい。これまで人生で得られるはずの収入のほとんどを住宅購入に注ぎ込んでいた日本人ですが、実は「家なんて単なる消費財に過ぎない」…とされる時代がすぐそこまで来ていると話す牧野氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2770 「老老相続」が増えている…という話

2025年03月13日 | 社会・経済

 「還暦」の声を聴くようになるに従い、周辺から「相続」の話をよく聞くようになりました。戦前・戦中に生まれ、高度成長、オイルショック、バブル経済と崩壊、失われた30年と様々な局面を生き抜いてきた昭和世代の親たちも、いよいよ人生の最終局面を迎えるケースが増えているようです。

 一方、彼ら彼女らを送り出すのは、(こちらも)既に定年を迎えようとしている子供たち。「大往生だったね」などと言いながら、(漠然と予想していたこととはいえ)「で、あの実家はどうしようか…」などと、雑然と遺された様々なものの処分に戸惑いを隠しきれない様子です。

 当時は「ニュータウン」などと呼ばれた首都圏の郊外に位置する土地・建物や、捨てるに捨てられない遺品の数々。合わせればそれなりの額になる預貯金などについても、「もう少し早くもらえていれば使いようもあったのに…」という声をしばしば耳にするところです。

 親が健康で長生きしてくれるのはもちろん結構なことだけれど、相続の作業も(それなりに)気力や体力を使うもの。最近はあまり会うこともなくなった兄弟たちとひざを突き合わせ、お互いに気を使いながら今後の相談をするのもなかなか面倒な話です。

 いくら「人生100年時代」とは言っても、人は誰でも最期の時を迎えるもの。だとすれば、戦後ベビーブーマーの退出に伴う「大相続時代」を前に、イマドキの相続事情を知っておく必要もあるでしょう。昨年10月23日の日本経済新聞に『増える「老老相続」 相続人の半数が還暦以上に』と題する記事が掲載されていたので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 年齢が高い人どうしで遺産が受け渡される「老老相続」が増えている。2022年時点で、相続人の半数超が還暦以上だったと記事はその冒頭に記しています。遺産を相続する人のうち、60歳以上の割合は52.1%に及ぶ。現役世代である50歳代は27.0%、49歳以下は20.6%なので、相続人の多くが既に「高齢者」と呼ばれる世代だということです。

 一方、亡くなった被相続人は、80歳以上が19年に全体の7割と、30年前と比べ1.8倍に増えている。想定以上の長生きに備えたり、将来の経済見通しが不透明で子や孫の生活水準低下を防いだりするため、(過大な)遺産を残すケースも増えていると記事は指摘しています。

 実際、高齢世帯の支出額は現役世帯と比べるとかなり少なく、23年の総務省の家計調査では、70歳以上の2人以上世帯の家計支出は月24万9177円とのこと。全世代平均では29万3997円なので約4万円の差があると記事は言います。

 そうした中、貯蓄残高は高齢者で上昇傾向にあるというのが記事の指摘するところ。23年の貯蓄残高を世代別でみると70歳以上では前年比3.8%増の2503万円。全世代の平均は0.2%増の1904万円なので、高齢者の上昇率のほうが有意に高いということです。

 一方、若年層はと言えば、持ち家率の高まりもあって負債超過の状況にある由。23年時点で、40歳未満世帯の貯蓄は平均782万円とほかの世代と比べ最も少なく、負債は貯蓄の2.2倍の1757万円だったと記事は記しています。

 低金利環境が続き、若年層でも住宅ローンを借りるハードルが比較的低くなっているうえ、住宅価格の値上がりで借入額が増加している。しかし、金利上昇局面に入って返済額の増加が見込まれる中で、金利上昇で不動産価格が下落する可能性も否定できないため、今後、(彼らの)負担感が膨らむことも考えられるということです。

 日銀の資金循環統計によると、家計部門は金融分野だけで2200兆円を超す資産を有するとのこと。今後も高齢化が進み老老相続の構図が強まれば、家計のお金が高齢層に滞留し、経済全体に有効に使われない可能性があると記事は懸念を表しています。

 現在でも、2500万円までなら贈与税がかからず、祖父母らが亡くなったときに納税する相続時精算課税制度など、確かに相続時期よりも早く資産を移転させる仕組みはある。さらに、住宅取得や教育資金、結婚・子育て資金では贈与非課税の制度もあるが、正直、その手続きは煩雑に過ぎるということです。

 さて、日本人の平均寿命が伸び、男性81歳、女性87歳と長寿化が進む中、長生きで生じるお金のリスクを抑制することの重要性はますます大きくなっていると記事は最後に指摘しています。

 より長く働くことができれば、収入増につながり、経済全体の人手不足も緩和される。66歳以降に公的年金の受給年齢を繰り下げることで、増額した年金を受け取ることができると記事は言います。

 老後の安心をカバーできれば、無理をしてお金を貯め込む必要も薄らぐはず。「若いうちは苦労をするもの」「先憂後楽」などという言葉が現実味を帯びていたのは、時間とともに経済が拡大・発展することが前提だった昭和の時代であればこそ。まずは「今」を生き伸びなければならない不確実性の時代には、経済を回しながら次の世代の負担感を減らしていくのも大人たちの責任ということでしょうか。

 現在、社会保障制度を支える保険料や税金の多くは、収入をベースにした負担となっているが、高齢者の中には収入はなくても資産がある人も一定数(というより「かなり」)いるのは、統計数字を見ても間違いありません。

 そうした状況を鑑みれば、なるべく早い段階で所得ではなく金融資産を考慮した医療や介護負担を求める仕組みを作っていくことも必要となるのではないか。社会保障制度の安定感を高めるためにも、ストック面も踏まえた適切な負担のあり方を構築することが求められていると話す記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2769 「スマイル」も安いニッポン

2025年03月12日 | 社会・経済

 日本経済新聞の面白さは、固い内容ながらも時折(こうした)読者がちょっと「やられたな…」と感じるような、ひねりの効いた記事を掲載するところにあると思っています。

 今年2月2日の1面トップは、まさにそんな感じ。『「スマイル」も安いニッポン』という見出しを見れば、多くの人が一瞬「何のことかな?」と疑問を抱くところですが、記事を少し読み進めると誰もが「なるほど…」と納得させられるところがなかなかの手練れと言えるでしょう。

 記事の前提となるのは、「ビッグマック指数」と呼ばれる指標の存在です。ビッグマック指数とは、英経済誌「The Economist」が考案した、各国で販売されている(マクドナルドのハンバーガー)「ビッグマック」の米ドル建て価格を基準として、為替レートなどの水準を推し量る手法のこと。

 ビッグマックは世界各国でほぼ同じ原材料でつくられていることから、各国の物価の比較にふさわしいと考え、各国で販売されているビッグマックの価格を比べることで、それらの国の通貨の購買力格差を把握しようとするものです。

 昨年7月に発表された最新ビッグマック指数(2024)は、(高い順に)①スイスの8.07USドル(1,214円)、②ウルグアイの7.07USドル1,064円、③ノルウェーの6.77USドル(1,018円)と続き、ユーロ圏は5位で6.5 USドル(912円)、本国アメリカは7位で5.69 USドル(856円)であった由。因みに日本は、33位の韓国、42位の中国を下回る44位で、3.19 USドル(480円)だったとされています。

 日本ならワンコインで買えるハンバーガーが1000円以上というのもいささか食傷してしまいますが、急激な円安に加え世界各国でインフレが進む折、(一消費者としては)それはそれでありがたい話。外国人旅行者が、「安いニッポン」を楽しんでいるのも「郁子なるかな」というものです。

 しかしその一方で、誰かに買ってもらわなければ商売にならないハンバーガーの価格は市場が決めるもの。「購買力」という物差しで世界と比較すると、日本経済の凋落ぶりは残念と言えば残念です。

 そして、これからが今回の記事の話。記事を担当した同紙の真鍋和也氏は、ビッグマックの値段とマクドナルドのアルバイターの時給との関連から、記事に「時給=ビッグマック2.2個 米欧に賃上げ見劣り」との副題をつけています。

