MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2640 なぜ五輪出場を「辞退」しなければならなかったのか

2024年09月20日 | スポーツ

 日本選手団の活躍により、メダル獲得数が海外で開催された五輪では過去最多となったパリ五輪。スケートボードやフェンシング、レスリングなどの競技が日本人メダリストの誕生によって注目される中、サッカーやバスケットボールなど、結果として期待に応えられなかった競技も見受けられました。

 選手個人に対しても、柔道の阿部詩選手やバレーボール男子代表など、期待された結果を残せなかった選手に対するSNSにおける匿名の誹謗中傷が相次ぎ、日本オリンピック委員会(JOC)が「警察への通報や法的措置も検討する」と声明を発表する事態もあったと聞きます。

 お隣の韓国には「川に落ちた犬は棒で叩け」という諺があるようですが、人間の心のどこかには、傷ついた人間をさらに追い込んで苦しませることで憂さを晴らすサディススティックな感情が、(いつの時代も)あるということなのでしょうか。

 そういえば、(皆すっかり忘れているようなのですが)オリンピックの開会式直前に日本体操女子のエース的存在であった宮田笙子選手が、飲酒と喫煙によって代表を辞退するというハプニングが話題となりました。

 19歳の彼女が飲酒と喫煙の事実により五輪代表でいられなくなったことについて、「当然」とみる向きも、「厳しすぎる」とみる向きもある中、結果的として「辞退」というよくわからない(ある意味日本的な)結論で幕引きが図られたことに対し、何となく釈然としたしない気持ちになったのは私だけではないでしょう。

 もとより、19歳の大学一年生が、新勧コンパで酒や煙草を覚えるなどというのは世間一般には「よくあること」。法律違反とはいえ人に迷惑をかけているわけでもなし、正義を振りかざす(無関係な)人々から「甘すぎる」と厳しい非難を受けることを恐れる競技団体の、「大人の都合」のとばっちりと勘繰られても仕方のないところかもしれません。

 日本スポーツ界のこうした問題処理の仕方に対し、現実主義的なリバタリアンとして知られる作家の橘玲氏が『週刊プレイボーイ』誌(8月5日号)のコラムに、「体操選手のオリンピック辞退と老人支配社会・日本の絶望」と題する一文を寄せているので参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

 体操女子のパリ五輪日本代表で主将だった19歳の選手が、飲酒と喫煙によって出場を辞退した。この問題を考えるにはまず、飲酒や喫煙が法によってどのように定められているかを確認しておく必要があると、橘氏はこのコラムに記しています。

 氏によれば、日本では20歳未満の飲酒/喫煙は禁止されているが、これはあくまで青少年の健全育成を目的とするためのもので、違反しても「罰則」はない(注:酒やタバコを行政処分によって没収することは認められている)とのこと。さらに、成人年齢が18歳に引き下げられたことで、これまで親権者や監督者に課されていた飲酒・喫煙を制止する義務もなくなった(平成30年6月20日警察庁生活安全局長通達)ということです。

 そうなると、罰則として残るのは、20歳以下に酒やタバコを販売した者へのものだけ。これを簡単にいうと、18歳以上の者が飲酒・喫煙していたときに、「法律で禁じられている」と諭すことはできても、「そんなの勝手でしょ」といわれればそれで終わり…というのが日本国の法律の規定だと氏は言います。

 団体や法人には独自のルールを設定することが認められているが、それはあくまでも法の範囲内に留めるべきなのは自明のこと。選手に対して飲酒・喫煙を禁じることはできるとしても、法律の目的は「健康被害防止及び非行防止」であって違反者を処罰することではないというのが氏の認識です。

 だとすれば、オリンピック出場を辞退させるという今回の処分はあまりに重すぎるのではないか…これが、国内に広く議論を引き起こした理由だろうと氏はしています。

 実際、選手が所属する大学は、「教育的配慮の点から、常習性のない喫煙であれば、本人の真摯な反省を前提に十分な教育的指導をした上で、オリンピックに出場することもあり得ると考えていました」という声明を発表。これに対してSNSでは、「あまりに的外れ」など炎上の様相を示したが、法の趣旨を考えれば大学の主張のほうが正論に思えるというのが本件に対する氏の感想です。

 仮に(彼女に)常習性があったとしても、飲酒・喫煙などの依存症は治療・支援の対象というのがいまの常識ではないか。そして、(それにもまして)違和感を覚えるのは、日本体操協会が自ら選手を処分するのではなく、合宿中のモナコから日本に帰国させたうえで、出場を辞退させたことだと氏は続けます。

 これでは、週刊誌にスキャンダルが掲載され、ネットの炎上の標的になることを恐れて、選手が自らの意思で辞退したように見せかけたと思われても仕方ないと氏は話しています。

 リベラリズムの原則は、「他者に危害を加えないかぎり、個人の自由に介入してはならない」のはず。それなのに、「リベラル」を自称するメディアでさえ、「規則を守るのは当然」として過剰な道徳を強要し、これまでの努力をすべて奪う暴挙を批判しなかったということです。

 (日本の置かれている状況を象徴するもののひとつとして)氏はここで、出場辞退を謝罪する記者会見の様子を挙げています。全国のモラルの高い人々に対し、頭を下げる日本体操協会の幹部は全員が中高年の男性だった由。選手の行動とは直接関係のない(偉い)人たちが、なぜか頭を下げている姿だということです。

 人類史上未曾有の超高齢社会に突入した日本では、若者は「高齢者に押しつぶされる」という強い不安を抱えていると氏は指摘しています。いまや日本の“マイノリティ”になった若者たち。彼らの目には、この光景が「頑張っている19歳を、年寄りが保身のために叩きつぶした」と映り、老人支配社会・日本にさらに絶望しているのではないかとコラムを結ぶ橘氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2517 いくら筋トレしてもダメな人はダメ

2023年12月23日 | スポーツ

 健康器具を扱う「株式会社セルパワー」(京都市)が2020年7月に全国の50代以上の任意の男女1117人に対し実施したアンケート調査によれば、回答者の約17%が何らかの健康機器を利用していると答えたということです。

