MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2751 「DEI」と差別のない社会

2025年02月22日 | 社会・経済

 米国の新大統領に復帰して早々、ドナルド・トランプ氏が矢継ぎ早に署名した大統領令の数々。大小さまざまなものがあったようですが、その1つが連邦政府の「DEIプログラム」の終了を宣言するものだったことに、「やっぱり来たか…」という感想を持った人も多かったかもしれません。

 この大統領令は、連邦政府と請負契約を結ぶ民間企業にDEIの廃止を求めるもの。従わなければ、政府との契約が打ち切られたり、補助金の支給が停止されたりしかねない内容となっています。

 ここで言う「DEI」とは、「Diversity(多様性)Equity(公平性)Inclusion(包摂性)」の略で、人種や性的指向、性自認などの属性を理由に不利な扱いを受けてきたマイノリティに「公平」な機会を与え、社会や組織に包摂するための取り組みのこと。

 具体的には、人種や性別、障害の有無などに基づくクォータ制の採用や、マイノリティの割当枠を設けることなどが主な内容となるわけですが、マジョリティサイドから見ればそれはそれで「不公平」に見えるもの。特に米国においては、トランプ氏を支持する保守層を中心に、「逆差別」などの反発を招いてきたのも事実です。

 大統領令の発令を受けて、非営利の公共放送ネットワークPBSは早速DEI担当部署の閉鎖を発表。アマゾンやメタ、グーグル、小売大手のターゲットなども、相次いでDEIの廃止や見直しを打ち出したとメディアは報じています。

 同一性の高い日本ではまだまだ議論が深まっていないこの問題ですが、 流動性の高まりとともに世界のどの地域もいずれは通る道。「平等」を巡る様々な意見が戦わされれば、「差別のない社会」「機会均等」とはどういうものなのかを掘り下げて考えてみる良い機会になるかもしれません。

 作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が「週刊プレイボーイ」誌に連載中の自身のコラム「そ、そうだったのか!? 真実のニッポン」(2月3日発売号)に、『DEI(多様性、公平性、包摂性)を推進すると差別的になる?』と題する一文を寄せているので、(まずはその呼び水として)主張の一部を残しておきたいと思います。

 「アメリカ・ファースト」を掲げ、大統領就任と同時に支持者の前で多くの大統領令に署名したドナルド・トランプ氏。中でも大きな歓声が上がったのが「DEIの解体」だったと、氏はコラムの冒頭に記しています。

 多様性を受け入れ、社会からマイノリティへの差別をなくそうというこうした動きがなぜ今、アメリカ社会で強い反発を受けているのか。

 例えば、米保守系グループが差し止めを求め提訴した(マクドナルドが運営する)ヒスパニック系学生向けの奨学金制度の問題。この奨学金は「少なくとも片方の親がヒスパニックかラテン系」であることを条件に、大学生に最高10万ドル(約1500万円)を支給しているが、これが経済的に厳しい状況にある他の人種的少数派を排除していると訴えられたと氏は説明しています。

 また、2023年に米連邦最高裁が、一部の有色人種を大学入試で優遇する措置を違憲と判断したのも記憶に新しいところ。この判決を受け、保守派団体が企業を提訴しはじめたことで、マクドナルドやウォルマートなどが次々とDEIから撤退したということです。

 トランプ氏の署名した大統領令は、いわばこうした「反DEI」の集大成とも言えるもの。米国のような人種的多様性のある社会でDEIを進めると、大学進学や就職、昇進などで不利な扱いを受ける多数派の白人から「逆差別」との不満が噴出することになる。民主党リベラルはこれまで、こうした批判を「人種主義(レイシズム)」と黙殺してきたが、保守派が求めているのが(白人の優越ではなく)「人種の平等」であることも事実で、ここでは、「異なる正義」が衝突しているというのが氏の指摘するところです。