 記事によれば、求人検索サービスの「インディード」では、マクドナルドをはじめとした外食・小売り分野のグローバルチェーン22社の店舗従業員の時給を国や地域ごとに分けて集計しているとのこと。これを、英エコノミストが公表しているビッグマックの現地価格とひもづけ、国・地域ごとに1時間働いて買える個数を算出したのがこの記事の視点の面白いところです。

 マックのアルバイターは、(「SIMILE」の有無は別にして)マニュアルに従い各国でほぼ同じ仕事をしているはず。同じ仕事の価値は時給に表れるとして、その金額で買うことができる同じ商品(今回の場合はビッグマック)で測るとどうなるか。

 2024年7月時点の日本のビッグマックの価格は3.2ドルで5ドル台の米英よりも(前述のとおり)5割近く安い。しかし、日本の時給1047円で買えるのは2.2個で決してお買い得ではないと記事はしています。

 同じ仕事をしても、オーストラリアなら3.9個、スイスなら3.4個。英国は2.6個、米国は2.5個のビッグマックが手に入る。ドイツやフランスを含むユーロ圏5カ国を平均しても2.5個を買うことができるというのが記事の指摘するところ。

 さらに言えば、日本では過去5年間で(買える量が)2.4個から0.2個減った由。この間、時給は940円から11%の伸びにとどまったのに対し、ビッグマックは390円から23%値上がりしたということです。

 バブル崩壊後、物価も賃金も停滞してきたこの日本ですが、それでもコロナ禍やウクライナ危機といったショックが引き金となり、モノやサービスの値段が上がり始めた。しかし、肝心の賃金の伸びは(物価上昇に)追いついていないのが現実だと記事は話しています。

 記事によれば、時給をドル建てでみるとその停滞は一段と際立つ由。日本は2019年に8.6ドルだった時給が、5年後の24年には7.0ドルにまで減っている。円安もあって、シンガポールや香港、韓国といったアジアの近隣国・地域に、ついに逆転を許したということです。

 また、国際労働機関(ILO)によると、日本は国内総生産(GDP)に占める働き手の取り分を示す労働分配率が2024年に54%と、19年から2ポイント低下しているとのこと。一方、米欧の配分率は50%台後半で安定しており、マクロのデータは賃上げの余地があることを示唆しているというのが記事の認識です。

 経済協力開発機構(OECD)の景況感指数は、米欧だと消費者と企業が拮抗してきたが、日本では未だ企業の方が高い状態が続いている。稼ぎの分配が企業に偏っている可能性があると記事は指摘しています。もちろん、賃上げの焦点は正社員に限らない。日本はフルタイムではなく働く高齢者も多くなっており、パートタイム労働者の賃金の重みが増しているということです。

 ビッグマックの購買力でみた賃金水準は、日本の立ち位置を明白に示していると記事は最後に話しています。普段はさほど気にならないアルバイターの時給やハンバーガーの値段ですが、具体的な数字を突きつけられると、「ぐうの音も出ない」とはこういう状況を言うのでしょう。

 確かに政治をもっと身近なものにするためには、まずこうした分かり易い指標に目を向け、自分事として議論を始める必要があるのかもしれません。従業員の「SMILE」だって相応の時給があればこそ。政府や日銀がめざす「賃金と物価の好循環」はなお遠いと結ばれた記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2768 失われたマスメディアへの信頼

2025年03月11日 | テレビ番組

 年末年始のメディアを賑やかしたトップニュースと言えば、元SMAPのリーダー中居正広氏とフジテレビ幹部の性加害疑惑をおいて他にはないでしょう。

 2023年に起こった英国BBCの報に端を発するジャニーズの性加害問題が、芸能界ばかりではなく、現代日本を象徴する社会問題として大きくクローズアップされたのは記憶に新しいところです。

 にもかかわらず、自社の女性社員から出演タレントからの性被害を訴えられたフジテレビは、被害者を守るどころかその事実を隠蔽し、当該タレントを今まで通り時局の番組に出演させ続けた。被害者であるはずの女性社員は退職を余儀なくされ、結果、事実関係もあいまいにされたというのが今回の結末です。

 そもそも、自社の社員が(業務に関連する)関係者から性加害に遭ったのに、何の対応も取らないということ自体「性加害を容認した」のも同然であり、むしろ「加害をほう助した」言っても過言ではないでしょう。

 普段であれば、芸能人・有名人のゴシップやトラブルをワイドショーで追い回し、「飯のタネ」にしている在京の(他の)民放テレビ局が、この件についてはしばらくの間、まるで何も起きていないかのようにスルーしていたのも、ジャニーズによる性加害問題とまったく同じ構図と言えるかもしれません。

 ジャニーズ問題という(あれだけの)大騒動があったにもかかわらず、結局、何も反省していない「業界」の人たちとその後の世論の反応に関し、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が『週刊プレイボーイ』誌に連載中の自身のコラムに、「テレビ局への大規模な”キャンセル”はなぜ起きたのか?(2025.1.20発売号)」と題する一文を寄せているので、指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 わたしたちの社会は、「本音」と「建て前」によって成り立っている。ヒトは進化の過程で作られた脳の仕様によって、本能的に人間集団を「俺たち」と「奴ら」に分割するもの。つまり、本音とは「俺たちの論理」、建前は「奴ら(他者)との共通の論理」と定義できると氏はコラムの冒頭に綴っています。

 「建前」は人種、国籍、性別、性的指向など異なる属性をもつ全ての人に平等に適用されるので、「人権」や「社会正義」に基づいたものになるしかない。これはしばしば「きれいごと」と揶揄されるが、一方の「本音」は建前には反するものの、組織のなかでは正当な理由があると見なされると氏は言います。

 言い換えれば、こちらは「しかたないじゃないか」の論理。政治家の建前は「社会や経済をみんなが望むように変えていく」だが、複雑化する現代社会では一人の政治家にできることはほとんどない。しかし、この本音を言うと選挙に当選できないので、政治家はみな有権者に過剰な約束をせざるを得ないというのが氏の認識です。

 当然ながら公約のほとんどは実現できず、それによって政治への信頼度は下がっていく。そして、ここで興味深いのが、政治を批判するメディアへの信頼度も同じように下がっていることだと氏は指摘しています。

 「リベラル」を自称するメディアは、「誰もが人権と社会正義を享受できる(建前だけでつくられた)社会を目指すべきだ」と主張するが、どのような組織も建前だけでは運営できない。そこで、しばしば大きな困難とぶつかるが、そのことがよくわかるのが有名タレントの“性加害”事件だということです。

 週刊誌の報道によると、バラエティ番組を担当していた大手テレビ局のプロデューサーが、大物タレントに若い女性との会食をセッティングしたところトラブルになり、被害にあった女性は示談金として多額の金銭を受け取ったとされている。もちろんこの事件での建前は、「どのような性加害も許されない」であることは間違いないと氏は言います。

 一方、それに対して業界の本音は「そんなのよくあること」というもの。テレビ局の本音は「会社の暗部を表に出せるわけがないでしょう」だというのが氏の指摘するところです。

 こうした事情は多かれ少なかれどこも同じなので、大手メディアはこの事件について、テレビ局の責任には触れず、事実関係のみを小さく扱うだけの腰の引けた報道をしていた。(旧ジャニーズ事務所をあれだけ叩いておきながら)自分たちが性加害に関わっているとの批判に対して一片のコメントを出して無視を決め込むのでは、不誠実だとネットが大炎上したのも当然のことだということです。

 これまで大手メディアは、建前を振りかざして「権力」の本音を批判することを「正義」としてきた。どうしてそんなことができたのかと言えば、メディアが一種のカルテルをつくって、自分たちに都合のいいように「事実」と「解釈」を独占してきたからだと氏は話しています。

 しかし、SNSによって本音と建前のダブルスタンダードが白日の下にさらされると、人々はメディアを信頼しなくなる。結局、その後、テレビ局の大株主であるアメリカの投資ファンドが説明責任を求めたことで大手スポンサーが次々と広告を引き上げる事態になり、その後の会見などにおけるずさんな対応がさらに炎上を呼んで、日本では未曽有の規模の「キャンセル」に発展しているということです。