 その内訳は、「筋トレ機器」が24.9%とトップで、次いで「ルームランナー」が18.5%。さらに「振動マシン(足、お腹、お尻)」(11.6%)、「ぶら下がり健康器(9.0%)」と続いています。一方、「健康機器を購入して失敗したことはありますか?」との質問に対しては、回答者の約3割が「はい(31.4%)」と答えており、「購入したのに使っていない」が半数超の52.3%、「安いものを選んだ」が13.4%、「試してみなかった」が(11.1%)と続いたとされています。

 人口構成の高齢化が進む中、世はまさに健康ブーム。健康長寿を目指すお年寄りを中心に、健康への意識は高まるばかりの様子。平日昼間のテレビのCMは、(高齢者向けの)健康食品や健康器具に席巻されている観があります。

 実際、セルフケア健康機器(個人用健康管理機器、健康回復機器、健康治療機器)の市場は2021年に2190億円規模に達したとの報告もあり、(ほぼ同じ市場規模の)動画広告などと並ぶ「成長産業」と目されているようです。

 とは言え、いくら「健康に良い」と言われても、中には「ホント?」と疑問を関させるものがあるのも事実です。「1カ月でウエスト回り(なんと)マイナス8cm!」とか言われても、何だかうそっぽい。「あくまで個人の感想…」なのだろうなと思わないでもありません。

 そんな折、4月23日の総合情報サイト「現代ビジネス」に、現職の内科医で医学博士の奥田昌子氏による『じつは日本人にとっては意味がない8つの健康法』と題する論考を見つけたので、小サイトにその概要を残しておきたいと思います。

 いつまでも健康で若々しくありたいという人々の願いに応えるかのように、次々に登場する新しい健康法。大抵はもっともらしい説明がなされテレビや雑誌が盛んに取り上げるが、ある食品や習慣に健康効果があるかどうか判断するのは難しいと奥田氏はこの論考で語っています。

 実は、健康法にも人種差の問題がある。メディアは欧米で流行している健康法をきそって紹介するが、欧米人とは異なる遺伝子を受け継ぎ、異なる環境要因のもとで生きてきた日本人の体質は、当然ながら、欧米人の体質とは多くの点で異なるというのが氏の認識です。

 例えば、大きな負荷をかけて瞬間的に力を入れるダンベル運動やスクワット、腕立て伏せなどの運動を繰りかえす無酸素運動系のトレーニング。筋肉がつくと基礎代謝(安静にしているときに消費する必要最小限のエネルギー)が増えることから、「筋力トレーニングで“やせ体質”になれる」と言われるようになったということです。

 しかし、実際は理屈どおりにはいかないもの。問題は、日本人は欧米人と違って簡単に筋肉がつかないことだと氏は言います。

 人の筋肉は筋線維という細い線維が集まってできている。氏によれば、この筋線維には赤と白の2種類があり、赤い筋線維はゆっくりと長い時間にわたって働くもの、白い筋線維は瞬間的に大きな力を発揮できるのが特徴だということです。

 赤白どちらの筋線維が多いかは個人差があるものの、それ以上に大きいのが人種による違い。例えば、白筋の合成が少ない人はアフリカ系では3~10%しかいないが、欧米白人では20%、アジア系では30%以上に上ると氏は説明しています。

 結果、人種ごとに平均すると、アフリカ系では筋肉全体の約70%が白筋であるのに対し欧米白人は50~60%とされる。日本人を含む黄色人種では逆に70%が赤筋と言われ、アフリカ系の人がオリンピックの短距離走で活躍するのはこのためと考えられているということです。

 そして、この赤筋と白筋の割合は、トレーニングによってある程度は変化するものの、大きく変わることはないと氏は指摘しています。一般的に、鍛えることで太くなるのは大部分が白筋なので、日本人が筋肉をつけようと思ったらもともと少ない白筋を集中的に鍛えなければならない。これは効率が悪いうえに、苦労して筋肉を1kg増やしても基礎代謝量の増加は1日あたりせいぜい20kcal、わずかキャラメル1粒分のカロリーに過ぎないということです。

 因みに、これによる体重の減少は年に1~2kg。体力があって、プロなみのトレーニングを続けられる人であっても、筋力トレーニングだけで基礎代謝を十分高めるのは困難を極めるというのが氏の見解です。

 そして何より、基礎代謝には意外な側面がある。実は筋肉だけでなく脂肪組織もエネルギーを消費しているので、脂肪が1kg減ると基礎代謝量が1日あたり5kcal下がるというのが氏の指摘するところです。

 つまり、激しいトレーニングを通じて筋肉を1kg増やし、脂肪を2kg減らしたとしても、結果、基礎代謝量の増加は差し引き10kcalになってしまうということ。これは、いくら筋力トレーニングをしたとしても「やせ体質」にはならないことを意味していると氏は言います。

 結局のところ、(少なくとも日本人の場合は)痩せたければ、カロリーの総摂取量を減らすとともに、日常生活のなかで体をこまめに動かしてカロリー消費を積み重ねるほうが確実とのこと。

 いくら筋トレを繰り返しても、マッチョになれる人は限られている。健康を考えるなら、プロテインをがぶ飲みするよりも、質素で低カロリー、栄養バランスに優れた日本食の方が日本人の体質に合っていると考える奥田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#1939 東京五輪の損得勘定(その2)

2021年08月18日 | スポーツ


 8月8日に17日間の熱戦の幕を閉じた東京オリンピック。同日夜に国立競技場で行われた閉会式では、(規則に従い帰国した選手も多かったとはいえ)世界のアスリートたちがお互いの健闘をたたえ合う微笑ましい姿が数多く見られました。NHK総合で生中継された閉会式の視聴率は個人視聴率で30%、世帯視聴率では45%を超え開会式に次ぐ高視聴率となりましたが、(一方で)閉会式の演出やパフォーマンスへの評価は決して高いものではなかったようです。