 例えば、DEI(プログラム)を導入した企業や組織は、人種や性的少数者の問題を理解し、平等を実現するための研修を行わなければならないとされている。しかし、そこで困惑するのは、一部の社会学者(それも無意識のバイアスを研究する黒人女性の社会学者)から、この研修には効果がなく、かえって差別や偏見を助長しているとの批判があることだと氏は言います。

 社会学では、「道徳の証明」が得られると、それを「免罪符」として不道徳なことを行なう効果が生まれることが知られている。米国の有名企業がDEIを導入するのは「社会的責任」の証明を得るためだったが、皮肉なことに、DEIに熱心な会社ほど社会的に無責任になる場合も多いということです。

 アメリカでは、財務省など政府機関に対する多様性研修で、「事実上、すべての白人はレイシズムに加担している」と教えられる。しかし、この研修を受託している企業の代表者が白人であることが報じられ、保守派の憤激を買ったと氏は話しています。

 氏によれば、多様性研修は、今では(かように)様々な利害関係者が群がる巨大ビジネスになっている由。少なくとも現在の米国では、「DEI」の旗を振っていれば「差別のない社会」が実現できるというわけではないというのがこの論考における橘氏の見解です。

 さて、翻ってこの日本でも、マイノリティへの差別の存在を際立たせることについては、(かねてより)「寝た子を起こすな」といった議論があるのも事実です。マイノリティの存在を際立たせ、差別解消のために(なにがしかの)「特典」を与える対応を取れば、それがかえってマイノリティの存在を際立たせるというジレンマ。場合によっては「逆差別」といった反発を生む場合もあるでしょう。

 しかし、だからといって放置していても、「時間が解決する」とは限りません。人権はすべての人間が、人間の尊厳に基づいて持っている固有の権利であり、現代社会において最も尊重されるべきもの。その侵害に対して何らかの対応を取るのは、近代国家として当然のことと言えるでしょう。

 様々な差別感情やそれに基づく不利益を、社会の隙間や歴史の隅から掘り起こし、日の当たる場所で議論することもまた然り。放っておいて問題が解決するわけではないのであれば、例え「行ったり来たり」することはあっても、議論は続けていかなければならないと、私も改めて感じているところです。


#2749 職場から「上司」がいなくなる

2025年02月19日 | 社会・経済

 近年、米国企業では組織構造の変化により中間管理職の数が徐々に減少しており、従業員の業務負担に多大な影響が及んでいると、1月11日の「Forbs Japan」(『なぜ中間管理職はコロナ禍以降「6%減少」? それがもたらす問題』)が伝えています。

 米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」の調査では、コロナ禍以降、中間管理職の数は全米で約6%程度減少している由。当然、中間管理職1人あたりの管理業務は大幅に増加しており、1人のマネージャーが管理する従業員数の平均は、2017年比で実に3倍に増えているということです。

 スリムな組織階層が求められている背景には、コストを削減して経営を合理化したいという企業側の事情があるとのこと。そこで標的となったのが、給与や手当などが比較的手厚い中間管理職であり、中間管理層が薄い方がスムーズに意思疎通ができ、意思決定のスピードが上がると考えた企業が、よりフラットな構造へと舵を切りつつあるとされています。

 記事によれば、この流れを加速させているのが、DXやAIなどのデジタル技術の進歩とのこと。例えばAIが従来型管理業務の多くを引き継げば、中間管理職は今後、ますます人員削減の対象になっていく可能性があるということです。

 経営者は、組織の階層を減らせば意思決定が速くなり、おまけにコストも削減できると考える。一方、平社員にとっても、余計な資料作りやら根回しやらといったつまらない事務から解放され、「合理的」「いいこと尽くめ」のように見えるのでしょうが、果たして本当にそれで現実の仕事はうまく進むのか。

