MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2708 銀行の貸金庫は「パンドラの箱」

2025年01月10日 | ニュース

 昨年暮れのニュースで話題になったのが、三菱UFJ銀行の40代女性行員が東京都内の支店の貸金庫から顧客の金品を繰り返し盗んでいた事件。東京都内の2支店で営業課長などを務めていた彼女は、スペアキーを使って無断で金庫を開錠し中に入っていた顧客の現金を自分のものにしていたということです。

 被害者は少なくとも60人にのぼり、被害額も分かっているだけで10億円に上る由。現金を1円単位で厳しく管理している銀行でこれまで発覚しなかったのは、現金を盗み出した貸金庫に顧客が訪れた際には、他の顧客の貸金庫の現金を一時的に補塡し帳尻が合っているように偽装していたからとのこと。私自身は「貸金庫」というものを使ったことはありませんが、あらためてその存在の「危うさ」と、管理の(意外なまでの)杜撰さに驚いた人も多かったのではないでしょうか。

 そもそも、(話には聞いていた)銀行の各支店などにある「貸金庫」とはどういう存在で、どんな人が利用し、中には何が入っているのか。12月13日の「東洋経済ONLINE」(「三菱UFJ銀行「貸金庫事件」が開けたパンドラの箱」)がその辺りの事情も含め分かり易く伝えているので、この機会に少し勉強してみたいと思います。

 事件に関する三菱UFJ銀行の(これまでの)発表によると、貸金庫からの資産の窃取は練馬支店、玉川支店の2カ店で管理職だった女性行員が行っていたもの。被害者は約60人、被害総額は十数億円に上ると記事はその冒頭に記しています。

 関係者によれば、元行員が盗み取った多くは「現金」だった由。同行は、貸金庫に格納できる対象を規約に例示しているがその中に「現金」はなかった。しかし一方で、格納できないものとして「危険物や変質、腐敗のおそれがある等、保管に適さないもの」が挙げられているだけで、そこにも「現金」の文字はなかったということです。

 普通、「金庫」と言えばお金を入れるもの。しかし、こと貸金庫に関しては、「現金」を入れないことがデフォルトとされていた。でも、どこにも明確に「ダメ」とは書かないことで、いわば「大人の了解」「グレーゾーン」として扱われていたということでしょうか。

 もちろん、(被害の状況からも判るように)多くの顧客はそれを承知の上で貸金庫を利用していたのでしょう。そしてこれは件の三菱UFJ銀行に限ったことではなく、全国津々浦々の金融機関の支店で同じような使われ方をしていることが予想されます。

 さて、そう考えれば今回の事件では、元行員が行った窃取という犯罪行為以外にも、もう一つ問われるべき視点があると記事は指摘しています。

 それは、「なぜ銀行の貸金庫に現金を格納するのか」という根本的な疑問です。当然ながら銀行には、預金窓口もあればATMもある。貸金庫の契約者は口座を持っていることが前提なので、現金をわざわざ貸金庫に入れる必要がどこにあるのか?

 この合理的とは言えない行動から浮かび上がるのは、貸金庫の中にあったのが「表に出せない金」ではなかったのかという疑念だと記事はしています。実際、多額の現金が窃取されたにもかかわらず、被害届があまり出ていないとのこと。貸金庫の中を覗いて「あれ?」と思っても、入れてはいけない場所にあってはならないお金を隠していた身としては、なかなか言い出せないのも頷けます。

 一般的には公正証書や不動産の権利書などを入れている事例が多いと考えられる貸金庫ですが、記事は「相続時の資産をごまかすため、あるいは現金での報酬など課税対象となる所得をごまかすために格納しているケースはあるかもしれない」と話す関係者の声を伝えています。

 今回の事件の舞台となったのは、わずかに都内の2カ店のみ。しかし、わずか2カ店の、それも一部の貸金庫に十数億円近い現金があったことを考えれば、全国の銀行支店の貸金庫にはいったいどれほどの現金が潜んでいるのだろう。仮に巨額の「脱税マネー」が全国の金融機関の貸金庫に潜んでいるのであれば、それ自体、見過ごすことはできない問題だと記事は指摘しています。

 記事によれば、現在、三菱UFJ銀行に対し銀行法24条に基づく報告徴求手続きを進めている金融庁が、(今回の事件を踏まえ)貸金庫業務を営む全国の金融機関に対し利用実態の調査に乗り出す可能性も高いとのこと。もちろん、貸金庫に対する税務当局の視線も厳しくなることでしょう。

 実際のところ、銀行にとっての貸金庫業務は、年間数万円の利用手数料を徴収できる一方で、厄介な問題を抱えるようになっていると記事はしています。

 例えば、貸金庫の存在について「本人以外に通知不可」とする契約を結んでいる場合、本人が認知症などになった際には「開かずの扉」となってしまう。「開かずの扉」となった貸金庫では本人の所在がわからないケースも珍しくなく、さらに「中身が何かわからないものを銀行が預かっていいのか」というコンプライアンス上の問題も大きくなっているということです。

 金利が上昇した現在、貸金庫のような手数料ビジネスよりも、貸し出しや有価証券運用などにリソースを割くほうが収益性は高まる。金融庁などの要請により管理の手間が大幅に増すようなことになれば、貸金庫業務から撤退する金融機関が出てきても不思議ではないと記事は最後に指摘しています。

 しかし一方で、金融機関が相次いで業務から撤退し、金融庁の監督権限が届かない民間企業が貸金庫ビジネスの主体となれば、それこそ脱税や犯罪収益の現金が潜む温床となりかねないとの懸念も残る由。様々な課題や問題をあぶり出すことになった今回の貸金庫事件だが、三菱UFJ銀行の女性行員が開けたのは(何が出てくるかわからない)「パンドラの箱」だったのかもしれないと話す記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2659 マスメディアの偽善

2024年10月29日 | ニュース

 作家の橘玲氏は、2018年7月23日の総合ビジネス情報サイト「BISINESS INSIDER」に、『朝日新聞はなぜこんなに嫌われるのか——「権力批判はメディアの役割」という幻想の終わり』と題する一文を寄せています。

 時はまさに安倍政権の政権末期。翌年4月の平成天皇の退位を控え、アベノミクスの評価や「消費税の8%から10%への増税」の是非などが世に大きく問われていた時代の話です。

 橘氏はこの論考に、「東京大学新聞社が毎年新入生を対象に行なっている調査によると、自民党の支持率は近年劇的に上昇している。今年4月の調査では36%に達し、過去30年で最高を記録した。特に70%前後を占めていた『支持政党なし・わからない』という無党派層の変化が大きい。2013年以降は10ポイント以上減り、その分自民党支持が増えている」と綴っています。

 一方、それに対抗する勢力として官邸前でのデモの様子を見ていると、「シニア左翼」「リベラル高齢者」の姿が目立つというのが、この論考で氏の指摘するところ。揺るがぬ安倍政権の支持率を見て、「リベラル」な人たちが「日本は右傾化した」と嘆く中、「私は(←橘氏)はこの見方には懐疑的な目を向けざるを得ない」というのが氏の認識です。

 国会前で「民主主義を守れ」と気勢をあげている人たちの多くは、1940年代後半に生まれた全共闘世代。彼ら団塊の世代がある意味、戦後日本の価値観を決めてきたわけだが、彼らが今本当に守ろうとしているのは「民主主義」ではなく自らの「年金」。なぜなら65歳以上の44%、70歳以上では60%が「年金以外の収入がないから」だと氏は話しています。(厚生労働省「老齢年金受給者実態調査」、2016年)。

 それに対して若い世代は、自分たちがいくら年金保険料を払っても、将来彼らのようには受け取れないことを知っている。急速な少子高齢化によって制度の支え手が減っていく以上、若い世代の不安には確かな根拠があるということです。

 しかし、モリカケ問題や反原発に大きな声を上げるシニア左翼も、「年金なしでどうやって生きていけばいいのか」と将来を心配する若者たちのためには一切動こうとしない。そんなシニア左翼が「リベラル」を自称しているのだから、若い世代が胡散臭いと感じるのは当たり前だと氏は言います。

 そうした中では、「権力を監視する」という錦の御旗のもと、安倍政権のやることなすこと批判する(朝日新聞に代表される)ジャーナリズムは、もはや説得力を持ちえない。権力は「絶対悪」で、それを批判する自分たちは「絶対善」という偏狭なイデオロギーは、むしろ彼らの格好の批判の的になるということです。

 さて、メディアに対するそうした批判を下敷きにして、今年8月に新著『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)を脱稿した橘氏は、その「あとがき」に新聞を中心としたマスメディアの偽善について綴っています。

 権力批判を唯一のよりどころとする(朝日新聞に代表される)メディアの偽善がもっともよく表われているのが、子宮頸がん(HPV)ワクチンに対する報道だったと氏はこの「あとがき」で振り返っています。

 2015年、名古屋市で子宮頸がんワクチンの副反応を調べる7万人の疫学調査が行なわれた。これは国政時代にサリドマイドやエイズなどの薬害の悲惨さを知った河村たかし名古屋市長が「被害者の会」の要望で実施したもので、名古屋市立大学による検証結果は「ワクチンを打っていない女性でも同様な症状は出るし、その割合は24症例中15症例で接種者より多い」という驚くべき内容だったと氏はしています。

 しかし、この“事実(ファクト)”は、被害者団体の「圧力」によって公表できなくなってしまう。そしてこのことを(十分)承知していながら、各メディアは反ワクチン派と一緒になって科学的な証拠(エビデンス)を握りつぶしたということです。

 (こうした状況を受け)医療ジャーナリストの村中璃子さんは『10万個の子宮』(2018.2平凡社)を著した。事実に基づかない反ワクチンの煽情的な報道によって接種率が約7割から1%以下まで下がり、それによってHPV(ヒトパピローマウイルス)に感染することで10万人の女性の子宮が失われると警鐘を鳴らしたということです。

 村中さんは『10万個の子宮』において、子宮頸がんで反ワクチン報道をしたメディアとしてNHK、TBS、朝日新聞、毎日新聞が名指しで批判したが、ここで強調しておくべきは、これらのメディアが“リベラル”を自称し、森友学園や加計学園など安倍晋三元総理が関係する“疑惑”について、もっとも声高に検証と説明責任を要求していたことだと氏は言います。

 だとしたら、自分たちが(10万人が子宮頸がんに罹患するという)巨大な人災を引き起こしたことについても、検証と説明責任を率先して果たすべきだった。しかし、気が付けば各メディアともそんな報道などまったくしていなかったように振る舞い、最近では「HPVワクチンを接種しよう」などという啓発記事を載せる厚顔ぶりを見せているということです。