 さて、政治やメディアが抱える「本音」と「建て前」の存在は、これまでも多くの人が判っていたはず。そうした矛盾を抱えたうえで(→抱えているくせに)「偉そうにしている人」を、矛盾に敏感となった世間はもはや許してくれないということなのでしょうか。

 「業界人」だからといって、もはや特別扱いはしてもらえない。ネット社会に入り、SNSの浸透などで、マスメディアのポジションが大きく様変わりする中、これまで一般社会とは切り離され特権化されていた「業界」という名の「壁」が、これからもどんどん崩れていくのだろうなと、氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。


#2767 政治家の資質と「鈍感力」

2025年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 兵庫県の斎藤元彦知事がパワハラなどの疑惑を内部告発された問題で、3月5日、兵庫県議会に設置された「百条委員会」がまとめた調査報告書が(県議会)本会議において賛成多数で了承されました。

 自らのパワハラなどを指摘した匿名の内部告発文書を「うそ八百」と決めつけ、告発者を特定して懲戒処分とすることで口をふさいだ斎藤知事。報告書は、公益通報制度に基づく措置を取らずに告発者を処分した斎藤氏らの対応を、「告発者潰し」に当たると結論付けています。

 また報告書は、問題となった職員への𠮟責などについても「一定の事実が確認された」と認定。「パワハラと言っても過言ではない」と指摘し、知事らの対応を「行政として客観性、公平性を欠いており、大きな問題」と指弾しているところです。

 県議会は斎藤氏に対し、(報告書の指摘を)「重く受け止め、厳正に身を処していくことを期待する」と求めています。同調査は、地方自治法に基づく百条委員会の強い権限を背景に、庁内外の関係者や専門家らを聴取して9カ月かけて行われたもの。(その間)調査の過程で関係した委員が亡くなったり、一部委員による外部への情報漏洩が発覚したりと、多くの混乱と悲しみを生みながら、ようやくまとめられたものといえるでしょう。

 しかし、一方の当事者である斎藤知事は、調査報告書の指摘に対し「県の対応には問題がなかった」とする従来の見解を繰り返すのみ。知事選挙を挟んだ知事と議会の主張の相違は9か月にわたる調査を終えて今も交わることなく、まさに「平行線」のまま(何事もなかったように)変化はありません。

 選挙で再選(信任)された…つまり「禊は既に済んでいる」とばかりに、表情を変えることもなく淡々と報告書を受け取る斎藤知事の様子を報じる映像を目にして、(「この人スゲーな」と)驚かされたのは私だけではないでしょう。

 さて、こうして百条委員会の結論が出て、いよいよ次のフェーズに入った観のある混乱の兵庫県政に関し、3月7日の日本経済新聞が「斎藤知事は百条委報告に向き合え」と題する社説を掲げています。

 兵庫県の斎藤元彦知事を告発した文書問題で、兵庫県議会の百条委員会が報告書をまとめた。告発された当事者の知事の対応には「客観性、公平性を欠き、大きな問題があった」とし(知事に)厳正に身を処すよう求める報告書に対し、斎藤知事は真摯に向き合い、公益通報制度をないがしろにした責任をどう考えるのか説明すべきだというのが当該社説の主張するところです。

 一方、調査結果に対し、知事は「対応に問題はない」との姿勢を変えていない。報告書は一つの見解(に過ぎない)とし、「違法性の判断は司法の場でされることだ」との認識だと社説はしています。しかし、「違法でなければ問題ない」という姿勢は、行政を担う政治家としての資質を疑わざるをえない。公益通報制度は組織の健全性を保つ一つの手段であり、その定着を促すのは行政の役割でもある。報告書が、「法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すのが行政だ」と強調したのはもっともだというのが社説の見解です。

 にもかかわらず、斎藤知事ほか兵庫県当局はずさんな運用に終始したと社説は続けます。その結果、制度への信頼は毀損され、犠牲者を出す悲劇も生んだ。事の重大さは今国会で法改正が予定されていることをみても明らかであり、知事は法的な責任とは別に、こうした政治的、道義的な責任も負わねばならないということです。

 さて、得てして政治家という商売は、他人の指摘にいちいち動揺していたらやっていられないということもあるのでしょう。リーダーシップとは動じないこと。政治は選挙の結果がすべてであり、どんなことを言われても怖いものはないと考えているのかもしれません。

 トランプ氏然り、プーチン氏然り、習近平氏然り…最近の強力なリーダーは皆一方通行。巷のメディアや部外者にいくら「最低最悪」と言われ続けても、聞く耳を持たずに言いたいことだけを主張し続けられる(ツラの皮の厚い)人だけが、迷える世論を率いていけるということでしょうか。

 たとえ「自分勝手」と思われようが、「少し変わった人」と呼ばれようが、人とは違う自分を貫ける「鈍感力」は、確かに政治家としての突破力にはなるかもしれません。しかしその一方で、他者の立場を慮る「想像力」や声なき声に寄り添う「共感力」がなければ、住民に身近な地方自治の担い手とはなり得ないのもまた事実でしょう。

 これから先、有権者である兵庫県民はどのような判断を下すのか。「兵庫県の混乱と分断は、いま、憂うべき状態にある」と懸念を示す報告書を踏まえ、斎藤知事には、どうすれば県民の信頼を取り戻し県政を正常化できるのかしっかり考えてほしいと結ぶ社説の指摘を、私も(一定の)共感とともに読んだところです。


#2766 トランプ政権と凋落する欧州

2025年03月09日 | 国際・政治

 1月25日のオピニオンサイト『Wedge online』が、米国の政策決定に大きな影響力を持つハーバード大学のウォルター・ラッセル・ミード教授が1月6日付のウォールストリート・ジャーナル紙に寄せた論説の一部を紹介しています。(「アメリカが外交パートナーとしての評価を下げる3つの要因」2025.1.25)

 ミード氏によれば、トランプ氏が米国大統領に復帰する中、欧州の同盟国は不快な真実に気づきつつあるとのこと。それは、(簡単に言えば)トランプ氏が、「欧州は歴史上の王座の地位から退位した」…と考えているということだということです。

 今、西側の多くの国が衰退している。欧州連合(EU)と日本は数十年間、はかばかしい実績を示してこなかった。今のところ日本は覚醒しつつあるが、欧州の同盟国のほとんどが、経済的、政治的、戦略的失敗を続けてきたとミード氏はこの論説で指摘しています。

 経済面では、欧州諸国の多くがデジタル時代に対応できず、新技術を生み出すこともなく、また間違った気候政策をとることで競争力を失っている。政治面でも友邦国は欧州を偉大にすることができず、個々の国は小さすぎて世界的な出来事に大した影響を与えられなかったというのが氏の評価です。

 EUの官僚機構は動きが遅く、主要な世界的相手に伍していけていない。移民政策の失敗により各国における既存政党は力を失い、左右の過激な勢力の進出を許しているということです。

 戦略的な失敗はさらに明らかで、欧州は中東の混乱、ロシアの侵略、中国の略奪的な経済政策に対し脆弱であり続けていると氏は言います。

 (例えば)欧州は紅海における通商へのフーシ派の干渉に対し、積極的に動こうとしなかった。フランスはロシアによってアフリカから放り出され、ウクライナでの戦争が3年になるのに、欧州は依然としてロシアからエネルギーを購入することでプーチンの戦争に資金を与えているというのが氏の指摘するところ。

 一方、欧州経済の支えである自動車産業は、間違った環境政策のために中国によって破壊されつつある。結果、欧州は今まで以上に米国を必要とするようになったが、米国の政策に影響を与えることも、米国がグローバルな課題に対応することを助けることもできない状況にあるということです。

 欧州がこのまま衰退していくことは(もちろん)米国の利益にはならない。現状変更を目指す(中ロなどの)枢軸が徘徊する中、(したがって)米国が目指すべきは欧州の再興であり、欧州の滅亡を喜ぶことではないはずだと氏はここで主張しています。

 さて、とは言え、既に世界の王座の地位からは退位している欧州の状況を踏まえれば、トランプ政権としては、欧州諸国に欠けている戦略的明晰さを持っている日本のようなパートナーと協働すべきだというのがこの論説における氏の見解です。