 近年の米国で進むこのような状況に関し、1月15日の「Forbes JAPAN」に作家のクリス・ウェストフォール氏が『「上司の削減」が進む米国、メンター不在の職場でZ世代を待つ危機』と題する論考を掲載しているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 「中間管理職」という職種自体が、かつての牛乳配達人やファックス機と同じ運命をたどろうとしている。ホワイトカラーの人員削減の一環として、例えばグーグルやメタ、UPSなどの大企業では、中間管理職という役職そのものが根こそぎ廃止されつつあると、ウェストフォール氏はこの論考で指摘しています。

 通信機器のライブ・データ・テクノロジーズのリポートによると、2023年に実施されたレイオフのうち、中間管理職の占める割合は全体の3分の1を占めているとのこと。これは、ホワイトカラーの管理職だけでなく、現場を担うZ世代の働き手にとっても暗いニュースとなると氏は言います。そしてその理由は、(少なくとも現在の)Z世代の働き手たちは、(誰かに)ガイダンスやメンター的役割、監督を求めざるをえないからだということです。

 (具体的な例を挙げれば)現在、「個人貢献者」(←部下を持たずに専門的な業務に従事する一般社員やフリーランス)を中心とするモデルへと移行を進めている米アマゾン。この大企業では、今後、最大で1万4000人相当の管理職が廃止される可能性があると氏は話しています。他の企業も、(これほど大規模ではないが)同様の施策を実施している。つまり、最終的な収益を改善するために、米国の多くの企業が中間管理職の削減に乗り出しているというのが氏の認識です。

 現実問題として、これにはどんな要因が絡んでいるのか?…氏によれば、昨今の「上司削減トレンド」に関し、テキサス・クリスチャン大学ジョセフ・ロー教授は、「デジタルトランスフォーメーション(DX)が大きな役割を果たしている」と説明しているとのこと。自動化や先進的なテクノロジーの導入により、タスクの進捗をソフトウェアでモニタリングできるようになり、(従来、それを担ってきた)中間管理職の必要性は下がっているということです。

 一方、こうして中間管理職が消えつつあるなかで、従業員のエンゲージメント(「愛着」や「思い入れ」)は大幅に下がっていると氏は指摘しています。氏によれば、「ギャラップ」によるあるリポートは、従業員と管理職のあいだに育まれる強い心理的なつながりは、業績や従業員のウェルビーイングを高める原動力となっていると指摘。「管理職の役割は、かつてないほどに重要度を増している」と説いているということです。

 さて、そうした中で、Z世代にとっての危機は(実際のところ)多数の中間管理職が職を失ったことではない。ここで重要なポイントは、中間管理職(上司)という職種、存在が、もはや組織の中に存在しないということだと、氏は改めて説明しています。

 このような状況の下で、従業員のエンゲージメントが非常に下がっていくことはまったく不思議ではない。米フォーブス誌の記事によれば、Z世代の働き手のうち、「中間管理職になりたくない」と考えている者は既に52%に上っていると氏は言います。

 (上司を失った)Z世代に残された道は、セルフリーダーシップ(目標設定や優先順位の策定など、従来は上司の役割だった任務を自ら担う働き方)ただ一つ。他者からの導きなしに(自らの経験と責任で)状況を進んでいくのは、本当に困難な道になる可能性があるということです。

 道標なくジャングルに一人置かれたZ世代にとって、セルフリーダーシップの重要性は今、かつてないほど高まっている(そして、今後はさらに高まるだろう)と氏はこの論考の最後に綴っています。

 新しい職場には配属されたものの、上司はおらずミッションだけが山積みされている状況は、考えただけぞっとするもの。誰も何も教えてくれず、「できないのはお前に能力がないからだ」と言われるのではたまったものではありません。

 AI時代に入って、この(「放置プレー」の)傾向が続くことは間違いない。Z世代の働き手や雇用主は、コーチングとスキル構築に集中的に取り組むことで管理職の廃止で生じた間隙を埋め、未来の仕事の在り方に対応する体制を整えていかねばならないと話すウェストフォール氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2748 今日のバラマキは明日の増税