 いまさら言うまでもないが、メディアにとっての「正義」は他人(権力)を批判する道具であるはず。なのに、今回の一件で、報道とは読者を扇動してお金を稼ぐビジネスだということが改めて明らかにされた。これでは、ジャーナリズムの価値は地に落ち、どこにも「真実」はなくなってしまうというのが氏の見解です。

 ファクト(事実)が「オルタナティブファクト」に置き換えられ「現実世界が融解していく」ことについて、マスメディアではインターネットやSNSばかりが犯人扱いされる。しかし、実際にその背景にあるのは、ご都合主義的な報道によってマスメディアへの信頼感が失われつつある現状があると氏は話しています。

 そうした不信感の中では、正統派のジャーナリズムがポピュリズムに屈していくのは「自業自得」というももの。このようにして私達は、「ポスト・トゥルース」の陰謀世界に放り込まれていくのだろうと語る橘氏の指摘を、私も大変重く受け止めたところです。


#2451 「仕事」だけでは勿体ない

2023年08月06日 | ニュース

 自民党女性局のフランスへの海外研修に対し、党内外から批判の声が上がっているようです。

 事の発端は、現参議院議員の松川るい女性局長がSNSの自らのアカウントに、他の参加者とともにエッフェル塔を背景にした写真を投稿したこと。「パリの街の美しいこと!」という書き込みとともに同行者とともに塔を模したポーズをとった、投稿自体は(どこにでもある)まさに他愛もないものでした。

 しかし、その写真が醸し出している(あえてストレートに言ってしまえば)「お気楽」な雰囲気が、日々の生活にストレスのたまった国民の怒りに火をつけてしまったのでしょう。気が付けば「血税で旅行か」などと批判のコメントが多数書き込まれる(いわゆる)「大炎上」の事態を招き、山口公明代表も岸田首相長男引き合いに苦言を呈するなど、メディアを巻き込む騒動と化しました。

 松川氏は「党費と応分の自己負担で行った」と釈明したうえで、「『税金で楽しそうに旅行している』と皆様の誤解を招いてしまったことについて申し訳なくおもっている」との謝罪文を掲載。事態の幕引きを図りましたが、その後、氏の次女が同視察に同行していたことなども明らかになり、「結局、家族旅行か?」と批判の声はさらに高まっている様子です。

 さて、昭和の時代に育った私などは、「人間仕事ばかりで生きているのではないのだから」「これくらいのことに目くじらを立てなくても」…と(単純に)思うのですが、令和のポリティカル・コネクトネスが身に付いた人々は、そう簡単に許してはくれないようです。またいつものように、「私が悪うございました」「もうしません、勘弁して下さい」と(ぺしゃんこになって)完全降伏の態度を見せるまで、寄ってたかって罵声を浴びせ続けるのでしょうか。

 細かなことに一つ一つ難癖をつけては吊るし上げようとする現在の風潮に「なんか暮らしにくい世の中になって来たな…」などと感じていた折、8月2日の情報サイト『Newsweek日本版』に、ジャーナリストの冷泉彰彦氏が「海外出張したら可能な限り現地観光をするべき」と題する論考を寄せているのを見かけたので、参考までに小欄でも概要を紹介しておこうと思います。

 自民党の「党女性局」の政治家ら38名が、フランスへの海外視察の際に「エッフェル塔での記念写真」などをSNSに投稿したことが問題となっている。しかしこの投稿をもって、今回の視察そのものを否定するように世論を誘導しようとするのは、(いかにも)乱暴な論理だと冷泉氏はこの論考に記しています。

 視察の目的がフランスの少子化対策ということであれば、当然「①手厚い現金給付」「②婚外子の社会的受容」「③3歳児からの義務教育」という3つの実情を確認したいところ。いずれも、日本でも検討が必要な政策であり、政策当事者の声を聞くことだけでなく賛否両論の生の声を聞くこと、そして制度改正の成果を実際に目撃することが視察の成果につながるだろうと氏は言います。

 視察で見聞きしたこと経験したことを選挙区に持ち帰り、頑固な反対世論を説得したり実施可能な政策へのブラッシュアップなどにつなげていくこと。一連の騒動(への報道)はそうした視察本来の意義を無視したものであり、(SNSの使い方に問題はあったとしても)読者・視聴者を感情的な面から煽り、拡散して問題を大きくしたメディアには大いに反省を求めたいというのが氏の見解です。

 岸田翔太郎元秘書官がロンドンで起こした騒動の際にも感じたが、日本には、海外視察に行ったら「仕事以外してはいけない」と杓子定規に考える人が多い。必要な会議に出て、予定されていた視察を行い、後はホテルの自室でまとめレポートを書いたりするのが「仕事」だということは判る。しかし、公費で出張したのだから、それ以外は「公私混同」になるのでダメだというだという発想だけで、本当に出張の元は取れるのか。

 今回の「エッフェル塔騒動」の余波として、民間企業の間でも、そのような「杓子定規」が亡霊のように出てきては困りものだと氏はここで指摘しています。断言しても良い、海外出張をしたら、時間の許す限り観光するべきだというのが氏の指摘するところです。

 例えばパリに出張したら、エッフェル塔に上って整然としたパリの都市計画を見ておくのは、ほぼマストではないか。ニューヨークなら、エンパイア・ステート・ビルなどから都市圏の全体像を把握する。ブロードウェイの賑わい、ダウンタウンの雰囲気などを知るのも、「特に初めて訪問するのであれば」絶対に外せないと氏は話しています。(私も本当にそう思います)

 何故ならば、まずは観光をすることで、その国の文化や社会の理解についての第一歩を踏み出すことができるから。整然とした都市計画を実施する国は、その文化においてどんな論理性を持っているのか、あるいは雑踏を歩く人々の態度や姿勢は日本とどう違うのか。百聞は一見にしかずとはよく言ったもので、そうした経験はその「国を知る」上で欠かせない体験だというのが氏の認識です。

 例えば、その国へ市場として商品を販売しに行こうと思うなら、そのような「国の文化と社会」を体感することから始めて、やがて地元の多くの人との交流を重ね、試行錯誤をしながら商品をローカライズしなくてはならない。それが金融上の取引であっても、相手の文化や発想法を理解していれば、不利な契約を押し付けられることもなく、戦略的な交渉ができるということです。

 このように、国際ビジネスの成否はとにかく相手の国の文化と社会を知ることから始まる。著名な観光地を訪れることはその第一歩になると氏はしています。

 70~80年代の日本企業は、こうしたリサーチを怠らず、ほとんど全世界を相手に商売をしていた。しかしどうしたわけか、90年代以降は多くの日本企業が世界各地の市場特性を調べることを面倒がって、消費者向けのビジネスからB2Bのビジネスに逃亡。それが日本の経済衰退の一因となったということです。

 現在、ポストコロナの状況下で、観光ニーズはインバウンド(日本への来日外国人)もアウトバウンドも回復しつつあると言われている。しかし、日本企業による海外出張はいまだコロナ前の6割以下。円安という問題もあり、今後も完全には戻らないかもしれないと氏は言います。

 ということは、海外出張は本当に必要なケースに限定され、その頻度は抑えられたまま。そうであればこそ、貴重な海外出張の機会には公式日程だけでなく、堂々と観光して、現地人と交流し、市場特性を徹底的に肌感覚で叩き込んでビジネスに活かしてもらいたいと氏は話しています。

 会議に出たり、ホテルにこもって報告書を作ったりするばかりが仕事ではない。観光だって、大いに結構ではないか。コロナで海外に出られなかった日本人に今必要なのは、現地を知り、人と触れ合い、生活の空気を肌で感じることだと考える冷泉氏の指摘を、私も共感を持って受け止めたところです。

 


#2356 「coary」の過ち

2023年02月04日 | ニュース

 実業家の前澤友作氏が監修を手がけたことで注目されていた、シングルマザー限定で婚活を後押しするマッチングアプリ『コアリー(coary)』がサービス開始からわずか一日で配信を停止したことがわかったと、1月28日の各メディアが報じています。

 前澤氏は自身のTwitterを更新し、アプリの配信を停止した理由について「『シンママ(シングルマザー)にとって使いやすいマッチングアプリがあると嬉しい』というシンママの皆様の多くの声を受けて開発を進めてまいりましたが、懸念事項に対する対策や、一部の表現などに問題があったと反省しております」と話しているということです。

 「シンママをサポートする」として時間をかけて進められてきたプロジェクトだけに、この記事だけでは実際何があったのかはよくわかりませ。しかしどうやら、登録できる男性の条件が「シングルマザーとの恋愛を希望すること」となっていたり、子どもの性別や年齢を登録することになっていることから、子どもへの加害や暴力から逃げた妻を探すために利用されるのではないかといったリスクについてネットが炎上、配信停止を余儀なくされることになったとの話が伝わっています。

 前澤氏は「コアリー」の今後について、「コンセプトや機能・サービス内容を見直した上で、また改めて方針についてお知らせいたします」とツィートしているということですので、(まあ)「あきらめた…」ということではないのでしょう。

 コアリーのブランドメッセージは、「シングルなら、恋をするのは自由だ。でももし、子どもがいるという理由で踏みだせないのなら、踏みだせるきっかけを作りたい。」とのこと。しかしながら、シングルマザーの様々な事情を思えば、夢を現実にしていく作業は(前澤氏が考えるより)難しいことだったのかもしれません。

 翌1月29日の総合経済サイト「東洋経済ONLINE」に、桜美林大学准教授の西山 守氏が『前澤友作氏「シンママ婚活アプリ」炎上の重大盲点』と題する論考を寄せ、経緯や問題点などに触れているので参考までに小欄にその概要を残しておきたいと思います。

 前澤友作氏によるシングルマザーを対象とした婚活・恋活マッチングアプリ「コアリー(coary)」が配信直後に炎上し、「#コアリーの配信停止を求めます」というハッシュタグでの批判が拡散、直後の配信停止に追い込まれた問題。一般には誹謗中傷や的外れな意見も多いが、今回に関しては欠陥がサービス提供側に伝わり、配信停止に至ったという点で、炎上が有効に機能した事例と言えると西山氏はこの論考で評価しています。

 炎上の火種は一体どこにあったのか?実際、公開を前提とした、ネットを使った情報のやり取りには、様々なリスクが常に付きまとうと氏はこの論考に記しています。

まずは、炎上の「中身」について。本件に関するSNS上の主な批判の論点は大きく5つ、①子どもへのリスク、②母親へのリスク、③男性ユーザーに関する意見、④アプリの趣旨やネーミングに対する批判、⑤前澤氏個人に対する批判…に分けられると氏はしています。

 中でも目立ったのは、①の「子どもに対する性的虐待」を懸念する声だったとのこと。子供の性別や年齢を見て「シングルマザーに理解のある男性のふりをして近づき、児童を性的虐待する男性が実際にいる」といった指摘が多かったということです。

