MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2574 住民税非課税の壁

2024年04月23日 | 環境

 4月3日、総理官邸で開かれた飲食業や物流業の経営者やパート従業員らとの意見交換会に出席した岸田文雄首相が、「年収の壁に近づく可能性のある全ての人が壁を乗り越えられるよう支援をスタートしたい」と述べ話題になりました。

 一般に「年収の壁」と言えば、「税制上の年収の壁」とされる103万円/150万円/201万円や、「社会保険上の年収の壁」とされる106万円/130万円などのこと。もう少し具体的に言うと、所得税の課税対象となるのが年収103万円に加え、「配偶者特別控除額」が減額となる150万円や、同控除がゼロとなる201万円などが、まずは「壁」と認識されることが多いようです。

 さらに、パートで働く主婦などが超えないように気を付けているのが、年金や医療保険の取り扱い。社会保険料がかかり始める年収106万円(厳密には月収8.8万円)や、誰もが(家族の扶養から抜けて)自ら社会保険に加入しなければならなくなる年収130万円などが、(実質的に)大きな壁となっているとされています。

 しかし、現状の社会生活においては、もう一つの大きな「年収の壁」が立ちはだかっているとの指摘もあるようです。4月8日の日本経済新聞では、同紙編集委員の山本由里氏が「もう一つの『年収の壁』壊せ 住民税非課税が映す不公平」と題する論考において、「住民税非課税の壁」に触れていたので(参考までに)概要を小サイトに残しておきたいと思います。

 税率10%の所得割と、定額の均等割。どちらも免除される「住民税非課税世帯」は全国に約1500万世帯いると推計され、その数は国内5570万世帯の実に4分の1にも上ると山本氏はその冒頭に記しています。

 住民税は社会保障制度とリンクしており、さらに自治体が窓口の給付サービスでは、住民税非課税ラインが費用負担の線引きに多用されている。実際、非課税世帯は2歳以下の保育料が無料、高等教育無償化の対象にもなる一方で、医療・介護費が高額になった際の自己負担限度額も低く、特別養護老人ホームなど施設の居住費も安くなると氏は言います。

 住民税非課税の壁の内外は天国と地獄。壁の内側で社会保険のコストを節約する方が生活は楽になるため、就労調整をすることで「困窮」といえない世帯の多くが「非課税」の壁内に紛れている。非課税世帯の算定には資産や利子・配当所得を含まないため、非課税ラインをわずかに超えた子育て世代が住民税・保育料を払う一方で、金融資産の多いシニアが医療や介護で非課税メリットを享受する例も多いということです。

 そして、こうしたゆがみは新型コロナウイルス禍以降、度重なる給付金でさらに増したと氏は言います。行政が把握している線引きが事実上、「国民全員」か「住民税非課税世帯」かしかない。このため、様々な給付金が実質的な富裕層も含めて配られ、課税世帯との格差が膨らんだということです。

 実際、現実の非課税世帯の生活(実態)については、正確なデータさえ存在しないと氏は話しています。課税は個人単位だが社会給付サービスは世帯単位が多い。税と給付、両方の情報を持つのが自治体だが、それらを連携して使える形とはなっておらずしわ寄せは自治体の負担となって顕在化しているということです。

 さらに、この6月には定額減税が始まる。扶養家族分も含め1人4万円を減税する仕組みは一段と複雑であり、現在、デジタル庁ではそのための「算定ツール」を開発し、希望自治体に配る準備に追われると氏はしています。

 必要なのは、減税の恩恵が小さい低所得層の働く意欲をそぐことなく、現金支給で補うこと。税と社会保険料を一体で捉えた給付付き税額控除などを合理的に行うため、まずは国民の所得を迅速、的確に把握するデジタル安全網の構築を急ぐべきだというのが氏の指摘するところです。

 税・保険料はともに国民負担であり、基礎年金の半分に税金が投入されるなど財源も混然一体として扱われている。にもかかわらず、(子育て支援金のように)負担増が見えにくい保険料を「活用」したがる政治の動きが後を絶たないと氏はこの論考に綴っています。

 日本の社会保険料負担は国内総生産(GDP)比で過去30年上昇を続けており、低所得者ほど負担増になる逆進性が強まっている。30年後、日本の人口は1億を切り高齢者が4割になることを考えれば、税による適切な再配分と社会保障が担う堅実な安全網なしには立ち行かなくなるだろうというのがこの論考における氏の見解です。

 「取りやすいところから取る」というのでは、国民の不公平感は増すばかり。現役世代にいたずらに財源を求めても、傷つくのは将来の日本であることは間違いありません。

 今こそ、負担と給付の将来像を描き「働き損」をなくす制度改革を急ぐべき時。思いつき減税に未来は見えないと話す山本氏の指摘を、私もさもありなんと読んだところです。


#2404 現代のアヘン戦争

2023年05月02日 | 環境

 米ミシガン大学研究チームが2020年の米国疾病予防管理センター(CDC)の統計資料を分析した結果、アメリカの20歳未満の若者の死因において「交通事故関連」を抜き、「銃器関連」が初めて第1位となったと報告しています。

 死因トップとなった殺人や自殺などに用いられた銃による若者の死亡は2020年に前年比約3割増の約4300件にまで急増し、交通関連死の約3900件を上回ったということです。さらに同チームの報告によれが、「銃器」「交通事故」に続く3番目の死因は「薬物」関連の約1700件で、前年比約8割増とのこと。アメリカの若者たちが、いかに「銃」「事故」「薬物」といった米国社会に蔓延するリスクと隣り合わせで生きているかが判ります。

 因みに、厚生労働省が毎年発表している「人口動態統計」によると、日本における2020年の20歳未満の若者の死因は、①悪性新生物、②不慮の事故、③自殺が上位を占めています。15~19歳の思春期の男女に限って言えば、男性の1位は「不慮の事故」の35.0%、2位は「自殺」の29.9%、3位が「悪性新生物」の9.7%。女性の1位は「自殺」の33.8%で、2位「不慮の事故」(23.0%)、3位「悪性新生物」(9.9%)と続きます。

 数字を並べて見ると、残念なことに「自殺」や「事故」の占める割合の大きさに改めて驚かされますが、(どこの社会でも)若者が「成長」するのにはそれなりのリスクが伴うということでしょうか。日本の統計に「銃」や「薬物」などが顔を出さないのも、単に「環境の違い」と言ってしまえばまさにそれまでのことなのかもしれません。

 そんなことを考えていた折、3月18日の情報サイト「Newsweek日本版」に国際ジャーナリストの山田敏弘氏が『中国が仕掛ける「現代のアヘン戦争」...米国でフェンタニルが若者の死因1位の異常事態』と題する論考を寄せていたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 山田氏によれば、先日、米国の政治専門紙の『ザ・ヒル』に掲載されていた記事に、「アメリカ人18~45歳の死因のトップが、心臓疾患や癌、自動車事故、新型コロナなどではなく、フェンタニルだと知ったら驚く人もいるだろう」と記されていたということです。

 フェンタニルとは、モルヒネの50~100倍の鎮痛作用があるという非常に強力な鎮痛剤とのこと。フェンタニルとは合成オピオイドの一種で、この「オピオイド」というのは、けしの実からから採取される有機化合物と、そこから生成される化合物の総称だと氏は説明しています。

 この薬品がアメリカで蔓延し、以前から大きな社会問題となっている。記事は「アメリカで発見される違法なフェンタニルのうち90%以上が中国から来ている」とし、中国がアメリカに近代の「アヘン戦争」を仕掛けていると指摘しているということです。

 アメリカ政府は2018年に中国に対してこの事実を突きつけ、対応を迫った。そこで中国は「フェンタニル関連薬物」を規制薬物に指定したが、実際にはきちんと規制されていないと反発が上がっているとされています。

 以前は国際郵便などで直接、アメリカから購入して捌くような売人がのさばっていたが、米当局が中国への制裁措置などを講じるようになると、今度は中国からメキシコの麻薬カルテルなどを経由してアメリカに違法フェンタニルなどが届くようになった。中国が違法薬物の輸出の規制を強化しない限り、(結局のところ)いつまでもアメリカに違法薬物が流れ続け、若者の命を奪い続けるだろうと山田氏はしています。

 これら違法フェンタニルは、街では、「China Girl」「China White」「Murder 8」「Jackpot」といった名称で密売されている。中国外務省は2019年に、世界全体の5%を占めるアメリカ人が世界のオピオイドの80%を消費しているとし、アメリカ政府自身が「国内の麻薬への需要をもっとコントロールせよ」と批判しているということです。

 さて、こうした状況について、在米中国大使が2022年、米ニューズウィーク誌のインタビューに応え、「中国から(フェンタニルやその関連麻薬を製造する)物質がメキシコに密輸されてフェンタニルの製造に使われているというメキシコからの報告やデータは受け取っていない」と否定しているとされています。そして同時に「中国も19世紀にイギリスのアヘン戦争の犠牲者になった」と話したということです。

 一方でメキシコの大統領は今年の3月17日、アメリカ人がフェンタニル中毒になる理由は、「家族がもっとハグし合わないからだ」と語ってニュースになったと山田氏はこの論考に綴っています。

 確かに、若者たちが米国で比較的安価なフェンタニルを入手できなくなったとしても、結局は他のドラッグに走るだけ。また、規制によってドラッグが高価なものとなれば、犯罪に手を染める若者が増えるのもまた自明と言えるでしょう。

 アメリカというリアルな競争社会の様々なストレスは、こうして社会の(特に)弱い場所に毎日ヒリヒリとダメージを与え続けているのでしょう。そして、そうしている中で、中毒死のニュースは次々と報じられていく。

 近代の「アヘン戦争」の行方はわかりませんが、(100年経とうが200年経とうが)いくら時代が変わっても結局のところ犠牲になるのは常に虐げられた者たちだということを、私たちは肝に銘じておく必要があるのでしょう。

 