 氏によれば、少なくともイスラエル、インド、アラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビアのような国々の方が、欧州諸国よりも正確に時流の兆候を読み取っているとのこと。また、将来の米国の外交について考えれば、アルゼンチン、インドネシア、フィリピン、ベトナム、タイの方が、欧州諸国よりも(パートナーとして)重要であろうということです。

 (繰り返し言うが)欧州はもはや米国の外交政策の中心には位置していない。欧州の奇跡的な回復がなければ、将来の米国の大統領も、ポスト欧州の世界での政策を形作る上で、トランプ大統領と同様の方向性を取っていくだろうとこの論説でミード氏は指摘しています。

 さて、言われてみれば米国の関心の重点が中国やアジア太平洋にシフトする中、実力の低下に対する自覚が薄くプライドばかりが高くて扱いづらい欧州は、米国民にとって既に億劫で扱いづらい存在になっているのかもしれません。

 軍事・経済ともに米国頼みのくせに、気候変動対策や人権問題などにうるさく、中国、ロシア、中東への距離感など安全保障に関しても足並みがそろわない。(ビジネスマンとしてのトランプ氏が)「そんな相手に時間やコストを割くくらいだったら、今後の発展可能性の高いリアルに儲かる国々との関係に力を入れていった方がいい」…と考えても、それ自体は無理のない話でしょう。

 一方、多くの日本人にとって、世界中にあまたある国々の中で(少なくとも現時点で)もっとも共通の利害を有し価値観を共有しているのが米国であることについては、おそらく異論はないはずです。

 「日米は一蓮托生」「アジア太平洋地域は引き受けた」…個人としての能力や人間力を評価するトランプ氏を相手に、ホワイトハウスの大統領執務室でそのくらいの風呂敷が広げられる政治家がいれば、これからの日米関係も面白くなるのになと思わないでもありません。


#2765 「令和の列島改造」とは?

2025年03月08日 | 社会・経済

 1月29日の新聞各紙の朝刊に掲載された大きな穴の開いた交差点の写真に、一瞬、目を奪われた人も多かったかもしれません。

 報道によれば、1月28日午前10時ごろ、埼玉県八潮市の県道上で道路が陥没し、トラック1台が転落したとのこと。29日現在、地元消防が運転手とみられる男性1人の救助活動を続けているが、陥没でできた穴にたまった土砂に運転席部分が埋まった状態で救出の目途はたっていないということです。

 幹線道路の真ん中に。いきなり空いていた直径10メートル、深さ6メートルの大きな穴。事故に遭った運転手の方も回避のしようがなかったことでしょう。事故現場の地下約10・6メートル下には1983年に供用開始された直径約4・75メートルの下水管が通っていて、その劣化が陥没に影響した可能性があるとみて県が原因を調べているということです。

 首都圏の市街地で起きた仰天の状況に、インフラの老朽化も「いよいよここまで来たか」と感じたのは私だけではないでしょう。そうした折、1月29日の総合経済サイト「現代ビジネス」に一橋大学名誉教授の野口悠紀雄氏が『令和の列島改造?石破首相は老朽化した「日本の惨状」が分かっているか…』と題するタイムリーな論考を掲載していたので、小欄に指摘の一部を残しておきたいと思います。

 石破茂首相は、1月24日の施政方針演説で、「令和の日本列島改造」を進めると表明した。「列島改造計画」と言えば、誰もが田中角栄首相が進めた「日本列島改造計画」、つまり道路や橋などを作る大土木事業を連想するが、石破首相によれば「令和版」はそういうものではない(ようだ)と野口氏はこの論考で説明しています。

 石破首相は、(令和版では)ハードだけでなく、ソフトに重点を置いて「楽しい日本」を作ると話している。確かにソフトは重要だが、ただ、ソフトだけで社会を維持できるかといえば大いに疑問が残るところ。ハード投資には巨額の予算が必要なので、あまり費用(や時間)がかからないソフトの政策をやろうと言っているようにしか聞こえないというのが氏の認識です。

 そもそも、この政策に対しては、具体的な政策が従来から提案されているものの寄せ集めであり、新しい強力な政策がないという批判があると野口氏は続けます。確かにその内容は、①若者や女性にも選ばれる地方を作る、②産学官の地方移転、③地方イノベーション創成構想、④新時代のインフラ整備…というもの。これらは従来から言われてきたことの繰り返しで、目覚ましい効果があるとはとても思えないと氏は話しています。

 例えば、(具体的な政策として)防災庁を地方に移すことが挙げられている。しかし、これが列島改造計画の目玉政策だと言われると、頭を抱えてしまうと氏は言います。中央官庁の地方移転はこれまでもしばしば言われてきたが、それが列島改造に効果を上げたという実績を聞いたことがない。企業の地方立地も同じことで、巨額の資金が投じられた半導体工場の地方誘致についても、日本の発展に本当に望ましいかには多いに疑問があるということです。

 さて、石破首相の「令和版列島改造計画」の最も大きな問題は、日本が抱える社会的インフラの危機的な状況に対する危機感があまりに薄いことだと、野口氏はここで厳しく指摘しています。

 将来の日本においてどうしても必要なのは、列島を改造することでなく「現在の生活環境をどのようにして維持していくか」に尽きる。現在の生活圏をそのまま維持することが困難となりそれを縮小することが要求される中、生活圏の縮小は、場合によっては大きな利害関係の調整を伴う、極めて難しい問題だというのが氏の主張するところです。

 国内ではすでに、高度成長期に整備されたインフラの経年劣化が問題となっている。耐用年数である50年を超える施設が増える一方で、予算や人員不足により適切な点検や補修が行われていないケースも多く、老朽化が進行していると氏は話しています。

 実際、各地で水道管の破損による道路の陥没が相次いでおり、東京都内ですら、毎年10件以上の水道管破裂事故が発生しているとのこと。東京都内の水道管を全てつなぎあわせると、全長は27,000km(地球2/3周の距離)に及ぶが、1年間で交換できるのは約500km。このペースでは、全ての交換に50年以上が必要になるということです。

 橋梁やトンネルの老朽化についても状況は変わらない。国土交通省によると、建設後50年以上が経過する施設の割合は、2040年には、道路、橋で75%、トンネルで52%、水道管で41%に及ぶと氏は記しています。同省は、事後保全から予防保全への転換を図るため、「インフラ長寿命化計画」を策定し点検や補修の強化を進めるとしている。しかし、なにより経済成長を実現できなければ、将来の日本は(生活にどうしても必要な)社会資本を維持し続けることが危うい状態になるというのが氏の見解です。

 さてそこで、(すぐにでも行うべきは)投資の効率性を厳密に点検し、必要のない投資は却下すること。リニア新幹線の工事で地下水が地上に噴出失したなどという記事を見ると、途方もなく間違った投資を行っているのではないかと、空恐ろしくなると氏はこの論考に綴っています。

 必要性が乏しい投資を停止することは、(まずもって)「令和版列島改造計画」の重要な内容でなければならない。「楽しい日本」を作りたいという首相の気持ちは理解できるが、そのためには、「強い日本」や「豊かな日本」を維持することが必要だというのが野口氏の強く氏の指摘するところ。「強い日本」や「豊かな日本」は(決して)「古臭い目標」ではなく、「楽しい日本」を作るための必要条件であることを忘れてはならないと話すこの論考における野口氏の視点を、私も興味深く読み取ったところです。


#2764 供給力不足下での景気対策

2025年03月07日 | 社会・経済

 人材情報の株式会社リクルートが運営する「リクルートワークス研究所」は、およそ5年に1度のスパンで未来社会のシミュレーションを実施し、「人」と「組織」の未来に関する研究成果を公表しているとのこと。2023年に発表された、トータルでは4回目となる報告書『未来予測2040 労働供給制約社会がやってくる』では、「労働供給制約」を今後の日本経済が直面する最大の課題と位置づけ、実態と解決策について報告しています。

