MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2745 民主政はなぜ抜け穴だらけなのか

2025年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 私たちの社会制度の多くは「性善説」に基づいて設計されている。喩えて言えば、田舎の道にある無人販売所みたいなもので、「りんご5個で300円」と書いてあれば、普通の人はりんごを取って代価を置いておくようなものだと、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が昨年12月16日の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に記しています。

 こういうシステムでは、お金を払わずにりんごを持っていこうと思えば簡単にできてしまう。ついでに、置かれたままの代金まで盗んでゆく人たちは、「性善説を信じているやつらはバカだ」と高笑いするのだろうと氏は言います。

 しかし、りんご農家がこれに懲りて店番を置いたり防犯カメラを設置したりすれば、そのコストは商品価格に転嫁される。次は「りんご5個500円」に値上がりしたりして、結果、リンゴや代金を持ち去った者の取り分はその他の人が分担することになるというのが氏の指摘するところです。

 話は戻って、社会制度について。(内田氏は)こうして「制度の穴」をみつけて自己利益を増やす人間を「スマートだ」とか「クレバーだ」とか誉めそやす風潮が生まれているが、結局、そうした人たちは自分も(こうした人たちに)盗まれていることに気がついていないと氏は話しています。

 盗まれるだけでは業腹だから、「オレも今日から盗る側になる」と皆が我先に「制度の穴」を探すようになれば、今度は社会制度をすべて性悪説で作り直さなければならない。そして、そこに顕現するのは、「市民全員が潜在的には泥棒である」と思われて暮らす社会であり、何よりも全く価値を生み出さない「防犯コスト」を全員が負担しなければならない高コストの社会だということです。

 さてそこで、公選法が想定していない候補者のトリッキーな動きにより、カオス化が進んでいる昨今の選挙の話です。(選挙の「作法」が細かくきっちりと規定されていると考えられている)公選法も、その実、他の制度と同じく「市民は遵法的であり、良識に従ってふるまう」ことを暗黙の前提にして設計されていると、内田氏は12月19日の自身のブログ(内田樹の研究室『常識にもう一度力を』)に綴っています。

 もちろん昔から、政見放送や選挙公報で「非常識なこと」を言う候補者はいた。けれども、そういう常識をわきまえない人に被選挙権を確保することも、「民主主義のコスト」だと思って人々は黙って受け入れてきたと氏は言います。

 何らかの外形的な基準を設けて「非常識な人」を排除することは、(やろうと思えば)できただろう。けれども、先人たちはそうしなかった。それは、「そんなの非常識だ…」と(多くの人が)思ったからだというのが氏の認識です。

 なぜそう思ったのかと言えば、民主政下の社会制度の多くは「市民は原則として遵法的であり、良識を持って行動する」ことを前提に、つまり「性善説」に基づいて設計されているから。なので、(一方の)社会の一員として成熟しきれていない人の目には、現在の状態は「抜け穴」だらけに見える(かもしれない)ということです。

 しかし、それを「制度の欠陥」だと思ってはならないと内田氏は続けます。性悪説に基づいて制度を作り直すことはしようと思えばできる。事実、市民の一挙手一投足を監視するシステムを完成させた国はあるし、日本にもそれを真似たいと思っている政治家もいると氏は話しています。

 しかし、(心しておくべきは)例えどれほど網羅的な監視システムを作っても、人々はその監視の目を逃れる方途を必ず見つけ出す…ということ。国民監視システムは国民に向かって絶えず「お前たちは潜在的には全員が泥棒であり、謀反人なのだ」と告げている。そうした、朝から晩まで耳元で「お前は悪人だ」と言われ続ける社会に、「私一人でも遵法的で良識ある市民として生きよう」と思う(志の高い)国民が出現するとは思えないということです。

 性悪説に基づく制度は「悪人であることが市民のデフォルトである」という人間観を政府が公式見解として発信し宣布しているということだと氏は説いています。逆に、性善説に基づく制度は市民に向かって「あなたたちが遵法的で、良識ある人であることを私たちは願う」というメッセージを送っている。制度そのものが市民に向かって「善良な人であってください」と懇請しているということです。

 市民に道義的であることを求める制度と、市民が利己的で不道徳であることを前提にする制度。とどちらが長期的に「住みよい社会」を創り出すかは考えるまでもないと話す内田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2744 未熟の代償

2025年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 最近、テレビでニュースやワイドショーなどを見ていると、世の中全体が随分と「子供っぽくなったな」と思うことがよくあります。

 例えば、若者たちの間で「炎上」目当てに迷惑動画をSNSに上げることが流行ったり、ネットで集められた「闇バイト」の若者たちによる粗暴な犯罪が頻発したり。政治の世界で言えば、政治とはほぼ関係ない暴露系Youtuberが若者の支持を受けて国政選挙で当選したり、選挙のポスター掲示板に(合法的に)裸の女性やペットの写真が貼られたりと、例を挙げれば枚挙にいとまがありません。

 一時は、そんな風に感じるのは「自分が歳をとったせい」で、世の中の動きについていけなくなったからかな…とも思ったのですが、こうした「事件」に対するメディアや世論の反応が総じてあまりにもシンプル(というか表層的)なところを見ると、一概に自分のせいとばかりも言えないような気がしてなりません。

 どうやらそれはこの日本だけの傾向ではなく、米国トランプ大統領の言動や、プーチン、習近平、そして(戒厳令を発令した)隣国韓国や(ウクライナに兵士を送った)北朝鮮の指導者たちの動きについても、「どうしてそうなる?」と思わされることが多くなりました。

 世の中の動きがそれだけスピードアップし、それだけ「刹那的になった」ということなのかもしれませんが、これまで当たり前とされてきた「正しさ」や「常識」が覆され、「余裕」とか「バッファー」というようなものが(時代とともに)どんどん失われているのを感じるところです。

 そんなことを漠然と考えていた折、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、昨年12月16日の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に『性善説と民主政の成熟』と題する一文を掲載していたので、(少し長くなりますが)参考までにその指摘を小欄に残しておきたいと思います。

 2024年の暮れ近くなって、日替わりで(選挙にまつわる)政治的事件が続いている。 公選法が想定していないトリッキーな行動を次々ととる候補者が現れ、都知事選も県知事選もカオス化したけれど、(それ自体は)改めて公選法が性善説に基づいて設計されているという厳粛な事実を前景化してくれた点では功績があった…と、内田氏はこの論考に綴っています。

 (話はちょっと飛びますが)氏によれば、私たちの社会制度の多くは「性善説」に基づいて設計されているとのこと。喩えて言えばそれは田舎の道にある無人販売所みたいなもので、「りんご5個で300円」と書いてあれば、普通の人はりんごを取って代価を置いておくようなものだということです。

 でも、たまに「システムの穴をみつけて悪用する人間」が出てくる。あるだけのりんごを持ち去り、ついでに置いてある代金も盗んでゆく彼らは、「性善説を信じているやつらはバカだ」と高笑いするのだろうと氏は言います。

 しかし、りんご農家がこれに懲りて店番を置いたり防犯カメラを設置したりすれば、そのコストは商品価格に転嫁され、次は「りんご5個500円」に値上がりしたりして、結果、リンゴや代金を持ち去った者の取り分はその他の人が分担することになる。

 この例えで何を言いたいかと言えば、制度の穴をみつけて自己利益を増やす人間を「スマートだ」とか「クレバーだ」とか誉めそやす人は、結局、自分も彼らに盗まれていることに気がついていないということ。盗まれるだけでは業腹だから、「オレも今日から盗る側になる」と皆が我先に「制度の穴」を探すようになれば、今度は社会制度をすべて性悪説で作り直さなければならないということです。

 そこに顕現するは、「市民全員が潜在的には泥棒である」ことを前提に暮らす社会であり、何よりも全く価値を生み出さない「防犯コスト」を全員が負担しなければならない高コストの社会。そんな生産性の低い、気分の悪い社会に私は住みたくないと氏はしています。

 あらゆる制度は性善説で制度設計した方が圧倒的に効率がよいし、生産性が高い。何より性善説で作られた制度は、利用者たちに向けて「善であれ」という遂行的な呼びかけを行ってくれるということです。

 翻って、今度は民主政の話。民主制は不出来な制度で、なにしろ有権者の相当数が市民的に成熟していないと機能しないと氏は話しています。市民の過半が「子ども」だと、民主政は破綻する。だから、民主政は市民の袖を捉えて、「お願いだから大人になってくれ」と懇請するということです。

 普通、そんな親切な制度は他にはない。帝政も王政も貴族政も、市民に向かって「バカのままでいろ」としか言わない。それは、統治者ひとりが賢者であって、あとは全員愚民である方が統治効率がよいからだと氏は説明しています。なので、(残念ながら)独裁者はほぼシステマティックに後継者の指名に失敗する。独裁制は、いずれ「統治者もバカだし、残り全員もバカ」というカオスに陥り、短期間のうちに崩落するというのが氏の見解です。

 統治機構の「復元力」を担保するためには、一定数の賢者が社会的な層のどこかに必ずいて、もしも統治者が不適切な場合には(平和裏に)交替できる仕組みが最も適切であることは誰にでもわかると氏はしています。

 そして、そういう意味で言えば、民主政がその「最も適切な制度」であることもまた自明となる。しかし、それをうまく機能させるためには、「一定数の賢者」を特定の場所に特定の方法で育成しプールしておかなければならないというのが氏の指摘するところです。

 当然のことだが、強制や脅迫や利益供与を以て人を成熟させることはできない。 私たちの社会制度の多くが性善説で設計されているのは、その制度そのものが私たちに向かって「性、善であれ」と懇請してくるからだと氏は言います。

 そこで話を戻せば、社会から懇請されるそうした「遂行的メッセージ」を聴き取れない者(つまりリンゴや代金を持ち去っていく人)は、邪悪というよりもむしろ、単に「未熟」なだけ。(本人は気づいていないだろうが)この社会を構成する一人前のメンバーとして成熟していないだけだと内田氏はここで断じています。

 氏によれば、制度は「生き物」とのこと。それが人間をどう成熟させ、世界をどう住みやすくするために作られたものなのか、誰もがたまには思量すべきだと話す氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2734 折々の言葉