#2378 「闇バイト」の闇の深さ

2023年03月10日 | 環境

 SNSを利用した「闇バイト」に関係する強盗事件が相次いだことを受け、政府は月内にも全閣僚が参加する犯罪対策閣僚会議を開き、省庁横断で闇バイト対策を強化する方針を固めたと、3月10日の読売新聞が伝えています。

 関東など各地で発生した強盗事件では、高額報酬をうたう闇バイトの募集に応じた若者らが実行役となっている。住人に暴力をふるって金品を奪うという凶悪な手口で、国民の間に不安が広がったと記事はしています。警察庁によれば、2021年の夏以降、14都府県で50件以上のこうした事件が起きているということであり、国民の「体感治安」の悪化を食い止めるため、政府は総合的な対策に本腰を入れるということです。

 闇バイトは、こうした強盗事件ばかりでなく、特殊詐欺の末端メンバーや違法薬物の荷受け役の募集などにも悪用されていることから、政府は最新の犯罪情勢を踏まえた対策を検討するとされています。

 ネット上で不特定多数の「ならず者」を募り、悪事を働かせたうえで上前を撥ねるなどというのは、これまでの日本の社会では考えられなかったような犯罪形態。ドラマのような(このような)計画が実行されるようになった背景には、いったいどのような変化があるのでしょうか。

 参考になるかどうかは分かりませんが、『週刊プレイボーイ』誌の2月27日発売号 に、作家の橘玲氏が「『闇バイト』に申し込むのはどういう若者なのか?」と題する興味深い一文を寄せているので、その一部を小欄に残しておきたいと思います。

 多額の現金がある家を特定し、SNSで集めた「闇バイト」を使って強奪するという凶悪事件が全国で多発し、社会不安が高まっている。報道によると、彼らの多くは「日当100万円」などの投稿をSNSで見つけて応募し、その後、強盗であることがわかって躊躇したものの、「家族に危害が加えられると言われやめられなかった」などと供述していると、橘氏はこのコラムに綴っています。

 こうした彼らに共通しているのは、犯罪行為を強要された際に「警察に相談する」など他の選択肢を考えることなく、「しかたない」と(あっさり)状況を受け入れてしまっていること。(「日当100万円」から想定されるリスクばかりか)その後の成り行きをそのまま受け入れてしまう合理性の欠如にあるというのが氏の認識です。

 そこで橘氏は、精神科医の宮口幸治氏は著書『ケーキの切れない非行少年たちのカルテ』(新潮新書)に描かれた、医療少年院に収容されている田町雪人という(架空の)少年の姿を(以下のように)紹介しています。

・ 貧しい母子家庭で育ち、6歳から万引きを始め、中学で児童自立支援施設に入所した雪人。彼は、暴力、無免許運転、窃盗、無銭飲食などにより16歳で少年鑑別所に入所し、軽度知的障害を疑われ医療少年院に送致された。

・ 雪人のIQは、生育環境などによって異なる障害認定の境界部分にある68。見た目はどこにでもいる普通の若者だが、小学校3、4年レベルのコミュニケーション力しかなく、繰り下がりのある引き算ができず、丸いケーキを三等分する方法がわからないといった青年だとされています。

・ 少年院を優等生として過ごした雪人は、10カ月で出院。母と2人で暮らしながら、地元の建設会社で働きはじめるが仕事が覚えられず、遅刻を注意した主任を思わず殴ってしまい職場を解雇されてしまうということです。

・ 雪人は、母の期待を裏切らないために、パチンコ店でたまたま出会った地元の先輩から誘われた仕事を始めるが、それが特殊詐欺の受け子だった。2回目の仕事で受け取りに失敗した雪人は、先輩から「1週間で50万円用意できないと大変なことになる」と言われ、つき合い始めたばかりの彼女に(1か月で利子をつけて返すと約束して)50万円の借金をする。

・ その後、彼女から借金の返済を強く催促される雪人。夜の公園に呼び出して交渉するものの「嘘つき! 警察に言ってやる!」と叫ばれ、近くにあった石を拾うと後頭部めがけて思い切り殴りつけた…という物語だそうです。

 この物語に登場する雪人は、決して宮口氏による空想上の存在ではない。都会の片隅のどこかに今でもひっそりと生きている、ごく普通の少年たちの一人だと橘氏は捉えています。

 社会の中には、(その生い立ちや能力から)自分だけの力では生きていけない人々が確実に存在している。そして、ネットという環境を巧みに利用しながら、そうした人たちを(ある意味)「食い物」にして不当な利益を上げ、あるいは犯罪に巻き込み(自らは安全な所に居て)上前を撥ねている人間や組織があるということでしょう。

 私たちの社会は、雪人のような少年たちのために一体何ができるのか。こうした話を聞くにつけ、追い詰められて凶行に及ぶ人たちを怖がり、逮捕し、排除すればそれで「問題は解決」というわけにはいかないことを、改めて感じさせられるところです。


#2348 「ゆるい職場」の活かし方

2023年01月25日 | 環境

 先ごろリクルートワークス研究所が発表した調査(「大手企業における若手育成状況調査報告書」2022.7.7)によると、大手企業の新入社員のうち実に36.4%が「職場がゆるい」と感じているということです。

 「職場がゆるい」と感じる若手が増えている背景には、安倍政権が唱えた「働き方改革」の掛け声のもとに、ここ数年で労働に関する法整備が一気に進んだことがあるのでしょう。

 2013年に「ブラック企業」という言葉が新語・流行語大賞にノミネートされ、2015年には「若者雇用促進法」が施行。これを機に、企業には勤続年数や残業時間、有給取得率などの開示が義務付けられ、2018年の「働き方改革関連法」では時間外労働に上限が設けられました。さらに、2020年には大企業にパワーハラスメントの防止措置が義務付けられ、2022年4月からは中小企業にも適用されています。

 サラリーマンにとって、こうして職場環境が改善されたこと自体は間違いなく良いことなのでしょう。しかし、会社に入ったばかりの新入社員の実に3人に1人が現在の状態を「ゆるい」と感じているのであれば、「何かが間違っている」可能性も視野に入ってくる。新入社員の面倒を見ている管理職の皆さんは、そうした視点に立って職場の状況(中でも若手社員への負荷の状況)をもう一度確認してみる必要があるかもしれません。

 先の調査によれば、「このまま所属する会社の仕事をしていても成長できないと感じる」という項目に対して、「強くそう思う」「そう思う」と回答した人の合計は、「職場がゆるい」と感じている人ほど高い(62.6%)という結果も出ているとのこと。「ゆるい」というのはあくまで表現の問題で、もしかしたらその本音は「やる気がない」「活気がない」ことの裏返しなのかもしれません。

 また、「職場がゆるい」と答えた人のクロス集計では、「すぐにでも退職したい」が16.0%、「2~3年であれば働き続けたい」に至っては41.2%に達しているとされており、そうした「ゆるい」企業は、職場の雰囲気を敏感に感じ取った新入社員に「見捨てられる状況」にもあるようです。

 もちろん、だからと言って新入社員を(もっと)厳しく育てればそれでいいというものでもないでしょう。随分と前の話になりますが、私自身、新卒で入った最初の職場は「言われたことだけをやっていればよい」という雰囲気でかなりの物足りなさを感じた一方で、異動した次の職場では残業の山を築かされるばかりで雰囲気が悪く、本気で転職を考えた記憶があります。

 「働き方改革」が実現しつつある今、なぜこうした状況が(広く)生まれつつあるのか。9月29日の就職情報サイト「リクナビNEXTジャーナル」に、『「職場がゆるい」と感じたらどうする?若手社員はキャリアをどう考えればいい?』と題する記事が掲載されていたので、参考までにその一部を残しておきたいと思います。

 「ゆるい職場」は、企業におけるコンプライアンス対応やコミュニケーションスタイルの変化によって日本の職場に現れた新しい形態であり、(もちろん)一律に善悪で結論を付けるべきではないと記事はその冒頭に記しています。

 ただ、新入社員が「社会に出れば得られる(はず)」と考えていたものが、当たり前ではなくなりつつある現実があるのだろう。そのような状況に直面する当事者の若者たちが感じる「焦り」や「不安」を、どこかで受け止める必要があるというのが記事の指摘するところです。

 おそらく、ここで求められている発想は、「新入社員は会社が育てるものだ」「会社が育ててくれるものだ」といった“会社主体”の若手育成観からの脱却ではないかと記事は話しています。

 若手にかけられる負荷に限界がある中で、職場にある機会だけでは人材を育て切ることができない。一方で、若手自身が理想とするキャリアパスにも足りないというならば、本人があらゆる機会から「主体的」に学び取ることができるような方法、育成観に転じていく必要があるというのが記事の提案するところです。

 具体的には、例えば(1)職場にある機会を最大限活用しつつ、(2)自分で見つけ出した職場内外の成長の機会を組み込んで、(3)自ら設計してキャリアを構築していく…ことなど。職場を越える学びや、当事者による自主的・意識的な学びの機会を用意していってはどうかということです。

 こういう環境を与えられた場合、「ゆるい職場」は当事者の若者たちが自律的なアクションを行い、またそれを促すための最適な場となる可能性もあると記事はしています。確かに、こうした「ゆるい職場環境」の中で自ら学び育った令和の人材は、(きっと)ハードな環境を耐え抜くことで鍛えられた昭和型の人材とは異なる能力を身に着けていることでしょう。

 職場の様相を過去に戻すことは法的にも社会的にも難しいし、「ゆるい」と言うのであれば厳しくすればよいというものでもない。企業も若者当事者も直面したことのない「ゆるい職場」で、利益を生む人材をどう育てるのか。経験のない模索が始まろうとしていると結ぶ記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2314 エコ・テロリズムは共感を得られるか

2022年12月13日 | 環境

 10月14日、英ロンドンのナショナル・ギャラリーで19世紀の印象派画家ゴッホの代表作「ひまわり」にトマトスープがかけられる事件が起きました。犯人はイギリスの環境保護団体「JUST STOP OIL」メンバーの女性2人で、犯行後「こんな絵を一枚守ることと、地球と人々の生命を守るのと、どっちが大切なの?」と叫んでいたとされています。