 (報告書によれば)日本の人口動態統計を基に2040年の労働需給をシミュレーションした結果、明らかになった「労働供給制約社会」がもたらすのは、単なる人手不足にとどまらない由。高齢人口が増え続ける一方で、労働の担い手となる現役世代の割合が不足することで、日本人が国内で「生活を維持」するために必要な労働力まで供給できない状況が予想されるということです。

 (具体的には)今は当たり前のように提供されている物流や建設土木などの社会インフラに加え、介護や福祉・医療・接客などの生活維持サービスの供給に支障が生じ、2040年には「配送が行き届かず物不足となる」「インフラの不備が放置される」「介護・医療が受けられない」などの深刻な事態に陥る恐れがあるとのこと。需要はあっても供給が追い付かない。したがって、手に入れるには相当高いプレミアが必要となる…そんな社会の到来がもうすぐそこまで迫っているということでしょうか。

 そうした時代の到来を見据え、総合経済誌「週刊東洋経済」の1月22日号に、東京大学教授の柳川範之氏が『需要喚起策はかえって景気を悪化させる可能性も 総需要不足から供給力不足へ、発想転換が必要』と題する論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 「景気」という言葉は、曖昧に使われることも少なくないが、近年「最近、商売が不景気で」などというときは「客足が遠のき売り上げが伸びていない」、つまり(多くの場合)需要が少ないという意味で使われてきたと柳川氏はこの論考の冒頭で指摘しています。

 マクロ経済的にも、総需要の大きさで景気が語られることは多い。消費が増え、投資も増えればその分総需要が増え、経済全体としても売上高が増える。一般的にはそれが景気のよい状態であり、総需要が減少すると景気が後退すると(言われると)いうことです。

 なので、「景気対策」とは、金利を引き下げて投資需要を喚起することだったり、交付金などによって消費を増やすことだったり、公共事業などによって公共投資を増やすことだったりと、総需要刺激策とほぼ同義で使われてきたと氏は言います。

 しかし、このようなロジックが成り立つのは、供給サイドに余裕があり、増えた需要に対して供給できるだけの製品が十分にある場合の話。まあ、売るべき製品がなければ、需要がいくら増えたところで売り上げ増にはつながらないのは当然です。

 現在、日本では人手不足など、総供給の制約が問題になっている。そのため、労働供給を増やす政策や、同じ労働人口でもより付加価値を高くするような研究開発支援など、供給力を引き上げる政策が重要になっていると、氏は日本の現状を説明しています。

 ただし、そうであっても需要を核出させることはやがて供給増にもつながるのではないか、あるいは少なくとも供給力にマイナスには作用しないのでは、という意見もあるかもしれない。しかし残念ながら、単純に総需要を伸ばすだけでは、総供給力を高めることにはつながらないばかりか、低下させることにもなりかねないというのが氏の認識です。

 なぜなら、総需要の増加によって、将来の付加価値や生産性向上につながるような投資がクラウディングアウトされて実行されない可能性も高まってしまうから。例えば、タクシー利用券を皆に配るとタクシー需要は高まるが、供給が増えなければ逆に本当に必要なお年寄りなどがタクシーを捕まえられないという事態が生じると氏は話しています。

 それと同じように、総需要が高まるだけだと、資材不足や人手不足、必要な部品や中間財の高騰などによって、将来の供給増につながるような設備投資や研究開発投資などが阻害されることにもなりかねない。さらに、総需要の拡大が続くと物価には押上効果が働くが、それに名目賃金の上昇が追い付かないと実質賃金が目減りしてしまい、労働供給にはむしろマイナスに作用してしまうということです。

 詰まるところ、供給力自体が不足している場合、景気を良くしようとして行った総需要喚起策がますます総供給力を低下させ、結果として景気を悪化させることになりかねないということ。「買え買え」と言ってお金を配っても、お店に商品や必要なサービスが行き渡らなければ、値段が上がるばかりで消費(ひいては「豊かな生活」)にはつながらないということでしょう。

 このような事態を避けるには、名目賃金上昇が物価上昇に遅れないようにすることが(まず)必要になるだろうと氏はこの論考の最後に話しています。(政府の経済対策が「数字ありき」として批判される昨今ですが)確かに、政策的に需要を刺激する際には、需要の総額だけを気にしても効果は上がらない。今後は、将来の付加価値生産性にいかに寄与するかを考えることが重要になるだろうと説く柳川氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2763 人手不足に鍛えられる日本企業

2025年03月06日 | 社会・経済

 昨年(2024年)に「早期・希望退職募集」を行った上場企業は57社(前年41社)で、前年から39.0%増加。募集人員は1万9人(同3,161人)と3倍に急増し、2021年の1万5,892人以来、3年ぶりに1万人を超えたと企業情報の「商工リサーチ」が伝えています。

 構造改革プログラムの一環として1,000人を募ったオムロンや、「ミライシフトNIPPON2025」プロジェクトで1,500人を募った資生堂、グローバル構造改革でグループ全社2,400人に及ぶ募集を行ったコニカミノルタなど、相次ぐ大手メーカーの大型募集で人数が膨れ上がった由。「早期・希望退職者」を募集した企業の直近通期最終損益(単体)は、黒字企業が34社(構成比59.6%)と約6割を占めており、収益性の高い企業が更なる構造改革の一環として進めるケースが目立つということです。

 それにしても、日本中の企業から「人手不足」の声が上がる中、経験豊富な(貴重な)人材から「早期退職」を募るというのも、不思議と言えば不思議な話。それでも断行する経営陣の思惑とは、いったいどこにあるのでしょうか。1月23日のビジネス情報サイト「DIAMOND ONLINE」に、多摩大学特別招聘教授の真壁昭夫氏が『空前の人手不足…なのに企業が「早期退職」を増やす納得の理由』と題する論考を寄せているので、指摘の一部を小サイト残しておきたいと思います。

 日本商工会議所と東京商工会議所が実施した『人手不足の状況および多様な人材の活躍等に関する調査』(24年9月:全国47都道府県の2392社を対象)によると、「人手が不足している」と回答した企業は半数を大きく超える63.0%。うち65.5%は、廃業のリスクが高まるなど事業継続に支障が出る恐れがあると回答していると真壁氏はこの論考に綴っています。(帝国データバンクの調査によれば)2024年の人手不足倒産件数は実際に342件に及んでおり、同社が調査を開始した2013年以降の過去最多を2年連続で更新中だということです。

 そうした中、人手不足への主な対応策として、大手企業を中心に賃上げの重要性が高まっていると氏は言います。氏によれば、賃上げができないと、従業員が転職してしまう傾向が目立っているとのこと。例えば、パート従業員数約42万人を有する小売り大手のイオンは、パートの時給を7%上げる調整に入ったと報じられており、人件費の増加額は約400億円に達する可能性があるということです。

 中には、賃上げの原資を捻出するため、早期退職を実施する大手企業も増えている。業績は黒字でも、早期退職を実施する企業も多いと氏は状況を説明しています。特に、システム化が進む大手製造業種などでは、積極的な賃上げによってデジタル分野など専門性の高いプロ人材を確保し、1人当たりの付加価値創出額を増やす戦略を採る企業も多いということです。

 一方、わが国の雇用を支える大多数の中小企業はどうなのか。大企業と事業規模の小さい事業者とでは、賃上げなど人手不足への対応に格差が出ていると氏は指摘しています。余裕のある大企業は賃上げを比較的行いやすい一方で、中小企業にとって大幅な賃上げは容易ではない。産業ごとに商習慣もあって価格転嫁も一筋縄にはいかない中、賃上げ以外の方策で(人手不足への)対応を模索する事業者も出始めているということです。

 例えば物流分野では、ドライバー不足に対応するため、異業種を巻き込んだ共同配送や荷物を載せて運ぶパレットの規格統一などが始まっている。資本・業務提携やM&A(企業の合併・買収)戦略を重視する中小企業も増えており、事業継承に加えて、人手不足を克服するために他社と事業を統合する、あるいは自社の事業を売却する事業主が増えているということです。

 事業統合した企業は、従来よりも少ない人員での業務が可能になる。こうした中小企業の事業統合やM&A増加が労働市場に与える影響は、今後ますます注目されるだろうというのが氏の予想するところ。統合により経営体力が向上することで、中小企業でも人材開発戦略が実行しやすくなるとともに、退職者が出た場合も既存の人員で事業の効率性を高める余地が拡大するということです。