2025年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 2月5日の朝日新聞が、兵庫県姫路市が同市出身の哲学者和辻哲郎にちなんで設けた「和辻哲郎文化賞」の第37回受賞作品に、哲学者の鷲田清一(わしだ・きよかず)氏と甲南大学教授の平井健介(ひらい・けんすけ)氏の両氏を選出したと伝えています。

 和辻哲郎文化賞は、国内の哲学や宗教、思想といった領域における、特に卓越した著作や研究などをたたえるもの。今年の学術部門では、朝日新聞朝刊1面のコラム「折々のことば」の筆者で知られる哲学者の鷲田清一氏の「所有論」、一般部門では平井健介・甲南大経済学部教授の「日本統治下の台湾―開発・植民地主義・主体性―」が対象となったということです。

 受賞に際し鷲田氏は、「胸をお借りしたのは和辻さんの『存在』(有)をめぐる厚い論述。先行するそのお仕事なしに私のこの論はありえなかった。和辻哲郎文化賞というかたちで評価いただいた幸運を嚙みしめている」とコメントしたと記事は報じています。

 さて、今回受賞者の一人となった鷲田氏と言えば、京都大学文学部哲学科・同大学院を卒業後、関西大学で教授などとして教鞭を執り、大阪大学に移った後は、文学部長、副学長、総長などを歴任した日本を代表する哲学者です。

 一方で、氏は1980年代から90年代にかけて、「身体論」などの視点からファッション論やモード論を哲学的な観点から自在に展開した言論人としても知られています。「ピアスや刺青をすることの意味とは?」「人は何のために服で体を隠すのか?」など、氏独特の一般人にも親しみ易い平易な口調で語る数々の言葉が多くの人々の心に響き、様々に受け止められてきたと言えるでしょう。

 そもそも、氏が当初から(哲学者として)自身の大きなテーマと捉えてきた「身体論」とはどのようなものか。結論から言ってしまえば、「『身体(からだ)』は、自らの経験に基づく『像(イメージ)』でしかありえない」(『ちぐはぐな身体』鷲田清一:筑摩書房2005)ということです。

 「身体」の中で、自分がじかに見たり触れたりして確認できるのは、手や足といった常にその断片でしかない。胃のような「身体」の内部はもちろんのこと、背中や後頭部さえじかに見ることはできないというのが氏の指摘するところ。

 そして、自分の感情が露出してしまう顔も、じかに見ることはできない。「身体」を知覚するための情報は実に乏しく、自分の「身体」の全体像は、離れてみればこう見えるだろうという想像に頼るしかない。つまり、自分の「身体」は、あくまで自分の「像(イメージ)」の中にしかないというのが氏の見解です。

 かくして、「わたし」は身体との間できわめて曖昧で不確かな関係しか結べない。人は、他者を鏡にして自分を見ることで自分の想像にたしかな「わたし」を成立させるようと努力する。しかし、「わたし」が「わたし」であることの絶対的な根拠がないことは私自身がわかっており、そこへの不安が「わたし」の脆さとなるということです。

 さて、話は逸れましたが、そんな氏の功績として特筆すべきなのが、今回の受賞の対象となった「折々の言葉」(朝日新聞)と言えるでしょう。

 「折々のことば」は、朝日新聞の2015年4月から始まった朝日新聞朝刊1面の左下の方に、(あくまで)さりげなく、(本当に)控えめに掲載されている300字に満たない小さなコラムです。古来の金言からツイッターのつぶやきに至るまで、鷲田氏が様々なさまざまなジャンルの文章や発言の中から心に響くことばを選び、それをきっかけにめぐらせた思索を綴っています。

 過去のチョイスは朝日新聞のホームページに掲載されているのでそこに委ねるとして、私の印象に強く残っているのは、2020年6月12に氏が選んだフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉です。

 それは、「死の意識とは、死の日付を本質的に知らないままに、死を絶えず繰り延べる意識である」(『全体性と無限』(熊野純彦訳))というもの。なかなか難解な表現ですが、自分なりに解釈すれば、「死ぬということは、死んでみないと分からない。死は、その日付を毎日繰り延べていくという作業を通して、その存在が自覚化されている」…といったところでしょうか。

 一方、鷲田氏はこの日のコラムで(この言葉に続けて)このように綴っています。「犬が逝った。彼女はやがて身に起こる自体がどのようなものか知らないまま、従順に死の訪れに吞み込まれたように見えた。人は死を、いつか身に降りかかるものとして意識する。そういう形で、不在の未来を現在の内に組み入れ、死をまだないものとし「遅らせる」ことで、時間という次元を開くのだと、20世紀のフランスの哲学者は言う。」

 人間にとっての「時間」とは、また「生きている」とは、結局、まだ見ぬ死を「繰り延べる」という作業を通して自覚される。その先に「死」がなければ「生」もまたないということであり、希望や不安といった感覚も、その過程に生じたちょっとした泡のようようなものに過ぎないのかもしれません。

 死というものを、自分という存在の先に見るのは人間だけ。そう思えば、死を意識しない老犬の日々は、きっと安らかなもののだろうなと改めて感じるところです。


#2730 ノリでやってきたツケ

2025年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム

 世の中がバブル経済に浮かれた1980年代後半から90年代中盤にかけての時代。日本のテレビ界で圧倒的な強さを誇ったのはフジテレビでした。(若い人の中には信じられないかもしれませんが)なにしろ当時のフジは、12年間に渡って年間視聴率三冠王者に君臨し続けた絶対王者的存在だったのです。

 そんなフジテレビが、建築家・丹下健三氏の手によるお台場の新社屋に移転したのは1997年のこと。私もちょうどその時期、3年間ほどテレビというメディアに大きくかかわる仕事をしていたので、街開きが済んだばかりのお台場の近未来的なあの建物にも、しばしば足を運びました。

 例えば、バラエティの世界では、『ザ・マンザイ』から『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも』に至るまで、漫才ブームを引っ張ったのが(ほかでもない)フジテレビ。その後は、『オールナイト・フジ』『夕焼けニャンニャン』『料理の鉄人』『SMAP SMAP』と、次々と高視聴率の番組を繰り出します。

 一方、一世を風靡したトレンディドラマの世界でも、フジは頭二つ分ほど抜け出していました。今でも再放送が人気を博す1991年の『東京ラブストーリー』や『1回目のプロポーズ』、1993年の『ひとつ屋根の下』、『あすなろ白書』などを懐かしむ人は多いでしょう。そして90年代後半に入っても、フジは『古畑任三郎』『ロング・バケーション』『踊る大捜査線』など、立て続けに大ヒットを飛ばします。

 確かに私の記憶でも、他の在京キー局と比べ、お台場の社風は明るく自由な感じ。「楽しくなければテレビじゃない」とのスローガンのもと、若い社員たちが「お台場文化」と呼べるような軽いノリで、思い付きのアイディアを次々と実現していく姿を、私も羨ましく眺めていました。

 そして、それから30年。自由な社風の中でエンターテイメントを追い求めていたフジテレビは、どこで変わってしまったのか。1月30日の日本経済新聞に、(おそらくは私と同世代であろう)同紙編集委員の石鍋仁美氏が、『フジテレビの「内輪ノリ」 栄光と落とし穴は背中合わせ』と題する論考記事を寄稿していたので、概要を小欄に残しておきたいと思います。

 「内輪ノリ」とは、仲間内の信頼や感性を優先し、周囲や世間にも押し通すこと。業績不振や同族経営からの「クーデター」で若手社員の登用が進んだフジテレビは、この「内輪主義」を武器に一世を風靡した。しかしその文化が経営にも持ち込まれた結果、視聴率の低迷と会社を揺るがす危機を招いていると石川氏は(フジの)現状を説明しています。

 中居正広氏と女性の間のトラブルは、結果としてFMH(フジ・メディアホールディングス)の傘下で放送事業を担当するフジテレビジョンの会長と社長の辞任につながった。1月27日の会見では、トラブルの背景にはフジの企業風土があるのではないかとの質問に対し、金光会長は「自由、進取の気質、人情味」という良さを挙げたうえで、「自由だからといって、今は何でもいい時代ではない」と語ったということです。この発言を受け、同じくかつてバラエティ部門で数々のヒット番組を手がけ、同日付で社長を辞任した港浩一氏も、「昔のやり方を引きずってしまっているのかな」と答弁をしていました。

 かつて、若手社員が自由に企画を立て、時代に合わせるのではなく時代をけん引したフジテレビ。なぜ時代の流れを感知できなくなったのか。

 1980年前後に、同族経営の2代目が指揮し、「楽しくなければテレビじゃない」を合言葉に「楽しさ」路線にかじを切ったフジテレビは、大胆な人事異動を通じて現場への権限委譲を進めたと石川氏はしています。

 同時に、女性アナウンサーを「女子アナ」としてアイドルタレントのように売り出し、ディレクターらが芸能人にまじりバラエティー番組に出演するなど、業界自体のエンターテイメント化を進めた。これには賛否両論あったが、好意的に見ればこれは「25歳定年」で男性の補佐役だった女性社員を新たな主役にすえたり、日の当たりにくい裏方たちを表舞台に出したりする挑戦であり、「内輪ノリ」の真骨頂といえるというのが氏の認識です。

 さて、90年代に入り、同族からの3人目のトップをクーデターで事実上追放したのが現在の経営陣。主導者の一人が今はFMHとフジテレビの両社で取締役相談役を務める日枝久氏だが、その後、ライブドアによる買収騒動を経て東日本大震災のあった2011年ごろから「楽しさ」路線のヒットが出にくくなる。そして今回はガバナンス不全も露呈したと石川氏は話しています。

 FMHの2025年3月期の上半期決算をみると、売上高構成比22%の不動産事業(オフィスビル、ホテル、水族館など)が、営業利益の66%を稼いでいることがわかる。売上高では75%を占めるメディア事業(テレビ、有料配信、イベントなど)は営業利益では32%しか貢献しておらず、今回のCM停止で下半期のメディア事業はさらに厳しくなるだろうと石川氏は予想しています。

 人権への関心が事業領域を問わず強まり、芸能を含むコンテンツ産業の位置づけも変わる中、これは一般的な上場企業であれば、株主から「祖業であっても利益の低い事業は売却しろ」と要望が出てもおかしくない状況とのこと。