 ノルウェーの首都オスロでは同11日、国立美術館に展示されている画家ムンクの代表作「叫び」に接着剤を塗り、自身の体を接着しようとした環境活動家が警備員に取り押さえられるという事件が起きています。

 さらに同月の23日には、独ポツダムのバルベリーニ美術館でドイツの環境保護団体「最後の世代」のメンバー2人が、印象派を代表するクロード・モネの「積みわら」にマッシュポテトを投げつけるなど、世界的な名画を標的とした同様の事件が相次いでいます。

 「地球と「ひまわり」と、どちらが美しいのか」「(絵画などよりも)大切な自然環境が傷つけられている現実に目を向けるべきだ」…こうした主張に基づく「エコ・テロリズム」と呼ばれる事件が、ヨーロッパの先進国を中心に近年頻発化の傾向を強めているようです。

 実はこのエコ・テロリズム。日本に暮らす我々にとっては、このような騒ぎで耳目を集めても 「それとこれとは話が違う」「共感が得られる訳がない」と考えがちですが、イギリスで行われた世論調査の結果では、実に66%もの人が今回のような非暴力の直接行動に理解を示しているということです。

 ヨーロッパで広がるこうしたエコ・テロリズムという発想の背景には、一体どのようなものがあるのか。経済評論家の加谷珪一氏が、11月23日の総合経済サイト「東洋経済online」に『名画を攻撃する環境活動家の行動は、無意味だが意外と筋は通っている』と題する一文を寄せているので、参考までに紹介しておきたいと思います。

 ゴッホの名画『ひまわり』にスープをかけるなど、環境活動家による激しい抗議活動が続出している。絵画はガラスで保護してあり、いずれも実害はなかったが、一歩間違えば取り返しのつかない損失が発生する行為であり、行為自体は「環境テロ」と批判されても仕方ないだろうと加谷氏はこの論考に綴っています。

 それでは、なぜ彼ら環境活動家はことさらに名画を攻撃対象にするのか。それは名画というものが、極めて「資本主義的な存在」だからだというのが氏の見解です。

 名画というのは、ただの絵画であるにもかかわらず、場合によっては何十億円という値段が付く。絵を描く原価が極めて安価であることを考えると、経済学的には究極の付加価値といってよいと氏は言います。

 美しいものに極限の値段を付け、金銭を通じて取引するというのはまさに資本主義を象徴する行為で、実際、バブルの最盛期、日本人実業家がゴッホの絵を巨額落札し「自分が死んだら棺桶に入れてほしい」と軽口をたたいて批判されたこともあった。

 一方、自然というものは、名画と同じく美しくかけがえのないものだが、人々はそれをタダで入手できると考えており、消滅しかかっていることに関心を寄せない。名画には何十億円ものお金をかけるのに対し、なぜ美しい自然に対してはお金をかけないのかというのが、活動家の論理だということです。

 経済学では天然資源は所与のものとして扱われており、価値はあくまで人間が付与する決まりとなっている。水や植物そのものには価値がなく、これらに対して消費者が支払うお金は、主に採取や加工、輸送のコストに対してのものだと氏はここで説明しています。

 しかし、天然資源が有限で、人類の存続に欠くことのできないものと考えるならば、その維持や管理(いわゆる持続可能性)にコストがかかるはず。もっと高い価値が付与されるべきとの考え方も成立すると氏はしています。

 マルクスは天然資源に交換価値はないので商品にはならないと主張したが、21世紀の現実はそうでもないことを示しているということです。このため一部のマルクス主義者は、生産関係の一部として天然資源を社会主義的に(国家が)管理することで、地球環境と経済活動を両立できると主張する。しかし結局のところ、(天然資源を社会主義的に管理しようが、市場メカニズムを通じて管理しようが)そのコストは何らかの形で誰かが負担しなければならないのが現実というのが氏の指摘するところです。

 絶対量に限りがある以上、このまま(天然)資源の浪費が進めば、奪い合いになるのは確実なこと。ウクライナ侵攻からも分かるように究極の奪い合いは戦争であり、経済力で買い占めることも類似行為といってよいということです。

 全世界的なインフレの進行は、争奪戦が既に始まっていることを示唆していると、氏はこの論考に記しています。絵画にスープをかけても問題が解決しないことは(やった本人も含め)誰もが判っている。しかし、(かけがえのない絵画に大金を払うのと同様)一連のコストを何らかの形で共同負担する仕組みが必要なのは間違いないとこの一文を結ぶ加谷氏の指摘を、私も(なるほどな、と)興味深く受け止めたところです。


#2312 田舎暮らしは本当にエコか?

2022年12月11日 | 環境

 野生動物と人間の住処の境界線にあるのが、日本の原風景の一つである里山というもの。古来、日本人はそこから生活のために必要な薪や炭、山菜など季節の恵みを受けながら、人の暮らしの営みを通して里山を維持してきたとされています。

 里山のエコシステムを活かした自然の一部としての生活スタイルは、まさにサスティナビリティを地で行くものです。江戸時代から変わらない、自然と共生する日本の循環型社会の象徴と言えるかもしれません。

 現在でも、茅葺屋根の家や、メダカやドジョウがいる池、そうした昔ながらの田舎の風景にあこがれ、都会と田舎との二重生活などを始める都会人も多いようです。

 金曜日の夜に車に荷物を積み込み、高速道路を使って週末を田舎で過ごす。季節を感じながら庭先の畑で野菜などを育て、巻き割りや草取りに汗を流すのは(きっと)気持ちの良いものでしょう。

 しかし、ちょっと待って。そうした田舎で暮らす毎日は、本当にサスティナブルで環境に優しいものなのか。9月17日の総合経済誌「週刊東洋経済」のコラム「少数意見」に、『カーボンニュートラルの本気度を伺う』と題する一文が掲載されていたので、参考までに小サイトに残しておきたいと思います。

 環境省によると、地方別の世帯当たりの二酸化炭素排出量(2020年)は、東名阪や九州が2トン台であるのに対し、北海道、東北、北陸は4トン台、中国、四国、沖縄でも3トン台に及んでいると筆者はこのコラムで指摘しています。

 戸建て比率の高さや暖房の必要性などがこうした違いを生んでいる。世帯人数の差を考慮した1人当たりで比較しても、地方別の傾向は変わらないと筆者はしています。

 地方の暮らしといえば環境に優しいイメージがあるが、ことCO2で見る限りはそれが幻想であることがわかる。しかも、この数字には自家用車からのCO2排出量が含まれていないということです。

 自動車1台当たりの年間CO2排出量は(平均でも)2.3トンに及び、1世帯の排出量に匹敵する。一方、人口比での自動車保有台数は地方が多く走行距離も長いと筆者は言います。自家用車なしでは生活が成立しないため、軽自動車を含めて1人1台保有する世帯も珍しくないというのが筆者の指摘するところです。

 データからもはっきりしているように、地方の(住民一人当たりの)CO2排出量は都市部よりも明らかに多い。カーボンニュートラルを目指すならば、政策的に東名阪への人口集中を進めるべきだろうと筆者は話しています。

 公共交通機関が充実した都心部に住めば、CO2排出量の多い自動車の使用は確実に減らせる。生活、物流の効率も良く、上下水道や廃棄物処理などのインフラもシステム化されていて、都会暮らしの(住民一人当たりの)エネルギー効率、環境負荷は今や最小限にとどまっているということです。

 さらに言えば、そもそも自動車は、電気自動車であっても環境負荷は極めて重い。CO2を減らすには、真っ先に自動車の生産・販売・利用を減らす政策を打つ必要があると筆者はしています。

 自動車に限らず、経済活動全般を減らせば、CO2排出量は確実に減るのは分かりきったこと。しかし、だからといって、現在の地方での暮らしから(例えば)自動車を取り上げることはできないだろうというのが筆者の認識です。それでは、何を犠牲にして抜本的なCO2削減を実現するつもりなのか。

 オイルショックで環境問題に焦点が当たった1970年代は、深夜のテレビ放送は停止、ネオンも消えた。当時は、官民挙げてまじめに環境問題と向き合ったとコラムは指摘しています。

 今はどうだろう。カーボンニュートラルが重要といいながら、足元の電力危機では古い火力発電所を再稼働する一方、イルミネーションは煌々と灯ったまま。カーボンニュートラル宣言を打ち出した大企業で社用車をやめた会社はどれだけあるのか。空前のゴルフブームで週末に自家用車でゴルフに行く役員も多いだろうということです。

 さて、純粋にエコロジーという視点に立てば、隣の家まで何百メートルもあるような地方で暮らすよりも都会のマンション暮らしの方が環境負荷は小さい。庭先で焚火をしたり大型犬を飼ったりする生活よりも、我慢して満員電車に揺られる生活の方がよほど効率的なエネルギーの使い方だということでしょう。

 思えば世界の多くのCEOが、ダボス会議にプライベートジェットで駆けつけて気候変動を議論している。もしも本気でカーボンニュートラルの実現を考えるのであれば、CO2削減策がレジ袋の有料化や紙製ストローの利用促進では「本気度」を疑われても仕方がないとこのコラムを結ぶ筆者の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。


#2277 日本の水とお役所

2022年10月13日 | 環境

 新型コロナウイルスの影響で増え続ける厚生労働省の業務負担を減らすため、政府は現在同省が所管している水道・食品関連の業務を2024年度にも他省庁に移管する方針を固めたと、9月1日の大手新聞各紙が報じています。報道によれば、水道行政についてはその大部分を国土交通省に、一部を環境省に移譲するとのこと。また、食品衛生に関する基準策定などは消費者庁に移すことになるということです。

 なお、受け入れる国交省では新たに専門の部局を設けるのではなく、現在の水管理・国土保全局下水道部を改組し対応する予定とのこと。2023年の通常国会に各省の設置法改正案や水道法改正案などを提出し、2024年4月からの新体制移行を目指すとされています。