2025年02月18日 | 社会・経済

 野党各党の要求が出そろった国の2025年度予算案の審議も、修正をにらみ実務者間で大詰めの協議が進められているようです。自民、公明両党と日本維新の会は、維新が求める所得制限を設けない高校授業料の無償化について2月中旬までに一定の結論を出す方向だと報じられています。

 衆院で過半数を持たない自公両党にとって、維新から予算案への賛成を引き出すことは最重要課題。財源が7~8兆円必要とされる「103万円の壁の178万円への引き上げ」にこだわる国民民主にはもう付き合いきれない。維新の議席を足せば衆院で過半数に達するので、6000億円と言われる財源には目をつぶって、こっちに乗り換えた方が「安上り」といった算段もあるのでしょう。

 政府の予算案を巡っていつまでこうしたやり取りが続くのかはわかりませんが、何かと物入りの政府に対し、ガソリンの暫定税率の廃止やら高額療養費の見直しやら給食費の無償化やらと、(この時とばかりに)齧りつく野党の姿勢に、「で、お金の方はどうするつもりなの?」と聞きたくなるのは私だけではないでしょう。

 そうした折、1月9日の日本経済新聞のコラム「経済教室」に、政策研究大学院大学教授の北尾早霧氏が『時代遅れの政策、転換が必要』と題する(ある意味「気合の入った」)論考を寄せていたので、ここで指摘の一部を残しておきたいと思います。

 日本の1人当たりGDPは主要7カ国の首位から最下位へ転落し、経済力で大差をつけていた国々にも次々に追い抜かれ、世界34位まで後退した。この20年あまりで日本は成長のロールモデルから、停滞の教訓を学ぶ対象へと変わったと氏はこの論考の冒頭に記しています。

 出生率低迷で労働人口は減り、婚姻率が低下して家族のあり方も多様化。人々の価値観や行動規範も変化して、技術革新が進む世界の中で、日本の政策のアップデートは遅く成長から取り残されているというのが氏の認識です。

 氏によれば、(そんな時に)変化に背を向け、場当たり的な政策を繰り返しても持続的な成長は望めないとのこと。時代遅れの政策は、経済活動の足かせとなって構造的な成長を妨げる。持続的成長を実現するには、長期的視点に基づく転換が必要だということです。

 そうした中で、最も「足かせ」となっているものの一つとして、氏は経済対策として行われる定額給付などの弊害を挙げています。低所得層支援や老後の安心はもちろん重要なこと。しかし日本で平均資産が最も多いのは高齢者で、逆に貧困が深刻なのは20〜50代の若年層だと氏は指摘しています。

 勤労世帯に税を課し、豊かな老後に公費を注ぐことは日本の最優先課題ではない。低所得層支援を掲げて繰り返す住民税非課税世帯へのバラマキは、大半が裕福な高齢者に届き、格差を拡大するというのがこの論考における氏の見解です。

 貧困層の支援は、生活保護など本来のルートを通じて対象を絞るべき。生活保護がうまく機能しないなら、解決策は高齢者を含むバラマキではなく制度の整備だろうということです。

 一刻を争う新型コロナ危機時の一律給付金には一定の意義があった。しかし、5年を経た今も、焦点のぼやけたバラマキを続けるのはなぜか。経済の構造的な停滞は経済危機とは異なる。経済対策と称し膨大な行政コストを伴う給付や補助を乱発し、成長を祈るのは無責任でしかないと氏は言います。

 一時的な政府支出や消費の増加は、むしろ持続的な成長を阻害する。なぜかと言えば、平時の給付金で所得が一時的に増えた国民は消費を拡大し、生産者も恩恵を受けるが、その原資となる増税が先送りされる中、需要増に供給が追い付かなければ価格の上昇につながるから。さらに、翌年には所得が元に戻るだけでなく、先送りされた課税で将来の手取りが減るため、結果、消費は先細るというのが氏の認識です。