 日本のコンテンツの魅力に海外勢が気づき、日本の政府も基幹産業として本格的に育てようとしているさ中、投資、政治、社会などさまざまな面から、かつてのような「特殊なギョーカイ」「はぐれものの集まり」という無頼ぶりは(もはや)許されなくなっているというのが氏の指摘するところです。

 時代の変化を機敏に察知し変身していくには、若手への権限委譲、参加者の多様性、内と外や社員同士の風通しの良さ、安心して物が言える雰囲気が必要不可欠となる。それはかつてのフジテレビ自身が証明していることであり、そのために現在の経営陣やグループ上層部は何をすべきか。若いころの経験を顧みれば、答えは明らかだというのが氏の見解です。

 結局のところ、「出直し」という新しい船に乗るのは、もはや古い水夫ではないということなのでしょう。「とんねるず」や「ビートたけし」の笑いやノリは、もはや今の若者たちには通じない。今回の不祥事によって(一時はフジの屋台骨を担っていた)「SMAP」まで完全に終止符を打つ中、メディア全体が世代交代し、新しい理念と姿を纏う必要があるのだろうなと私も改めて感じた次第です。


#2728 奪われた声を取り戻す

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 1月23日、アメリカ映画界で最高の栄誉とされるアカデミー賞の各賞の候補が発表され、ジャーナリストの伊藤詩織氏が監督を務めた「Black Box Diaries」が長編ドキュメンタリー賞の候補になったとの報道がありました。

 同作品は、伊藤氏がテレビ局の元記者に性的暴行を受けたとして訴えた民事裁判について(伊藤氏みずからが)関係者に取材を重ね、真相に迫る中で日本の司法制度のあり方を問う長編ドキュメンタリー。ノミネートの報に接した伊藤監督は、「性暴力のサバイバーとして、また、権力によって沈黙を強いられているすべての人に希望をもたらすものとして受け止める」とし、「声を奪われてきた人々、そして今もなお声を上げ続けている世界中のすべての方々に、この瞬間を捧げます」とコメントしています。

 「声を奪われてきた人々の声を取り戻す」…(確かに)そもそもメディアとは、そういう大きな使命を担う存在であるはずです。今回の映像化に関しても様々な困難があったようですが、たった一人で「世の中」に立ち向かった伊藤氏の勇気が、世界中の人々の心を動かしたということでしょう。

 そうした中、やはり意識せざるを得ないのは、(先日の)長時間にわたったフジテレビの記者会見の様子です。テレビの画面に延々と流れる会見の映像。質問する側、される側も含め、そこに(ある意味「情けない」)姿をさらしたメディアに携わる人たちは、(胸を張るために)これから一体何をすべきなのか。

 1月28日の情報サイト「Newsweek日本版」に、フリーライターの西谷 格(にしたに・ただす)氏が『中居正広は何をしたのか?真相を知るためにできる唯一の方法』と題する論考を寄せているので、(参考までに)指摘の概要を残しておきたいと思います。

 「やり直し」で注目されたフジテレビの記者会見で、幹部たちは「中居正広は何をしたのか」という核心部分への明言を、女性の保護、被害者のプライバシー、守秘義務を理由に意図的に避けた。そんな会見を見ていて分かったのは、「加害者は被害者を利用する」ということだと西谷氏はこの論考の冒頭に記しています。

 それは「プライバシーの悪用」と言ってもいい。被害者のプライバシーを盾として使い、自己保身に走る。中居正広もフジテレビ幹部も、その点は完全に同じだったというのが氏の認識です。

 中居正広は被害者に何をしたのか。幹部たちは最後まで明言を避けたが、全体的な文脈から考えて、被害者視点では性加害があったと考えるよりほかない。もちろん、性加害があったかどうかは現時点で断定はできないが、疑惑であることすら明言を避ければ、結局は中居正広の「罪」を覆い隠し、利することになってしまうということです。

 では、どうしたら良いのか。今、私たちがすべきなのは、(まずは)被害に遭った本人に声を取り戻してもらうこと。言い換えれば、自由に発言できる状態になってもらうことだと氏は話しています。

 被害女性はこれまでも週刊誌の取材に応じているが、中居正広が何をしたかという核心部分には一切触れていない。双方の交わした示談書のなかに口外禁止条項が盛り込まれているからだろうが、中居正広もまた、これを盾に一切の説明責任を放棄し、公の前から逃げてしまっているというのが氏の見解です。

 もしも、ここで中居正広が何をしたかについて被害女性が声を上げれば、示談書に規定された守秘義務違反に当たるだろう。そうなれば、中居正広は被害女性に対し損害賠償を求めるかもしれないし、訴訟になれば、裁判所も一定金額の損害賠償を認めざるを得ないだろうということです。

 しかし、それが何だというのか。中居正広が被害女性に賠償金を要求するのであれば、フジテレビこそ(それができなければメディアにかかわる人全体で)肩代わりすべきではないかと、西谷氏はここで厳しく指摘しています。

 性被害に遭った人が「匿名」を求めるのは当たり前のこと。残念ながら、現在の日本社会は被害者に対する差別が横行している。ネット世界は言うまでもないが、(特に性被害などでは)現実社会でも被害者は色眼鏡で見られ、生活にさまざまな不都合が生じてしまうというと氏は言います。

 理想を言えば、世の中は性被害にあった人間が実名で被害を公表しても、何一つ不利益を受けることのないものであるべきだし、勇気のある人間しか被害を言い出せない今の世の中自体がおかしいのは当然のこと。

 しかし、現実社会では、被害者は匿名でなくてはさまざまな差別や誹謗中傷を受けることになり、不利益が生まれる。悲しいことではあるが、被害者の匿名性を守ることは絶対に必要だというのが氏の感覚です。

 そうした中、現実的には中居正広が損害賠償まで請求するとは考えにくいが、(それでも)「身銭を切ってでもあなたを守る」という世論や具体的な動きが背景にあるだけで、彼女の精神的負担はかなり軽くなるだろうと氏は話しています。

 (少なくとも)「匿名であれば自分の受けた被害を語ってもいい」と考える人は、少なからず存在する。実際、新聞テレビなどでも匿名であれば報道されるケースが多いということのが氏の見解です。

 そこで今回の事案について。被害女性が「私は匿名であっても、何をされたか言いたくない。世の中の人に何も知って欲しくない」と望むのであれば、私たちは真相を知ることをあきらめなくてはいけない。だが、「匿名性が担保されるなら、中居正広が私に何をしたのか知って欲しい」と少しでも思うのであれば、その声を聞かなくてはいけない。(少なくとも)被害者の発言権を取り返さなくてはいけないと氏は指摘しています。

 中居正広は「国民的アイドル」という権力者にほかならない。そしてその中居正広が、金の力に物を言わせて被害女性の口を塞いだというのは、既に事実として公表されている事実だと氏はしています。そもそも示談に応じなければ良かったと言う人もいるかもしれない。しかし、心身に傷を負いながら権力者にたった1人で立ち向かうことは、とてつもない困難だったに違いないということです。

 そこで私(←西谷氏)が言いたいのは、「被害者が声を上げる自由を奪うな」ということ。中居正広が被害女性に対してかけた呪い、すなわち口外禁止条項が枷になってはいけないと氏は話しています。このままでは、中居正広が何をしたのかは当事者にしかわからない。「示談書で約束したので言えません。本当は言いたいけど、言えません」ということは、あってはならないということです。

 当初、権力や組織の理不尽な仕打ちに声を上げようとした人が、(最後は)力によって黙らされた…ここまで社会に広がった(ある意味「ポリティカル」な)問題を、こんな形で終わらせて本当に良いものか。

 状況は異なるにせよ、力の前で、同じような困難に追い込まれている弱者はほかにもたくさんいることでしょう。今回の問題に関しては、今後、第三者委員会によって色々なことが明らかになるよう願うばかりだが、(そのためには)まず、中居正広がかけた呪いを解かなくてはいけないとこの論考を結ぶ西谷氏の指摘を、私も重く受け止めたところです。


#2726 The personal is political

2025年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

 なんだかんだ言っても「社会経済研究所」を標榜する以上、現代社会を象徴するようなこの会見に触れておかないわけにもいきません。

 1月27日、引退を表明した元SMAPの中居正広さんと女性のトラブルに局員が関与していたと報じられた問題で、フジテレビは東京・台場の本社において、港浩一社長らによる「やり直し会見」を行いました。

 敢えて制限時間を設けなかった会見は(実際)8時間を超える長時間に及び、日付が28日に突入しても終わらなかった由。X(ツイッター)上では「オールナイト・フジ」がトレンド入りしたほか、「実録27時間テレビ」「月曜日から夜ふかし」「フジテレビで朝まで生テレビ」「生でダラダラ記者会見」など、まるで「大喜利」のような状態になったということです。

 共同通信の報道から経過を追うと、会見の冒頭でフジ・メディア・ホールディングス会長の嘉納修治氏とフジテレビ社長の港浩一氏が引責辞任を表明。「対応に至らないところがあった」と述べるなど会見は謝罪や反省の弁に染まったが、同社で大きな影響力を持つフジサンケイグループ代表の日枝久氏の責任について言葉を濁したことで、参加者からは厳しい声が続出したとされています。

 今回の会見には、外国メディアやフリー記者を含め約430人が参加。前回会見の反省から時間制限が設けられなかったため、混乱や長期戦は免れない様相に。5時間を超えたところで、男性記者が中居さんと女性とのトラブルの事実関係について30分以上、仁王立ちして質問した際には、怒号が飛び交う展開もあったということです。

 中には、フジテレビの自局や系列局の記者からの質問もあり、情報の隠蔽や局員の関与についての厳しいやり取りがあった由。ネット上では、「すごい核心ついてる」「大した覚悟」「フジ記者、がんばれ!」などの盛り上がりを見せたとの報道もありました。

 私自身はこの問題自体にさほどの驚きや興味はありませんが、「テレビ局」や「芸能界」といった閉鎖された特別の空間(社会)の中に、権力の専横を許す、そして女性の人権を軽視するような空気が(濃厚に)あったのはおそらく事実なのでしょう。