 ネット上では、現在もその内容に対する酷評が続いており、2時間以上続いたインパクトの少ない進行に、「飽きた」「つまらん」「電通最低」といった手厳しい声が相次いでいます。確かに、「公園を歩く」といったコンセプトのパフォーマンスや女優の大竹しのぶさんの突然の登場など、演出にもディレクターの意図がよくわからなかったものが多く、(言われてみれば)会場の選手たちも寝転んで退屈そうにしていたような気がします。

 一方、そうした中でひと際目を引き、ネット上の評価も高かったのが、3年後に開催されるオリンピック・パリ大会の紹介映像だったというのは皮肉と言えば皮肉です。フランス各地や国際宇宙ステーションなどで演奏する「ラマルセイエーズ」や、エッフェル塔と空軍のジェット機が織りなすスピード感あふれる映像の数々。オルセーやオペラ座、凱旋門、コンコルド広場などのパリの名所をBMXで巡るテンポの良い構成など、そのセンスの良さに(「さすがフランス」と)世界の人々が目を見張り、3年後の開催に期待を膨らませたことでしょう。

 コロナ禍のもと、初めて開催された感染症厳戒態勢の中での今回の東京オリンピック。各国のアスリートの活躍は素晴らしかったけれど、こと、大会の準備や運営に関しては、結局、準備段階から最後の閉会式まで、あまりピシッとしない、締まらない印象を残したことは否めません。振り返れば今からおよそ10年前、「お・も・て・な・し」の殺し文句のもと官民挙げて始まった日本の五輪招致活動でしたが、時の流れとは残酷なもの、(蓋を開けてみれば)紆余曲折の中でなかなか思惑通りにはいかなかったということでしょう。

 8月21日の「週刊東京経済」誌はこの機会をとらえ、「東京五輪で得をした人、損をした人は誰か」と題する興味深い記事を掲載しています。

 首都圏や北海道の会場は無観客で、チケット収入は激減。81社に及んだ五輪スポンサーのほとんど五輪に関連する宣伝活動を見送るなど、終わってみれば今大会は、組織委員会や協賛企業にとって「持ち出し」ばかりの異例の大会になったと記事は指摘しています。五輪・パラリンピックの大会運営経費は昨年末時点で(公称でも)1兆6440億円。開催地立候補時点での8000億円の見込みから2倍に跳ね上がっている。その内訳は、組織委員会の予算が7060億円、東京都や国が全面的に負担する競技場の建設費や輸送費、セキュリティ費などで特や国が負担する分が9380億円だということです。

 特に収支では、開会式直前期決定された「無観客開催」が、大きな打撃となる見込みだと記事はしています。約900億円と見込まれていたチケット収入は「何十億円」という規模にまで激減し、組織委員会の赤字は避けられない。記事の説明によれば、組織委員会が赤字になってもIOCには負担義務がないことから、一義的には主催都市である東京都が負担する仕組みだということです。

 東京都が誘致に名乗りを上げたのは、財政上の貯金にあたる財政調整基金が潤沢にあったことも背景にあった。ところが、コロナ前に9000億円ほどあった調整基金も、コロナ禍の営業補償などで2021年度には2837億円に激減していると記事は話しています。都は国に対し応分の負担を求める考えを示しているが、(そこは小池知事と菅首相の微妙な関係もあって)国は消極的な姿勢を崩していない。いずれにしても、最終的には納税者が負担することに変わりはないということです。

 一方、開催を支えた協賛企業、スポンサーの損得勘定はどうなのか。
 開催直前になっても国民の間には反対論が根強く、多くの五輪スポンサーは腰砕けになったと記事は指摘しています。7月中旬にはトヨタ自動車が五輪に関連するテレビCMをやめると表明するや、ほかの企業も右に倣えと追随した。多くの企業が、CMだけでなくネットや新聞・雑誌での広告を控え、トップスポンサーのトヨタやパナソニック、ブリジストンなどの首脳が開会式を欠席したのも記憶に新しいところです。

 スポンサー企業は五輪の宣伝効果を見込み、合計3700億円にも及ぶ多額の資金を投じてきたと記事はしています。もとより、企業がそうした資金を出すのは五輪に関連した宣伝活動を行うためだけではなく、五輪関連事業への出席やチケットの割り当てなどの特典があるから。そこに重要顧客を招くことで販売促進にも活用できると踏んでいたからだということです。
 ところが、コロナによって関連行事がほとんどなくなったうえに会場も無観客となり、その当てはすべて外れてしまった。組織委員会や東京都の要請に応得た多くの企業が(経営上)無駄金を投じることになったというのが、今回の五輪に関する記事の認識です。

 結論として言えば、①政府も東京都も持ち出しがかさみ、②そのツケは日本国民や東京都民が背負うことになり、③スポンサー企業も協賛費用がかさんだだけでメリットが得られなかった。また、④無観客開催で海外からの旅行客がもたらすインバウンドは期待できず、⑤コロナの蔓延で日本の社会や文化の紹介もままならなかった…ということ。これでは(どう贔屓目に見ても)、「興行」としての東京オリンピックが所期の目的を達成し、投資に見合った成果を上げたとは言えないでしょう。

 さて、こうした話を聞く限り、まるで「いいとこなし」のように見える今回のオリンピックですが、その中にも(果たして)「得」をした人はいるのでしょうか。

 結局のところ、バッハ会長率いるIOCは何ら懐が痛まず、まずは「一人勝ち」といえるかもしれません。開会式や閉会式で特に評判の悪かった電通もそれなりの大きな商売にはなっているでしょうし、(当初はあれほど開催に否定的だった)テレビ局などのメディアも(政府の「観戦勧奨」のお墨付きもあって)、蓋を開ければ連日の競技の盛り上がりに鼻息は荒いようです。スポーツ用品の売り上げはそれなりに好調と聞きますし、勿論それ以前に、競技会場や選手村、道路その他のインフラ整備は建設事業者に大きな利益をもたらしていると思われます。