 公表された具体策を見ると、国交省には老朽化対策や耐震化などを含む施設整備や事業経営、災害時の復旧支援、渇水への対応といった業務を移管するとされているようです。国交省が、施設整備や下水道運営、災害対応に関する能力・知見や層の厚い地方組織を活用。水道整備・管理行政を一元的に担当し、パフォーマンスの一層の向上を図ることがその狙いだということです。

 日本の水道行政は、厚生省が長年「安全な水の供給」という観点から関係法令を所管・運用してきました。しかし、今回の新型コロナを契機に、国民生活に必要な「インフラの管理運営」という視点に(政府が)大きく舵を切ったということになるでしょう。

 安寧な国民生活に欠くことのできない要素である「生活用水」の問題を、(なんか)随分と簡単に考え過ぎではないかと感じないわけではありませんが、貴重な水資源の扱いを一本化していくというのは(それはそれで)理にかなったことなのかもしれません。

 政府のこうした方針決定を受け、9月6日のYahoo newsにアクアスフィア・水教育研究所代表の橋本淳司氏が「日本人がほとんど知らない水と役所の関係」と題する論考を寄せているので、この機会にその一部を紹介しておきたいと思います。

 あまり知られていないことだが、水行政は複数の省庁にまたがっている。河川や下水道が国土交通省、農業用水は農林水産省、上水道が厚生労働省、水質や生態系が環境省など6省が絡み、縦割りの弊害により近隣自治体間の調整ができないと指摘され続けてきたと、橋本氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 例を挙げれば、水道取水口のすぐ上流に下水処理場の放流口を作るという事態が生まれたり、農村部では集落下水道(農水省)、流域下水道(国交省)、合併浄化槽(環境省)が混在したりしているということです。

 さてそうした中、政府は9月2日、水道の整備・管理に関わる行政を厚生労働省から国土交通省に移管することを決めた。次期通常国会で必要な法案を提出し2024年度の施行を目指すと発表されたと氏はしています。

 今回の政府の決定では、水道の整備・管理に関わる行政を国土交通省に移管し、水質基準の策定などは環境省が担当するとされた。それではなぜ、これまで水道は厚労省が担ってきたのか。実は、日本における近代水道の整備は、経口感染症であるコレラがきっかけだったと橋本氏はこの論考に記しています。

 日本は19世紀後半に欧米との交易を積極的にはじめ、外国船を受け入れる港が指定されたが、そこを中心にコレラが蔓延した。横浜で行われた疫学調査の結果、汚染された井戸とコレラとの関係が明らかになり、安全な水の供給が日本の近代化の大きな課題となったということです。

 2度の大戦の影響で水道の整備は停滞したものの、戦後に施行された日本国憲法には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「国は(中略)公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(第25条)と明記された。 この理念の基に1957年に制定された「水道法」にとって、水道の布設・拡張を厚生省(当時)が担うのは極めて自然なことだったというのが氏の見解です。

 無論、今後、水道関連の事務が国交省に移管されたとしても、この精神は忘れられるべきではないと氏は指摘しています。誰もが安全な水の供給を受けられるというのは、生存権の最もベーシックな部分に当たる。アフリカなどの最貧困国で、飲料水が媒介する感染症が子どもたちの死因の大きな部分を占めていることからも、それは明らかだということです。

 一方、水行政の一元化についても、この機会に再度検討すべきではないかというのが、この論考で橋本氏が指摘するところです。今回政府は、「国交省がインフラ整備や災害対応において能力と知見、層の厚い地方組織を有している。水道の整備・管理を一元的に担うことで行政効率の向上につながる」としているが、インフラ整備が必要なのは、上下水道にとどまらない。明治用水の取水堰が損壊し、農業生産や工業生産に影響が出たのは国民の記憶にも新しいと氏は話しています。

 人間の暮らしは所属している流域の水とともにある。水は動いていて、人は水の動きの中で生きている。自然界で水を動かすのは太陽と地球で、蒸発は太陽熱エネルギーにより、高所から低所への移動は地球の重力による。地球温暖化で地球の平均気温が上がると水の姿や動き方が変わり、気候変動につながるというのが氏の認識です。

 水を語るには、まず地球を、そして自然の営みを考えなくてはならない。安全、安心な水を安定的に家庭に供給するためには、場当たり的な対応ではなく、大気と水の大きな動きを捉える必要があるということでしょう。

 もしも気候変動によって水の動きが変われば、利水、治水、食料生産、エネルギー政策などに影響が出ることになる。このため、流域の水を循環するものと考え、気候変動への対策、インフラ老朽化への対策を統合的にマネジメントしていく必要があるとこの論考を結ぶ橋本氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2269 森林環境譲与税 どう使う?

2022年10月01日 | 環境

 森林整備の財源として国が全国の自治体に配っている「森林環境譲与税」の予算消化が、特に大都市部で滞っているとの報道が9月6日の日本経済新聞にありました。(「森林整備財源、持て余す都市部 使途なく全額未消化も」2022.9.6)

 あまり知られていないようですが、「森林環境譲与税」とは、2年後の令和6年度から国内に住所を有する個人全員に対して(頭割で年間千円を)課税されることになっている「森林環境税」を原資として、都道府県と市町村に配られる(譲与される)資金です。

 なので、実際の収入はまだ1円もないワケですが、「森林整備が喫緊の課題である」との理由からなぜか譲与金だけが(令和元年度から)前倒しで各自治体に配られており、その財源(約2300億円)には後年度の森林環境税の税収が充てられるとされています。

 因みに、森林環境譲与税は、市町村においては間伐や担い手の確保、木材利用の促進や普及啓発等に使われることになっています。また、都道府県においては、森林整備を実施する市町村の支援等に充てることとされています。

 お年寄りから赤ちゃんまで、黙っていても分け隔てなく「(復興税を引き継ぐ形で)千円いただきます」ということで、(大した議論もなく)どさくさに紛れるように徴収されることが決まった森林環境税。しかし実際の現場では、(5年も前倒しで配られているにもかかわらず)さほど必要とされていないという状況をどう理解すればよいのか。記事の内容をもう、少し深く追っていきたいと思います。

 森林環境譲与税が使われない理由は、(簡単に言ってしまえば)都市部では森林自体がなく使途に乏しいから。そのため、国から配られたお金を丸ごと貯金に回す自治体が続出していると記事はしています。一方、林業が盛んな中山間地域では財源不足を訴える声も聞こえてきますが、過疎や後継者不足から担い手やそもそもの意欲を欠く地域も多いということです。

 お金を配ることばかりが先行して、実際にやるべきことが見えてこない。そもそも、こうしたミスマッチがなぜ起こっているのか。

 2019年から配分が始まった譲与税は、私有人工林の面積や林業従事者数、人口に基づき都道府県や市区町村に案分されているもの。実際に森林がなくても、市町村には人口に応じた金額が入る仕組みで、2019年度の200億円から段階的に引き上げられ、22年度は500億円が配られたと記事はしています。

 総務省のまとめによると19~20年度の市町村分500億円のうち、半分以上の272億円が(持て余され)基金に積み立てられている。一方、年間予算で約5億円を林業振興に充てている東京都の檜原村が21年度に受け取った譲与税はわずかに2541万円で、人工林のない東京23区の平均3444万円と「逆転現象」が生じているということです。

 「森林面積が大きい自治体に多く譲与されるべきだ」…譲与税が導入されて以降、中山間地の自治体では配分基準の見直しなどを求める意見書が相次ぎ可決されたと記事は言います。

 現在は経過措置として譲与税の財源は国庫から支出されているが、令和6年度からは、新たに「森林環境税」として住民税に1000円を上乗せして徴収される。現在、東日本大震災の復興に充てている財源を付け替えるため国民一人一人の負担感は変わらないが、国民が納めた税が目的どおり効果的に使われるかどうか、より厳しく問われるというのが記事の指摘するところです。

 現在、譲与税の配分比率に占める人口要因は30%。これによって、人口の多い大都市部の自治体に多くのお金が流れているが、(記事によれば)実際のニーズに照らせば5%程度が妥当だという声も根強くあるようです。

 さて、記事にもあったように、時限立法である東日本大震災の復興税(防災施策対応)が2023年度に終期を迎えるに当たり、この600億円財源を手放してしまっては勿体ないと環境省、農水省、総務省の間での縄張り争いが繰り広げられ、結果生まれたのが件の森林環境税。制度の成り立ちや素性はともかくとして、せっかく特定財源が確保できたのであれば上手く使わない手はないはずです。

 戦後の拡大造林の影響や昨今の担い手不足、なによりも国内林業のコスト高によって管理がままならなくなった日本の森林資源を活かすための、知恵を試されている状況と言えるでしょう。

 近年ではウッドショックで外国産材の高騰が続き、国産材にも(ようやく)目が向けられるようになったとの話も聞きます。お金もあるしタイミングもいい。日本の森林整備を良いサイクルに乗せるには、(もしかしたら)今回が最後のチャンスになるかもしれません。

 森林整備は温暖化ガス吸収に寄与し、日本が脱炭素を進めるうえで重要なカギを握るもの。税本来の目的を踏まえ、(政治を排した)効果的な森林整備につながる財源配分が求められると考える記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。

 


#2180 エネルギー価格高騰への対応

2022年06月13日 | 環境

 政府は今年1月から石油元売り事業者などに補助金を支給し、給油所への卸値を抑え販売価格の上昇に歯止めをかけてきました。経済産業省は6月13日時点のガソリン価格は、この補助がなければ210.6円に達すると見込んでおり、抑制目標の168円との差は42.6円に及びます。

 政府はさらに6月9日から、これまで補助上限としてきた+35円にそれを超えた分の半分の補助額を上乗せするとしていますが、これ以上の原油価格の上昇が続けば補助金の価格抑制効果が薄れることは必至です。