 権力の乱用を正し、弱い立場の人々の権利擁護を旨とする報道機関としての立ち位置を慮れば、今回のフジテレビの対応が批判されてもやむ無しとは思いますが、(個人的には)「女性のプライバシー」を盾に事件の経緯や問題の所在を明らかにする姿勢を見せない局側と、感情に任せるばかりで本質に迫ることのできない質問者のダラダラとしたやり取りに、「これ以上付き合いきれないな」とパソコンの電源を落としたのも事実です。

 後の報道(毎日新聞1/28)によれば、会見の模様をリアルタイムで見守る視聴者も多かった由。SNS上では局側の姿勢に疑問を抱く声がある一方で、「腹は立つけど、記者がキレるのは違うでしょ」「(回答の内容より)記者の質が気になる」「一部民意がややフジに同情した感ある」と報道陣の姿勢を批判する声も多く見られたとされ、不用意な発言や訂正の連発に加え、紛糾した場を収拾させることもできない時間無制限のサバイバルレースに、「残ったのはただ疲労感だけ」と感じた人も多かったようです。

 28日の「日刊スポーツ」紙によれば、国際政治学者の三浦瑠麗氏は27日にX(旧ツイッター)を更新。「当事者女性から聞いた話をアウティングする許可を得ていない経営陣に対して、吐け、吐けと責めるショーに見えてしまうけれど、その結果フジテレビに同情が集まってもいい、というのが質問者の判断なのだろうか」と言及したとされています。

 確かに、記者たちの「やった感」の醸成や「疲労待ち」が(会見を設定した)局側の目論見であれば、時間制限を設けず参加メディアも限定しないまま、不明瞭な質問や無駄に長い質問も受け、怒号すら放置するという手法自体は間違っていなかったのかもしれません。

 正に、(今流行りの)パーソナル・イズ・ポリティカル。質問者もメディアの一員であるのなら、自らも属する集団の倫理観が(決して)健全とは言えないことをわかっていないはずはないというもの。誰もが片棒を担いでいる…そうした現実にほっかむりをしたまま、正義漢の仮面をかぶり安全な場所からただフジの経営陣だけを問い詰めても、問題の本質に迫ることができようはずがありません。

 それにしても、どちらがキツネでどちらがタヌキやら。(少なくとも)やたら「正義」を振りかざし、感情に任せて警察官の取り調べのように振舞う質問者と、もぞもぞごそごそと(彼らから)時間と元気を奪うことに成功した局側のやり取りに、辟易としたのは私だけだった訳ではなかったようです。


#2718 「ふてほど」から抜け落ちた平成

2025年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 年末に発表された恒例の「ユーキャン新語・流行語大賞」の年間大賞は、「ふてほど」であった由。「ふてほど」とは、(ご存じのとおり)昨年大ヒットしたTBS金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』の略称とのことですが、ネット上では「これって流行語なの?」と違和感を指摘する声もちらほら上がっているようです。

 世間で話題となった「ふてほど」は、昭和時代(1986年、安定成長期)からコンプライアンスが厳しい令和時代(2024年、低成長期)にタイムスリップした(阿部サダヲ演じる)主人公の体育教師が、人々の意識の変化の中で様々な問題を引き起こす物語。コンプライアンスという言葉すらなかった昭和の時代へのノスタルジーとともに、現代とのギャップをあっけらかんと描き話題をさらったところです。

 そういう私も毎週(結構楽しみに)見ていた口ですが、その時に思ったのは、確かに「時代の空気感」は(この平成の30年間で)ずいぶん変わったんだなということ。ほとんど忘れてしまっていたし、あまり比較してみたことがなかったこともあって、劇中に描かれる時代のディテールを(それなりに)新鮮に受け止めていた次第です。

 さてさて、このドラマで描かれなかった(自分でも経験してきたはずの)この「失われた」平成の30年の間に、日本の社会では一体何が起こっていたのか。12月5日の経済情報サイト「東洋経済ONLINE」に作家で評論家の真鍋 厚(まなべ・あつし)氏が、『流行ってないうえに、世相を全く反映していない…「ふてほど」の流行語大賞になんとも納得できない“本質的な理由”』と題する一文を寄せているので、参考までにその主張の一部を残しておきたいと思います。

 1980年代以降の日本では、「失われた30年」の間に格差社会化と、他者との接点を示すソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の空洞化が進んだ。雇用状況の悪化と非正規労働者の増加によって経済的格差が拡大し、人々の生活、意識、そして心身の健康などにおいても階級間の格差がきわだったと真鍋氏はこの論考に綴っています。

 つまり(端的に言えば)『ふてほど』が舞台となった1986年という昭和の末期を最後に、日本社会は下り坂に入っていったということ。そして、そのような社会経済的な動きと並行して、個人は複合的なカオスに直面することになったというのが氏の認識です。

 氏によれば、社会学者のジョック・ヤングは、「社会秩序」を構成する2つの基本的な部分として、①業績に応じて報酬が配分されるという原則、②能力主義的な考え方である「分配的正義」と、アイデンティティと社会的価値を保持している感覚が「他者に尊重される」という「承認の正義」…の二つを挙げているとのこと。

 しかし、(現代社会においては)この二つの領域にはいずれも「偶然だという感覚」、つまり報酬のカオスとアイデンティティのカオスが伴っており、①労働市場の破綻や各産業部門での働き方が運次第になっていること、加えて②不動産市場や金融のような業績とは無関係に得られる報酬等々が「業績の尺度ではなく気まぐれに配分されている」…という感覚をもたらしているということです。

 そのような感覚をベースに、(日本人の間には)黄金期の特徴だった標準的キャリアのようなわかりやすい比較参照点がなくなっていき、互いに嫉妬しあう個人主義が克進。結果、足の引っぱりあいが激化する相対的剥奪感が生まれていると氏は指摘しています。

 昭和期のような、年功序列による護送船団方式は既に消え失せてしまった。そうした中で、公正な分配が期待される能力主義を叩き込まれてきた人々は、「でたらめな報酬」が飛び交う状況に戸惑いながら、自分もあやかりたいと願っているということです。

 思えば「上級国民」というネットスラングは、一般国民の窮状を顧みず、特定の組織やエリート層が権力を私物化し、特権や利益などに与ることへの怒りがパワーワードとして結晶化したものだと氏は指摘しています。自分とは違う「クラス」が存在することへの信憑。その深層には、可燃性ガスのような不公平感が充満していたということです。

 そして、2つ目。「アイデンティティのカオス」は、「承認、つまり価値や居場所が与えられているという感覚の領域」の動揺だと氏は説明しています。

 常に多様なリスクに対応するための(一定の間合いを取った)付き合い方は、一方で「愛情」や「ケア」といった人間性を養うのに必要な長期的な人間関係を築きにくくする。職場でも家庭でも個人のライフスタイルに断絶が広がり、ある組織や場所に紐づいているという感覚が薄まって、承認を得ることが困難になっているというのが氏の見解です。

 これらは、いわば平成期に産声を上げた「平成的なカオス」といえる。「昭和的なコスモス」を食い破る形で登場し、実に多くの人々を地獄に引きずり込み、そのカオスは令和になってますます大きくなっているということです。

 そして、これら昭和と令和に挟まった平成が、「ふてほど」からショートカットされていることはもっと注目されて然るべきだと、氏はこの論考の最後に記しています。

 物価高、増税、国民負担率の上昇と暗い話題が続くこの令和の時代において、マスメディアが創造した一つのフィクションとして「昭和と令和のいいとこ取り」のファンタジーを拝借した「ふてほど」。翻って、流行語大賞に「ふてほど」を選ばざるを得ない時代とは、「失われた30年」とその悲惨な現実を「粉飾」したくなるほどに深刻な様相を呈している時代だというのが氏の指摘するところです。

 氏によれば、その根底にあるのは、SNSに代表される人々の関心の分断と国民国家の衰退があるとのこと。果たしてそのような粉飾は一周回って適切なのかどうか…(こんな時代であればこそ)今一度しっかりと問うてみる必要があると話す真鍋氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2710 平等幻想がもたらす残念さ

2025年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

 将棋棋士の羽生善治氏は著書『決断力』に、「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続してやるのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている」と記しています。

 「頑張れば何とかなる」と思ってやってきたのに、発射台の違いは如何ともしがたい。「親ガチャ」という言葉があるけれど、気が付けば先行者との差は開くばかりで、追いつく気力もなくなりそうだという若者の声も聞こえてくるところ。それでもモチベーションを維持していけるかが勝負だと言えるのは、やはり若くして七冠を独占した羽生善治氏が稀代の天才だからなのでしょう。

 そう言えば、「お笑い怪獣」の異名をとるタレントの明石家さんま師匠は、10年ほど前のラジオ番組(MBSラジオ「ヤングタウン土曜日」)で、「努力が報われるなんて絶対に思っちゃいけない」と語っているということです。(『明石家さんま「努力報われると思うな」発言の深さ』2024.5.30 東洋経済ONLINE)

 番組中、ゲストのアイドルが「努力をしていれば必ず誰かが見てくれていて、報われることがわかりました」と発言すると、「それは早くやめたほうがええね。この考え方は…」とバッサリ。その理由について師匠は、「こんだけ努力してるのに何でっ?てなると腹が立つやろ。人は見返り求めるとろくなことないからね。見返りなしでできる人が一番素敵な人やね」と諭したということです。

 もともと期待するから裏切られる。最初からそんなことを気にせず、ただ目の前のことに尽くせる人こそが真の「天才」だということでしょうか。(まあ、どちらにしても)不平・不満ばかりを口にする人が「カッコ悪い」のは誰もが認めるところ。短い人生、少しはカッコよく生きたいと強がってみるのも悪くはないかもしれません。

 そんな(なかなか思い通りにならない)人生を、心穏やかに過ごすにはどうしたら良いのか。11月8日のビジネス情報サイト「現代ビジネス」に、精神科医で作家の片田珠美氏が『「自分はこんなに優秀なのに…」日本社会で根強い「平等幻想」が生み出す「大きな不満」』と題する一文を寄せていたので、参考までにその指摘の一部を残しておきたいと思います。

 戦後の驚異的な経済成長により、たとえ一時的であっても「一億総中流社会」を実現したこの日本で浸透した、「平等幻想」というファンタジー。しかし、その後格差が拡大するにつれこの幻想を持ち続けるのはきわめて困難になり、現在ではもはや風前の灯といっても過言ではないと片田氏はこの論考に綴っています。