 突発的な給付による需要増では、企業が長期的な生産増強や雇用拡大に踏み切るインセンティブは生まれない。企業は需要減を見越して生産を縮小するということです。

 また、変則的な給付に伴う事務コストも、税負担を増大させる一つの要因になると氏は続けます。今日のバラマキは明日の増税であり、将来負担の増加は投資意欲をそぐ。結果として生産力は低下し、成長は鈍化するというのが氏の指摘するところです。

 (成功体験の下で)神頼みの政策を繰り返せば、長期的な停滞を招くだけだと氏は言います。成長に結びつかない政策が出るたび将来負担が増し、政府債務の行方はますます不透明になる。本来、政策の役割は不確実性を減らし、安心して投資や消費をできる環境を整えることだが、日本では政策そのものが不安材料だということです。

 結局のところ、持続的な経済成長には、労働者と企業の生産性を高め、生涯所得と生産を増やす以外に道はないと氏は話しています。政府が企業に賃上げを求めても成長は続かない。それよりも、焦点を欠いた給付や「思いつき」の政策をやめ、働く意欲や所得成長の壁を取り除くほうが効果は大きいというのが氏の感覚です。

 (宝くじを引くように)確実な成長分野や将来のユニコーン企業を政府(の役人たち)が予測するのは不可能なこと。人的資本投資を通じて(地道に)国民全体のスキルを底上げし、人々や企業が自律的に成長の源泉を見いだせるよう後押しすべきだと氏は言います。

 選挙目当てに有権者の御機嫌取りをしてその場を取り繕っても、結局そのツケは将来世代の負担となって帰って来るだけ。「米百俵」ではありませんが、同じコストを投じるなら、将来世代のスキルアップや活躍のための環境整備にこそ力を入れるべきということでしょう。

 そこで、まず手掛けるべきは、古い価値観や慣行に縛られた経験則を指針にせず、多様性を尊重し、挑戦を促し、失敗を受け入れる環境を作ることだと氏は最後に提案しています。これは政策に限らず、企業や大学を含む教育・研究現場にも当てはまること。多様な個人のスキルと生産技術が自由に伸びる環境なくして持続的な成長はありえなのだから…とコラムを結ぶ北尾氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2746 資産形成で忘れがちなこと

2025年02月16日 | 社会・経済

 新しい少額投資非課税制度(NISA)が始まってまもなく1年。主要証券会社の専用口座を経由した個人の購入額は約11.9兆円となり、旧NISA時代の実績の4倍に膨らんだと、12月28日の日本経済新聞(「新NISA、資産形成の礎 旧制度の4倍12兆円流入 1~11月、長期志向で6割投信」2024.12.28)が伝えています。

 記事によれば、相場の上がり下がりに関係なく安定して流入する家計のマネーは、既に日本株相場の支えになりつつある由。昨年後半半にかけては投資信託への投資配分が7割に増えるなど積み立て投資が根付くきっかけになっているということです。

 昨年1月に始まった新NISAは、国内外の個別株と投資信託を購入できる①「成長投資枠」と、投信を積み立てる②「つみたて投資枠」を柱とするもの。投資上限額は年間360万円と、それまでのNISAと比較して3倍に拡大しました。非課税で運用できる期間が恒久化されたことも注目され、誰もが「個人投資家」となり長期の資産形成がしやすくなったとされています。

 記事によれば、1~11月期の購入額は証券10社合計で既に11兆8994億円。前年実績の4倍に相当するとのことです。政府は「資産所得倍増プラン」で、NISA買い付け金額を5年間で約28兆円から約56兆円へ倍増させる目標を掲げており、1年目となる2024年の買い付け額は12兆円なので(折からのブームに乗って)目標を上回るペースで進んでいることになります。

 さて、2001年に政府が「貯蓄から投資へ」のスローガンが掲げてから既に20年。長期にわたる取組みが功を奏してか、2024年6月末時点で、家計の金融資産に占めるリスク資産(株式等+投資信託)の割合は19.4%と2007年6月以来の最高値を記録しているようです。しかし、そもそもお金は使ってこそ幸せになれるというもの。儲かればいい、貯まればいい…というのでは何か「本末転倒」のような気もします。