 報道などによれば、国際的な価格指標であるニューヨーク市場のWTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)原油先物は足元で1バレル120ドルに迫っており、アジア市場などでも、上海などの都市封鎖の解除に伴う需要拡大を見越して中東産ドバイ原油のスポット価格が上昇しているとされています。

 政府は先ごろ認められた補正予算で、ガソリン価格を抑えるための補助金1兆1700億円余りの投入を決めていて、さらに予備費による補填などを加え1兆5000億円程度の歳出増を見込んでいます。これらの財源はすべて赤字国債で賄われることとされており、将来的な見通しが立たない中での政策決定に批判の声も上がっています。

 この先さらに原油価格の高騰が続けば、こうした形での公的資金の投入に財政的な限界が見えてくるのは火を見るよりも明らかです。もとより、元売り事業者への補助金の支給に関しては、「なぜ原油価格の値上がりで利益が見込める企業に補助金を出すのか」「どうしてガソリンだけなのか」といった反発があるのは事実です。

 月々の給料から税金を天引きされる(サラリーマン)納税者の感覚で見れば、現在の状態が「普通」であるとはとても思えません。赤字財政の下、こうした天文学的な金額の公金が一部の企業にだらだらと流れ出ている現状に、不安を覚える人が多いのも致し方がないことでしょう。

 一方、燃料価格の高騰にともなう一時的な措置が、長期にわたる歪みを市場に与えようとしている状況は、日本ばかりのことではないようです。ガソリンや電気代を抑制するための補助金が世界中で常態化しており、年間で100兆円を突破する勢いだと、6月12日の日本経済新聞が報じています。(「燃料補助金 世界で100兆円」2022.6.12)

 ガソリン価格の値上げなどの打撃から貧困層を救おうと、価格に上限を設けるための補助金制度。新型コロナ危機とそれに続くロシアによるウクライナ侵攻を受けた燃料価格の高騰で、今、その規模が(世界中で)一気に膨らんでいると記事は指摘しています。

 2021年時点でおよそ5000億ドル(67兆円)と見られていた世界の燃料補助が、翌2022年には66%増の8300億ドルに達すると推計されている。スウェーデンが(新たに)ガソリンやディーゼル減税を模索しているほか、電気料金の上昇に対し、英国、フランス、ドイツ、イタリア、スペインなどのヨーロッパ諸国では、歩調を合わせるように価格の上限設定を伴う補助制度を導入したということです。

 一方、燃料高は各国の国民に「生活費の危機」をもたらしたが、「ほとんどの補助金は貧困削減の目標に繋がっていない」という指摘もあるようです。パキスタンのシンクタンク「持続的発展政策研究所」は、途上国では所得の下位40%が受けるガソリン補助金の利益はわずかに7.4%に過ぎず、(所得の)上位40%に当たる人々が83.2%の利益を手にしているとしています。

 記事によれば、こうした状況に対し多くのエコノミストは、現金支給など、燃料価格とは独立した支援によって弱者を助ける方が効果的で公平と指摘しているということです。

 途上国の貧しい人々の多くは自動車を持たず、電力へのアクセスも限られている。ここ日本においても、ガソリン価格の上昇が直接家計に(それなりの)影響を及ぼすのは、自動車を日常の足としているような一部の世帯に限られることでしょう。

 そして、(この手法の)最大の問題点は、補助金が化石燃料の本来のコストを見えにくくすることだというのが、記事が最後に指摘するところです。(市場の値付けに比べ)安すぎる電力料金が省エネ努力の邪魔をする。二酸化炭素の排出量削減努力を市場価格に還元する「カーボンプライシング」にも逆行するということです。

 さらに言えば、ロシアのウクライナ侵攻を支えているのが、ガスや石油の収入であることは間違いない。EUや米国が(痛みは承知で)ロシア産原油を買わないと決めたのは将来のエネルギー安全保障を優先した結果だが、補助金で再生可能エネルギーへの移行が遅れれば、脱ロシア依存も妨げられかねないと記事は言います。

 環境や経済のために社会的な保護を犠牲にはできないが、短期的な経済の利益のために、将来の環境や安全を犠牲にすることもできない。一時的な需給ギャップに恒常的に介入し続けても、「弱者保護」という目的をかなえられないばかりか、「神の手」と称される市場の機能すら失うことにもなりかねないということでしょう。

 思えば、「ロシアへの経済制裁」などの理由によって価格が上がったとしても、世界中で消費される石油の量が(節約されることもなく)変わらなければ、値段が上がった分だけ儲かっている人が(どこかに)いるのは子供でも判ります。

 足りない原油は引っ張りだこで、制裁で出荷できなくなったロシア産の分まで売れていく。そのうえ単価はこれまでの1.5倍以上となれば、声には出さずともにんまりとしている人がいるのは想像に難くありません。

 そのうえ、公的資金が消費者単価を引き下げてくれているので、元値がいくら高くなっても出荷量への影響は大きくない。結果、各国はそれぞれの国民から集めた税金を、ただ彼らの利益として積み上げているという残念な結果も見えてきます。

 産油国、メジャーと呼ばれるような元売り業者、総合商社や国内石油産業,、原油先物への投機筋など、関連事業者は多いはず。一番儲けているのが誰とは言いませんが、財政赤字を垂れ流している財政状況を思えば、このままでよいとはとても思えません。政府による長期にわたる市場への介入は、かえって日本の産業を弱らせてしまう結果をもたらす可能性すらあるでしょう。

  緊急避難、競争力の確保といった視点は分かりますが、本当のところ、日本のエネルギー政策を担う経済産業省はこの補助金で何から誰を守ろうとしているのか。原油価格高騰の長期化が見込まれる現在、市場の規律を保つために何ができるかを(改めて)真剣に考えるべき時が来ているのではないかと改めて考える所以です。


#2179 地球温暖化と食料生産

2022年06月12日 | 環境

 「人類のほぼ半数が危険水域で暮らしており、多くの生態系は後戻りできないところへ来ている」…国連のグテレス事務総長は今年の3月末、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が新たな報告書を公表した際の声明で、世界が迎えている危機的な現状をこう訴えたとされています。

 世界各国は現在、2015年の「国連気候変動枠組条約締約国会議」(いわゆるCOP)で合意された「パリ協定」に基づき、平均気温の上昇幅を産業革命前に比べ1.5度未満に抑えるための努力を続けてきました。しかし、この報告書では「地球温暖化は短期のうちに1.5度に達しつつある」との認識を示し、温室効果ガスのさらなる削減努力の必要性を求めています。

 報告書は、現在、世界の33億~36億人が気候変動による影響に対応しきれず、高温や水害に見舞われやすい状況にあると説明。動植物についても数万種のうち最大14%が非常に高い絶滅リスクに直面していると指摘しています。農業をはじめ食料生産への打撃も大きく、豪雨や干ばつなどの異常気象によって生産効率が低下し、アジアやアフリカ、中南米を中心に数百万人が深刻な食料不足に苦しみ、最大30億人が慢性的な水不足に見舞われているということです。

 気候変動を巡るこうした状況を踏まえ、地球温暖化が農業生産にもたらす影響に関し、4月7日の日本経済新聞の連載コラム「やさしい経済学」に早稲田大学准教授の下川哲氏が「気候変動で地域格差が拡大」と題する論考を掲載しているので、参考までに概要を紹介しておきたいと思います

 食料生産は自然条件に大きく左右される。そこで気になるのは、近年なにかと話題になる気候変動の食料生産への影響だろうと、下川氏はこの論考に記しています。

 もちろん、そのような影響を考える際には、気候の変動だけではなく経済学的な視点も重要になる。また、単純な「気候の変動」だけでなく、地球温暖化に起因する降水量の変化や海水温の上昇、自然災害の増加なども含む大きな環境の変化を考える必要があるということです。

 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)という国際的な機関の予測によると、平均2度までの気温上昇なら食料生産への影響は限定的で、むしろ気温上昇によって収穫量は増えると氏は解説しています。

 しかし、気温上昇が平均2度を超えると、異常気象や病害虫などによるマイナスの影響が大きくなり、収穫量が減り始める。そして、平均で3度を超える上昇となると、利用可能な水も不足し始め、収穫量がさらに減少するということです。

 地球規模の長期予測に基づけば、結果として、2100年までには、世界の大半の地域が、気候変動の影響によって食料の収穫量が減少するというリスクを抱えることになる。しかし、そのリスクの度合いには、(想像以上に)地域差が大きいというのが氏の見解です。

 その要因は、気候変動に地理的な地域差があるのに加え、地域によって実行される気候変動対策に差が出るため。「影響の地域差」に「対策の地域差」が加わり、気候変動リスクの地域差がより大きくなる懸念があると氏は指摘しています。

 それは、実際どういうことなのか。先進国など経済的に豊かで技術力のある国や地域は、気候変動に適応した農業技術開発やインフラ整備などの対策ができ、リスクを最小限に抑えることができると氏は言います。しかしその一方で、途上国など経済的な余力や技術力がない国や地域は自力で対策をとることが難しく、気候変動による負の影響を無防備な状態で受けることになるということです。

 つまり、気候変動によって、食料を輸出するような先進国と、食料不足に苦しむ途上国の格差は、今後さらに拡大していく可能性があるということ。環境の変化、時代の変化によって傷つくのは、常に弱い立場にある人たちだということでしょう。

 いずれにしても、気候変動がもたらす生産量の変化や偏りは、国際的な食料の取引量が増加する可能性を示唆している。途上国にとっては、(地球温暖化によって)国際食料市場の重要性が一段と高まることが考えられると、氏はこの論考の結びに記しています。

 国民の生命と生活を維持していくための食糧を確保することが、途上国にとってさらに最優先の課題となる。次の時代にはそんな厳しい状況が訪れようとしているのかと、氏の論考を読んで私も改めて考えさせられたところです。