 一方、皮肉なことに、戦後の民主教育によって「みんな平等」と教え込まれ平等幻想が浸透したからこそ、(その後遺症として)ちょっとした差に敏感になったという側面も否定できない。「みんな平等」という考え方が浸透するほど、「同じ人間なのに、なぜこんなに違うのか」という思いにさいなまれ、歯ぎしりせずにはいられなくなる。「あいつはあんなに恵まれているのに、なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのか」と怒りを覚えることもあるはずだということです。

 歯ぎしりも、怒りも、「みんな平等」という考え方が浸透し、他人と自分の間に残る違いにより敏感になったことによって一層激しくなった。江戸時代のように歴然たる身分の差があった時代なら、違いがあってもそれほど気にならなかった。いや、より正確には、あきらめるしかなく、気にしてもいられなかったろうと氏は言います。

 ところが、世の中に平等思想が浸透すればするほど、ちょっとした違いにも敏感になる。もともと別の世界の「違う人間」だと思えば違いがあっても腹が立たないのに、現代の我々は「同じ人間」だと刷り込まれているので、少しでも違いがあると許せないということです。

 特に、かつて「一億総中流社会」を築き上げた日本では、その頃に浸透した「みんな平等」という意識がいまだに根強く残っている。もちろん、それ自体は悪いことではないが、(現在のように)「みんな平等」とはいえない現実を思い知らされる機会が増えれば増える程、「平等なはずなのに、なぜこんなに違うのか」と不満を抱かずにはいられなくなると氏はしています。

 こうした不満は、羨望を生み出しやすい。だから、羨望で胸がヒリヒリするような思いをしながら、羨望の対象が転げ落ちるのを今か今かと待ち構えるようになる。ところが、現実はなかなかそうならないのでしびれを切らし、羨望の対象を少しでも不幸にするために不和の種をまいたり、根も葉もない噂を流したりする人も出てくるということです。

 とりわけ、自身を過大評価していて、「自分はこんなに優秀なのに、能力を正当に評価してもらえない」「自分はこんなに頑張っているのに努力を認めてもらえない」など、承認欲求をこじらせている人ほど「なぜこんなに違うのか」と不満を募らせやすいと氏は指摘しています。

 羨望の対象が周囲から認められ高く評価されているのは、元々の能力に加えて本人の努力のたまものだったとしても、そういうことは彼らの目には入らない。結果として、「努力しても報われない」「頑張ってもはい上がれない」などと思い込み、地道な努力をコツコツと積み重ねようとはしなくなるということです。

 さて、野球の大谷翔平選手だってパリで活躍したオリンピアンたちだって、その技術は日ごろの血の滲むようなトレーニングに裏打ちされたもの。闇バイトで一攫千金を狙うような感覚では、光る成果が得られないのは言うまでもありません。

 努力もせず不平ばかり漏らしていても、承認欲求が満たされるわけがない。だから、ますます腐ってしまうと氏は言います。そうなると、陰で他人の足を引っ張るようなふるまいを繰り返すわけで、こうした悪循環に陥ったらなかなか抜け出せるものではないと話す氏の言葉に、私も改めて自らを省みたところです。


#2694 秋篠宮家の「ご難場」

2024年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 11月に行われた記者会見で、安定的な皇位継承のあり方について問われた秋篠宮皇嗣殿下が、「皇族は生身の人間」と述べ、宮内庁は影響を受ける皇族の考えを理解する必要があると指摘したことがネット上で話題を呼びました。

 殿下の指摘は、(ご本人のお言葉によれば)「宮内庁の幹部は、その人たちがどういう考えを持っているかということを理解して、若しくは知っておく必要があるのではないか」というもの。つまり、(制度の問題として)勝手に議論を進めるんじゃなくて、自分たち(当事者の)の意見をしっかり聞いてほしい…ということなのでしょう。

 会見で示された殿下の御意向を受け、宮内庁の西村泰彦長官は12月12日の定例記者会見で、「まさにそのとおりで、十分お話を伺う機会はなかったと反省している」と述べたと伝えられています。

 まあ、部外者から見れば、記者会見で世論に訴えたりせず(長官に)直接言えばいいのに…と思わないでもないですが、既に宮内庁と秋篠宮家の間には、そうした話ができないような関係が出来上がっている(つまり、信頼関係が失われている)ということなのかもしれません。

 御長女眞子さまの結婚に関するトラブル以降、その公務の在り方や宮内庁との関係、さらには家族のつながりや子供の教育に至るまで、世間の注目を浴び「ご難場」が続く秋篠宮家。一部週刊誌による煽りなどを受けて、SNS上に「バッシング」とも見える厳しい投稿が続いているのも気になるところです。

 禍中の秋篠宮妃紀子さまは11月11日の誕生日に当たり、ネット上の批判について「こうした状況に直面したときには、心穏やかに過ごすことが難しく、思い悩むことがある」とのコメントを残されています。しかし、こうしたリアクションが(また)火に油を注いでいる可能性すらあるとのこと。

 まあ、(まさしく)平等日本唯一の特権階級に対する庶民の「やっかみ」…と言ってしまえばそれまででしょうが、ここまで悪役扱いされるのは宮様だって心外なことでしょう。事ここに至るまでの経緯を振り返ってみると、「宮内庁はもう少しやり方があっただろうに…」と思わないでもありません。

 そんな折、昨今の秋篠宮家の世論に対する姿勢について、12月7日の経済情報サイト「現代ビジネス」に、『国民に対して“ファイティングポーズ”をとってしまった「秋篠宮さま発言」』と題する論考記事が掲載されていたので、参考までに一部を小欄に残しておきたいと思います。

 秋篠宮皇嗣殿下がこれまで以上の逆風に晒されていると、記事はその冒頭に記しています。

 11月30日の59回目のお誕生日に行われた記者会見場で、記者から「秋篠宮家へのバッシングとも取れる情報についての受け止め」を問われた秋篠宮さまは、「当事者的に見るとバッシング情報というよりも、いじめ的情報と感じる」と発言されたとのこと。

 長男・悠仁さまの進学に対して反対署名が1万筆以上集まるなど、秋篠宮家に対する国民感情が悪化する中、(6月ごろに発覚した)次女・佳子さまの“独居騒動”も追い打ちをかけているということです。

 小室夫妻の結婚問題、悠仁さまのお受験、佳子さまの独居騒動、そして秋篠宮邸にかかった莫大な工費…これらの秋篠宮家に関するニュースがネット上にアップされるたびに、記事のコメント欄はバッシングとも取れるコメントで溢れたと記事はしています。

 誕生日の会見での発言は、その厳しい現状や、体調が万全ではない紀子さまを思い、皇嗣殿下としては抑止力につながることを願ってのことだったのだろう。しかし、今回の件は「完全に悪手だった」と、宮内庁関係者はうなだれているということです。

 殿下のお気持ちは痛いほどわかる。しかし、ネット上でバッシング的なコメント、(つまり)殿下で言うところの「いじめ的情報」を発したネットユーザーも“日本国民”であることに間違いないというのが記事の指摘するところ。つまり、秋篠宮さまは国民に対して“ファイティングポーズ”をとってしまったというのが記事の認識です。

 そもそも皇室とは国民の中に入っていくもの、ともに歩んでいくもの、国民あっての皇室。これは国民の税金で成り立っていることからも明らかだと記事は言います。皇室の方々は、日本国民の安寧と幸せを願う立場であり、ましてや皇位継承順位1位の「皇嗣」秋篠宮さまが国民に対して“攻撃的な言葉を発した”とすれば、皇室に対する国民の意識にも大きな影響があるだろうということです。

 ネット上に様々な情報が飛び交い、何よりも個性や多様性に価値が置かれるこの時代、全ての国民の「象徴」であり続けるというのは(かように)難しいことなのでしょう。自分たちがスポンサーでありカスタマーだと思えば、国民は言いたい放題。一方、(本人が望んだわけでもないのに)国民のサーバント(奉仕者)として宿命づけられた宮家の人々には、「私達だって人間だ」と叫ぶ権利も認められていないということでしょうか。

 ともあれ、いったんファイティングポーズをとってしまえば、相手もまた身構えるもの。自分たちとは違う(相いれない)相手として、国民から覚めた目で見られてしまっても仕方のないことかもしれません。宮内庁には(これ以上宮家に敵を増やさぬよう)、皇室をめぐる物語のきちんとした管理をお願いしたいものだと、記事の指摘を読んで私も改めて感じたところです。


#2685 最期くらいは静かに逝きたい

2024年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 9月15日は「敬老の日」。高齢化が一気に進んでいるこの日本では高齢者は(ともすれば)「社会のお荷物」のように言われがちですが、せめて1年に一日くらいは、子供や孫から敬われたりしたいものです。

 そのためにも必要なのは、なるべく現役世代に迷惑をかけずに健康に生きていくこと。「ピンピンコロリ」などという言葉もあるように、死ぬ直前まで元気で過ごし、病気で苦しんだり介護を受けたりすることがないまま、寿を全うできればそれに越したことはありません。

 それでは、今のお年寄りたちは一体何歳ぐらいまで、日常生活に制限のない状態で生活できているのか。その目安となる「健康寿命」(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)を見てみると、直近の2019年時点で男性が72.68歳、女性が75.38歳。日本人の2020年の平均寿命が男性が81.64歳、女性が87.74歳なので、健康寿命と平均寿命との間には、男性で約9年、女性で約12年の差があることがわかります。

 この差は、病気などを抱える(いわば)「不健康期間」と解釈でき、要介護になったり、寝たきりになったりしながら命をつないで生きている期間が10年近くあるのが、平均的な日本人の「死に様」ということになるのかもしれません。

 それでも、だれもが死ぬ時くらいは人生に満足を感じながら、苦しむことなく安らかな心持ちで最期を迎えたいと願うもの。人工呼吸器や透析器のチューブに繋がれ辛く苦しい思いをしながら、それでも長生きしたいと思う人はそんなに多くはないことでしょう。

 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるか。9月17日の総合情報サイト「現代ビジネス」が、医師で作家の久坂部羊氏による『せっかく穏やかな「死」を迎えた78歳女性を、わざわざ「蘇生」させるために行われた「非人間的な医療行為」』と題する論考を掲載しているので、参考までにその一部を残しておきたいと思います。