 ②の「母親へのリスク」については、シングルである母親の「経済的困窮につけ込むような男性がやってくるリスク」「離婚相手からストーカーされるリスク」などへの懸念の声が多かったと氏は言います

 また、③の「男性ユーザー(がもたらすリスク)」に関しては、「(そもそも)まともな男性が登録するのか?」「母子を支える資質(経済力、包容力)を備えた男性がどれくらい参加するのか?」という意見が見られたということです。

 さて、確かに「出会いの機会」を見つけることが困難なシングルマザーを支援しようという前澤氏の理念は素晴らしいものだし、氏が批判を真摯に受けて迅速に対応を行った判断力、行動力は評価できる。しかし、「コアリー」のサービスが、多くの問題を露呈したことと、その問題がシングルマザー自身が抱える問題とも深く関わっていることは、しっかりと検証しておく必要があると西山氏はこの論考で指摘しています。

 世の中は善人ばかりが暮らしているわけではなく、(いくら志が高くても)性善説に立っているだけでは問題は解決しない。善意に欠けた人が起こす問題を十分に想定しなければ、逆に不幸を招き込む可能性もあるということです。

 シングルマザーの婚活をポジティブに捉えること自体は間違いないとしても、(それを商売にするには)そこには様々なリスクが隣り合わせていることに目を配る必要がある。今回の場合、特に欠落していたのが「子どもの目線」だと氏は話しています。

 子どもに関わるビジネスは、常に「子ども目線」から考えることが不可欠となる。しかし現実には、子どもの心の声を知り拾い上げるのは難しい。財布を握っているのが親だということもあって(どうしても)親側のニーズを重視しがちになるというのが氏の見解です。

 さて、西山氏も指摘するように、シングルマザーの恋愛や婚活で大きな影響を受ける「当事者」は、確かに大人の二人だけではありません。逆に言えば、ものを言えない(弱い立場の)子どもたちに代わって周りの大人たちが彼ら彼女らの目線に立ち、ものを考えてあげる必要があるということでしょう。

 私事になりますが、実は今を去ること20年以上も前、(ネット社会にSNSなどというものがほとんど知られていなかった時分に)ネット上で小規模なイベント情報を興味のある不特定多数に知らせたり、趣味の仲間を集めるための無料の仕組みを作ろうと、あれこれトライしていた時期がありました。

 自由に書き込める「掲示板」のようなものを作って試験的に立ち上げてみたのですが、実際にそこに集まってくるのは「子役」ばかりを集めるアングラ劇団や撮影会の少女モデルを募集する写真サークルなど、何やら怪しげな団体ばかりでがっかりしたのを思い出しました。

 さてはさておき、シングルマザーの結婚は、彼女の子どもにとっても(人生を左右すような)大きな問題であることは論を待ちません。そうした視点に立って、「我々は皆、以前は子どもであったにも関わらず、ビジネスを行う側に立ってしまうと、とたんに子どもの気持ちを汲み取ることが難しくなってしまうのだ」と話すこの論考における西山氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。

 


#2266 安倍氏国葬の受け止め方

2022年09月27日 | ニュース

 国民の意見を二つに割る中で実施された安倍晋三元首相の国葬儀。その是非の議論を見る限り、氏の政治的実績への評価や政治信条ばかりでなく、安倍晋三という(ある意味個性の強い)政治家への好き嫌いなども重なり、メディアも含め世論は落としどころを見つけられないでいるように見えます。

 一方、今回の国葬儀を巡る海外メディアのニッポン評は、もう少し冷静でドライなもののようにも感じられます。在米国ジャーナリストの飯塚真紀子が式典当日9月27日のYahoo newsにおいて、米国の二大有力紙「ニューヨーク・タイムズ」と「ワシントン・ポスト」の取り扱いを紹介しているので、小欄にその概要を残しておきたいと思います。(「安倍氏国葬に対する見方、米2大有力紙で温度差」2022.9.27) 

 ニューヨーク・タイムズは9月24日の電子版に「日本が、暗殺された指導者の国葬に怒っている理由」と題する記事を掲載し、日本国民の国葬に対する怒りの中身とその状況を整理していると氏はしています。

 曰く、日本を代表する政治家の暗殺によって噴出した怒りは、殺された政治家が指導者として長期に治世した自民党と彼の国葬をすることに向けられた。何千人もの抗議者が、国葬は公共のお金の無駄使いであり、後を継ぐ岸田氏と同氏の内閣によって一方的に課されたものだと不満を示し、そのため国民の悲しみが弱まっているとのこと。

 また、安倍氏の右寄りの政策に反対していた識者の間には、「安倍氏は主に海外の舞台ではもてはやされたが、国内では多くの分断を生んでいた」あるいは「様々な疑惑が解明されていない」などとして、安倍氏の生前の実績自体に批判の目を向ける意見も根強いということです。

 さらに、旧統一教会と自民党との関係が明らかにされるにつれ、安倍氏を暗殺した山上徹也容疑者が経済的社会的に打ちのめされている人々の“アンチ・ヒーロー”として際立つことになった。

 その背景には、安倍氏の経済政策が引き起こした過去数十年にわたる成長の停滞と拡大した不平等があり、それが自分達は犠牲者であると強く感じる世代を生み出したというのが記事の見立てだということです。

 一方、ワシントン・ポストは9月26日付け電子版で「安倍氏の葬儀に対する激怒は、日本の最も許し難い議論だ」と題された、分析記事を掲載したと飯塚氏はしています。

 これは、(タイトルが示すとおり)国葬に対する激怒が噴出している日本の状況を疑問視するもの。同紙は、「(単純に考えて)葬儀は、政治的な点稼ぎをしたり昔から持っている不満を晴らしたりするための機会なのか?」「今は指導者の功績を認めて評価するか、せめて、他の人がそうすることを許す時だ」と訴えているということです。

 ポスト紙によれば、日本政府が国葬を打ち出した背景には、安倍氏が史上最長の首相だったことや彼が国際的に有名であるというステイタス、悲劇的な状況で亡くなったことなどに敬意を表する必要があるとの考えがあったとのこと。しかし、「日本に恥ずかしい思いをさせる許し難い議論が煽られ、人々を狼狽させた」というのが同紙の見方だということです。

 「安倍氏が存命だった時に彼を失墜させることに失敗した安倍氏の政敵にとっては、安倍氏の死は点稼ぎの機会になる」と、安倍氏の政敵が安倍氏の死を政治利用していると批判するポスト紙。

 同紙は、岸田氏が対処を誤った点にも言及しており、対応を迷っていた岸田氏がいきなり(国葬の)動きに出たこと、国葬日が安倍氏が死去した日から間が空くような予定を組んだことなども、メディアで国葬問題が多く取り沙汰される状況が生み出す原因となったと記しているということです。

 飯塚氏によれば、ポスト紙の記事は「安倍氏は聖人君子ではなかった」が、「政界のトップに到達した者はほとんど聖人君子ではない」と記しているということです。「民主主義の中心には、政策では反対していても政敵はリスペクトに値するという理解がある。安倍氏を頑固に中傷する人々も、安倍氏が国を愛し、銃弾に倒れたその日まで彼の全キャリアを通じて国のために働いてきたことを受け入れなければならない」というのが、この問題に対する(ポスト紙の)姿勢だということです。

 さて、同じ米国の2大有力紙でも、その見方は(それなりに)違うものだなとは思いますが、実は、両記事を最後まで読むと、与党も野党も問題があるという見方をしている点では、両紙の落としどころは似通っていると飯塚氏はこの論考に記しています。

 ニューヨーク・タイムズは、「国民が国葬に反対しても、政治的変革は起きない。岸田氏の支持率は落ちているが、野党に対する支持も上がっていない。国民は怒っているが、彼らははっきりとわかっていない。彼らはどうしたらいいか途方に暮れているのだと思う」という石破茂氏のコメントを紹介している。

 一方、ワシントン・ポストは「(賛否両論が渦巻く)国内の議論は、日本が安倍氏なしで政権運営にどう取り組むのかを浮き彫りしている」と総括している。「安倍氏亡き後、派閥がひしめく自民党を結束させ、権力のレバーを担える政権運営者はほとんどいない。何もしない方向へと引き寄せられる政治システムでは、強い指導者が必要とされている」とリーダーシップが欠如している日本の政治の問題を指摘しているということです。

 さて、米紙の指摘にもあるように、今回の国葬の是非に関する一連の議論において、 日本の多くの国民が、「安倍氏のテロ死」「旧統一教会の活動内容の違法性」「旧統一強化と政治との関係」の三つの問題の狭間で大きなとまどいや混乱の中にあるのはおそらく事実でしょう。

 そうした中でもはっきり言えるのは、国葬に反対する多くの声は、旧統一教会を後ろ盾として憚らなかった自民党政権、中でも(日本の政治に輻輳する)アベ的なものの考え方に拒否感を反映しているということ。さらに言えば、安倍氏と自民党と旧統一教会の三者は、多くの国民の心の中で既に同一化されてしまっているということなのかもしれません。

 故人に対して抱く思いは、個人個人で異なるもの。安倍氏に対しても同様だろうと、飯塚氏はこの論考の最後に記しています。

 ワシントン・ポストの分析記事の著者のように安倍氏を絶賛する人もいれば、ニューヨーク・タイムズが伝えているように安倍氏に怒りを感じている人もいる。悼む人、悲しむ人、讃える人、怒る人、無視する人、何も感じない人。安倍氏の国葬はそうした様々な思いが渦巻くものになったとこの論考を結ぶ氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。

 


#2111 アフターピル 市販化に向けた動き

2022年03月15日 | ニュース


 緊急避妊薬(アフターピル)とは、性行為の後72時間以内に服用することで、高い確率で妊娠を防ぐ効果が期待できる薬です。世界の90か国以上の薬局で一般的な市販薬として提供されており、無防備な性行為から意図しない妊娠を(事後に)避けることのできるほとんど唯一の方法として各国の女性たちに利用されています。

 アフターピルは、内服することで排卵を止め妊娠自体を未然に防ぐ(あくまで「避妊」のための)薬なので、いわゆる「中絶」という定義には当てはまりません。最近では120時間以内でも高い避妊効果が期待できる最新のアフターピルも販売されているということで、他の避妊方法に失敗したり、性暴力の被害にあった場合に有効な避妊方法とされています。

 一方、日本では現状、こういたアフターピルを医師の処方箋なしで購入することはできません。アフターピルを手に入れるには医師の診察が必要で、必ず病院へ行かなければならないのが決まりです。また、現状ではアフターピルには健康保険が適応されないので、入手にはそれなりの費用も必要です。72時間アフターピルを処方してもらうには、診察料に薬代などを含めて約15000円~30000円かかるというのが相場とされています。

 なぜ、日本では誰もが簡単に入手できる市販薬として認められないのか。そこには、「男性が(アフターピルで避妊すればいいからと)コンドームなしの性行為を女性に強要する可能性がある」「日常の避妊方法として繰り返し使う女性が増える」などの様々な反対意見があるようです。