 しかし、今年は中小企業も早期退職を募り、人材の新陳代謝の向上を目指すことが増えるかもしれない。中小企業のM&Aの重要性が高まることも、わが国の労働市場の流動性の向上を支える要素になると氏は話しています。人手不足は一見すると逆風であるものの、これを追い風にして労働市場の改革が進む可能性はある。賃上げ自体は25年も引き続き、焦点となるだろうというのが氏の予想するところです。

 大企業の中には、新卒学生の初任給を大幅に引き上げ、若年層の人員確保を目指すところが増えている。役職定年後に実力ある人材の雇用を延長する企業も増加傾向にあると氏は話しています。

 「失われた30年」という言葉で表現されることが多いわが国経済も、令和時代に人手不足倒産に直面し、人材の重要性を改めて見直す段階にあるというのが氏の認識です。たとえ人口が減少しても、働く人のリスキリングや就業意欲向上を刺激することで、高付加価値の商品を生み出せれば経済成長は可能となる。政府が人材のマッチング政策を実行することは、労働市場の改革の促進、わが国経済の回復に重要な役割を果たすはずだと話す真壁氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2762 「大国主義」の時代

2025年03月05日 | 国際・政治

 物別れに終わったウクライナのゼレンスキー大統領との首脳会談を踏まえ、ついに(「禁じ手」ともいえる)軍事支援の停止に踏み切った米トランプ大統領。トランプ氏は、自国抜きの交渉に強く反発するゼレンスキー氏を(自身が公約として打ち出した)早期停戦の障害になると見て、交渉から排除してく方針に切り替えたように見えます。

 米ロ主導の和平交渉に応じる姿勢を見せず、トランプ氏に対しロシアのプーチン大統領と妥協しないよう迫るゼレンスキー氏。一方のトランプ氏は、ウクライナにはこれ以上の消耗戦は難しいとして、ゼレンスキー氏の姿勢を「勝てる見込みのない戦争にアメリカを巻き込もうとしている」「第三次世界大戦をかけたゲームをしている」と、相当強い言葉で非難しています。

 こうしてみると、「米国は一体どっちの味方なんだ?」と思わないではありませんが、3月5日の読売新聞(朝刊3面「いらだつ米「禁じ手」」)はこのような状況を、「トランプ氏が問題にしたのは、自身が主導する和平プロセスがゼレンスキー氏によって破綻しかねないことだ」と(割と)冷静に分析しています。

 記事によれば、早期の和平実現を目指すトランプ政権は、まずは停戦を実現させ、それから(次に)より困難な課題を協議する「2段階」の和平を想定している由。そしてその第一段階としてロシアとの協議を優先させ、米ロ2国で設定した条件をウクライナや欧州に飲ませる流れを作ろうとしているということです。

 会見後、Xに「私が言った通り、この男(←ゼレンスキー氏)は米国の後ろ盾がある限り平和が訪れることを望んでいない」と投稿したトランプ氏。2月3日には「タンゴは二人いなければ踊れない」と話し、まずはロシアを交渉のテーブルにつかせ、米ロ両国の間で話をつけることが最善の方策だとの意向を改めて示したと伝えられています。

 一方で、確かに(読売新聞も指摘するように)米国による「軍事支援の停止」という強力な措置の背景には、プーチン大統領が嫌悪するゼレンスキー氏を交代に追い込み、ロシアの意に沿う形で両国関係をリセットするという思惑もあるのかもしれません。

 ともあれ、聞きようによっては、「俺がこれだけ骨を折ってやっているのに、言うことを聞けないお前はクビだ!」と言っているようなトランプ氏の言葉の数々に、(ロシアの侵略行為に抵抗し)これまで多くの血を流してきたウクライナの人々はどのような感想を抱くのか。

 「大国主義」とは、経済力や軍事力にすぐれた国がその力を背景として小国に臨む高圧的な態度を指す言葉。今回のトランプ氏の態度が、そうした(ある意味「圧倒的」な)力の存在を背景に、自国(米国)の利益を求める姿であることを否定できる人は少ないでしょう。

 ゼレンスキー氏に対し、「あなたがタフな男になれるよう力を与えたのは私だ。アメリカなしではあなたはタフではいられないだろう」と話し、「あなたが取り引きをするか、アメリカが身を引くかのどちらかだ」と恫喝するトランプ氏の姿を目の当たりにして、いよいよこうした子供じみた(弱肉強食の)時代がやってきたか…と力を落とした人も多かったに違いありません。

 そういえば、今から10年ほど前の2013年、米国オバマ大統領(当時)と首脳会談を行った中国の習近平国家主席が「広い太平洋には中国と米国の両国を受け入れる十分な空間がある」と語り、「新型大国関係として太平洋を両国で分割統治しよう」という話を持ち掛けた(と伝えられている)のを思い出します。

 「大国主義」とはまさにそういうこと。いざとなったら大国同士で話をつければ全て事は済む。自分たちの利益になるなら、「おまえら小国は、ごちゃごちゃ主張せずに黙って従え」…ということなのかもしれません。

 2月3日、米国のバンス副大統領はFOXニュースのインタビューで軍事支援停止後のウクライナへの対応について問われ、「(ウクライナが)本当の安全の保証を望み、ロシアのプーチン大統領が二度とウクライナを侵略することがないようにしたいのであれば、ウクライナの将来における経済的利益を米国人に与えることが最善の安全の保証になる」と話し、米国への利益供与こそがウクライナ国民の安全を担保することを強調したと報じられています。思えばこれも、ずいぶんと露骨な話。見方を変えれば、こういう言い方をしないと、米国の有権者には伝わらないということなのかもしれません。

 「自国のことで手一杯な島国日本に暮らすお前が何を言うのか」…と叱られてしまいそうですが、それでもこうした状況を放置していて良いものか。第二次世界大戦の反省の下で、世界の人々が何とか築き上げてきた平和な世界や社会の秩序。これらを壊すのが「人身の劣化」であることを目の当たりにさせられるのは、あまり気分の良いものではありません。


#2761 「高額療養費」負担を増やす前にすべきこと

2025年03月04日 | 医療

 政府が示していた(医療費が高額となった際に患者負担を抑える)「高額療養費制度」の負担上限額を2年間かけて3段階で引き上げる案について、石破茂首相は2月28日の衆院予算委員会で、一部を見直す方針を表明したと新聞各紙が報じています。

 具体的には、25年8月の最初の引き上げは原案通り実施するが、26、27年度に予定する2段階目以降の引き上げについては再検討を行う由。高額療養費制度は、大きなリスクから家計を守る「最後の砦」となる制度だけに、慎重な対応が求められているところです。

 ここで、「おさらい」ですが、そもそも「高額療養費制度」とはどのような制度なのか。日本の公的医療保険制度では、患者は窓口でかかった医療費の3割を自己負担するのが原則です。しかし、これには年齢に応じた軽減策が講じられており、75歳以上の負担額は1割(現役並み所得者3割、一定所得以上2割)、70~74歳は2割(現役並み所得者3割)、義務教育就学前は2割とされています。

 しかし、入院や手術、投薬などで医療費が高額になれば、この1~3割でも負担は相当のもの。そこで負担が過重にならないように、自己負担額に天井(限度額)を設ける「高額療養費制度」が安全弁として備えられているわけです。

 さて、その限度額ですが、「1カ月の窓口負担」が限度額を超えた場合に超えた額が給付されることになっており、その金額は年齢(70歳以上・未満)と所得で決まっています。ざっくり言ってしまえば、70歳未満で、例えば年収約370万~約770万円の人の限度額は月額で8万100円ちょっと。年収約1160万円を超えるお金持ちでも、月額25万2600円ちょっとに抑えられる仕組みです。

 これを多いと見るか、少ないと見るかは人それぞれでしょうが、月額8万円なら年間100万円といったところ。保険料が高額な医療保険に入っていなくても、「病院への支払いで生活できない」…というほどでもないでしょう。