 日本では「死に目に会う」ことを、欠くべからざる重大事と受け止めている人が多い。特に親の死に目に会うのは子として当然の義務、最後の親孝行のように言われたりもするが、(感情論はともかく)その実態はどのようなものかと、氏は医師として紹介しています。

 深夜、心肺停止でだれにも看取られずに亡くなりかけていた高齢の親を見事に蘇生させ、家族が死に目に会うことを実現させてくれたと(当直医氏の対応を)感謝する遺族は多い。たしかに家族は喜んだかもしれない。しかし、亡くなった患者本人はいったいどのような心境だったろうと、氏はその冒頭に綴っています。

 心肺停止の蘇生処置がどういうものか具体的に知らない人が多いので、こうした話は美談のように受け取られがち。しかし、医療の実態を知る身としては、なんという無茶なことをと呆れるほかないというのが氏がこの論考で指摘するところです。

 蘇生処置とはどのようなものか。まず、人工呼吸のための気管内挿管は、喉頭鏡というステンレスの付きの器具を口に突っ込み、舌をどけ、喉頭を持ち上げて、口から人差し指ほどのチューブを気管に挿入するもの。意識がない状態でも、反射でむせるうえ、喉頭を持ち上げる際に前歯がてこの支点になって折れることもままあると氏は言います。

 そのあとのカウンターショックは、裸の胸に電極を当てて、電流を流すもので、往々にして皮膚に火傷を引き起こす。心臓マッサージも、本格的にやれば、肋骨や胸骨を骨折させる危険性が高く、高齢者の場合、骨折は一本や二本ではすまないということです。

 太いチューブを差し込んで機械で息をさせ、火傷を起こし、ときには皮膚に焼け跡をつける電気ショックを与え、肋骨や胸骨がバキバキ折れる心臓マッサージをしてまで家族が死に目に会えるようにすることが、果たして人の道に沿ったものなのか。

 医師がなぜそんなことをする(場合がある)のかと言えば、言わばアリバイ作りのため。何もしないで静かに看取ると、遺族の中には「あの病院は何もしてくれなかった」とか「最後は医者に見捨てられた」などと、よからぬ噂を立てる人がいるからだと氏は説明しています。

 看護師が巡回したら、心肺停止になっていましたなどと告げれば、遺族によっては「気づいたら死んでいたというのか。病院はいったい何をやっていたんだ」と、激昂する人も出かねない。死に対して医療は無力なのに世間の人はそう思っていないので、医者はベストを尽くすフリをせざるを得ない場面も多いということです。

 それが患者さん本人にとって、どれほどのつらい思いを与えていることか。死を受け入れたくない気持ちはわかるが、何としても死に目に会うとか、最後の最後まで医療に死を押しとどめてもらおうとか思っていると、死にゆく人を穏やかに見送ることはとても難しくなると氏はしています。

 確かに以前、私の父親の入院先の病院で、夜中に(静かに)息を引き取った老親を前に、当直の若い医師に向かって「看護師は何をやっていたんだ」「病院に親を見殺しにされた」と激高している人を見たことがあります。

 親が死んで驚き、やり場のない悲しみをどこかにぶつけたい遺族の気持ちは判らないではありませんが、医師も周囲の入院患者も、そして亡くなった患者本人もそれはそれでいい迷惑。いくら怒っても生き返るわけではないのだから、「十分頑張った」と落ち着いて受けとめる胆力も時に必要なのかもしれません。

 色々あった人生も、最後くらいは静かに逝きたいもの。少なくとも自分の親族には、私に万一のことがあった場合には、静かに穏やかに逝けるよう無理せず送り出してほしいと、しっかり伝えておきたいと思った次第です。


#2668 タバコばかりを目の敵にする人

2024年11月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 煙草を吸わない人が、煙草の煙による健康被害を防止するため他者の喫煙の規制を管理者等に請求する権利を「嫌煙権」と呼んでいます。

 今ではもう当たり前すぎて「権利」とすら認識されていないこの「嫌煙権」ですが、実はその歴史はそれほど古いものではなく、1978年に発足した「嫌煙権確立を目指す人びとの会」の共同代表でコピーライターの中田みどりが提唱して広まったmade in Japanの言葉である由。1978年(昭和53)2月28日、東京に「嫌煙権確立をめざす人々の会」が、同年4月4日「嫌煙権確立をめざす法律家の会」が誕生し、日本の嫌煙権運動は初めて日の目を見たということです。

 と、いうことは、それまでの日本は、煙草はどこで吸っても自由、吸い殻をどこへ捨ててもおかまいなしの「喫煙放任社会」であったということ。確かに私の記憶でも、(バブル崩壊前のこの日本では)飲食店の店内はもちろん、電車の中、さらにはジャンボジェットの中でさえ煙草は吸い放題。職場のデスクだろうが子供の前だろうが、妊婦がいようがお構いなく、オジサンたちはプカプカと煙草の煙を吐き出していました。

 おかげで駅前の路上は吸い殻だらけ。職場のデスクは煙草の灰でベタベタで、会議室の壁はヤニでまっ茶色というのが(どこでも)当たり前の景色でした。

 それからおよそ40年。2005年にはWHOのたばこの規制に関する枠組条約が発効し、2002年には日本でも健康増進法が施行。2010年の神奈川県を皮切りに、日本の各都道府県で受動喫煙防止条例が施行されるに至っています。

 時代が変わったと言えばそれまでですが、今や喫煙者は少数派の日陰者。駅の敷地の隅っこにある喫煙所で、嫌われ者らしく背中を丸め電子タバコをスース―しているサラリーマンのお父さんたちに、日本経済を担う豪快さは(微塵も)感じられません。

 別に喫煙者を擁護するつもりもありませんが、煙草の煙の中で育った昭和生まれの世代としては、「何もそこまで嫌わなくても…」と思わないでもありませんが、時代は喫煙という習慣や行為、文化自体を許すつもりはないようです。実際、テレビなどで1980年代のトレンディドラマの再放送などを見かけると、私自身、場所やタイミングを問わない喫煙シーンの多さに強い違和感を感じたりもしているところです。

 ネットなどを覗くと、喫煙者を叩くことが「正義」とでも言いたげな極端なたばこ嫌いの論者の意見なども数多く挙げられており、これもまああんまりだなと思っていたところ、7月29日のPRESIDENT ONLINEに『バカほど「タバコは絶対ダメ」と言いたがる…本質を見抜ける人、そうでない人の決定的な差』と題する一文が掲載されていたので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。(タバコが死ぬほど嫌いな人には申し訳ありません)

 「頭がいい人」がものごとを広く俯瞰的に捉えることができるのに対して、「頭が悪い人」は一元的に捉えてしまいがち。たとえば、タバコは健康に悪いので、がんになると思えば徹底的に排除したがると、医師で作家の和田秀樹氏はその冒頭に記しています。

 日本人全員が「頭が悪い」とは思わないが、タバコと喫煙する人たちに対する厳しさは、タバコを吸わない私から見ても少し気の毒になるほどだと氏は言います。その一例が、2020年4月1日に改正健康増進法が全面施行され、世の中の多くの場所(飲食店、会社などの事務所、娯楽施設、体育施設、宿泊施設など)が原則禁煙になったこと。その後、コロナ禍を機に数少ない喫煙所もどんどん閉鎖され、もはや街中に喫煙者の居場所はなくなっているということです。

 タバコが体に害を与えることは明らかだが、受動喫煙まで極端に危険なものとして扱うというのはいささかバランスを欠いていると、氏は(医師の一人として)この論考で指摘しています。

 実際、喫煙率は以前の3分の1に下がっているのに、肺がんはむしろ増えている。かつて日本人の肺がんは、ほとんどが「扁平上皮がん」だったが、喫煙率が下がってから、およそ10~15年後に扁平上皮がんは減っているとのこと。現在は扁平上皮がんが3割ほどで、6割くらいが「腺がん」へと変化しているということです。

 両者は、顕微鏡で見たときの組織型で区別されるが、一般的に(前者の)扁平上皮がんは太い気管支に発生する、肺のなかでも入口(つまり、口や鼻)から近い部位にできるがんだと氏は説明しています。一方の腺がんの特徴は、肺の奥に発生するケースが多いこと。おそらく原因物質として、粒子の大きいものが気管支で引っかかって扁平上皮がんとなり、粒子の小さいものが肺の奥まで運ばれて腺がんを引き起こしていると考えられているということです。

 氏によれば、(前者の)扁平上皮がんの発症要因のほとんどはタバコとされているとのこと。ヘビースモーカーに多かったものが、喫煙率の低下とともに、減少する傾向が表れているということです。

 一方、これに対し、腺がんの発症要因の多くは、粒子の小さな大気汚染と考えられると氏はしています。工場からの煤煙などが以前よりずっときれいになっている中、考えられるのは、大陸から飛んでくるPM2.5と呼ばれる微粒子のほか、身近なところではやはり自動車の排ガスなどが主要な要因になっている可能性が高いというのが氏の見解です。

 走行している車の数が増えているとは思わないが、この日本で都市部を中心に道路工事によってひどい渋滞が起きているのは事実。景気が悪いから道路工事が増えているというのなら、(日本人の肺がん予防のためにも)渋滞の起こらない時間帯に工事をすべきだと氏は話しています。

 工事が行われている期間は、周辺の信号機のタイミングも変更して、渋滞が極力起こらないようにすることもできるはず。警察の眼中には「安全」しかないようだが、違反を見つけて取り締まるばかりでなく、円滑な交通を助ける人になってほしいということです。

 いずれにしても、受動喫煙の原因をつくっている喫煙者にこれだけ厳しい対応をするのであれば、(行政機関は)道路工事を渋滞が起こらない時間帯に行うとか、渋滞の回避を義務づけるとかして、排ガスを減らすための柔軟で総合的な施策を打ち出すべきだというのが氏の認識です。

 タバコをこてんぱんに叩きのめして、扁平上皮がんの減少という一定の成果が出た今、さらに肺がんを減らそうとするならば、(受動喫煙を槍玉にあげるより)自動車の排ガスが減る方法を考えたほうが実効性が高いはず。煙草嫌いが高じて感情的に喫煙習慣、喫煙文化の撲滅を目指しても、ただ単に反発や対立を生むだけだということです。