 世の中には様々なお金の使い道がありますが、こうしたお金が(どのような形にせよ)国民に還元され「投資」として生きるならば、意味のない単なる「死に金」とも言い切れません。願わくば、総額で数兆円にも及ぶとされる今回の東京五輪関連の出費が、国内の消費を拡大し日本経済を活性化する方向で機能してほしいと感じるところです。


#1938 東京五輪の損得勘定(その1)

2021年08月17日 | スポーツ


 例年以上の酷暑の中、新型コロナウイルスの感染拡大が続く東京で開催された東京オリンピックも8月8日に閉会式を終え、何とか(無事に)その幕を閉じました。

 禍中の新型コロナウイルス対策とそれに伴う大会の1年延期によって、今回の東京オリンピック・パラリンピックの開催経費は、昨年末の時点で1兆6440億円に膨らむとされています。公表されている計画では、大会組織委員会が7210億円を担い、東京都は競技会場の建設費用や輸送用車両など7020億円、国は新国立競技場の整備費(国の負担分)784.5億円を含む2210億円をそれぞれ負担するということです。

 一方、これらの大会経費とは別に、東京都や国が支払う「関連経費」も忘れるわけにはいきません。東京都は、暑さ対策や既存施設のバリアフリー化などの改修工事にかかる掛かりまし経費を7000億円以上と見積もっています。また、国も(警察官の人件費など)警備にかかる費用などを、加えて負担しなければなりません。スポンサー収入やチケット収入などで賄うとされている組織委員会分の費用はひとまず置いておくとして、それを除いた東京都と国の「大会経費」と「関連経費」の合計額はる。都が1兆4519億円、国が1兆3059億円となる計算です。

 なお、この金額は都と国の一般会計から支出されることになり、その財源がいずれも税金であることは論を待ちません。その負担額は、1人あたり東京都民で10万3929円。4人家族なら1世帯約42万円を都民税などで五輪のために払うことになる。これは、たとえ都民でなくとも、国民1人あたり1万408円の割り当てになるということです。最終的に無観客を決めた今回の大会。政府や東京都は「オリンピックは自宅で、テレビで」と訴えていますので、これが都民と国民の「テレビ観戦料」ということになったわけです。

 とは言え、暗い話ばかりではありません。綱渡りでも開催できたおかげで、日本選手団は金メダル27個を含む史上最多の58個のメダルを獲得。国民も連日のメダルラッシュに大きく沸きました。新聞やテレビは「お祭りムード」を煽り続け、話題が話題を呼んで競技の視聴率もうなぎのぼりとなる中、この観戦料を高いと見るか安いと見るかは人それぞれでといったところでしょう。

 ただ、(少なくとも)これだけは言えるのは、五輪開催前にそこまでの負担を覚悟していた東京都民はそんなには多くないはずだということ。これから先、組織委員会や東京都、そして国はその経費をきちんと精査し、それぞれ責任の所在を明らかにする必要があると言えるでしょう。

 さらに、今回のオリンピック開催によって都民や国民の肩にのしかかる負担は、これだけにとどまりそうにないという指摘もあります。8月10日の「日刊ゲンダイDIGITEL」の配信記事によれば、約3兆円を発表されているこれらの開催経費には、組織委の赤字補填やコロナの水際対策などは加味されておらず、これを含めた総費用は4兆円規模に膨らむ可能性があるということです。これは、日本が獲得したメダル1枚当たりの金額に換算すると、約690億円という法外な金額になるそうです。メダルの数で金額を割るというのもどうかとは思いますが、いくら「おカネには変えられない」と言っても、コストとしてはかかりすぎではないかと感じる向きも多いことでしょう。

 実際、開会式直前に決定された「無観客開催」の代償として、組織委が900億円と見込んでいた入場料収入は全体の約97%が失われ、約20億円程度に激減したと記事は伝えています。お金は出ていくばかりで入ってこない。組織委員会が経費で建設した競技場や通信インフラなど、スポーツの振興に資する一定のレガシーは残るとしても、海外からの観光客の受け入れを断念したことで、観光需要や国際ビジネスの拡大によるインバウンドの増加など、当初期待された経済効果の多くが「期待外れ」に終わったとの指摘もあります。

 オリンピックという世界一のスポーツイベントが、コロナに苦しむ人々の心に明かりを灯し、社会を盛り上げたことは(おそらく)事実でしょう。しかし、祭りの後に何が残ったのかと聞かれれば、少なくとも「見込んだようにはいかなかった」というのが正直なところかもしれません。
 国や人によって考え方は大きく異なり感染の状況も刻々と変化する中、誰がやっても難しい運営だったとは思いますが、それでも個別の判断の過程を検証しきちんと評価していくことが、未来の日本により良い結果をもたらすのではないかと改めて感じているところです。


#1927 ストリート系競技がオリンピックにもたらすもの

2021年08月06日 | スポーツ


 今回の東京オリンピックで初めて採用された新競技のスケートボード。日本の10代の若者が早くも三つの金メダルを獲得したことで、子供たちを中心にこのスポーツの人気が沸騰しているという報道がありました。

 行政などには体験会や教室の問い合わせが殺到する一方で、ボードや関連グッズを買い求める親や若い世代も急増しており、スポーツ業界、ファッション業界などでは新しいマーケット爆発的な拡大に期待が集まっているようです。

 東京都渋谷区の(スケートボードの「老舗」として知られる)「ムラサキスポーツ原宿明治通り店」には、「スケボーを始めたい」「久々に再開しようと思う」と来店する若者らが相次ぎ、ボードの売り上げも倍増したと報じられています。

 一方、日本国内では「スケボー禁止」をうたっている公園がほとんどで、もちろんストリートでの滑走も禁じられていることから、今後のトラブルの増加も懸念されているところです。

 練習場の普及を進めるNPO法人「日本スケートパーク協会」によると、国内では多くの公園で手すりや階段などの破損、騒音が発生し、安全面への配慮もあって禁止されているということ。このため人通りが多い道路上でスケボーを走らせる人もおり、迷惑行為とみられることが多いということです。