 2017年に厚生労働省の検討会で行われた議論では、アフターピルの薬局での販売は「時期尚早」として見送られました。(※参考 「#1005 アフターピルの市販化問題」2018.2.28) また2019年にはアフタープルのオンライン処方について議論されましたが、医師からは知識のない若い女性の悪用を懸念する声が上がるなど、前向きに進む流れではなかったとされています。

 こうして、しばらく進展が見えなかったアフターピルの市販化問題ですが、ここに来て大きな進展が見られたとの報道がありました。3月6日の日本経済新聞(Views「緊急避妊薬の市販、月内に論点整理」によれば、厚生労働省の有識者会議が3月中にも処方箋の不要な一般医薬品(=OTC化)に向けた課題とその対応策をまとめるということです。

 緊急避妊薬の販売から11年。厚生労働省の有識者会議はいよいよ、医師の処方箋なしの薬局販売(一般医薬品=OTC化)に向けた課題とその対応策の論点をまとめることになったと記事は記しています。

 それに先立つ2月には、添付文書の「使用上の注意」が改訂された。改訂されたのは2項目で、ともに薬のリスクを強調する注意喚起の記述を削除するものだったということです。緊急避妊薬をめぐっては2017年にOTC化要望が出たが、医師委員が過半を占める有識者会議で却下された。しかし、今回の2項目の削除でOTC化を否定する科学的根拠はすべてなくなったというのが記事の見解です。

 一方、日本において安全性に関する科学的な根拠以上にハードルとなっていたのが、(避妊知識や性的倫理感などの)非科学的な問題だと記事はしています。島村大・厚労政務官は市販化を要望してきた市民団体に対し「安全性に関する議論はかなり進んできたと認識しているが、避妊に関する教育も含めてOTC化は社会全体で考えるべき問題」と答えているということです。

 しかし、そうした国内での議論にも、既に変化の兆しは生まれていると記事は言います。2019年、政府は対面でなくオンラインでの処方を、薬剤師の研修会受講という条件付きで導入した。また、2020年の「男女共同参画基本計画」には、緊急避妊薬の処方箋なしの薬局販売の検討が明記されたということです。

 有識者会議の在り方も見直され、慎重な意見が大勢を占めていた医療者(医師)以外の委員を増員するとともに、OTC化の可否を決定する権限を(有識者会議から)なくしたと記事はしています。また、昨秋の会議では要望側の市民団体に初めて発言の機会を与えられ、5年前は反対で医師団体と同調した日本薬剤師会も前向きに転じているということです。

 しかしなお、議論への影響力が強い日本産婦人科医会の中には、「OTC化には中学校での性教育の充実が必要」(日本産婦人科医会)との意見が根強く残ると記事は指摘しています。

 人々の意識は、大きな社会の動きによって変わってくるもの。若い人たちの間では、変化はなおさらのことでしょう。そうした中、医療者として本当に守るべきものは何なのかを十分議論の上、有識者会議には適切な答えを出してほしいと記事を読んで私も改めて感じたところです。


#1916 乱暴な開発行為のツケ

2021年07月26日 | ニュース


 蒸し暑さが続く7月3日。折からの梅雨前線停滞に伴い全国的に記録的な大雨が続く中、土曜日の午前中のテレビ画面に突然映し出された静岡県熱海市の土石流の映像は、週末のんびりした各家庭の空気を一瞬にして凍り付かせたものと思います。

 急峻な斜面に張り付く家々の間を縫う谷筋を、大量の土砂とともに鉄砲水が流れ下りてくる。建物や自動車を薙ぎ払い、平穏な日常生活を一瞬にして押し流す自然の力の恐ろしさに誰もが息を飲んだことでしょう。

 その光景は、私たちの暮らす家や道路や様々なインフラが、いかに脆弱な基盤の上に成り立っているのかを改めて思い起こさせるとともに、住民の生命を脅かすような災害がいつどこでも起きうることを痛感させるものとなりました。
 とはいえ、あの映像を見て、「これは普通じゃないな」と一瞬で感じたのは私だけではなかったでしょう。

 一般的に「鉄砲水」と言えば、上流にせき止められていた水が決壊し大量の土砂とともに一気に谷を滑り落ちてくる状態を指すものです。
 なにか「きっかけ」がなければ、ああした(突然の)災害にはならないはず。案の定、上流では建設残土や廃材などによる谷筋の不法な埋め立てが進んでおり、そこには水抜きのための施工などもなされていなかったことから、一帯が大雨で大きく滑り落ちたことが後の調査で分かりました。

 そういう意味では、今回の災害がまさに「人災」であったことが判りますが、あの地形で上流の谷が埋め立てられれば、何が起こるかは地元の人なら容易に想像できたはずです。

 私も被災地域の周辺には多少の土地勘があるのですが、あの辺りの地形はテレビの画面からもわかるように大変急峻で、谷筋に通った狭い道ごとに(その多くは別荘として開発・分譲された)家々が張り付いている状況です。
 普通であれば人が住みつかないような斜面にも点々と家が立ち並び、既に誰がそこに住んでいるのか(もしくは住んでいないか)、近所の人々や役所でもよくわからないのが実態だったようです。

 さて、(後になって考えれば)谷の不法な埋め立てや不適切な盛り土、沢に面した急傾斜地の開発など、不自然な土地利用の中で起こるべくして起こったとも考えられる今回の土砂災害。亡くなられた方、被災された方には心よりお見舞いを申し上げたいと思いますが、こうした災害を未然に防ぐ意味からも今できることがあるはずです。

 7月26日の総合情報サイト「JBpress」では、経済評論家の加谷珪一氏が「限界目前、こうなることは分かっていた日本のインフラ」と題する寄稿を行っています。

 静岡県熱海市の伊豆山地区で発生した大規模な土石流は、2021年7月14日時点で11名が亡くなり、17人が行方不明、130棟の建物が流されるという極めて大きな被害をもたらした。
 日本列島に降る雨の総量そのものは長期的に見て大きな変化はないものの、1時間あたり50ミリ以上の大雨が降る頻度は年を追うことに高まっており、大雨による被害が毎年のように発生していると加谷氏はこの論考に記しています。

 しかし、こうした変化はここ数年で急に発生したものではなく、20年近く前から何度も指摘され続けてきた。20年という短期間で国土全体を改良することは不可能だが、少なくとも危険な地域への宅地開発を制限するといった対策は打てたはずだというのが、現在の状況に対する氏の認識です。

 ところが、日本は全く逆の政策が行われてきた。山梨大学の研究によると、浸水が想定される区域に住む人の数は1995年から2015年の20年間で約150万人も増えていると加谷氏はこの論考で指摘しています。

 確かに、水害が発生しやすい地域に新しく宅地が開発されたり、タワーマンションの建設などが進んで住人が急増したりしているのも事実です。新規の宅地開発は容易ではなく、地理的条件を吟味し過ぎると安価な住宅を供給できないといった事業者側の都合はあるのでしょうが、危険とわかっているエリアでの宅地開発を進めるのは(何も知らされない)消費者への裏切り行為ともいえるでしょう。

 熱海の災害と盛り土との関係についてはいまだ詳細は明らかにされていないが、開発で生じた土砂の廃棄が原因だった可能性も否定できず、こうした杜撰な盛り土は全国各地に存在していると考えられると氏はこの論考に綴っています。

 宅地の造成と残土の処理は表裏一体の関係であり、最終的には国土開発全体のあり方につながっている。日本では人口の合理的な集約化が進まず、宅地が乱開発されているというのは昭和の時代から指摘されてきた問題で、こうした戦略性のなさというのも一連の被害拡大に影響しているのではないかというのが、今回の土砂被害に対する氏の見解です。

 日本ではこれまで設備の更新を考慮に入れず、新規建設の拡大を最優先してきたが、これは必ず後の世代にツケを回す結果となると、氏はこの論考に記しています。

 新規建設は利益が大きく、政治的にも旨味があるのは間違いない。しかし、だからといって、国民の生活の基礎となるインフラというのはこうした目先の利益で作ってはいけないものだと強く戒める加谷氏の指摘を、土石流の映像とともに私も重く受け止めたところです。


♯847 日本人は議論が苦手

2017年08月06日 | ニュース


 安倍首相が都議選の最終日に街頭演説で発した「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです。」という発言が、メディアなどで大きく取り上げられました。

 人生では当然「勝ち・負け」を競う場面は数多くありますから、その言葉自体に大きな問題はないような気もします。しかし、場面を言論の世界に限定すれば、そこに求められているのは「より良い結論」を導くことであって、「どちらかが正しく」「どちらかが間違っている」というような正邪二元論の下で勝ち負けを競うことではないでしょう。

 「安倍、帰れ!」と自由な議論を封殺しようとする人たちと、彼らを「こんな人たち」と呼んで頭から否定し排除しようとする政治家。

 お互いに柔軟性を欠いたまま、こうして議論を「敵」と「味方」の戦いとして認識してしまうのは、「個人」よりも「所属」を大切にする(ある意味)日本人の性(さが)と言ってもいいかもしれません。

 異なる意見から新しい「何か」を生み出す建設的な議論は、一体どうしたらできるのか?