 個人の健康法であれ、行政や政治上の事案であれ、データに基づいて合理的かつ柔軟に判断することは、当たり前のようでいて苦手とする人は案外多いと氏はこの論考の最後に綴っています。少なくとも行政に携わる人々には、(強い言葉に反応するばかりでなく)エビデンスが重要になるということでしょう。

 (ともあれ)必要なのが、データに基づき合理的に考えることであるのは間違いない。こうした思考ができるかどうかにも「頭がいい人」と「頭が悪い人」の違いが表れると話す和田氏の指摘を、(まあ何というか)私も興味深く読んだところです。


#2663 年末調整の時期が近づいてきました

2024年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 年末を控えたこの時期、総務の給与担当者から所得税の年末調整の手続きに必要な書類をそろえるよう求められるのは、サラリーマンなら年中行事のようなもの。扶養控除の申告書や保険料控除の申告書など、(「めんどくせーなー」と)苦手意識を持っている人は結構多いかもしれません。

 そういえば、先日の自民党総裁選で河野太郎候補が、この「年末調整」を廃止し国民全員が「確定申告」する方式に変えるとの公約を発表し話題を呼びました。「税金の使い方にもっと興味を持ってもらいたい」…といった趣旨からの発言のようですが、国民の反応はあまり芳しいものではなかったようです。

 年末調整は、簡単に言うと毎月の供与から天引き(源泉徴収)されすぎた所得税を正しく計算し直し、余剰分を還付する手続きのこと。勤め先の指示で必要書類を出せばあとは会社がやってくれるのですから、まあ、楽と言えば楽なもの。一方、「納税」に関する無関心が増長されることで、「これはこれで良い制度だ…」と感じている政治家やお役人も少なからずいるかもしれません。

 ともあれ、今回の総裁選で久々に光が当たることとなった年末調整の仕組みに関し、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が『週刊プレイボーイ』誌の9月16日号に「民主政治の基盤である納税を会社に一任して、不思議とも思わない国」と題する一文を寄せているので、参考までに概要を残しておきたいと思います。

 サラリーマンなら誰でも知っているように、被雇用者は給与から税・社会保険料を源泉徴収されている。このうち所得税は、扶養家族が増えたり各種控除があったりして過不足が生じることがあるため、これを計算し直してツーペイするのが年末調整の手続きだと、橘氏はこのコラムで説明しています。

 氏によれば、アメリカでも給与からの源泉徴収は行なわれているとのこと。しかし、各自が還付の計算を年度末に行なうこととされ、このタックスリターン(確定申告)は国民の一大イベントになっていて、アメリカ人はこの機会に納税者としての自覚をもつようになるということです。

 ところが日本では、サラリーマンの確定申告を会社に丸投げするという「イノベーション」により、経理に必要書類を提出するだけで還付の計算をしてもらえる仕組みが一般化。しかしこれでは、「納税者」であるにもかかわらず、自分の納税額すらちゃんと把握していないことになってしまうと氏は言います。

 さらに氏によれば、それ以外にも、年末調整にはさまざまな批判があるとのこと。そのひとつは、国が会社をタダで使っていることだということです。

 徴税は国の仕事なのだから、それを民間事業者にアウトソースするのなら、相応の対価を支払うべきだというのがその主張。加えて、計算を簡便にするために、仕事の内容にかかわらず「給与所得控除」の名のもとに、控除できる金額を一律に決めているのも矛盾があると氏は指摘しています。

 働き方が多様化すれば、仕事に必要な経費は一人ひとりちがってくるはず。しかも、より重要なのは、控除を受けるために家庭の状況を会社に伝えなければならないことで、離婚したり、家族が障害者になったりと、一般的に職場などには知られたくない個人情報を(人事に近いセクションに)伝えなければならないということです。

 これが問題にならなかったのは、かつて日本の社会では会社は「イエ」であり「家族」であったので社員のプライベートな情報を集めることに違和感がなかったから。しかし、こうした価値観は、今では大きく変わっているというのが氏の認識です。

 近代的な市民社会は、有権者が民主的な手続きによって税金の使い方を決めることで成り立っている。そのため、税の専門家からはこれまでも、「源泉徴収はともかく、年末調整は廃止すべきだ」という意見があったと氏は解説しています。

 「国民全員が確定申告する」という河野氏の主張は、その意味ではきわめてまっとうなもの。それにもかかわらず、ネットには「面倒くさい」「裏金を暴かれた仕返し」などの批判があふれ、メディアもそれを面白おかしく報じるだけということに、日本の「民主主義」のレベルが象徴されているというのがこの論考における氏の見解です。

 頭ではわかっていても、国や自治体予算を集められた自分たちの税金(の使い道)と実感できていない日本人。そういう私自身も、自分がいくら納税しているのかについてそんなに興味をもって接した記憶はありません。

 例え少々面倒くさくっても、1年分をまとめて納税すればそれなりの金額にはなるはず。自分の稼ぎの何割かを提供していると実感すれば、その使い道の悔しさや残念さに「身を斬る思い」になるかもしれないと、私も感じたところです。


#2633 時には自分を振り返る

2024年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

 振り返れば、現在ではすでに還暦を迎えている1960年代生まれの人々が、「新人類」などと呼ばれた時代がありました。

 高度成長や学生運動などを主導した一回り上の(やたらと熱い)「団塊の世代」が旧人類だとすれば、彼らに比べ少しばかりクールで斜に構えた若者たちの姿は、(上の世代からは)何を考えているかよくわからない不気味な存在に映ったのかもしれません。

 「しらけ世代」などとも揶揄された彼らは、その青春時代にバブル経済を経験し、気が付けば「失われた」と言われる30年にもわたる低成長の中を何とか生き抜いて、今や定年退職を迎えようとしています。

 その間、日本の社会に大きな戦争や政変などの混乱はなかったものの、幾たびかの経済危機や大災害、感染症のなどに見舞われる中を、何とか地味に生き抜いてきたというのが本音のところでしょう。

 そして時は移り、「令和」の時代を迎えた今日、様々な分野で世界的な活躍を見せている若い人たちは、ちょうど彼ら新人類の子供の世代に当たります。

 「令和の怪物」と聞いて真っ先に思い出すのは、米国メジャーリーガーとして活躍する大谷翔平選手(1994年生まれ)。打者と投手の二刀流で並外れた結果を出し続ける姿は、まさに本当の怪物と言えるでしょう。

 また、ボクシングの世界で史上2人目の2階級4団体統一チャンピオンとなった井上尚弥選手(1993年生まれ)なども、怪物の名に恥じないすさまじい活躍ぶりです。安定した実力と完璧なボクシングスタイルから『日本ボクシング史上最高傑作』と呼ばれ、世界中のファンから評価されている日本人の一人です。

 そして、もう少し若い世代となりますが、将棋の世界で史上初の7年連続での年度勝率8割以上、タイトル戦を勝ち進み史上初の八冠全冠制覇を達成した藤井壮太棋士(2002年生まれ)なども、「怪物」の呼び名にふさわしい活躍を見せています。ぼそぼそっとした話しぶりやシャイな笑顔に「怪物」の呼称はどうかとも思いますが、正確な棋風や勝率の高さ、連敗の少なさなどには定評があるところです。

 さて、そんな彼らに共通しているのは、年齢よりも随分大人びて見える落ち着いた振る舞いと、揺るぎのない「安定感」と言えるのではないでしょうか。「スランプ」というものを感じさせない実践成績からインタビューの受け答えまで、セルフコントロールの効いたその姿には、新しい時代の到来を感じさせるものがあります。

 イマドキの言葉で言えば、「メンタルが強い」ということになるのでしょうか。置かれた状況を冷静に分析し、物事をポジティブに捉え、ぶれることなく実践できる精神力に感心しているオジサンは、実際、私だけではないでしょう。

 世界一を決するような大きな戦いを前に、彼らはどうしてそこまで落ち着いていられるのか。5月10日の日本経済新聞のオピニオン欄「私見卓見」に博報堂若者研究所 の山崎茜(やまざき・あかね)氏が『若者から学ぶ「自分の扱い方」』と題する一文を寄せていたので、参考までに内容を紹介しておきたいと思います。

 一人ひとりの個性や多様性が尊重されるようになったこの時代、若者にとって人生の「正解」は外から与えられるものではなく、「自分だけの正解」として自ら探し求めるものとなったと山崎氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 物心ついた時から交流サイト(SNS)などの膨大な外部情報に接している(Z世代と呼ばれる)若者たちは、「あなたはどうする?」と日々問われながら暮らしている。そこで興味深いのは、そうした状況への対処法として、若者たちが「自分の心身の扱い方」に対して極めて自覚的で、スキルを身につけていることだというのが氏の指摘するところです。

 外部からの刺激に影響を受けて変化し続ける自身の心身と向きあい、それを最適な状態に整えることは、若者たちにとってこの時代を乗りこなすための「必修科目」となっていると氏は言います。

 実際、博報堂若者研究所が大学生への調査を実施したところでも、「自分の扱い方」として若者が日々心身のゆらぎを「波」のように感じ、その振れ幅を時々の心地よい状態にするため、様々な行動を取り入れている実態がわかったということです。

 若者が自分の心身のゆらぎに向き合う方法は、2つに大別できると氏はこの論考で説明しています。

 氏によれば、その一つは「波をしずめる行動」とのこと。具体的には、一日SNSから遠ざかって予定を入れずに頭を空にしたり、好きなモノで満たした空間に身を置いたり、感情を極力言語化して吐き出したりすることなど。心身のゆらぎが大きく抑え切れなくなりそうな時に緊急避難的に外部の声を遮断したり、内なる声に耳を傾けたりすることで、荒立つ波を落ち着かせようとするということです。

 そしてもう一つは、逆に「波をつくる行動」だと氏はしています。これは、理想に向かって奮起したり未知の領域に手を伸ばしたりして、自ら心のゆらぎを増幅させようという行動のこと。具体的には、日常に刺激がないと感じた時に目標を立てて張り出してみたり、やったことのない予定ばかりをスケジュールに詰め込んだり、自己診断ツールを使って自分の未知な部分や可能性を掘り下げてみたりすることなどだということです。