#2167 昆虫食の可能性

2022年05月28日 | 環境

 先日、所用で静岡県の寸又峡に赴いた際、食堂のメニューの中に「寸又名物はちこ飯」というものを見つけました。残念ながら「季節限定」ということで実食は叶わなかったのですが、お店のおかみさんによれば、なんでも地蜂の幼虫をご飯に炊きこんだ料理とのこと。白いご飯の中にぷちぷちと幼虫がうごめいている姿を想像して、思わずマゾヒスティックな鳥肌をたててしまったところです。

 魚や動物などと違い、「虫を食べる」というのはなぜか抵抗感のあるもの。カニやエビなら喜んで、タコやイカは日常的に、ホヤやウニまで有難がって食べる日本人でも、昆虫ばかりはやはり「ゲテモノ食い」の域を出ないようです。

 (日本人の大好きな)カニやエビと極めて近い種類とはいえ、足や羽の生えた「虫」をそのまま口に入れるのは管理されつくした現代人には流石に厳しいものがある。そう心得ていたのですが、最近では街中で昆虫料理のお店が増えてきているという話もよく聞きます。

 若い女性などには、コオロギやタガメ、ハチの蛹などが人気だそうで、カラカラに炒ったその口当たりは、サクラエビなどに似た香りや香ばしさがあるということ。そういえば、以前中国の広州で食したゲンゴロウも、そんな感じのスナック感があったなと思いだしたところです。

 4月19日の健康食品の業界紙「健康産業新聞」は、昆虫食は現在、世界的なサステナブル志向で市場規模は拡大傾向にあり、2030年度には市場規模が8000億円に到達するとの試算もあると解説しています。

 FAO(国際連合食糧農業機関)は、2013年に発表した報告書において「近い将来、人口増加に伴い動物性たんぱく質の需要が増し、食糧や家畜の飼料が不足する」と指摘。「昆虫食は栄養価が高く、家畜に比べて低コストで飼育でき、地球環境と人々の健康に貢献する」と提唱したことで、市場形成が本格化したということです。

 一方、国内市場の起爆剤となったのは良品計画の「コオロギせんべい」という商品で、即日完売したことが話題となり食用昆虫の認知度が高まったとのこと。その後、昆虫食市場に参入する企業が相次ぎ、100円ショップ・ダイソーでは「コオロギせんべい」を昨年11月から販売し人気を博しているということです。

 さて、こうして我々日本人にとっても身近になりつつある昆虫食について、4月14日の日本経済新聞に早稲田大学准教授の下川哲氏が「昆虫食が秘める多くの可能性」と題する一文を寄せているので、この機会に紹介しておきたいと思います。

 「虫を食べるなんて……」と最初から拒絶する人も多いかもしれないが、昆虫食は現在、肉に代わるタンパク質源として世界的に注目され始めている。それは、同じ量のタンパク質を生産するために必要な自然資源(飼料、水、土地など)と温暖化ガス排出量が牛肉と比べて5分の1から10分の1と少なく、環境にやさしいからだと氏はコラムに綴っています。

 生産に当たって農地を必要としないのも大きな利点となる。実際、簡単な設備さえあれば、自宅アパートの押し入れを使い、1.5カ月で約20キログラムのコオロギを生産することも可能だということです。

 (寸又峡の例に見るように)日本では昔からポピュラーだった昆虫食ですが、最近の新しい動向として注目されているものに、「食用昆虫の養殖」と「家畜の飼料としての利用」があると氏はここで指摘しています。

 現在、世界で食べられている昆虫の90%以上は野生の昆虫だが、養殖化すれば、より安全な昆虫を安定的に供給できるようになる。また、昆虫を飼料とすることで、飼料穀物を生産する農地を節約でき、食肉生産による環境的負荷を減らせるというメリットもあるということです。

 そうした中、現在、特に注目されている食用昆虫は、コオロギとミズアブだと、氏はこの論考に記しています。これら昆虫のメリットは、食性が扱いやすく養素の含有量も豊富であること。

 (他の食用昆虫に比べて)タンパク質含有率が高く、ミネラルも豊富であることに加え、コオロギは雑食性でミズアブは腐食性(腐ったものを食べる)なので、食品ロスなどを餌にして容易に育てることができる。このため、密集飼育しても共食いしないようにするなど、事業化に向け様々な工夫と技術改良が始まっているということです。

 そしてこの日本でも、「京都こおろぎ」や「群馬こおろぎ」のように、ご当地グルメ的にコオロギの種類や味付けがちがう商品が出始めていると氏はしています。

 見た目が気になる人でも、粉状にしたコオロギを混ぜた商品なら食べることに違和感はない。さらに、家畜飼料としての利用であれば、人が食べるのは食肉のままだということです。

 昆虫を口に入れるか入れないかは、あくまで歴史的に培われた食習慣の問題。従って、おいしく食べられるよう加工さえできれば昆虫だからと構えて接する必要はないのでしょう。

 一方、消費へのハードルは「慣れ」が解決してくれるとしても、事業化にはコストや施設などの供給の安定化も重要な要素です。(ともすれば「ゲテモノ扱い」されやすい事業分野であり)新規の事業化にはそれなりの勇気も必要となることでしょう。

 そうした観点もあってのことか、現状では、(まずは)生産者の確保や法整備などが、供給拡大のボトルネックになっていると話す氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2158 いやならとっとと買い替えろ(笑)

2022年05月17日 | 環境

 先日、自宅の郵便受けを覗いたら、今年もまた律儀に届いていた(封筒だけで一目でわかる)自動車税の納付書。ゴールデンウィーク前の風物詩とでも言うように、今年もまたその季節がやってきたのだなぁと改めて感じたところです。

 自動車の登録者に毎年課せられる自動車税は地方税。各自治体の一般財源として、広く公共事業や社会保障などに充てられます。ほとんどの都道府県で自動車税の納期限は5月31日となっており、これを過ぎると延滞税が発生したり、自動車税納付証明書が発行されないことにより、車検を通すことも出来なくなります。

 添付されている説明書きによれば、「自家用かつ令和元年10月1日以降の初回登録」において、課税額は「電気自動車・1リットル以下は2万5000円、1リットル超-1.5リットル以下は3万500円、6リットル超(つまり6000cc以上の車)の場合は11万円」とされており、排気量の多寡によって課税額が異なるようようです。

 ターボだハイブリッドだとエンジンの排気量と車の大きさが比例しなくなっている昨今、時代遅れの観もありますが、今回、驚いたのはその金額がいつもの年よりもずいぶんと高いこと。「間違いじゃないの?」と調べたところ、2014年の税制改正で、所有年数が13年を超えると約15%も増税されることになっていることが判りました。

 古い車を大切に乗っていることで、(褒められることはあって)お役所からペナルティを受けるいわれはありません。しかも、7万円も8万円も支払わされるのでは、(車検を盾に)なんか「ぼったくっれている」ような気もします。

 こうして、高額な請求書に納得がいかず少し憤慨していたところ、5月10日付けの「くるまのニュース」に、自動車ジャーナリストの瓜生洋明氏が「「恐怖の手紙」は届いた? なぜ自動車税の「13年超車」は税金高い?」と題する一文を寄せているのが目に留まりました。

 自動車税に関しては、新車登録から13年が経過したクルマについては概ね15%の重課措置がとられている。長く乗り続けることは「持続可能な開発目標(SDGs)」といえなくもないのに、なぜ13年超えのクルマは重課税の対象となるのか。

 この措置が導入された背景には、(多くの人が予想するとおり)「地球温暖化対策と大気汚染対策」があると、瓜生氏はこのコラムに綴っています。

 税制の基本的原則として「受益者負担」というものがある。この場合でいえば、古いクルマは最近のクルマに対して環境負荷が高いことから、古いクルマのユーザーがより多くの税金を負担するべきだという発想に基づくものだと氏はしています。

 13年超のクルマへの重課措置を批判する人の多くは「古いクルマを長く乗り続けたほうがエコである」という説を唱えることだろう。しかし、環境省の資料によると、この説は必ずしも正しくはないというのが氏の指摘するところです。

 瓜生氏によれば、2018年時点で登録されている乗用車における重課措置の対象車(つまり、新規登録から13年以上経過した車)は、保有台数全体の19.0%に及ぶということです。

 一方、13年前の2005年に(JC08モードで)14.0km/Lだった新車の平均燃費は、2018年時点では22.0km/Lにまで伸びている。つまり、日本の自動車は新技術の導入によりこの13年で57%もの燃費改善を実現していると氏は話しています。

 これらのデータをもとに環境省が行ったCO2の排出量に関するシミュレーションは以下のとおり。

① 2000年に新車を購入し2025年までクルマを利用するユーザーAとBを想定し、Aは重課措置を避けて2013年時点で新車に買い替え、Bは25年まで同じクルマに乗り続けるとする。

② 2000年にAとBが購入したクルマの燃費を12.5km/L、2013年にAが購入したクルマの燃費を20.5km/Lとし、年間走行距離は1万kmと想定する。また、新車の製造に排出されるCO2については、これまでの研究論文をもとに、概ね4.1tとして計算する。

③ 最初の新車の購入年(製造年)には(それぞれ)4.1tのCO2が排出されるとして、AとBのCO2排出量は2012年までは同一量だが、2013年にAが新車に買い換えることで一時的にAのCO2排出量の方が大きくなる。

④ しかし、2018年を境にAとBは逆転し、2025年時点ではAのCO”排出量が46.472tであるのに対しBは51.616tと、約10%の差が生じる。 …ということのようです。

 この結果を見る限り、13年超のクルマにおける重課措置の目的が「地球温暖化対策と大気汚染対策」であり、CO2排出量の削減であるなら、重課措置を課すことはしっかりと根拠のあることになると、瓜生氏はこのコラムで説明しています。

 さらに自動車税制には、重課措置だけではなく排出ガス性能や燃費性能に応じた軽課措置も設けられている。実際、電気自動車(EV)や燃料電池車(FCV)、プラグインハイブリッド車(PHV)などであれば、おおむね75%も軽減される場合などもあるようです。