 厚生労働省のまとめでは、令和5年度の国民医療費は、概算で47兆3000億円と、前の年度から1兆3000億円増加し、3年連続で過去最高を更新しているとのこと。これを、(赤ちゃんからお年寄りまで)国民1人当たりに直せば(医療費は)38万円と、前の年度より1万2000円増えていることになり、どこかで歯止めをかけなければ(世界に冠たる)国民皆保険がいよいよ維持できなくなるという状況なのかもしれません。

 さて、国民医療費をめぐるこうした厳しい状況に関し、2月21日の「集英社オンライン」に医療政策学者でUCLA助教授の津川友介氏が、『国民の負担を増やす前に厚労省がやるべき、2~7兆円もの医療費を削減できる3つの医療改革とは』と題する論評を上げているので、参考までにその概要を残しておきたいと思います。

 政府の令和7年度当初予算編成に当たり、高額療養費制度の自己負担の上限の引き上げが案として浮上したことに国民から非難の声が上がっている。私(←津川氏)自身、現状における高額療養費の自己負担の上限の引き上げは悪手であり、やるべきではないと考えていると、氏はこの論評の冒頭に綴っています。

 そもそも公的医療保険は、①予測困難な健康上の問題で、②健康上の問題が起きたときに高額の医療費がかかる、という2つのリスクを減らすことが目的のはず。この原則から考えれば「高額療養費制度」こそ日本の健康保険制度の根幹であり、それを弱体化させることは、医療費が払えずに治療をあきらめる人や、医療費の支払いのために自己破産して生活保護になってしまう家庭を増やす可能性があるということです。

 もしも医療費の増加を抑制したいのであれば、高額療養費制度の対象となっているような(生死に面している)重症患者に負担を強いるのではなく、まず先に外来を受診しているような軽症患者さんに、不要不急の医療を控えてもらうべきだと氏は言います。

 まずは、医療のムダを減らすことで、国民の健康を犠牲にすることなく医療費削減を達成すること。つまり、国民の健康を改善、増進しない(もしくはその効果の小さい)医療サービスを減らすことで、国民の健康に悪影響をおよぼすことなく医療費の伸びを抑制すべきだというのが氏の見解です。

 例えば、薬局やドラッグストアなどで医師の処方箋なしで直接購入できる「OTC類似薬」を健康保険の対象から外すだけで、3200億円~1兆円の医療費削減効果があると氏は説明しています。風邪薬・湿布・胃腸薬・ビタミン剤・うがい薬・目薬・漢方薬などがその代表例。日本総合研究所の試算では、OTC類似薬は医療費全体の2.3%を占め、関連する医療費は約1兆円に達している由。湿布薬だけでも年間54億回処方されており、その医療費は1300億円に達するということです。

 それ以外にも、そもそも健康上のメリットがない「無価値医療」を健康保険の対象から外す必要があると氏は話しています。その医療費削減効果は、9500億円~1.2兆円に及ぶとの試算もあるとのこと。代表的な例としては、風邪に対する抗菌薬治療など。風邪(急性上気道炎)はウイルス感染であり、そもそも総合感冒薬には風邪のウイルスを倒す力や、回復を早める効果はありません。風邪による辛い症状を改善するという「対症療法」としての有効性に関しても、エビデンスはないということです。

 また、日本ではしばしば議論になる、重度の認知症患者(←認知症が原因で経口摂取が難しくなった患者)に対する「胃ろう造設」もそのひとつだと氏は続けます。一般に、重度の認知症患者に対する医療の目的は、延命ではなく「生活の質(Quality of life)の向上」のはず。氏によれば、胃ろう造設は生活の質を改善させないだけでなく(介助による経口摂取と比べて)誤嚥性肺炎のリスクも減らないので、欧米では推奨されていないということです。

 これらは一例に過ぎないが、関連するいくつかの改革を進めれば、最大7.3兆円の医療の無駄を削減できると氏は試算しています。

 因みに、健康保険組合連合会が公表している「高額レセプト上位の概要」によれば、2023年度1年間で、1か月当たり医療費が1000万円以上となった高額レセプトは2156件あり、前年度に比べて364件・20.3%の増加し「過去最高」を更新している由。新薬の保険適用が進んだことなどにより上位1-14位までは脊髄性筋萎縮症患者で占められ、それぞれ「1か月に1億7000万円」程度の超高額レセプトも発生しているということです。

 あまり高額に目がくらみそうですが、そうした中でも、改革はまずは「足下」からということなのでしょう。確かに、齢90を超える私の母親などを見ていても、かかりつけの病院からはビタミン剤だの睡眠導入剤だの目薬だの、毎日お腹が一杯になるほどの薬が処方され、本人も「飲みきれない」とぼやいています。さらに、毎回主治医に「あちらが痛い」「こちらが痺れる」と訴えるものだから、湿布薬も孫に分けてあげる程残っている状況です。

 これはおそらく、日本中で起こっていることなのでしょう。国民医療の増加を抑制するには、国民の健康に深刻な影響を与える高額療養費制度の改悪を検討するより先に、やるべきことがあるはずだと話す津川氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2760 行田にスタバは早すぎた?

2025年03月03日 | 社会・経済

 報道によれば、カフェチェーンを世界的に展開するスターバックスが埼玉県行田市に初出店する計画が、暗礁に乗り上げている由。今月着工し年内には市内の水城公園駐車場に開店する予定だったものが、駐車場付近に位置する公民館利用者ら8名から「駐車スペースが減る」などとして反対の声が上がり、同社は出店に慎重になっているということです。

 行田邦子行田市長によれば、誘致に反対する市民(団体)がスターバックス本社に建設中止を求める要望書を送ったことで、同社は市に対し「出店に対し懸念を示される意見がある以上、このままでは出店は困難」と伝えてきたとのこと。一方、こうした状況を受け、2月19日には、スタバの出店を求める市民団体の代表らが市役所を訪れ、「スターバックスの出店を求める署名」2082人分を行田市長に手渡したとの報道もありました。

 しばらく前になりますが、鳥取県知事の平井信治知事が、全国で唯一スターバックスがない県であることを逆手にとって、「スタバはないがスナバ(鳥取砂丘)はある」と自虐ネタにしたのは有名な話。(こうして)スマートな都会の象徴として受け止められてきたスタバも、(代々行田に暮らす)地元の人たちにとっては、地域外からいろいろな人がやって来る騒々しい迷惑な存在に映るのでしょう。

 「埼玉県」の名前の由来ともなった(「さきたま」の地)行田で、一体どんなことが起こっているのか。2月27日の「東洋経済ONLINE」に都市ジャーナリストの谷頭和希氏が『スタバ「市民の反対で出店中断」に見る“公園の変容”』と題するレポートを寄せているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 行田市は、埼玉県東部に位置する人口約8万人の市。稲荷山古墳や古代蓮の里などの観光地で知られるが、他の地方都市と同様中心市街地の荒廃が進み、商店街はシャッター通りになっていると谷頭氏はこの論考で紹介しています。

 件のスターバックスは、そんな中心市街地にある水城公園に作られることになった。 市の「水城公園飲食施設出店者募集事業」に手を挙げたスターバックスが市の審査を経て協定を締結し、今年2月に着工の運びとなった。しかしここで、市民8名からなる「行田の明日を考える会」が出店反対の署名300件を集め、反対運動を始めたと氏は経緯を説明しています。

 行田市は反対署名を行った人々を尋ねて事業概要の説明などを行ったが反対運動は収まらず、同会がスターバックス本社にも「嘆願書」を送ったことで同社も計画の見直しを決断。今回の頓挫に至ったということです。

 谷頭氏によれば、「行田の明日を考える会」は反対する理由として、①スターバックスが作られることにより公民館の駐車場の駐車台数が減少し、渋滞や事故の危険性が高まる。②新設される駐車場を作るために樹木が伐採される。③事業者決定までの手続の不透明性が高い…の3点を挙げているとのこと。また、行田市が会員に対して行った説得行為についても、「憲法21条『表現の自由』の侵害にあたる」として違法性を主張しているということです。