 全国の練習場は今年5月末現在で418か所あるということですが、こと「練習場所」という意味では、アメリカやオーストラリアなど海外とは比較にならないほど少ないのが実態と言えるでしょう。今後、競技人口が急速に増加した場合、環境整備や住民の理解が大きく進まなければ、事故や苦情などのトラブルの続出が懸念されるところです。

 こうした状況対し、既に日本におけるスケートボード競技の「聖地」と化している(オリンピックの競技会場の)「有明アーバンスポーツパーク」を有する東京都江東区の山崎孝明区長は、8月3日の記者会見で、同施設を恒久施設として残す方向で都と調整していることを明らかにしました。

 東京都は大会終了後、同パークの施設の一部を有明地区に移転し、都市型スポーツを楽しめる拠点とする構想を示していました。一方、今回の若者たちの活躍はさらにその計画を発展させ、湾岸エリア全体を(東京五輪大会のレガシーとして)こうした競技の『スポーツゾーン』に位置づける方向で動き始めているようです。

 確かに、アメリカ西海岸を発祥とするスケートボードのような都市型のスポーツが、一つの「若者文化」としてこれからの日本に根付いていく可能性はかなり高いような気がします。

 スケートボードのような初期投資があまり必要でない(いわゆる)「ストリート系」の競技は、他のスポーツに比べ(場所さえあれば)体験・参加のハードルが極めて低いのが特徴です。低所得の家庭の子供達でも手が届く手軽さがあり、若者らしいビジュアルなカッコ良さも追求できる。そこでスター性が認められれば、メディアもきっと放っておかないことでしょう。

 それにしても、中学生や高校生の(ある意味フツーの、どこにでもいそうな)子供たちが世界を舞台にやすやすとオリンピックのメダルを手にしていく姿は、これまでになかった新鮮な感覚を、テレビの前にいるコロナで自粛生活を続ける日本人に与えていることでしょう。

 この子たちは一体どういう日常生活を送っているのか、学校にはちゃんと通っているのかなど、(中には)こうしたちょっとおせっかいな思いが頭をよぎっている大人もいるに違いありません。

 思い思いのファッションに身を包み、口にする言葉やひとつひとつの仕草も含め、それぞれのやり方で自らが感じるクールさを表現する子供たち。競技の合間や表彰式ではしゃぐ彼らの(ある意味「子供らしい」)姿を見ていると、「オリンピック」というものの世代交代と、それに伴う意義の変化を改めて痛感せざるを得ません。

 球技や陸上競技ばかりでなく、格闘技や体操、馬術やフェンシングなど、歴史と伝統に培われた様々な競技が粛々と進む中、今回から新たに採用されたサーフィンやスポーツクライミング、そしてこのスケートボードなどは、オリンピックという(カビの生えかけた)存在に確実に新しい風をもたらしてくれているような気がします。

 子供の遊びを商売にしてしまう「あざとさ」もオリンピックの一つの姿であるとすれば、それを文化として世界中の様々な世代に紹介し、共感につなげていくのもオリンピックを続ける意味の一つといえるでしょう。

 「ストリート系」のスポーツは、ラップやタトゥーやだらしないファッションなどの、大人が顔をしかめるような(くだけた)文化と親和性が高いという指摘もあるようです。しかし、そういったセンスも含めて、彼らと大人の世界とを繋げるのもオリンピックの力と言えるかもしれません。

 願わくば、こうした(総合力としての)若者文化の多様性やフラットな感覚が多くの人に共有され、オリンピックとともに青空の下で健全に育ってほしいと願ってやまないところです。


#1915 オリンピックが始まった

2021年07月25日 | スポーツ


 東京の、暑い夏のオリンピックが始まりました。

 テレビカメラの向こうでは多くのアスリートの熱戦が繰り広げられ、エアコンの効いた部屋の中での応援にも思わず力が入ります。
 チャンネルを次々に変えながら、水球だとかホッケーだとかテコンドーだとか、普段あまり見慣れないスポーツに様々な発見をすることも、オリンピックの楽しみ方の一つだと改めて気づかされたところです。

 新型コロナをはじめとした多くのトラブルを抱えながらも、始まってしまえばもう誰にも止められない。そうした「成り行き」というか「開き直り」というようなものの中でも、競技スケジュールは様々なドラマを生み出しながら進んでいきます。

 開催自体に疑義を唱えていた各種メディアも、気が付けばオリンピックの熱気に乗っかって、(何事もなかったかのように)金だ銀だとハイライトシーンの再放送を繰り返し伝えています。
 スポンサーと世間の動きにはかなわない。あぁやっぱりこの人たちはなんて調子が良いのだろうと、改めて感じているところでもあります。

 思えば開会式直前まで、今回のオリンピックのガバナンスは大きく揺れ動き続けてきました。
 開催するのかしないのか、観客を入れるのか入れないのか。「バブル方式で安心・安全」のはずの選手村からは連日何十人と言う感染者が生まれ、迎える都内の一般市民の感染者数もうなぎ上りの状況です。

 開会式をめぐっては、音楽責任者が学生時代のいじめを巡って辞任したり、演出担当者が過去のコントに(ナチスドイツの)ホロコーストを揶揄する内容があったとして解任されたりと、差別や歴史認識など日本人の人権意識に関する問題がクローズアップされる事態も生じています。

 そうしたこともあってか、結局無観客で行われた開会式の評価はいまひとつで、国内外のメディアからは「中途半端」「おざなり」といった声も聞かれるところです。

 そもそも、「たかがスポーツ大会なのだから、別に観客が入らなくてもいいじゃないか」「開会式なんてただのアトラクション。(競技の)「おまけ」みたいなもんだろう」とも思うのですが、(オリンピックへの機会が大きい人たちには)なかなか許してはもらえないようです。

 なぜそうなるのかと言えば、そこに大きなお金が投じられているから。一人一人の納税者が承知したわけでもないのに、総額で1.6兆円と言われる(誰が負担するのかも、何に使われたのかもよくわからない)巨費を投じた結果がが「こんなもの」であるのなら、「金返せ!」と言いたくなるのも郁子なるかなと思います。