 ネット上には様々な意見が飛び交い、わかりやすい正解や模範的な人生の形が見出しにくい現代社会であればこそ、心身の感覚に耳を澄まし自分で自分の機嫌を取ることは、(若者に限らず)これからの時代を生きる上で社会共通の課題となるだろうと、氏はこの論考の最後に記しています。

 まずは自分の状態を冷静に顧みて、必要に応じて刺激を与えたりクールダウンを促したりすること。自分自身を客観的に認知する能力を「メタ認知」と呼ぶそうですが、自分の思考や行動そのものを対象化して客観的に認識し、必要な対応を行っていくことの大切さを、かつて新人類であった私も改めて認識させられたところです。


#2611 定年後の夫ほどやっかいなものはない

2024年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和一桁生まれで戦後の高度成長期をビジネスマンとして過ごした私の父は、60歳ですっぱりと定年退職。「あとは釣りをして過ごす」と宣言して海のすぐそばに竟の棲家となる家を建て、亡くなるまでの約10年間を本当に釣りばかりをして過ごした変わり者でした。

 こちらも昭和一桁生まれの母は、そんな父のわがままに付き合って、慣れない土地に戸惑いながらもそれなりにのんびりと(現役時代よりも仲良さげに)暮らしていたのですが、父が亡くなったとたん(「田舎は嫌い」とばかりに)都内のマンションに引っ越し、90歳を過ぎた今でも都心の一人暮らしを謳歌しています。

 とにもかくにも「老後」の過ごし方は人それぞれ。企業の定年年齢が65歳まで延び、70代の半数以上が就業している現在の状況を考えれば、「余生」と呼べる期間はあまりにも短いと言わざるを得ません。

 いわゆる「現役」としての務めを終えたのち、わたしたちは残された(個人としての)時間をどう過ごせばよいのか。そんな読者の悩みに関連し、6月10日の(女性のための)生活情報サイト『婦人公論.jp』が、作家としての活躍する医師の和田秀樹氏の近著『60歳から女性はもっとやりたい放題』の一部を紹介していたので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

 「令和4年国民生活基礎調査」によると、同居家族の介護をする人のうち約3割が60代。(自身や夫の)親の介護から自由になったとしても、結婚している女性には別の「問題」が残されていると和田氏はこの著書で話しています。

 それは、定年退職して家でダラダラ過ごす夫の存在。やっと子どもが自立したと思ったら、働きもしない夫が一日中家にいて飯だの風呂だの言ってくる。もちろん、深い愛情が残っていればそんな夫の世話も苦にならないかもしれないが、多くの場合、女性は「仕方ないからやっている」というのが本音だろうと氏は話しています。

 それでも、多くの女性は「誰かの世話をする」ということが長年の習慣になっているのか、(あまり深く考えずに)その面倒なタスクを受け入れているように見える。まあ、夫のほうが先に旅立つ可能性は高くそれが永遠に続くわけではないにしても、「そのとき、あなたは一体何歳になっていますか?」というのが、この著書で和田氏の問いかけるところです。

 70代、80代になって、「やっとこれからは自分の人生だ」と思っても、そこでやりたいことをゼロから始める気力・体力が残っているとは限らない。もしかすると、自分自身に介護が必要な状態になっている可能性だってゼロではないと氏は言います。

 第2の人生は、誰のものでもない「自分の人生」であって然るべき。その人生の大半を誰かにせっせと尽くすことに費やすなんて、あまりにもったいない話だというのが氏の感覚です。

 そもそもの話として、あなたは第2の人生でも今の夫と一緒にいたいのか? 私(←和田氏)は、60歳を契機に「このまま結婚生活を続けるか否か」を考えるのは(特に女性にとって)とても良いことではないかと考えていると、氏はこの著書に綴っています。

 世の中の価値観が変わってきたとはいえ、多くの家庭では相変わらず女性が男性に尽くす構図が続いている。それでも夫が働いているうちなら、仕事に専念できるよう家事のほとんどを請け負ったりするのも多少のメリットはあるだろう。そのおかげで夫の稼ぎが増えていい暮らしができたとすれば、「尽くす」ことが必ずしも損な役割とは限らないと氏は言います。

 けれども、相手が定年退職したあとその状況は一変する。大抵の場合、定年後の夫にたいした稼ぎは期待できない。それにもかかわらず、夫に尽くし続けることは、この先値下がりすることがわかりきっている株にせっせと投資するのと同じこと。つまり、このタイミングで夫婦のあり方を考え直さない限り、女性は単なる「尽くし損」になってしまう(可能性が高い)というのが氏の指摘するところです。

 和田氏によれば、若い頃の結婚というのは、学歴や年収、年齢やルックスといった条件を重視しがちの由。実際結婚してみると、考え方が合わないなあとか、あまり会話が弾まないことも多いが、仕事や子育てに割く時間が多いので、多少相性が悪くても、案外なんとかなるものだということです。

 ところが仕事や子育てがひと段落して、二人だけの生活が始まるとそうも言っていられない。夫婦間の相性の悪さがこれ以上ないストレスをもたらすと氏は話しています。

 だからこそ、60歳あたりを契機に、「第2の人生でも今の夫と一緒にいたいのか」をちゃんと考えるべきではないか。(考えてみたうえで)とりあえず気心は知れている、だいぶくたびれてはきたけど結構話していて楽しいなどと、概ね「イエス」という前向きな結論を出せるのであれば、そのまま夫婦関係を維持していけば良いだけのことだということです。

 相手が「楽しさ」とか「幸せ」という見返りを十分返してくれて、かつ、その人に「尽くす」ことが最高の喜びというのであれば、相変わらず「尽くす」ことになったとしても、それなりに意味のあることなのかもしれないと氏は言います。

 まあ、(和田氏に言われなくても)多くの夫婦はそうした「迷い」の中で、それぞれの人生を選択しているのでしょう。

 定年後の10年間を、二人で案外楽しそうに暮らしていた私の父や母も、(お互いに「完璧に満足」していたわけではないにしろ)それなりに意味のある余生だったのではないかと、和田氏の指摘に私も改めて感じたところです。


#2609 妻が口うるさいのにはワケがある(その2)

2024年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 6月5日の経済情報サイト「現代ビジネス」に掲載されていた、『家事を「手伝う」夫はいらない―共働き夫婦が幸せな家庭を築けない本当のワケ』と題する記事を、引き続き追っていきたいと思います。

 世の男性たちは、「彼氏」から「夫」になったその瞬間から、母からみた子のように甘え始める。赤ちゃんぶって、自分の存在そのものが妻への価値提供になっていると思いたがると筆者の岩尾俊兵氏(慶應義塾大学準教授)はこの記事で指摘しています。

 しかし、妻からすれば夫のそうした行動は不快の原因にしかならない。その不快を解消すべく恋愛関係のときと同じ程度以上の努力(たまには手紙を書く、花束を贈る、トイレットペーパーを買うなど)を続けて欲しいと思うわけで、結果、ここに対立が生じるというのが氏の認識です。

 例えば、夫も時には(まさに純粋な善意から)家事を「手伝おう」と試みる。だが、この「手伝う」という発想からして、母子関係における「お手伝い」の延長に過ぎない。なので、妻は母と違ってお手伝いレベルの家事ならば二度手間だと怒り、怒鳴り、当たり散らすことになると氏は言います。

 大体において女性が家事に求めるレベルは、一般に男性が求めるそれよりもはるかに高い。ましてや「自立した大人」である夫に求める家事のレベルは(恐ろしいことに)「外注業者に求めるものと同等以上」だということです

 一方、それは夫からすれば、(仕事で疲れている身で)妻のためにせっかく掃除したのに、シンデレラの継母よろしく「ここ、汚れたままじゃん!」と埃を見せつけられたり、せっかく料理を作ったのに「ちゃんと後片付けしてね!」と冷や水を浴びせかけられたりするということ。そこで、その理不尽さに(偽装ママに愚痴をこぼしに)スナックやキャバクラに出かけたりするということです。

 さて、いずれにしても、すべての人は生まれてすぐに異性と母子・父子関係を結ぶところから出発し、恋愛・結婚・独立を経て親子関係とは異なる「対等」な夫婦関係を構築していくという道をたどると氏は説明しています。

 そして夫婦関係においては、夫と妻のどちらもが親子のように無条件で価値を提供できるわけではなく、相手に価値を提供すべく主体的に問題解決していかなければいけなくなる…という転換期を迎えるということです。

 例えば、「ちょい残しコップ散乱問題」(←夫を一人残しておいた際などによく見られる、中身のちょっと残ったコップが片付けられずに所かまわず置かれている…という問題)について。

 そこには、妻側の「片付け対象が放置されていると気が休まらないから、家は常に整理整頓された状態を保ちたい」という要求と、夫側の「常に家の整理整頓に気を配っていたら気が休まらないから、何も考えずに過ごしたい(整理整頓しない)」という、一見すると両立が難しそうな要求があると氏は言います。

 しかし、両者の欲求は、どちらも「家では気を休めたい/リラックスしたい」ということで共通しているはず。そこで、この目的に対しては、「整理整頓する」「整理整頓しない」という二つがそれぞれいかに寄与できるかについて考えてみるといいというのが氏の提案するところです。

 すると、「整理整頓する」ことそのものではなく、「物が散らからない」ことが大事なことが分かる。そして、問題が「整理整頓しない」ことにあるのではないならば、解決策は「余計なことを考えなくてよい」ようにするところにあることが分かるということです。

 だとすれば、「余計なことを考えなくても物が散らからない」ようにすればよいだけのこと。たとえば「(少し間抜けな格好になるが)家ではマイ水筒を首からぶら下げてそれだけを使うようにする」とか、お金があるなら(もう少しマシな手として)「週末だけ家事代行サービスを外注する」でもいいかもしれないと氏は言います。つまり、冷静に話し合えば、そこに何かしら問題解決の糸口が見つかるはずだということです。

 現代の夫婦は、(共働き家庭であれば特に)お金がある代わりに余暇時間を夫婦で奪い合ったり、(方や片働き家庭であれば)時間がある代わりにお金を夫婦で奪い合ったりすることになると、氏は記事の最後に話しています。

 そこに夫婦の対立が生まれ、夫の甘えと理解のなさに妻のイライラも募ろうかというもの。でも、解決策はないわけではない。ここで示したような価値創造と問題解決のマインドを持てば、こうした奪い合いから脱出できる可能性があると話す岩尾氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。