 年明けの1月9日、日本経済新聞の投稿欄「私見卓見」に、ファイナンシャルプランナーの齋藤岳志氏が『資産形成、お金の使い方も考えて』と題する一文を寄せているので、改めてその指摘を残しておきたいと思います。

 運用でお金を殖やしたとしてもそれだけでは意味がない。その後の使い道を考えることが大切だと、氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 資産の運用・形成を行うことの最終目標は、お金を殖やした後、自分のウェルビーイング(心身の健康や幸福)を高めることに使えるかどうかということ。老後やインフレへの備えなどのように、生活を維持していくためという側面も資産運用を行う大切な動機だが、ただそれだけだと、(殖えてうれしい、安心だという満足感はあっても)残高が減るのが怖くて、肝心な「使う」という視点が漏れてしまうというのが氏の見解です。

 確かに、蓄財をするなら「何歳までにいくらの残高を目指す」といった目標設定も大切なポイントです。だが、そこから一歩先の「その残高を達成した後、それをどう使っていくか」にまで思いをはせることが、殖やすこと以上に大切なだと氏は言います。

 実際、フィナンシャルプランナーとしての氏は、資産残高の目標金額という視点をあまり重視していない由。それよりも大切にしたいと考えているのは、配当金、分配金、家賃のような定期的に収入をもたらしてくれる資産を保有し、毎月、お金が入ってくる仕組みをつくることだということです。

 毎月お金が入ってくる安心感があることで、お金を使いやすく感じ、使うことで得られる幸福感を味わいやすくなる。しかし一方で、誰でも残高が減るのを見れば、使うのをためらってしまいかねないと氏は話しています。

 だから、残高を減らさずに保ちながら、毎月入ってくるお金の流れをつくっておく方がよいというのが氏の指摘するところ。もちろん、お金を使うのは将来だけではなく、今を(充実させて)生きることも大切なこと。将来のために、生活費をきりつめて資産形成に手取りの多くを充てている人も多いが、「効果的な使い方ではない」と感じてしまうというのが氏の認識です。

 現役の今だからこそ、年齢が若いうちだからこそ、お金を使って体験、経験できることは数多くある。そして、その経験は必ずや仕事やプライベートに生きてくる。そして、そうした経験を積み重ねることで、幸福感を増しながら充実した過ごし方ができるということです。

 お金は貯めること自体が目的ではなく、使ってこそ生きるもの。将来の、そして今のお金の使い方と働き方を考え、形成された資産をその後どう使っていきたいかを(まずは)おおまかでもイメージしてみてはどうかと、氏はこの論考の最後に提案しています。

 将来への意欲も増すし戦略的にもなれる。「イメージする」という行為自体が、(きっと)自分のウェルビーイングを高めることにつながっていくはずだと話す齋藤氏の指摘を、私も「さもありなん」と興味深く読んだところです。


#2743 大麻取締法の改正について

2025年02月13日 | 社会・経済

 昨年の8月、大阪府内の市立中学で大麻や覚醒剤が見つかった事件で逮捕された中学3年の少年2人が、「売るために持っていた」などと転売目的で入手していたことが報じられ、世間を驚かせました。

 大阪府警によれば、少年2人は当時、大阪府和泉市内の別々の市立中に在籍しており、このうち1人は府内の男子高校生(17)から大麻を買い取り、SNSを通じて自分で客を見つけて転売していたとのこと。またもう1人は、同じ高校生から大麻を受け取り、高校生がSNSで見つけてきた客に売りさばいてマージンを得ていた由。大麻や違法薬物をめぐる犯罪の低年齢化は抜き差しならないところまで来ていることを実感させられるところとなりました。