 さて、(こうして)市民団体がスターバックス誘致に反対する理由は様々挙げられているが、その根幹には「公共施設である公園に民間企業が入り込むことに対する違和感」があるのではないかと、谷頭氏はここで指摘しています。民間企業の利益のために市が公共スペースである駐車場を貸したり、公共財を提供したりすることへの疑念を感じるのも、そこが「公共空間」たる公園だからこそではないかということです。

 一方、近年、都市公園における民間企業の役割は大きく変化しており、現在の公園を見ていくと、官民の連携はますます盛んになりつつあると谷頭氏は話しています。

 例えば、2016年にリニューアルオープンした南池袋公園は、カフェが作られたり芝生が作られたりして見違えるように変化した。また、渋谷のMIYASHITA PARKは、民間の施設と公園を共に整備できる立体都市公園制度によってリニューアル。三井不動産によるショッピングモールとスターバックスを中心に、各地から人が訪れる人気スポットとなったということです。

 もちろん、民間企業が公園の運営や管理に携わると「公共」の機能が損なわれてしまうのではないか?…という疑念を抱く住民がいるのも当然のこと。ただし、(最近の例を見る限り)ノウハウを持つ民間資本が積極的に関与することで、街がにぎわいを取り戻し結果として多くの人を受け入れる「公共性」が生まれるケースが増えていると氏は言います。

 つまり、官民連携によって公園内に活気が生まれ、結果的に公共的な姿を保てる場合も多いということ。少なくとも財政的に公園運営が厳しく、ほとんど放置状態になっている公園よりも、民間資本を入れ、公園の運営費をまかなうほうが公園本来のポテンシャルが活かせるというのが氏の指摘するところ。行田市の例を見ても、スターバックスに来てほしいという(にぎわいを求める)声は多く、「スタバ出店の再開を求める市民団体」にも(反対署名の7倍近い)2082人の署名が集まっているということです。

 実際、全国のスターバックスの中には、(私の知る限りでも)「世界一美しいスタバ」との評が高い富山市内の環水公園にある店舗や、都内千代田区の和田倉噴水公園にある店舗など、環境にマッチした驚くほど美しい雰囲気の良い空間を提供している例が数あるのもまた事実。そうしたものを覗いてみれば、地域のために反対する住民の皆さんの意識も少しは変わるかもしれません。

 市にしても市民団体にしても、自分たちが関わる地域を悪くしたいと思っている人は誰もいない。しかしその目的に対する手段をどのように取るのか、そこですれ違いが起こっているのだろうと氏はレポートの最後に記しています。

 だからこそ、自治体としてはより丁寧な事業の進め方や情報開示、反対派との対話を行う必要がある。行田市に関わるすべての人が納得する騒動の顛末になることを願いたいとこのレポートを結ぶ谷頭氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2759 壁で得しているのは主婦ではない(その2)

2025年03月02日 | 社会・経済

 妻が夫の扶養家族となり、税金などさまざまな優遇を得られる「103万の壁」についての議論が国会で進む中、東京大学名誉教授で社会学者の上野千鶴子氏は、昨年暮れ(12月19日)のライフスタイル情報メディア「TRILL」に「103万円の壁で得してきたのは主婦ではなくオジサン」と題する論考を寄せています。

 曰く、「1961年にできた配偶者控除、1985年に創設された主婦の基礎年金を保障する第3号被保険者、1987年の配偶者特別控除は、政治がつくった発明だった。それによってパートタイムで働く女性は増えたが、これは女性に育児や介護を担わせたままにしたい男性にとって都合の良い制度だ」とのこと。

 それでは、現代の日本において女性の就労を阻んでいる本当の「壁」とは、一体どこにあるのか? そして問題解決のためにはどのようにしていったら良いのか。上野氏の話は続きます。

 年収の壁、特に103万円の壁に関しては、先の岸田政権でも国会の議題に挙がった。しかし、それは女性側からの要求ではなく、最低賃金が上がったために(2023年に全国加重平均額が1000円を超えた)パート主婦たちが働ける時間が減ったことで、人手不足にあえぐ中小企業の経営者から悲鳴が上がり、国会がその声に応えたものだったと上野氏は説明しています。

 国民民主党の玉木雄一郎氏が言うように、壁が「年収178万円まで」に引き上げられたところで、月収14万円ぐらいで女性が経済的に自立できるはずがない。要するに、主婦はこれからも家計補助の立場に甘んじろということだというのが、この論考で氏が(厳しく)指摘するところです。

 確かに、パートタイムで働いている女性自身が、労働時間を増やし夫の扶養から外れることを避けているとして、現状を(女性の)自己選択の結果だと主張する声は聴く。「もし、あなたに正社員のオファーが来たら受けますか」というアンケートに、パート労働者の多数派がノーと答えてきたことから、政府も「パート就労は女性自身の選択」だと言ってきたと氏はしています。

 しかし、それはどうなのか?正社員になったとたんに残業や異動が命じられる。あえて言えばこのような正社員の働き方そのものが問題で、(家庭生活を一方的に押し付けられている身では)そうしたものを避けたい気持ちが生まれても同然だというのが氏の見解です。

 また、いったん制度ができあがると「既得権益層」を作りだすので、現状でトクをしていると思っている人、社会保険料や税金を払わなくていい立場を捨てようとは思えない人も確かに多いだろうと氏は言います。

 しかし、それで守られる「利益」は、ほんの目先だけのこと。氏によれば、20代からずっと正社員でいた場合と、中断再就労してパートタイムで働いた場合の生涯賃金の差は2億円に及ぶとの試算があるということです。たとえ現在40代以上でも、将来受け取る年金の額を考えると、今からでも収入を増やしておいたほうがよい。短期的には利益と見えても、長期的には不利益になる可能性が高いというのが氏の認識です。

 一方で、もしもパートからフルタイムになったら、住民税と所得税を払い、健康保険と年金の負担もかかり、夫の配偶者特別控除もなくなる。それでは「働き損」だとなれば、パート主婦にとって(正社員を選ぶことへの)心理的なハードルは高いだろうと氏は続けます。

 そのとおり、税制・社会保障制度が崖のような段差を作ることで、主婦自身が、壁の中にいたほうが有利だと思わされている。でも、その結果、女性は働いても低賃金で貧乏、その結果、老後も低年金で貧乏、一生ずーっと貧乏という樋口恵子さんのいう「BB(貧乏ばあさん)」になりかねないということです。

 同様のことは相続制度や年金制度にも言える。妻の収入が低くても夫に扶養してもらい、老後も一緒に年金をもらって最後まで生活できるという昭和型モデルを支持する中高年層も未だ多いと氏は言います。

 確かに夫が死んでも、遺産も妻の取り分が2分の1に増えたし、遺族年金も2分の1から4分の3に増えた。しかし、これは女性の人権保障などではなく、いうなれば「妻の座」権の保障に過ぎない。国が「あとちょっとの辛抱だから、夫を最期まで看取ったほうがお得」な制度とすることで、例え夫との生活がイヤになった夫婦の熟年離婚を抑止する効果があるということです。

  今は、(昭和の時代から続いてきた)これら制度が変わるかどうかの転換期。国民民主党は「扶養家族の大学生がバイトでもっと稼げるように」という間違った人気取りをしているが、学生に長時間労働できるようにさせるなんて本末転倒で、バイトなどしなくても勉学に専念できる環境を整えるのが政治だと氏は話しています。

 しかし、長い間不合理だとして女性が訴えてきた配偶者控除の壁に、政策課題として注目を集めたこと(だけ)は玉木氏の功績と言えるかもしれない。扶養の壁を撤廃して、妻も夫も収入に応じて税金を支払い、保険に加入する。同時に累進課税率(収入が高いほど税金も高くなる)を高めておけば、低所得ならそれほど税額は多くならないだろうということです。

 必要なのは、女性を「家」から解放すること。女性が「妻」や「母」ではなく、ひとりの個人として、親や夫に頼らず自立して生きることが「普通」にできる社会環境を整えていくということでしょうか。

 そのためにも、まずは税制・社会保障制度を世帯単位から個人単位にする必要があると氏はこの論考の最後に話しています。マイナンバーカードはそのためのもの。「壁」を撤廃するための突破口を、そうした身近なところに探すこの論考における上野氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。