 8月3日のTHE HUFFINGTON POSTには、フリーライターの雨宮紫苑(あめみや・しおん)氏が、『「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ』と題する興味深い論評を寄せています。

 「日本人は議論が苦手だ」と言われるが、その理由としては協調を重んじる気質や自分の意見を言うのが苦手な日本人の国民性が挙げられることが多いと、雨宮氏はこの論評で指摘しています。

 しかし、理由はそれだけではないのではないか。そもそも日本人は、議論を通じて「対話」するのが苦手なのではないかというのが、この問題に対する氏の基本的な認識です。

 例えば、彼女の記事に対する(ネット上の)反応を見ても、賛同意見では「共感した」「その通り」といったコメントが多い一方で、反論意見の大半には「どうせコイツは…」といった人格への攻撃が伴っているということです。

 雨宮氏は、こうして「ちがう意見=敵」と思ってしまうところに、「日本人は議論ができない」と言われる大きな原因があるのではないかと説明しています。

 当然、「意見への賛否」と「人間性」は分けて考える必要がある。仲がいい友人でも驚くほど考え方が違う場合もあるし、逆に考え方は似ていても好きになれない人だっている。

 しかし、それでも日本では意見の賛否と人間性を切り離せない人が多く、話し合いの場でも感情が重視される場面が数多く見受けられると雨宮苑氏は言います。

 実際、「○○さんは不倫をする不誠実な人なので、その意見は信用できない」とか、「そういう言い方をすると傷つきます」といった、本題に全く関係ない、客観的根拠もないが情に訴えるといった姿勢で話し合いに臨む人も少なくないとうことです。

 雨宮氏は、日本人がこのように議論に感情を優先させる背景に、日本独特の「空気を読む」などといった(いわゆる)同調圧力の存在を見ています。

 集団内の全員の考えが同じであることを正しい姿と見なして、同じ考えの者同士が徒党を組んで異なる意見の者を攻撃する。皆が賛成なのに反対する「空気が読めない輩」は、異端視され、厄介者扱いされるということです。

 意見がちがう人を集団の和を乱す「敵」とみなす思考回路の下では、敵には容赦なく攻撃するし、「自分が正しいから相手は間違えている」という極論に走るようになると雨宮氏は説明します。

 「意見がちがう人=敵」だと考えている限り、双方の意見はひたすら平行線をたどるし、議論ではなくただの意見の押し付け合いになる。白黒はっきり決められるテーマならそれもありかもしれないが、現代社会で話し合われる多くの問題はそうシンプルなものばかりではない。

 そして、確実な正解が存在しない以上、議論を通じて、多角的な視点から「より正しい答え」を導くことが求められるということです。

 氏は、「より正しい答え」を導くには、数学と同じように「正解へいたるプロセス」があるとしています。

 まずしなくてはいけないのは、議論の目的を共通認識として持つこと。全員が「意見を出し合って対話することが目的」と理解することによって、はじめて議論が成り立つということです。

 日本では、特にこういった議論の技術を習う機会がないので誤解されがちだが、「論破や勝ち負けが目的ではなく意見を通じた対話こそが大事なのだ」と考えれば、関係のない人格攻撃や揚げ足取り、詭弁がいかに無駄で邪魔かわかるはずだと雨宮氏は指摘しています。

 氏によれば、「目的の共有」の次に来るステップは、「事実」と「テーマの本質」の共有だということです。

 「Aにすべき」「すべきではない」という真っ向から対立した意見をぶつけ合ってても「正解」は見えてこない。同じ土俵で話し合うためにはまず客観的事実を共有し、どこに議題の本質があるのかを探ることが不可欠となるということです。

 残念ながら、日本の議論では(大概)こういう「整理されたプロセス」がないため、無茶苦茶な言い分が飛び交ったり、感情論に流されたりしてしまうと雨宮氏はしています。

 議論は、物事の理解を深化させ、より確からしい解を求めるために必要な作業であることは言うまでもありません。

 経験がもたらす思考の土壌や知識の傾向や水準が異なる人々の間で、意見が異なるのは当然のこと。議論で大事なのは、相手を論破することではなく、テーマに対して多くの知恵を持ち寄り、「より正しい答え」を模索することだということです。

 グローバル化が進む世界では特に、自分の意見を述べて相手の意見を聞き、「より正しい答え」を構築する対話能力は必須になると雨宮氏も指摘しています。

 (そうした視点から)まともに議論できる人が増えれば日本はもっと意見を言い易いオープンな社会になり、(社会環境に見合った)多様性が認められるようになるのではないかとこの論評を結ぶ紫苑氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。



♯839 動物のお医者さん

2017年07月26日 | ニュース


 学校法人「加計学園」の獣医学部新設問題などをめぐる、衆院予算委員会の閉会中審査が、7月24日安倍晋三首相出席の下で始まりました。

 答弁において安倍首相は、「友人が関わること、疑念の目が向けられるのはもっとも。」としたうえで、内閣支持率が低下していることについて「国民の声であり、真摯に受け止めたい」と表明。安倍内閣の支持率低下の背景に「今議論している獣医学部の新設の問題等についての私の答弁、説明の姿勢についてのご批判もあるであろうと考えている。」と、自身の答弁姿勢によって国民の不信感が募ったことにあらためて反省の弁を述べています。

 加計学園の獣医学部設置を巡る一連の問題は、(確かに答弁の態度もあるかもしれませんが)基本的には国家戦略特区を設置して認可を得るまでの手続きが公正なものだったかどうか争点となっています。手続きを進めた内閣府や文部科学省の職員の間に、安倍首相への(いわゆる)「忖度」があったのか、なかったのかということです。

 しかし、よくよく考えれば、(手続きの適正さはともかくとして)この問題を考えるに当たっては、さらに大切な要素として、愛媛松山に相当規模の新たな獣医学部を作ることが国民にとって「プラス」になるのか、それとも「マイナス」に働くのかという点があることを忘れるわけにはいきません。

 1984年(昭和59年)以降、文部科学省は、「将来的に獣医師が過剰となる」とする獣医師会の意向などを踏まえ、既存の16大学以外が獣医学部を新設することを認めず、入学定員を規制する措置を取り続けてきました。

 52年もの長期間にわたって獣医学部新設を阻んできた文部科学省と、これを「岩盤規制」と評して改革を進めてきた内閣府は、(ある意味)対立関係にあったのは事実です。

 それぞれに言い分はあると思いますが、規制緩和の是非に関するこのような部分については、(総理の言う「対応」の巧拙などとは切り離し)感情論に惑わされない冷静な議論が必要となるのは言うまでもありません。

 獣医師育成への規制を、今後も続けるべきか否か。7月20日の日本経済新聞では「獣医師は不足?過剰?加計問題で関心高まる」と題する記事において、こうした獣医師の需給問題に言及しています。

 農林水産省は依然「獣医師は足りている」との見解だが、獣医師はペット医、公務員、製薬など分野により現状や将来の人材需給が異なると記事は説明しています。

 例えば、公務員獣医は、食中毒対策や食肉検査などの公衆衛生分野に加え、感染症予防や畜産指導などの農業分野に携わるなど行政の様々な分野で活躍しています。しかし、現在では公務員獣医を目指す若者は少なくなり、獣医学部の卒業生を(手当などを上積みすることで)自治体が取り合っているような状況にあるということです。

 記事によれば、公務員や家畜を診る獣医師は1990年時点で15000人弱と、獣医師全体の6割を占めていたということです。しかし、その後のペットブームの到来により犬・猫などを診る小動物医が2.6倍にまで増加し、(需要に合わせて獣医学部定数が増えないこともあって)その分公務員獣医師にしわ寄せがきたと考えられています。

 こうした状況は、今回の学部新設の議論にも影響を与えており、安倍首相は国会答弁等において、今回の特区設置を突破口に獣医学部の入学定員に関する規制を(全国的に)緩和していく方向性を示しています。

 しかし、一方で、これまで獣医師の需要を拡大してきたペットブームにも、既に陰りが見え始めているとする意見もあるようです。

 一般社団法人「ペットフード協会」によれば、日本の犬・猫の飼育頭数は2011年にピークを打った後、2016年には1972万頭とその後の5年間で8万頭余り減少しているということです。

 獣医師会では(間もなく)ペット医が過剰になる時代が訪れると警戒しており、実際、マーケットの縮小によっていわゆる「動物病院」の商売が成り立たないケースも増えると認識されていると記事は説明しています。

 一方、獣医師の需給を巡る状況に対しては、異なる意見もあるようです。

 山本幸三地方創生相は7月4日の記者会見で、公務員の獣医師が不足しているのは「小動物獣医師が儲けるからだ」と述べ、ペットを診る小動物獣医師の待遇が良すぎるとの認識を示したと(翌日の)朝日新聞は報じています。

 なので、獣医学部をつくって獣医師を増やせば、ペット診療の「価格破壊」が起きて小動物獣医師の給与が下がり、相対的に給与が低いとされる公務員獣医師の不足も緩和されるだろうと、(山本大臣は)持論を述べたということです。

 同じ6年制大学で学び国家資格が必要な歯科医師の場合、歯科医師不足が指摘された1970年代以降大学の新設が相次いだことは広く知られています。その結果、現在では歯科医院の数はコンビニよりも多いと言われ、政府は削減の方針を打ち出している状況にあるのも事実です。

 また、そうした状況から歯学部の志望者は現在減少傾向にあり、記事によれば、日本歯科医師会では(若い)歯科医師に「質」の低下が起きていると指摘しているということです。

 さて、それでは翻って、今後、獣医師がさらに増えることで、本当に獣医師の質の低下が起こるのか。国民生活にマイナスの影響が出るような事態に陥る可能性があるのかというのが、今回の問題の(最終的な)論点となるでしょう。

 獣医師の育成数を、これから先も国が管理すべきなのか、それとも市場原理に任すべきなのか。

 ここで敢えて言うならば、獣医師免許を持っているからと言って、動物病院を開業しなくてはならないわけではありません。現に公務員獣医は大きく不足しているわけであり、産業動物を扱う畜産獣医も足りません。また、獣医師の資格は生物科学系の専門知識を有する証であり、例えば教員や生物化学産業、食品産業、化粧品産業などの幅広い分野で活躍の場が提供されることでしょう。

 また、街中の動物病院に関して言えば、供給が増えて競争が激しくなれば、サービスは磨かれ価格も市場原理により下がって、国民生活にメリットを与えることは十分に予想されるところです。

 取りあえず、若者に獣医学部が人気なのは事実のようです。それでは、獣医師の資格を持つ若者が増えることで困るのは一体誰なのか。それは、改めて指摘するまでもないでしょう。

 例えどのような規制であっても、国民の利益になるのならそれで構わないとは思いますが、四半世紀もの時間の経過を考えれば、社会の変化とともに様々な見直しが必要になることもまた必然と考える次第です。


♯783 試験管ベビー

2017年04月27日 | ニュース


 排卵直前の成熟卵を採取して特殊培養液の中で授精させ、一定の発育を待って子宮内に戻して着床させるという「体外受精」は、現在では不妊治療の代表的な手法として大変にポピュラーな存在になっています。

 1978年、英国の生理学者ロバート・G・エドワーズが最初に成功し、世界初の体外受精児が誕生しました。エドワーズはこの業績により2010年度のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。また、日本では、約5年間にわたり倫理的な検討などが行われた後、1983年に東北大学の鈴木雅洲氏らのグループが体外受精に成功しました。

 日本産科婦人科学会の集計によると、それから約30年後の2014年の1年間に、国内の医療機関で実施された体外受精は39万3745件。その結果として、4万7322人の新生児が誕生したということです。同年の総出生数は約100万3500人ということですので、体外受精で生まれた子どもの割合は、実に約20人に1人の割合に達していることが判ります。

 集計によると、体外受精の実施件数は前年と比べ約2万5000件増加し、出生数も約4700人増えています。実際、体外受精はこの10年間で件数にして約3倍、出生数で2.5倍と急激な伸びを見せており、晩婚化を背景に、加齢による不妊に悩む女性が増えていることがその要因と考えられています。

 一方、かつてこうして体外授精により生まれた赤ちゃんが、「試験管ベビー」と呼ばれた時代がありました。差別的な意味合いが強いことから現在ではあまり使われなくなりましたが、不妊治療がまだまだ一般的でなかった時分、試験管やシャーレなどの培養器の中で育った受精卵から成長した子供ということで、(多分にネガティブな意味を込め)メディアはそう書き立てていたようです。