 もとより、アスリート個人の領域に属するスポーツが、いつの間にやら選手とは知り合いでも何でもない「私たち」のものとして語られ、勝利の栄誉はあくまでアスリート個人のものであるはずなのに、あたかも「自分たち」の勝利のように祀り上げられている。
 そして、気が付けば「近代オリンピック」というイベントが、(戦争に代わり)国の威信をかけて戦う場と化している現状を、多くの人はあまり不思議とも思っていないようです。

 開会式の終了後、メディアは国立競技場の周辺で繰り広げられた「オリンピック何が何でも反対派」と「せっかくだから楽しもう、がんばれニッポン派」の小競り合いを面白おかしく報じています。
 集まって密になるのが問題のはずなのに、マスクもせずに罵り合う人々の姿は、テレビの画面を通しても私たちを(「滑稽」を通り越して)少し悲しい気持ちにさせるのに十分なものがありました。

 多くのものを犠牲にしながら、こうして始まったオリンピック。それでも日本の、いや世界の何億と言う人たちが、(おそらくは)コロナのことはしばし忘れて純粋に競技を楽しんでいることでしょう。
 それは勿論、アスリートたちが真剣に競技に臨んでいるから。そのリアルな姿から希望をもらい、明日を生き抜くための力をもらっているからであって、それ以上でもそれ以下でもないはずです。

 オリンピックは政治や経済や主義主張とは違うもの。どうせ無観客で、批判を覚悟で開催するのであれば、そう割り切って一人一人のアスリートの姿をごくシンプルに丁寧に追いかけ、スポーツがもたらす「新しい世界観」を表現する機会にもできたのではないかと、ひとしきり残念に思った次第です。


♯1871 ゴルフ場にも変化の兆し

2021年06月07日 | スポーツ


 2019年8月の渋野日向子選手による全英女子オープンゴルフ優勝後、久しぶりに盛り上がりを見せていた日本のゴルフ界。そこに伝えられた今年4月の松山英樹選手によるマスターズゴルフトーナメントでの優勝は、ゴルフファンに限らず日本中に大きなインパクトを与えました。

 日本ゴルフ界の宿願でもあった日本人選手による(男子)4大メジャー大会での優勝は、コロナ禍で感染リスクが低いゴルフが見直されるきっかけとなり、日本のゴルフ業界にとっても強い追い風として作用しているようです。
 さらに今日(6月7日)は19歳の笹生優花選手による全米女子オープンの優勝が伝えられ、オリンピックの東京大会を目前に世代交代を果たした日本勢の活躍はとどまるところを知りません。

 最近、仕事の関係でゴルフ場の経営者の方々と話をする機会が増えているのですが、現在のゴルフ場は、ゴルフを始めたばかりの若いゴルファーや、しばらくプレーを離れていた60代以上の世代の回帰などによって大いに賑わっているのだということです。
 人気の余波はゴルフ場以外のところにも波及しており、ゴルフグッズを扱うチェーン店やクラブメーカー、さらにはカーボンシャフトを焼く加工業者まで、注文が多くて受注をこなしきれない状況だと聞いています。

 ゴルフというスポーツを巡るこうした盛り上がりは、(しばらく冷え切っていた)ゴルフ場会員権市場にも早速火をつけているようです。
 5月26日の日経新聞によれば、松山選手が優勝した今年4月の関東圏ゴルフ場(主要150コース)の会員権の平均価格は、前年同期比15.6%高の193万円で、前年同月を4か月連続で上回ったということです。
 会員権仲介大手の「桜ゴルフ」(東京・中央区)は同紙の取材に答え、4月の個人による買い注文数は前年同月の実に2.7倍上っており、売り注文数も前年同期比41%増と、市場全体が活気づいていると話しています。

 私が聞いた関係者の話でも、首都圏のゴルフ場は(「密にならない」というエクスキューズから)ここのところどこも予約が一杯で、しかもそれは(在宅勤務の影響かどうかはわかりませんが)土・日・休日に限らない。(カラオケや飲み会などが制限される中)堂々と大手を振って出かけられ、健康的で社交性もある男女共通のレジャーとして人気を博しているということです。

 加えて最近では、コロナ禍でやることがなくなった若者が、「ゴルフでもやってみるか」と興味を持ち始めたという話をよく聞くようになりました。
 ゴルフの裾野が広がったというのでしょうか。全体的に見ても仕事がらみのグループによる社交的な色彩が薄まり、プライベートのパーティーでの和気あいあいとしたものに変わってきた。父親に連れられた母親や息子、娘たちなどのラウンドも多く、郊外でのキャンプやピクニックの感覚に近いものがあるという話です。

 このような利用者の変化に伴って、ゴルフ場でのプレースタイルもずいぶん変わってきたと、キャディーさんたちが話していました。自分たちのペースで回れるセルフでのラウンドが好まれ、プレースタイルも、厳密にルールや勝ち負けにこだわらない「ゆるい」ものになっている。もちろん、スコアについて「握る」ようなことはなく、(コロナの影響もあって)昼食時にビールを飲む人すら少なくなっているということです。
 こうした話を総合すると、新しくゴルフを始める人を中心に、ゴルフはこれまでのような「スポーツ」としてではなく、ちょっとおしゃれをして出かける手軽な「レジャー」として捉えられているように感じます。

 そして、こうした変化に対しては、ゴルフ場の経営サイドも敏感です。
 御存じのように、現在のゴルフ場は、純然たるメンバーシップ制度では経営が立ち行きません。ゴルフ場の多くがインターネットなどによるビジター予約を受け入れ、メンバーには縁もゆかりもない人を、ネット予約経由でラウンドさせているのが現実です。
 旧来の(いわゆる)「カントリー倶楽部」は、英国の伝統に基づくメンバーによる自主独立の運営が基本だったため、そこに連れられて来たビジターはローカルルールの中でほとんど借りてきた猫状態、肩身の狭い窮屈な状況に置かれていました。