 時代は既に「環境」にシフしている。なので、余計な負担がいやだったら、とっとと(お得な)環境性能の良い車に買い替え、消費の拡大に貢献しろということなのでしょう。

 しかし、そうは言っても、古い車には古い車なりの愛着や良さがあるのもまた事実。新車を作るのに必要な資源や環境への影響、コストなどを考えれば、やたら乗り換えればよいというものではないはずだと抵抗のひとつもしたくなる自分は(やはり)古い人間なのだろうなと、氏のレポートを読んで改めて苦笑いしたところです。

 


#2034 ポストコロナのコミュニケーション

2021年12月05日 | 環境


 新型コロナの感染拡大もここに来てようやく収まる様子を見せる昨今、緊急事態宣言は解除されても、オンラインを中心とした仕事の進め方はもはやコロナ前に戻ることはなさそうです。

 資料はデータで(やたらと)送られてくるし、一方の対応はチャットの一言二言で済んでしまう。打ち合わせやミーティングはオンラインが当たり前となり、テレワークの浸透で職場に姿を見せる人間の姿もめっきり少なくなりました。

 オフィスの自室にいても(ほんの数十メートルの距離なのに)若者たちはもはやいちいち説明には来てくれず、「資料を見といてね」というメールでの塩対応が当たり前。一方、資料を読み込んでいることが前提なので、これまで1時間かかっていた会議が(お互い伝えたいことだけを伝えて)ものの15分くらいであっさり終わってしまったりすると、「これで本当に大丈夫なのかな」と、少し不安になったりもする昨今です。

 しかし、こうしてオンライン会議などが増えてくると、自分がいかに「昭和のサラリーマン」であったのかが痛いほどよくわかります。液晶画面越しにしか会ったことはない人とはやはり話しづらいし、マイクをクリックして自分の用件だけをさくさく述べるのにも抵抗がある。相手の反応がよく見えないので話にどこまで乗ってきているのかが不安になることもあるし、逆にこちらの雰囲気も伝わらない。マイク越しでは厳しい意見もなかなか言えず、当然、議論もあっさりしたものになりがちのような気がします。

 やはり会議と言えばお互いの顔を見て、(会議前の冗談も含め)全体の雰囲気から議論の流れを掴んでいくもの。無理な提案にムッとする顔を見せれば相手はひるむし、建設的な意見が出れば参加者は盛り上がる。議論の内容ばかりでなく、参加者の印象を含めた様々なメッセージを伝えてくれる、貴重な機会だったのではないかなどと感じたりもします。

 会議の席ばかりでなく、Face to Faceのコミュニケーションが、ビジネスにおいて様々な情報をもたらすのは(おそらく)事実ではないでしょうか。ゴルフに行ったり接待をしたりというのも確かに大時代的ですが、少なくとも得意先に顔を出すのは市場の情報を得たりニーズを探るうえで重要なこと。用件だけ伝えていたのでは人として理解されないし、相手の感情の動きも見えてこないことでしょう。

 ビジネスシーンの中でも、これまで非言語的なコミュニケーションに重きを置いてきた職場のマネジメントなどは、このコロナによる環境の変化でずいぶんと難しくなったのではないかと感じることもあります。日常のコミュニケーションの機会が奪われ、組織内の信頼関係が築けない。部下の人となりがわからず困惑する上司や、上司の一方的に支持に戸惑いを覚える部下も多いことでしょう。

 こうして新しい働き方が広がる中、管理者は、様々な制約の中で組織内でのコミュニケーションをどうとっていくべきか。マネジメントを任されている多くのオジサマたちの悩みに応えるように、10月26日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」に「意思疎通は戦略的に」と題する一文が掲載されていました。

 新型コロナウイルス下で会議や研修の多くがオンラインになり、コミュニケーションに関する課題とともに組織の潜在的な問題があぶり出されるようになった。誰と誰が、何を目的に何についてコミュニケーションすべきか、この機会に職場におけるコミュニケーションのあり方を抜本的に見直す必要があるとコラムはその冒頭に綴っています。

 単なる報告ならオンラインで十分だ。会議とは本来は「会って議論(対話)」する場だが、目的が明確な場合はオンラインも有効に機能する。例えば、上司と部下が定期的に開く1対1のミーティングでは、漠然としたコミュニケーションが目的であればオンラインは不向きだが、部下の育成やキャリア指導というような「明確な目的」がある時は、オンラインでも信頼関係は十分に醸成できるというのが筆者の認識です。

 また、昨今指摘される「品質コンプライアンス」の問題は、営業部門と生産現場のコミュニケーションに主な根本原因があるとされる。しかし、それは対面かオンラインかといった会議の開催方法の問題ではなく、重要なのは会議の内容を変えることにあると筆者は言います。両者が「販売価格と原価」の話だけでなく、検査項目や仕様要件など品質に関する対話がしっかりできれば、問題解決に寄与するはずだということです。

 企業と顧客との接点もまたしかり。普段は営業担当や幹部に偏りがちの顧客とのコミュニケーションも、オンライン会議であれば生産部門や品質管理部門など様々な関係者も参加しやすいと筆者は話しています。関係する全ての部門が参加して顧客の意見や声を直接聞けば、ニーズを適切に捉えて誤解が生じにくくなり、情報共有のための時間も不要になるなど絶大な効果をもたらすだろうということです。

 しかし、だからといって全ての会議をオンラインによって効率化できるかと言えば、そういうものでもないというのがコラムにおける筆者の見解です。取締役会などガバナンス(企業統治)にかかわる会議や監査業務、頻繁に会うことのないメンバーが集まる会議は、できるだけリアルで対話すべきだと筆者はしています。ゼロから人間関係を構築するのはオンラインでは難しい。新人や中途採用者にとっては社内事情が分からず不安が増すかもしれず、特別な配慮が必要だというのが筆者の指摘するところです。

 結局のところ、対面に勝るコミュニケーションはない。しかし、制限された環境下でも、時間という有限で重要な経営資源を効率的に活用できるコミュニケーション戦略が必要だと、筆者はこのコラムの結びに記しています。効率と冷静さ。人間関係や雰囲気に流されない合理的な判断など、オンラインを使ったコミュニケーションの優位性というものも、これから先、次第に見えてくるかもしれません。

 環境への柔軟性は、企業の競争力を高めるもの。つまらぬアレルギーなど持たずに積極的に取り入れ、メリットを活かしていくべきだと考える筆者の指摘を、私も興味深く読んだところです。


♯1852 カーボンニュートラルに最も貢献する政策

2021年05月17日 | 環境


 近年頻発する異常気象の原因の大きな原因と目されている地球温暖化に対し、世界の国々が一つとなって温暖化の原因となる(とされる)大気中の二酸化炭素濃度の上昇抑制を目指す「カーボンニュートラル」という概念が、欧米の先進各国を中心に時代のキーワードとなっています。

 カーボンニュートラルとは、(簡単に言ってしまえば)生産や消費などの一連の経済活動を行った際に排出される二酸化炭素と、吸収される二酸化炭素を同じ量にするというもの。令和3年1月20日時点で、日本を含む124カ国と1地域が既に「2050年カーボンニュートラル」を表明しています。

 今年2月に地球温暖化防止の国際枠組みである「パリ協定」への復帰を表明した米国のバイデン政権は、2030年までに洋上風力による再エネ生産量を倍増したり、自動車産業や電力部門などのクリーンエネルギー分野を中心に4年間で2兆ドルの投資を行うことなどにより2050年の脱炭素化を目指すとしています。

 また、EUは、50年までの実質排出ゼロを「欧州気候法案」で既に法制化しており、コロナ復興予算となるEU7カ年予算と復興基金の計1.8兆ユーロのうち、30%以上(約70兆円)を気候変動に充てる方針とされています。
 そして、世界最大のCO2排出国である中国も、昨年9月の国連総会において習近平国家主席自身が「2030年までにCO2排出を減少に転じさせ、60年までに炭素中立に努める」と表明しています。中間目標として2030年を二酸化炭素排出量のピークとし、2035年までに新車販売の主流をEV化することなどで目標達成を目指すということです。

 一方、わが国はどうなのか。日本は、二酸化炭素など温室効果ガスを推計で年間約12億1300万トン(2019年度)排出しているとされています。水素などのクリーンエネルギーや洋上風力などの再生可能エネルギーの活用で大幅に削減する一方、やむを得ず排出される温室効果ガスと同じ量を吸収や除去することで、大気中の排出量を(2050年時点で)「差し引きゼロ」にするというのが菅政権の考えです。

 まずは、2050年に向けCO2を排出する石油や天然ガスといった化石燃料の使用量を削減し「電化」を加速すること。経済成長に伴い3~5割増加する電力需要を補うため、ベース電源としての原発に加え、再生可能エネルギーや(製造過程でCO2を排出しない)水素やアンモニアを活用すると政府はしています。
 さらに、高効率の火力発電を整備・使用しつつ、排出されたCO2を分離・回収し、樹脂原料に活用したり地中に埋めたりする「CCUS(Carbon dioxide Capture,Utilization and Storage)」技術などを組み合わせてその実現を図るというのが政府の目論見です。

 もちろんカーボンニュートラルは、パリ協定などの国際的な枠組みの下で協調して進めている取り組みであり、また、そうしたチャレンジがなければ世界の投資を呼び込めず、新たな投資も生まれないという実利的な理由も垣間見えるところです。

 とはいえ、一口に「カーボンニュートラル」といっても、その実現はそう簡単なものではなさそうです。産業や交通の電化には多額のインフラへの投資が欠かせないし、再生可能エネルギーのコストはまだまだ高い。頼みの綱の原子力発電には、放射能の問題が常について回ります。
 2050年まであと残り30年。約束してしまったは良いものの、私たちはどうやってそのハードルを乗り越えていくのか。カーボンニュートラルを巡るこうした問題に対し、作家の橘玲氏は週刊プレイボーイ誌(4月19日号)に連載中の自身のコラムに、「地球にもっともやさしい再生エネルギー政策は「節電」」と題する興味深い一文を掲載しています。