 さて、「試験管ベビー」と聞けば、知らない人は(SF映画のような)試験官やガラスの容器の中で、チューブに繋がれ(すくすくと)育つ子供を思い浮かべる方も多いかも知れません。しかし実際のところ、受精卵が「母体外」で培養される期間は数日間に過ぎず、安定すればすぐに子宮に戻されます。そういう意味では「体外受精」は、文字通り、体外で受精させたうえで子宮で育てる(だけの)技術だということができるでしょう。

 しかし、こうした常識も、ついに改めなければいけない時期がやって来ているようです。

 4月26日のAFP=時事は、アメリカの研究者らが、透明な人工羊水で満たされたバッグ(人工子宮)の中でヒツジの胎児を正常に発育させる実験に成功したと報じています。 

 英科学誌「ネイチャー・コミュニケーションズ(Nature Communications)」に発表された研究論文によれば、今回の実験では、ヒツジの胎児6匹を妊娠105~112日(人間の妊娠23~24週目に相当)の時点で母親の胎内から人工子宮に移し、人工子宮内で最大28日間発育させたということです。

 胎児は、合成羊水で満たされた透明なプラスチック袋に入れられ、子宮内と同様の環境に置かれました。そして、臍帯(さいたい:へその緒)が管を通して袋の外部の機械につながれ、この機械が内部を通る血液に対して二酸化炭素(CO2)の除去と酸素の供給を行ったということです。また、機械式のポンプは使わず胎児の心拍だけで作動させることで、慢性的な肺疾患などの健康問題から胎児を守ることも可能だったと報告されています。

 研究者を主導したフィラデルフィア小児病院の胎児外科医アラン・フレイク氏は、液体に囲まれた(安定した)環境が胎児の発育には不可欠だと話しているということです。

 現在、妊娠期間が40週ではなく22~23週程度で生まれる新生児は、生存率が50%で、生存した場合でも90%の確率で重度の長期的な健康問題が発生するとされています。一方、子宮内の生活を再現(継続)できる今回のシステムを導入すれば、これらの確率を大幅に改善することが期待できるとフレイク氏は説明しています。

 フレイク氏によれば、ヒツジの胎児は人工子宮内で正常な呼吸と嚥下(えんげ)を繰り返し、目を開け、羊毛が生え、動きがさらに活発になり、成長、神経機能、臓器の成熟のすべてが正常だったということです。また、その後も哺乳瓶で栄養を与えて育てたところ「あらゆる面で普通に発育」し、そのうちの1頭は現在もペンシルベニア州の農場で(「元気」かどうかは書いてありませんが)暮らしていると記事は記しています。

 ヒツジは、特に肺の発達が人間と非常に良く似ているという理由から、出生前治療の実験に長年用いられている動物だということです。今後も臨床試験が順調に進み、人間の新生児に対する安全性と有効性が証明されれば、人工子宮システムはあと3~5年で利用可能になると記事は結ばれています。

 さて、人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する人気のヒロイン「綾波レイ」は、ラボに置かれた水槽で育てられた(取り換えの利く)クローンとして描かれています。また、ハリウッド映画「スター・ウォーズ」を象徴するキャラクターとして初回作品から登場する「ストーム・トルーパー」は、ドローン(ロボット兵器)に対応するため工場で生産されるクローン戦士という位置づけです。

 こうした例を引くまでもなく、それが病院であれ研究機関であれ工場であれ、人工的な環境で子供が生まれるようになれば、社会へのインパクトは相当大きなものになるでしょう。近い将来、子供たちが工場内で安全に管理され、「生産」される世の中が本当にやってくるかもしれません。

 人間の欲望は、一体どこまで行ってしまうのか?倫理的な問題に手を付けられないまま、本物の試験管ベビーの誕生が(技術的には)まさに身近なものとなりつつあるという現実に、改めて驚かされた次第です。


♯753 ドローン戦争

2017年03月20日 | ニュース


 ジョージ・ルーカスが描いたスターウォーズの世界が示すように、一昔前まで、未来の戦いと言えば「ロケット」と「ロボット」、そして「光線銃」と相場は決まっていました。

 ウルトラマンもスーパージェッターも、マジンガーZだって、巨大な怪獣や地球侵略をもくろむ宇宙人とそうした武器で戦ってきたのです。

 しかし、当時考えていた「近未来」が既に現実のものとなっている現在、戦闘の様子は想像とはずいぶん違ったものになろうとしているのかもしれません。

 米国では、ジェネラル・アトミックス社製の無人航空機RQ-1 プレデターが実用化され、約20年前の1995年からボスニア、イラク、アフガニスタンなどにおける実戦で運用されています。

 翼長14.8m、時速217kmで巡行する性能を持つプレデターは、予めプログラミングされた経路に従い自動操縦で飛行し、作戦地域に到着した後は衛星ネットワークなどを通してパイロットと2人のセンサー員が地上誘導ステーションからの遠隔操作で作戦を遂行します。

 プレデターばかりでなく、武装した無人航空機(ドローン)が世界で数多く実際の作戦に投入されており、対地攻撃、対人攻撃ばかりでなく、有人機との本格的な空中戦などにも用いられているということです。

 実際、アメリカ軍がドローンによる攻撃を開始して以降、殺害した敵兵の人数は2013年2月時点で(実に)約4,700人に達すると報告されています。こうした実績を踏まえ、アメリカ空軍の計画では2023年までに、すべての攻撃機のうち3分の1をドローンに置き換えるとしています。

 一方、ドローンによる攻撃の問題点としては、誤爆や巻き添えによる民間人の犠牲者が多いことが挙げられています。これはドローン操縦員の誤認や地上部隊の誤報、搭載するミサイルの威力が大きすぎることなどが原因とされ、現在ではより小型で精密なミサイルの開発が急がれているということです。

 さらに、このようなドローンの登場により、現実の戦闘の在り方もずいぶんと変わってきているようです。

 アメリカ軍では、ドローンのパイロットのうち、既に7人に1人は民間人(民間軍事会社の社員)だということです。衛星経由でアメリカから遠隔操作が可能であるため、彼らパイロットは戦地に派遣されることもなく、1日の作戦が終われば自宅近くの操縦ブースからそのまま自宅に帰ることも可能です。

 こうしたことから、米国内には、「ミサイルを発射して敵を殺す戦場」と「息子のサッカーの試合を見に行く日常」を毎日行き来する彼らがメンタルの限界を超え、大きな精神的ストレスとPTSDを抱えることへの懸念を指摘する向きもあるようです。

 そのような中、1月10日の毎日新聞は、米国防総省がさらに画期的な超小型ドローン兵器の開発、実戦配備に向けた実験に成功したとの記事を掲載しています。

 米国防総省の資料によれは、このドローンは全長約16センチメートルの超小型。同時に提供されたカリフォルニア州での実験の際の動画には、FA18戦闘攻撃機から投下された103機のドローンが編隊を組み整然と飛行する姿が映し出されています。

 米国空軍は、当面、敵地における低空での偵察飛行などにこうした新型ドローン1000機を投入する計画を立てており、カーター国防長官は「敵に一歩先んじる最先端の技術革新だ」とその性能を高く評価しているということです。

 記事によれば、この機体はマサチューセッツ工科大学が2013年に開発したドローンを軍用に改良したもので、全長約16センチ、翼幅約30センチ、重量は290グラム。しかも最高速度は時速111キロに達するということです。

 航空機から投下するだけではなく、海上艦船や地上からの離陸も可能で、オペレーターが指示した目的地に向けドローン自身が最適の解答を見つけて飛行。ドローン同士が相互に連絡を取り合う能力があるため、編隊を組んでの飛行も可能になっているということです。

 さて、もともと「drone(ドローン)」とは、と英語で雄のハチや、ハチが「ブーン」と鳴らす羽音を意味する言葉です。

 ここまで小さくなったドローンが、AIや太陽電池を身に纏い(あたかも殺人蜂のように)群れを成して敵対する国々を時速100キロ以上の高速で飛び回り、自分自身の判断で次々と人々に襲い掛かるような現実がすぐそこまで迫っているとすれば、光線銃や人型のロボットによる戦闘の方がどれだけ人間的であることかと、私もこの記事から改めて考えさせられたところです。



♯715 豊洲市場は100億円の大赤字?

2017年01月28日 | ニュース


 敷地内の201カ所の地下水の再調査により、環境基準の最大79倍に上るベンゼンをはじめ、シアン、ヒ素などが約70カ所で検出された豊洲新市場。

 東京都は今回の検査結果を受け、2017年度の都の当初予算案には築地市場から豊洲市場への移転経費を盛り込まず、築地での運営を前提に予算編成を行う針を明らかにしたと1月16日の朝日新聞は伝えています。

 さらに都は1月25日、(これに追い打ちをかけるように)築地市場からの移転を延期した豊洲市場が開場した場合、施設の減価償却費などを含めた収支は年間100億円程度の赤字となるという試算結果を公表しました。

 (まるで畳み掛けるような)この発表によって、地下水から環境基準を大きく超える有害物質が検出されたうえ経営面でも課題を抱えていることが表面化した豊洲新市場は、いよいよ苦境に立たされることになるでしょう。

 新聞報道などによると、試算では、業者が支払う施設使用料などの新市場の年間収入は68億円となる一方で、減価償却費や都職員の人件費、光熱水費などの支出は合わせて166億円程度に達するとのこと。築地と比べて収入は18億円増にとどまり、支出は122億円増加するという計算です。

 都によれば、2015年度の市場会計決算の手元資金残高が約1650億円あるため、これを取り崩せば当面は赤字を穴埋めできる見込みとのことですが、将来的には使用料の値上げや一般会計から税金を投入する必要に迫られる可能性もあると大手各紙が報じています。

 この記事を読んで、私も「なるほど、いよいよ豊洲への市場移転も万策尽きたか…」と思いましたが、しかし「ちょっと待って」。例え新市場のもたらす(安全性や効率化などの)メリットを抜きにしても、できたばかりの最新の施設や設備が、それを利用することで年間100億円もの赤字をもたらすような状況が本当に生まれるのでしょうか。

 豊洲への移転を進めてきた東京都にとってはまさに「泣きっ面に蜂」とも言えるこの試算。会計上の計算自体に間違いはないのでしょうが、(一般の人への)その「見せ方」にはどうも腑に落ちない点が多いのも事実です。

 そうした(ある種の)疑問のようなものを感じていたところ、早速1月26日のYahoo newsにおいて、ファイナンシャルプランナーの中嶋よしふみ氏が今回の都の発表の意味するところを分かりやすく説明しているので、内容をここで整理しておきたいと思います。