 しかし、(一部の名門と呼ばれる施設を除けば)いまや多くのゴルフ場が(正直言って)一見のビジターさんに高いプレイフィーを負担してもらわなければ運営が成り立たないのも事実です。
 最近は、初心者のようなビジターが多くなりゴルフ場の「品格」が落ちたという苦情を(古参のメンバーから)しばしばいただくようになったと、知り合いのマネージャーがこぼしていました。
 しかし、経営する側からいえば、ビジターに優しいゴルフ場というスタイルで運営していかなければ大切なお客様を逃がしてしまうことにもなり兼ねない。このネット社会では、悪い書き込みのひとつもあれば、あっという間に客足は遠のくというのが本音のところでしょう。

 昭和のおじさんたちの社交場として一世を風靡したゴルフ場にも、(若い選手たちの活躍とともに)世代交代の波は着実に押し寄せているようです。
 巷はコロナで大変ですが、青空の下で友人たちとゴルフに興じれば、日ごろのストレスもかなり解消できるというもの。家計の金融資産も増えているようですので、(ゴルフ場の経営のためにも)あまりキリキリせずに、気の置けない仲間とおおらかにプレーを楽しんでいただければと考えるところです。
 

♯1848 「送りバント」という戦略

2021年05月12日 | スポーツ


 コロナ禍のもと、3月19日に甲子園球場で開幕した​第93回となる全国選抜高校野球大会(春のセンバツ)。4月1日には決勝戦が行われ、名門東海大相模高校(神奈川)が明豊高校(大分)を3対2の劇的なサヨナラ勝ちで制し、2011年以来10年ぶり、3度目の優勝を果たしました。 東海大相模による3度の春の甲子園制覇は歴代3位に並び、春夏合わせて5度にわたる制覇は歴代6位のタイ記録となったということです。

 甲子園での高校野球大会は、昨年は新型コロナウイルスの影響により中止となったため2年ぶりの開催となりました。
 今回の大会では、感染防止対策として観客の上限を1万人に限定したり、アルプス席を学校関係者限定の1000人までとしたり、当日券の販売は行わないなどの様々な対応が取られ、(テレビの画面越しでも)いつもの年よりずいぶん静かな甲子園に見えました。
 感染防止対策のため、相手チームとの握手や素手でのハイタッチを禁止。試合中は出場選手とベースコーチを除き原則マスク着用、飛沫感染防止のためブラスバンドの演奏や大声での応援を禁止するなど選手や応援団にとっても異例づくしの大会だったようです。

 さて、決勝戦の内容ですが、10年ぶりの優勝を掴んだ9回裏の東海大相模高校の攻撃。8回が終わって2対2の同点の展開で延長も視野に入っていましたが、東海大相模は先頭打者の内野安打で出塁すると、9番の選手の送りバントなどがうまく決まって一死満塁のチャンスが生まれます。
 この場面でバッターは3番の好打順。彼がはじき返した打球はショートへ痛烈なライナーとなり、センターへ点々と転がって3塁ランナーがホームイン。チーム一同、満面の笑顔の日本一となりました。

 さて、先頭打者が塁に出て打順は9番のラストバッター。「1点を取れさえすればいい」というこの状況を踏まえれば、監督のサインは誰が考えても「送りバント」しかないでしょう。
 確実に塁を進めるためには、たとえ自らが犠牲になっても構わない。自分を殺して(チームのために)仲間を生かすというのも「いかにも日本的な戦法だなあ」と思っていましたが、これが本当に米国のメジャーリーグなどではほとんど選択されない特殊な戦法だという話を先日初めて耳にしました。

 実際、日本のプロ野球の公式戦(2019年)で1試合当たり0.65個行われた「送りバント」は、メジャーリーグ(MBL:2019年)では4856試合で776犠打、1試合当たり0.16個しか試みられていないということです。
 野球の本場、大リーグではほとんど廃れてしまったこの「送りバント」という戦法が、この日本ではいまだになぜこうして多用されているのか。筑波大学准教授で同大硬式野球部監督の川村卓氏は4月11日の東洋経済ONLINE「科学的に見て送りバントは有効な戦術なのか」と題する論考を寄せ、(専門家の視点から)その理由を整理しています。

 まず、「送りバントは無死1塁でどのくらい戦法として使われているのか?」についてです。2016~2017年の甲子園大会129試合のデータを調べると、無死1塁で送りバントという戦法を選んだのは50.2%。これが10年前の2005~2007年の甲子園大会160試合のデータでは68.9%に及んでいるので、10年前までは「無死で走者が1塁に出れば(ほぼ間違いなく)送りバント」と考えてよかったと、氏はこの論考で説明しています。

 一方、これは逆に言うと、高校野球の世界ではこの10年で送りバントの機会がざっと2割も減っているということ。それは一体なぜなのでしょうか。
 結論から言ってしまえば、この10年間「打高投低」が進む高校野球の世界で、送りバントは1死を与える「もったいない戦法」と見られるようになったというのが川村氏の認識です。
 野球の世界には、データを統計学的見地から評価し戦略を考える分析手法としてセイバー・メトリクスというものがあるが、その研究によると、送りバントで1死を与えることで(高校野球の場案)「得点期待値」が0.90から0.77へ減少することがわかっていると氏はここで指摘しています。

 そして、この結論は高校野球だけでなくプロ野球でも同様のこと。2014~2018年のデータでは、無死1塁から1死2塁になることで、得点期待値は0.80から0.64に減少するということです。
 つまり、無死1塁で送り監督が送りバントを命じそれが成功したとしても、得点につながる可能性は(データ上は)逆に下がってしまうということ。勿論、個々のバッターの打撃力によって期待値は変わるでしょうが、それにしても、やたら手堅くバントの指示を送ればそれでよいというものでもなさそうです。

 こうして考えれば、送りバントは野球の戦略上必ずしも有効な手段ではないと考えられる。しかし、それでも日本の野球では、依然として送りバントを使う傾向が続いていると川村氏はこの論考に綴っています。
 特に高校野球の監督たちが、今でも「送りバント」を多用したがるのは一体なぜなのか。 バッターに(「チームのため」と)送りバントを強いることで、「ワンチーム」のムードが作れるからか。自らが捨て石になって味方を勝利に導くことが「日本人のメンタリティ」にマッチした戦法だということなのか。