 菅政権が約束した2050年までのカーボンニュートラルの実現に欠かせないのが、化石燃料から再生可能エネルギーへの転換であることは間違いない。しかし、「はたしてこれは実現可能なのか?」と氏はこのコラムで疑問を呈しています。
 北ヨーロッパで風力発電が普及したのは、通年にわたって強い風が吹く北海の洋上に風車を並べているからで、対する日本は北海道の北端がかろうじて偏西風の帯域に引っかかっているだけで適地とはいえない。実際、震災復興プロジェクトの一環として(600億円を投じ)福島県沖で浮体式洋上風力発電の実証実験が行なわれたが、政府は採算が見込めないとしてすべての施設を撤去する方針を固めたということです。

 太陽光発電はスペインなど南欧やアメリカのテキサス州で盛んだが、これは(気候的特徴として)通年にわたって強い日差しがあるから。それに対し曇天の多いモンスーン気候の日本では、地中海沿岸や砂漠地帯のような発電効率は見込めないというのが氏の指摘するところです。
 もとよりこうした事情は、緯度が低く日照時間の短い北ヨーロッパ諸国でも同じだと氏は言います。ドイツは2022年末までに原発をゼロにし、国をあげて再生可能エネルギーに転換しようとしているが、2000年以降、消費者に請求される電気代は倍増し、二酸化炭素排出は横ばいむしろ近年は増えているということです。そしてこれは、風力発電と太陽光発電に多額の投資をする一方で既存の原発を閉鎖したため、発電量が足りない分を石炭発電に頼らざるを得なくなったからだ氏は説明しています。

 一方、電気の高額な買取制度や補助金により一時は人気を博した太陽光発電も、平坦な土地に多くのソーラーパネルを並べなくてはならないため、近年では「環境破壊」との批判も出てきたと、氏は指摘しています。日本は平地が少ないので、こうした問題は各地で深刻に受け止められている。確かに、地球環境を守るために環境を破壊するとしたら、それは本末転倒の誹りを免れないというのが氏の認識です。
 火山の多い日本でもっとも有望な自然エネルギーは地熱だが、発電の適地のほとんどが国立公園や国定公園で温泉観光地としてすでに開発されているため、そこには地元との困難な交渉が待っている。環境省は2012年に地熱発電の規制を一部緩和したものの、10年経っても大規模な地熱発電所はひとつもできていないということです。

 そうなると、残るのは二酸化炭素を排出しないことで知られる原子力発電ということになりますが、現状では福島原発事故の影響で既存の発電所の多くが再稼働できず、新設・増設の目途は全く立っていないと氏はしています。
 2050年を見据えて現実的に見ていくと、日本の「エネルギー転換」は八方ふさがりで絶望的な状況だとういうのが、再生可能エネルギーへの転換問題に対する橘氏の見解です。

 さて、だとしたら、このままなす術もなく世界からの批判に耐えなくてはならないのか。そんなことはない。実は素晴らしい「再生可能エネルギー」があると、氏はここで指摘をしています。それは、コラムのタイトルにもあった「節電」という政策だということです。

 当たり前のことだが、電力消費量が減れば、発電のための化石燃料も少なくてすむ。カーボンニュートラルの実現に向けいろいろなエネルギー政策があるにしても、「節電が最も地球にやさしい発電」であることは間違いないと氏は言います。
 確かに、省エネルギーのためのこまごました技術に関しては、(日本は得意分野ということもあり)まだまだ開発余地が残されていることでしょう。また、節電のための効果的な政策は(家庭用)電気料金を大幅に引き上げることで、そうすれば「オール電化」のようなバカげたことはなくなるだろうというのが氏の指摘するところです。

 「カーボンニュートラル」という(欧米先進国による)何やら勇ましい掛け声のもと、何かといえばピカピカの「新技術」に目を向けがちな我々ですが、確かにこの問題の本質はもう少し身近なところにあるのではないかと、橘氏の指摘から私も改めて考えさせられたところです。
 


♯1850 何のために地球環境を守るのか

2021年05月14日 | 環境


 18世にイギリスで始まった産業革命以降、化石燃料をじゃぶじゃぶと使い、大量生産、大量消費の経済活動を続けてきた人類ですが、そういった長年の蓄積が今、地球温暖化や異常気象などの(地球環境レベルでの)様々な問題を引き起こしているとされています。
 今後も人類が豊かな繁栄を続けていくためには、これまでのような経済活動では成り立たない。そうした思いから、SDGsやカーボンニュートラル、GX(グリーン・トランスフォーメーション)などといった言葉が、(まるではやり言葉のように)時代のトレンドとなっています。

 「世界では今、2万種を超える、野生の動物や植物が、深刻な絶滅の危機にさらされていますが、そのことも、この失われゆく地球の自然環境の現状と大きく関係しているといえるでしょう。こうした環境の悪化の大きな原因となっているのが、人類による地球の「使いすぎ」です。」
 世界的なネットワークを持つ環境保全団体「WWF」(「World Wide Fund for Nature(世界自然保護基金)」 )JAPANのホームページには、温暖化により絶滅の恐れがあると言われるホッキョクグマの親子の写真とともにこう綴られています。

 また同ホームページは、海洋ごみの影響により、魚類、海鳥、アザラシなどの海洋哺乳動物、ウミガメを含む少なくとも約700種もの生物が傷つけられたり死んだりしていると指摘しています。
 このうち実に92%がプラスチックの影響で、例えば漁網などに絡まったり、ポリ袋を餌と間違えて摂取することによりウミガメの52%、海鳥の90%が体内にプラスティック片を摂取しているとし、傷ついた海鳥の写真などを掲載し保護活動に対する寄付を募っています。

 「僕たちの地球を守ろう」は(小さな子供からお年寄りまで)すでに時代の合言葉となっており、ESGに配慮しない投資は欧米を中心に既に見向きもされない状況も生まれつつあるようです。
 昭和の高度成長期に生まれすっかり資本主義に染まっている私などでさえ、エコカーに乗り換えたりプラごみの分別をしたりするたびに、少しはいいことをした、環境の役に立ったかな、などと思ってしまうところです。

 人々を(何となく)優しい気分にさせるそうしたムードの中、雑誌「週刊新潮」の5月6・13日号に、テレビなどでも活躍する若手社会学者の古市憲寿氏が「地球を守ろう」のウソ~環境保護は人間の居住可能地域を増やすため」と題する、(ちょっと気になる)一文を寄せています。

 先進国の間で環境問題への注目が集まっている。スウェーデンのグレタ・トゥーンベリは国際的な有名人になったし、日本でも2020年7月からレジ袋の有料化が義務づけられたと氏はこのコラムに記しています。
 もっとも、国内では、プラスチックゴミの総量におけるレジ袋の占める割合は1.7%に過ぎず、また海洋プラスチックゴミの排出が多いのはインドネシアなどの東南アジア諸国や中国だということはあまり知られていない。
 日本はリサイクルや焼却処理が適切に実施されている国の一つで、国際的な視野で考えるならば、(日本中の人々が日々イラッとしている)レジ袋有料化などではなく、東南アジアへの技術支援を進めたほうが、よっぽど意味があるというのが氏の認識です。

 環境に関する議論では、しばしば「地球を守ろう」とか「地球が危ない」といったフレーズが使用されることがある。地球を擬人化して意識を高めたいのかもしれないが、それ自体は嘘もいいところだと氏はしています。
 地球は人間ごときに守れるような代物ではない。そもそも現在の人類の技術では、地球を破壊することは不可能だ。世界中の核爆弾を使えば、都市の破壊や、人類を激減させることはできるだろうが、地球そのものは壊れないということです。

 結局のところ、環境保護は地球のためでもなんでもなく、人類のための活動だというのが、このコラムにおいて氏の指摘するところです。
 本質的には、気候変動や海面上昇によって居住困難地域が増えて困る、という話である。地球温暖化の危機を訴えるパンフレットなどでは、とってつけたようにホッキョクグマなど生物種の絶滅にも触れられているが、あくまでも本題は人類の生活の問題だと氏は言います。

 人類はいつまで生き延びられるのかと言えば、長期的視点に立てば、再び地球に氷河期が訪れるのは確実だし、これまで5回発生している生命の大量絶滅イベントも繰り返されるだろう。隕石衝突や火山噴火などによって、大半の生物種が絶滅する可能性も大いにあり得る。
 さらに太陽の膨張によって、約10億年後に地上は干上がり、この前後で地球生命は絶滅してしまう可能性が高い。そして最後は約120億年後に、地球は完全に太陽に飲み込まれてしまうということです。
 本当に地球を守りたいなら太陽の膨張を食い止める必要があるが、それよりも遥か前に人類は絶滅しているだろう。環境問題に熱を上げるのはいいが、それは「自分たちのため」というのを忘れずにいた方がいいと、古市氏はこのコラムをまとめています。

 さて、確かに「地球環境の変動」という人間の経済や社会の維持にかかわる現実的な問題を、ロマンティックな感情論で訴える語り口について、多少の違和感を感じているのは(もしかしたら)古市氏だけではないでしょう。地球環境問題はヒューマニズムで解決するようなものとは思えないし、そうした知性派を装った態度に、「かえってウソっぽい」と反感を抱くリアリストも多いかもしれません。

 しかしその一方で、温室効果ガスの排出削減の取り組みやエネルギー消費型の暮らし方の見直し、プラスチックごみの削減などが、長い目で見て子供や孫の世代が健康で豊かに暮らすために必要な投資であることは(おそらく)間違いないでしょう。また、こうした動きが社会の仕組みを刷新し、新しい価値が投資を呼び起こして今後の経済にプラスの影響を与えることも大いに期待できるところです。

 これから進めるべきイノベーションが、北極に暮らすシロクマの親子やかわいそうな南海のウミガメのためばかりでなく、私たち自身の利益につながることを皆がしっかり理解したうえで目前の地球環境問題に取り組んでいく必要があるのではないかと、コラムを読んで私も改めて感じたところです。