 「100億円の大赤字でも豊洲市場に問題が無い理由」と題する論評において、中嶋氏は「毎年100億円の大赤字となれば水質汚染以上に大騒ぎになりそうだが、これは一言で説明するなら『気にしなくていい』ということなる」と結論付けています。そしてその理由は、今回「赤字」とされた金額が、「減価償却費を含んだ赤字」であるという一点に尽きるということです。

 以下、中嶋氏の説明を要約します。

 知られているように、「減価償却費」とは、建物や車など長期間にわたって使用が出来るものを耐用年数に応じて費用計上することを指す言葉です。

 例えば企業が購入した業務用の車があるとすれば、それを使用している期間の正しい負担と利益の関係が反映できるよう、(会計処理上は)購入した代金を耐用年数に応じて分割して費用計上する。自動車ならば「4年」と法律で決まっているので、400万円の車ならば4年にわたって100万円づつ計上するということです。

 つまり、お金を払ったのは今年でも、帳簿上の費用としては100万円×4年間で計上される。お金の流れと利益の計算には、現実とは異なる時間的なズレが生じているということです。

 そこで問題の豊洲市場についてです。

 新市場の建物や設備はすでに完成しています。(今後、水質汚染等の対策のために追加支出はあったとしても)それを使おうと使うまいと、既に払ってしまったお金は戻っては来ないもの。

 しかし、当然、損益の計算をする際には、(減価償却の説明で書いた通り)耐用年数に応じて費用を計上します。このため、「今後赤字が膨らむ」という表現は正しいのですが、実際にこれから先、建物や設備が原因でお金がより沢山出ていくという事はありません。(言い換えれば)今後、新たに発生する現金支出は、人件費や光熱費などの管理費だけだということです。

 さて、中嶋氏の説明が何を意味しているかと言えば、つまり「今後豊洲市場を使う事が損か得か?」という判断を行う際には、建物の減価償却を含む必要は無いという事です。

 これから先のことを決めるのに、過去に支払ってしまった取り戻せない費用(サンクコスト)がもったいないからといって判断をゆがめると、余計に損をする可能性がある。サンクコストは将来の意思決定に影響しないというのは、企業会計における意思決定の常識だと氏は指摘しています。

 都は、今回の発表において、「経常損益は赤字になるが、減価償却などを控除した(豊洲の)収支はほぼ均衡する」とし、経常損益の赤字は(都内11の卸売市場の収支を一元管理する)中央卸売市場会計から補てんするとしています。つまり、豊洲の施設や設備は都の公の施設として整備したのだから、それ自体は(予定通り)企業全体の収支の中で減価償却していくということです。

 一方、中嶋氏は、今後は(都民に新たな負担をもたらすかもしれない)市場経営の観点から、あくまで維持費と市場の利用者から受け取る利用料が均衡するか、という点で今後の収支を判断し、施設利用の方策を立てていく必要があると説明しています。

 都の説明が正しければ、豊洲の減価償却費は概ね(年)100億円だということです。築地の収支から収入が18億円増えて支出は122億円増えるということなので、(ざっくりした計算ですが)現金支出の増加は22億円となり、「18-22=-4」で、豊洲に移転した場合の赤字は年間4億円程度となるのではないかと中嶋氏は見ています。

 この4億円をどう見るかは人それぞれでしょうが、(もしもその程度だとすれば)コストカットや流通メリットなどで相殺できる範囲と言えなくもありません。

 金額は当否や水質汚染の判断は別にして、(いずれにしても)現状では100億円の赤字が出るから使うのは止めようという話は完全に間違いであるというのが、市場移転の判断に当たっての中嶋氏の基本的な認識です。それは、建物を何に使うとしても、また何にも使わなくても建設費は戻って来ないからだということです。ましてや、80年も前の1935年に開場され、大昔に償却が終わっている築地市場と比較しても意味はありません。

 既に投資が済んでしまっているのであれば、最も都民にメリットをもたらす形で利益を回収する必要があるのは言うまでもありません。韓国の諺に「川に落ちた犬は棒でたたけ」というものがあるそうですが、「坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い」と、いつまでも冷静な判断を欠いているわけにもいかないでしょう。

 今回の都の発表を受けて、さらなる迷走が懸念される豊洲新市場問題ですが、これまでの都政への不満は不満として、(政治的な思惑やメディアの報道のされ方などに惑わされることなく)客観的な判断材料に基づく冷静な議論が進められることを、私も期待して止まないところです。


♯595 母の涙が持つ力

2016年08月31日 | ニュース


 強姦致傷罪に問われ逮捕された俳優の高畑裕太容疑者の母親で、女優の高畑淳子さんがメディアに向けて行った涙の謝罪会見に対し、ネット上では様々な意見が交わされているようです。

 私も今回の会見に関する報道を見ていて、その「意味」のようなものには何となく違和感を感じていたところでしたので、この機会に、中でも特に気になった見解を取り上げてみたいと思います。

 一般社団法人officeドーナツトーク代表の田中俊英氏は、8月27日、「母が犯罪者の子を「代弁」する国」とのタイトルで、この日本人的会見に「変な感じを抱いた」と自身のブログに記しています。

氏が抱いた「変な感じ」とは
(1) 成人した子どもの犯罪になぜ親が謝るのか
(2) 釈明は子への愛なのか
(3) 親は子の責任をとらなければいけないのか
(4) 会見は「子を守る欲望」からなされているのか
など、子どもへの愛と倫理と欲望と、そして子どもとの「距離感」への疑問に集約されると田中氏はしています。

 親子間の長期的で濃密な関係は日本社会のすべての「基底」にあって、だからこそ、親は子が犯罪をした時は謝るし社会もその謝罪を待っていると田中氏は言います。また、その謝罪がなければ親は社会的立場を剥奪される可能性すらあり、(世間の)強力な「監視」がそこにはしっかりと働いているということです。

 氏は、会見における高畑さんの母親としての表情や振る舞いにはまさに「痛み」が浮かんでいて、その「痛み」を通して彼女は「親としてできる限りの責任を取る」という態度を示していたように見えたとしています。

 こうした感覚はヒトの原初的衝動を満たしており、そのさらに前提にある「生涯にわたって親子関係は続く」という「社会の中の関係の定義」も満たしているため、犯罪の重大性とは別レベルで高畑さんは社会的に許されることになるだろうと田中氏は述べています。

 そして、いずれその親子関係も(おそらくは)許容され、その許容された親子関係を基に、容疑者自身やがては許されることになるだろうというのが、今後の成り行きに対する田中氏の予想です。

 しかし、この「釈明の成功」が、皮肉なことに真の被害者である女性を潜在化させ、社会的に隠すことに繋がりかねないと田中氏はここで指摘しています。

 性犯罪被害者であるため(被害者の)名や顔は隠されるのは当然としても、実際、その被害の深刻さ自体が高畑さんの釈明と親子関係に隠され、薄まりつつあると田中氏は言います。

 この種の犯罪では、被害者の被害者性を特定することが倫理的に難しいため、人々の視線はどうしても加害者に焦点化されることになる。(子供の犯罪にはよく見られることだけれど)そこに母親が代弁者として登場することで真の被害者が潜在化され、問題のポイントがズレてしまうという残念な結果が生まれることがよくあるというのが、こうした状況に対する氏の認識です。

 実は、同じような指摘が、ライターの小川たまか氏による8月29日のYahoo newsへの投稿「私はこの、レイピストである俳優の母の涙は理解できません」でもなされていました。

 小川氏の知人でオーストラリア出身のキャサリン・ジェーン・フィッシャーさんは、今回の高畑淳子さんの会見に対し、自らもレイプ被害者の一人として「沈黙してはいられなかった」とするコメントを小川氏に寄せているということです。

 犯した罪を謝罪するため記者会見を開くことが日本人の習慣であることはわかっていても、私はこのレイピストである俳優の母の涙は理解できないとジェーンさんは小川氏へのメールに綴っています。

 なぜ母親は泣いているのか。彼女の息子が獣のように被害者をレイプしたせいで、その女性がいま味わっている生き地獄のために泣いているのか。それとも、彼女の息子が逮捕されたせいなのか。悪いけれど、私には(この涙の意味が)理解できないとジェーンさんは言います。

 裕太の母親は、同情をひいたり息子の刑期を軽くしたりするために、メディアの前で決して涙を使うべきではないとジェーンさんはしています。そしてそこにあるのは、母親として、自分の息子がレイピストであることをきちんと受け入れ、何が被害者のためにできることかを考えていないあなたの涙には何の意味もないという厳しい指摘です。

 ジェーンさんの指摘を踏まえ、小川氏は、(例え高畑淳子さんに会見で同情を買う意図はなかったとしても)、あの会見を見て「気の毒だ」と感じた視聴者は多かっただろうとしています。

 加害者家族の苦しみという、今まで日本が生で見たことのない強烈にセンセーショナルな映像がテレビで流され続ける。しかもそれが今まで親しみを持っていた親子ということもあって、国民による(よく知った)母親への同情は今、大きく膨れあがっているように思われると小川氏は考えます。

 そして、その同情が、これから行われる裁判結果に少しでも影響しないことを祈っていると、小川氏はこの論評で語っています。

 さて、容疑者の母親である高畑さんを今回の会見に駆り立てたものは、一体何だったのか。

 母一人子一人の家族として居ても立ってもいられない気持ちはあったのでしょうが、会見の様子を見る限り、少なくともそれは被害者への心からの謝罪という感じではなく、むろん息子が被害者の人権を蹂躙したことへの怒りでもないようです。

 一方、(会見という形であれ何であれ)もしも高畑さんが謝罪のコメントを発しなければ、事の推移は一体どうなっていたでしょう。

 容疑者には、以前から「甘やかして育てられたボンボン息子」といったキャラクターが設定されていただけに、高畑さんの身の上に「親として謝罪はないのか」というバッシングの嵐が吹き荒れたのは想像に難くありません。

 そう考えれば、少なくとも外形上、今回の会見は(ある意味、社会的影響力のある公人としての立場を持つ)芸能人としての責任の表明に他なりません。また、言い換えればそれは、(出来の悪い息子を持った)日本の大人として、社会から求められる体裁を体現した所作と言えるかもしれません。

 事件の認識をお茶の皆様に説明し、親として(子供に代わって)反省の姿勢を示すことが(日本の社会では)どうしても必要とされていた。自分の置かれた状況に対して涙している姿を世間にさらすことで、私は(息子の犯した犯罪によって)きちんと傷つき、応分の痛みを負っていますと宣言したとも受け取れます。

 一方で今回の会見が、お茶の間の観客に対し、「見たいものを見た」という(ある種の)満足感を与えたことは事実でしょう。

 「ここまで反省しているんだから…」、「どうしようもない息子なんだから責めても仕方がない…」、母親の涙がそうした「収束感」をテレビ見ている多くの人々に与え留飲を下げさせたというのは、もしかしたら小川氏の指摘のとおりかもしれません。

 どのような事情があろうとも、事件は事件として起こったことであり、容疑者は法的な責任を負わなければならない立派な大人です。また犯罪行為への贖罪と 母親の謝罪と異なる次元の問題であることは自明と言わざるを得ません。

 今回の事件で本当に弱い立場に立っている者、傷ついている者は誰なのか。

 「形に収めること」を重視する日本の社会を考えるとき、それでも「被害者と一緒に怒る人がいることに私は希望を感じている」と訴える小川氏の言葉の重みを、私も今回の会見から改めて感じざるを得ませんでした。



♯418 ましゃは彼女のどこに惹かれたのか?