 そういうことをひっくるめて、(選手が与えられた役割をこなすのが)日本の監督が目指すチームプレーの姿だからなのか。はては、もしも打って出てダブルプレーなどに終わったら監督の責任が問われることになるからか。
 いずれにしても、高校球児たちに「勝つための手段」として強いてきた「送りバント」が(そう簡単には)彼らに受け入れてもらえなくなる日がだんだん近づいてきているような気がするのは、果たして私だけでしょうか。





♯1537 ゴルフのハードルが高い件

2020年01月29日 | スポーツ


 最近の女子ゴルフ界は、昨年の全英女子オープンで渋野日向子選手が20歳という若さで優勝し、その後も1998年生まれの「黄金世代」が国内ツアーや全米女子ツアーで活躍するなど、2000年代初頭に巻き起こった宮里藍ブーム以来の華やかさを見せています。

 しかし、そうは言っても、少子化・高齢化の進展とともに、日本のゴルフ人口が年々減少していることは広く知られています。

 ゴルフ愛好家の数はピーク時の実に2分の1以下にまで落ち込んでいるというデータもあり、(年間1回は「ゴルフをやった」という)「参加率」はわずか5.5%と、一昨年から昨年にかけて2.0ポイント減ったとされています。

 特に、個人的な趣味としてゴルフを楽しむ世代の高齢化は、ゴルフ産業に携わる関係者の間でも強く懸念されているようです。

 実際、ゴルフ人口の年代別の構成比は60~79歳が過半を占めており(データによれば60歳代が23%、70歳代が30%)、かつて「お年寄りのゴルフ」と揶揄されたゲートボールの63.5%に迫る状況だということです。

 2020東京オリンピックのメジャー競技であり、バブル期を中心に団塊の世代のレジャーとして一世を風靡したゴルフのこうした状況を踏まえ、1月2日の「東洋経済ONLINE」に、スポーツライターの赤坂厚氏が「今の若者がゴルフをやっていない切実な事情」と題する一文を寄せています。

 昨年、日本ゴルフジャーナリスト協会(JGJA)が武蔵野美術大学で「ゴルフビジネス論」という講座を開いた際、赤坂氏も「青少年にゴルフを あの手この手」というテーマで講義を担当したということです。

 そして結論から言うと、(ある意味予想どおり)講義を受けた大学生のほとんどがゴルフをやったことがなく、ゴルフに対するイメージは「お金と時間がかかる(遠い存在)」というものだったと、氏はこの論考の冒頭に記しています。

 氏はこの講義で、ゴルフと他のスポーツの年齢別人口で野球やサッカーは20代までは圧倒的に多いが、40歳代でゴルフが逆転、50代ではボウリングも上回ること(総務省2016年社会生活基本調査)、ゴルフは何歳からでも始められるスポーツであることなどを説明し、ゴルフを始めるにあたっての初期費用や用具の種類などを紹介したということです。

 そしてその上で、プレイフィーも徐々に安くなっており車がなくても行きやすくなりつつあることや、クラブがレンタルできるコースも増えていることなど、業界全体としてハードルを低くする努力をしていることなどを話したとしています。

 その上で、赤坂氏が(講義の締めくくりに)学生に対してアンケートを行ったところ、「ゴルフ身近にするには誰でも始められる金額もしくは子供のころに始められる工夫が必要」「長期休みに友達と一緒に行くとお得になるとか、テンションが上がる要素がほしい」「ドレスコードなど若者にはやっかい。形式へのこだわりは捨ててほしい」などの若者らしい声が上がったということです。

 また、「聞けば聞くほどお金と時間がかかりそう」「道具の置き場や持ち運びの大変さがあり、クラブを所有する気持ちに至らない」など、手ぶらで簡単に楽しめるような工夫がさらに必要ではないかとの意見も強かったと氏は指摘しています。

 さらに、ゴルフ業界に対しては、「広告や店舗もデザインなどに工夫し、若い人にアピールするようにしたらよい」「CMに若者に人気の俳優を使うなど、ゴルフへのあこがれを抱かせるような宣伝戦略が必要なのではないか」などの提案もあったということです。

 また、若者のゴルフへの敷居を低くする戦略としては、「打ちっ放しとゴルフ場の中間ぐらいの、お試し施設があると身近になるのではないか」「SNSなどでプレーヤー同士のつながりを促す仕組みを作ってはどうか」など、若者らしいヒントやアイディアの提供も見られたと氏はこの論考に綴っています。

 さて、実際のところ、ゴルフ場のクラブハウスの持つ(あの、ちょっと格式ばった)雰囲気は、(多くの場合)初めて訪れた人たちに決してフレンドリーなものではありません。

 キャディーさんはメンバーの常連さんと楽しそうに話していてこちらを振り向いてくれないし、コースごとにいろいろなローカルルールもあったりして、初めてのゴルフ場がビジターに見せるアウェー感は(特にビギナーにとっては)半端ないのではないでしょうか。

 一方、遊び半分で出かけたハワイのゴルフ場などで感じる非常にオープンでフレンドリーな感覚は、日本のそれとはずいぶん違うものです。

 服装や道具にも無頓着だし、プレースタイルにも寛容。何よりも、放ったらかしのフルセルフで勝手にやらせてくれるので、仲間内が集まって下手でも気を使わずにワイワイ楽しめるのが魅力です。

 翻って、日本のゴルフ場も全部が全部本格派を目指すのではなく、もう少しバラエティに富んだ様々なカテゴリーのものあってもよいのではないかというのが、この記事を読んでの私の感想です。

 きっちりした(英国風の)名門ゴルフ場には名門なりの伝統と様式美を守ってもらう一方で、ビギナーが家族や友達同士で(適当に)遊べるコースもあっていいのではないか。

 小さな子供からお年寄りまで、ゴルフというスポーツのすそ野を広げるためにも、レジャーとしてのゴルフの「楽しさ」が味わえる環境がもっとあってもよいのではないかと、私も改めて感じるところです。