近年、「失われた30年」「失われた平成」などと言う言葉をよく耳にするようになりました。振り返れば、「歌舞音曲の自粛」や「バブル経済の崩壊」の中で「昭和」が静かに幕を引き、不安の中で迎えた「平成」は、日本経済の衰退の歴史を体現するものだといっても過言ではないかもしれません。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてられ、しばらくはGDPランキングで(アメリカに次ぐ)2位をキープしていた日本も、2010年頃には中国に抜かれ、2023年には人口が約3分の2のドイツにも抜かれる有様です。2023年のアメリカのGDPはおよそ27.36兆ドル、中国は17.793兆ドル、3位ドイツは4.46兆ドル。一方、日本は4.21兆ドルで(少なくとも)上位2か国との間には大きな差があります。
実は、1995年時点の日本のGDPは5.55兆ドル(ちなみにその時、ドイツのGDPは2.59兆ドル)で、日本のGDPはこの25年間でほぼ変わっていない(むしろ減っている)ことがわかります。その意味するところは、日本経済が30年にわたる停滞によって、(相対的に)ズルズルと後退してきたということ。今の日本を支える40代の人々ですら、「成長」という言葉を知らずに育ったと思えば何とも不思議な気分です。
それでは、その「失われた30年」「失われた平成」は、この日本の社会にどのような爪痕を残したのか。2月6日の「婦人公論ONLINE」に、経営コンサルタントの倉本圭造氏が『国を閉ざして昭和の価値観で運営してきたから日本は衰退した?』と題する興味深い論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。
半導体投資で沸く熊本県菊陽町や、ウィンターリゾートとして活況を呈している北海道ニセコの話を、ニュースなどで見聞きした人も多いだろう。中でも、国際的なスキーリゾートとして開発が進んできたニセコでは、清掃業などの仕事でも時給2000円を超えるというような話すら聞くと、氏はこの論考の冒頭に記しています。
これらは非常に特殊な例のように見えるが、(実は)グローバルな経済の流れに自然に乗っかっていくとある程度こういう感じにはなるものだと、氏は状況を説明しています。ここ20年以上、日本は言葉の壁もあって世界経済の流れとは遠いところで引きこもり気味に経済を運営してきた。なのでわかりにくいが、例えば英語圏の国などは問答無用にこういう流れに呑み込まれ、そこら中に菊陽町やニセコのような存在があるというのが氏の認識です。
それらの国々と経済発展の度合いを数字で比べ、日本が劣後するのはまあ当然のこと。それでは過去20年の日本の不調は、過去の延長にこだわって国を閉ざし、内向きにグダグダと惰性の運営をしてきた“昭和の殿さま”たちが「100%悪い!」ということになるのかどうか。
その問いに対する私(←倉本氏)の答えは「NO」だと、氏はここで断じています。そういう片方だけからの発想では、日本に横たわる本当の課題を解決することはできない。社会を経済という一面でとらえず、多方面から比較してみる必要があるというのが氏の考えです。
「普通にグローバル経済やってました」というような欧米の国と比べると、日本社会は何より安定していると氏は話しています。犯罪率はとにかく低いし、失業率も異例に低い。欧米(特にアメリカ)でよくあるような、都市の中心部で薬物中毒者が徘徊しているということもほとんどないと氏は言います。
まだまだ製造業が頑張っている土地も多く、一握りのインテリに限らず幅広いタイプの職業人の自己効力感が生きている。アメリカの「ラストベルト」と呼ばれるエリアのように、地域全体が無力感と恨みをため込んで、巨大な政治的不安定さの原因になっている地域もないということです。
氏によれば、この日本は、経済が世界一レベルだった全盛期に比べれば、全体として緩やかに衰退しているのは事実だが、グローバル経済に裸で飛び込んでしまったような国が抱え込んでいる「解決不能の問題」からは(その分)距離を置くことができているということ。「過去の日本をぶっ壊せ!」と言うだけでその先のビジョンは特にない。「アメリカみたいになんでできないの?」と言うだけでその先を具体的に考えなかった平成時代の「もっと“カイカク”が必要だ」という論調を、シャットアウトしてきた意味もあったということです。
平成の日本は、社会の安定性をグローバル経済の荒波から守るため、ほぼ世界一だった「昭和の経済大国の遺産」を冷凍保存して食い延ばすような政策を採ってきた。なので、その恩恵の行き渡り方が独特のイビツな分布になってしまっている面は(確かに)あると氏も認めています。
具体的は、例えばいわゆる伝統的な大企業の正社員や公務員の立場はものすごく守られる一方で、その完璧に守られた椅子と経済の荒波とのギャップは全て、派遣社員のようなかなり不安定な立場の人たちが“衝撃吸収材”として(ダメージを)一手に引き受けてきた。また、離婚したシングルマザーのような立場の人が色々な意味でシワ寄せを受け、苦労する社会の構造になっていることも事実だということです。
そういう過去20年の間“割を食う”立場になってしまった人が、今の日本の秩序を憎悪する気持ちは理解できるし、一種の正当性のようなものもあると氏は言います。しかし、そういう人たちですら、日本国全体が「昭和の経済大国の遺産」を食い延ばすことで毎年巨額の経常黒字を維持し続け、世界1位の対外純資産を積み上げてきていることの恩恵を、実はかなり受けているというのが氏の認識です。
「日本国全体としては稼げている」という状態を必死に維持してきたからこそ、国家の債務のGDP比率が世界一にまでなっても問題が顕在化しなかったともいえる。そうやって大きな財政支出を継続して行い、社会の安定を維持し続けてきた過去の日本の政策は、ある意味で“割を食う”立場になってしまった人のためでもあったということです。
なぜなら、もっと徹底した「本物のネオリベ政策」に飛び込んでいたら、そういう人たちの生活は今よりもさらにもっと悪くなっていたことは容易に想像できるから。もちろん、“割を食う”立場になってしまった人は日本社会に対して貸しがあるといっていいし、そういう人たちが自分の「取り分」を主張していくことは大変大事なことだと氏は改めて指摘しています。
しかしその一方で、現実に国の取ってきた針路が(単に時の政権の利益のためだけではなく)、日本社会全体のためのものであった側面もあるということ。損な役割を担わされた人たちのニーズを満たしていくためにも、主権者である国民はその辺りを丁寧に理解することが必要だというのが、この論考で倉本氏が主張するところです。
結局のところ、私たちの日本はどのような国を目指すのかというところ。目の前の損得ばかりを論じるのでなく、長期的な国の形、社会の形を視野に入れて変化に対応していく必要があると考える氏の指摘を、わたしも大変「バランスの取れた」意見だなと改めて受け止めたところです。