2015年10月07日 | ニュース


 永遠の独身と目されてきた、人気俳優の福山雅治(46歳・愛称「ましゃ」敬称略)の結婚が話題になっています。報道によれば、30から40歳台の適齢期にある独身女性の間では、その喪失感から「福山ロス」とも呼ばれる状況すら生じているということです。
 
 特に、伴侶となった女優の吹石一恵(33歳)が、いわゆるナチュラル・ビューティーとして(決して派手さはないものの)多くの隠れファンを持つある意味個性的な女優であったこともあって、この大物俳優に結婚を決意させた彼女の魅力について、ネット上などでは様々な意見が交わされているようです。

 少子化の主な原因の一つとして若者の晩婚化が指摘される昨今ですが、このようなネット上の書き込みなどを見る限り、今回のビッグカップルの誕生をきっかけに、若者の結婚に対する意識も徐々に変わっていくのではないかと期待する向きもあるようです。

 ルックスも才能も地位も名声も(そしてお金も)ある福山雅治のような(女性にモテモテの)難攻不落と思しき男性が、彼女の一体どのような部分に惹かれたのか。男性ばかりでなく女性からもその(選ばれた)理由が注目されるのは、(多少の嫉妬心も含め)ことの性格上無理のないことと言えるかもしれません。

 10月6日の経済サイト「ダイヤモンド・オンライン」では(株)ソーシャルプランニング代表でマーケティング・コンサルタントの竹井善昭(たけい・よしあき)氏が、「誰もが勘違いしている福山雅治が結婚したホントの理由とは?」と題するレポートにおいて、この話題にひとつの示唆に富んだ視点を提供しています。

 竹井氏によれば、一般的にこういう場合、マスコミが伝える「相手の女性像」はおおむね画一的で、「控えめで決して出しゃばらず、非常に気が利く。料理が上手くて家事全般を完璧にこなし、男のわがままも許容してくれる女性」といったものだということです。

 今回の結婚報道もその例に漏れず、マスコミはこぞって「古き良き理想の女性像」を念頭に、吹石一恵がいかに「感じがいい」女性なのかを伝えている。それはあたかも、金も地位もある社会的に成功したハイグレード男を落とすためには、男にとっての都合の良い女、いわば「プロ彼女」を目指すべきとアナウンスしているようだと竹井氏は指摘しています。

 しかし、こうした一面的な見方に惑わされてはいけない。ハイグレード男子を狙いたい女性がこうした言説を信じるのは不幸の始まりだというのが、このレポートにおける竹井氏の見解の眼目です。

 様々な調査などを見る限り、「結婚したい男性が女性に求める条件」は圧倒的に「性格」で、それも「思いやりがあって優しい」というようなぼんやりしたものだということです。さらに、より具体的な条件の中には、「料理が上手い」「子ども好き」「自分を立ててくれる」などといった回答が並んでいるのが普通だと氏は述べています。

 確かに、多くの「結婚したい男性」は、理想の女性として「やまとなでしこ」的なものを漠然とイメージしがちかもしれません。しかし、目の前にいる現実の女性を「結婚の対象」、「人生の伴侶」として具体的に見たときに、本当にそれがプロポーズを決意する「決め手」となり得るのかどうか。

 少なくとも、「ハイグレード男」が伴侶に求めるもの(魅力)は決してそうしたものではないはずだと、竹井氏はここできっぱりと否定しています。

 欧米のオールドマネーや、様々な分野で活躍している一線級のビジネスマンやクリエイターも、結婚に際して相手に求めるのは料理の上手さや優しい気遣いなどではない。少なくとも、氏がこれまで出会った(様々な業界でそれこそ業界の歴史に名を残すような業績を上げている)一流のビジネスマンやクリエイターは、そうした居心地の良さとは別の一つの共通した能力(魅力)をパートナーに求めているということです。

 彼等は伴侶に一体何を求めているのか?竹井氏はそれを、「インスパイア」という言葉で説明しています。

 自分の仕事や人生にインスピレーションを与えてくれる、自分をインスパイアしてくれる、そのようなミューズのような女性を一流のハイグレード男は求めている。なので、ハイグレード男性を狙いたい女性は、料理の腕を磨いたり、男を立てる優しい女性を演じたりすることに腐心するよりも、いかに男性をインスパイアできる女性になれるかを考えたほうがいいと、氏は一ランク上の結婚を目指す女性たちにアドバイスしています。

 一方、竹井氏の懸念は、今の日本の結婚適齢期の男性達は、楽な恋愛、楽な結婚を求めすぎているのではないかというところに繋がります。楽な恋愛、楽な結婚ばかりを求めるのは、一方で自分自身を甘やかし、ダウングレードさせることになる。第一、女性に対して失礼だという指摘です。

 「男たちよ、それでいいのか?」と竹井氏はこの論評で未婚の男性諸氏を叱咤激励しています。古来、男性は、「無理めの女性」「高根の花」を口説き落とすために、男としての自分を上げよう、磨こうと頑張ってきた。氏によれば、そうした頑張りが結局のところ仕事の上での成長にもつながり、さらなる成功へと導いてきたのではないかということです。

 男たちは、自分の未来を変え、ひいては世界を変える、そんなパワーを与えてくれる女性をこそ求めるべきだと竹井氏は言います。

 難攻不落のモテ男、福山雅治も「きっとそうだったのではないだろうか」と結ぶ今回の竹井氏のレポートに触れ、人生の伴侶としてのパートナーの持つ意味を私も改めて考えさせられたところです。
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♯409 マイナンバー始まる

2015年09月16日 | ニュース


 気が付けば、「マイナンバー」がそれぞれの家庭に通知されるまで、既にあと半月に迫っています。そして約3か月後の1月からは、まず社会保障や税、災害対応などの行政分野において、実際にマイナンバーが活用され始めるということです。

 施行期日が迫ったこともあり、メディアなどにおいて「話題」という形で取り上げられることも増えてきたこの制度ですが、導入によって具体的にどのように私たちの暮らしに影響が及ぶのかについては、今ひとつはっきりしないのも事実です。

 内閣府のホームページは、当面、マイナンバーを年金や雇用保険の資格取得、ハローワークなどの事務、医療保険や福祉分野の給付などに活用していくとしています。また、税の確定申告や特別徴収などの際に記載が求められるようになり、さらには預金の口座などにも紐づけされて、各種申告などの効率化に役立てられるということです。

 さらに、先日財務省が発表した消費税の負担軽減措置においては、国民一人ひとりの食料品などの購入額をマイナンバーで把握し還付する案が(いきなり)示され、様々な議論を読んだのは記憶に新しいところです。

 政府はこれから先、このマイナンバーの利用範囲をどこまで広げていこうとしているのか。

 9月11日のYahoo newsでは、マイナンバーの普及によって身近な場所でどのようなことが起こり得るかについて、ITジャーナリストの神田敏晶氏が興味深いレポートを寄稿しています。

 政府が約3,000億円以上の税金を投入し普及させようとしているこのマイナンバー制度の主要な目的は、(ひとことで言えば)確実な税収確保に他ならないと、このレポートで神田氏は指摘しています。

 マイナンバーを使って所得を国民一人ひとりに紐づけできれば、内緒で副業を持っている人や自営業者や個人事業主、富裕資産がある人などの収入と税金の関係が丸ハダカにされることになると神田氏はしています。

 氏によれば、国税の立場からすればこれは願ったりかなったりで、証券会社や保険会社等の金融機関で利金・配当金・保険金等の税務処理をマイナンバーで行うことで(いわゆる)「眠れる1600兆円」の金融資産とマイナンバーが紐づき、さらに登記事務にも導入されれば、土地、不動産などの資産と個人との紐付けも時間の問題になるだろうということです。

 そうした視点から神田氏は、マイナンバー制度は、国民のありとあらゆる財布の中身を可視化する最大のツールとなり得ると考えています。

 近々でまず起こりうることを想定するならば、例えば昼間は企業でOLをしながら夜のバイトをしている副業の女性達に問題が発生するだろうと氏は説明しています。

 週に何回かだけアルバイトをしているような人にも、給与を支払う際にはマイナンバーが必要となる。事業者側から申告されたマイナンバーで名寄せされれば、当然彼女達の昼間の収入と夜の収入が合算され、社会保険料や住民税などに影響する。昼間の会社にも副業がバレてしまい、面倒くさいことになることが予想されるということです。

 そうなれば、彼女達はマイナンバーの申告をしないでもよい店を探しはじめ、怪しいブラックな事業者のもとにスタッフが集まるようになるかもしれない。そしその一方で、健全な経営をしていた夜の店がバタバタと倒産する、「マイナンバー倒産」という事象が起き始めたりするかもしれないということです。

 さて、それはそうとして、マイナンバーは行政によって活用されるばかりでなく、こうした12桁の個人番号の利用が一般化し便利になればなるほど、企業やネット上でも、個人を認証するためIDやパスワードの代わりにマイナンバーを流用する人たちが出てくるだろうと、神田氏はこのレポートで予想しています。

 もしもそうなれば、行政サービスのみならず、国民一人一人の行動や経歴が本人の知らない所でマイナンバーの下に様々に紐づけられることになり、生い立ちから思想・信条、収入、資産、健康状態、家族関係、交友関係、どこに行ったか、何を買ったかに至るまで、全てが一つの番号の下に管理される事態も生じてくるかもしれません。

 また、そうした状況の下では、統合された情報に対するセキュリティの管理の徹底が、より重要になることは論を待ちません。一つのちょっとした情報が外部に漏れてしまっただけで、紐づけされた情報が(それこそ)ずるずると垂れ流しになる可能性も、決して否定はできないのです。

 現時点では、余りに実感のないまま「ふわっと」降りてきた感のあるマイナンバー制度ですが、これから先、国民の間にどのように根をおろしていくのか。また、集められた個人の情報を、誰がどのように責任を持って管理していくのかなど、この制度にはまだまだ解決すべき課題が多いように感じられます。

 いよいよ、来月からマイナンバー制度が始まります。導入に踏み切った世代の責任として、私達のそれぞれがしっかり見守っていく必要がありそうです。