 特に近年では、意識不明など体調不良となる人が続出した「大麻グミ」問題や、アメリカンフットボール界の名門「日大フェニックス」の廃部など、大麻(マリファナ)の保持や使用の意問題がメディアを賑わす機会が増えています。実際、2013年に1616人だった大麻所持による検挙者数は、わずか10年後の2023年には約4倍の6482人にまで膨れ上がっているということです。

 一方、海外に目を向ければ、カナダやウルグアイは大麻の嗜好が合法化されており、米国、オランダ、英国、スペイン、ドイツ、ベルギー、オーストリア、ポルトガル、フィンランド、イスラエル、韓国などでも、一部の区域で大麻吸引の非犯罪化が進んでいます。

 こうして大麻を巡る環境が大きく変化する中、専門家による様々な議論を踏まえ、この日本においても「麻薬取締法」「大麻草栽培規制法」などの改正が行われ(2024年12月12日施行)新たに「使用罪」が加わるなど、その取扱いに大きな変化が生まれています。

 このような法改正が、現在の大麻が抱える問題にどう機能するのか。昨年12月23日のビジネス情報サイト「現代ビジネス」に、筑波大学教授の原田隆之氏が『大麻「の使用罪」新設が、じつは「国際的な潮流」に逆行していると批判を受けているわけ』と題する論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 2022年の大麻による検挙者数は5546人に達し、覚醒剤の6289人に迫る。覚醒剤との違いは若年層の多さで、検挙における30歳以下の人数は3840人と約7割におよぶと原田氏はその冒頭で指摘しています。

 氏によれば、こうした状況を踏まえ(昨年)12月、従来の「大麻取締法」が「大麻草の栽培の規制に関する法律」に改正され、併せて関連法規である「麻薬及び向精神薬取締法」等の一部が改正されたとのこと。特にポイントとなる改正点としては、大麻使用罪(新法上では「施用罪」)の新設が挙げられるということです。

 これまでの大麻取締法では、覚醒剤やあへんなどの規制薬物と異なり、大麻使用については禁止規定も罰則もなかったと氏は言います。その理由の1つは、許可を受けて大麻を栽培している農家(←大麻は現在でも、神社の注連縄や相撲のまわしなどに使われているとのこと)などが意図せず大麻成分を吸引した際に、「大麻使用」として刑罰を受けることがないようにという配慮だそう。今回の改正で医療用の大麻使用が認められたこともあり、「大麻には害がない」「大麻解禁」などという誤った理解が広らないよう、その新設が行われたということです。

 この10年間で、若年層を中心に急激に増加している大麻使用。一方で、覚醒剤の使用は低下を続けており、昨年初めて大麻での検挙人数が覚醒罪を上回った。こうしたことへの危惧も使用罪新設の背景にあったと考えられると氏は説明しています。

 しかし、この「使用罪」については、国際的な潮流に逆行しているとの批判も根強いと氏は話しています。国連は、2016年の薬物問題特別総会において、薬物使用者の人権と尊厳を尊重することの重要性を強調し、「薬物治療プログラム、対策、政策の文脈において、すべての個人の人権と尊厳の保護と尊重を促進すること」と決議した。さらに、従来の「犯罪」としての見地から「公衆衛生」しての見地を重視し、処罰による対処からエビデンスに基づく治療、予防、ケア、回復、リハビリテーション、社会への再統合が必要であると強調しているということです。

 その大元にあるのは、「処罰」は末端の薬物使用者の社会的排除、スティグマにつながり、回復や社会復帰を阻害してしまうというという考え方。科学的なエビデンスであるこうした方針に基づき、国際社会は「処罰から治療へ」という方向に大きく舵を切っていると氏は話しています。

 そうした中、今回の「使用罪」新設は残念ながら、この潮流に真っ向から反対するものと考えられる。望ましい方向性は、処罰を強めて末端の薬物使用者を社会から排除するよりも、予防啓発、治療、福祉などの方策を拡充し、社会の認識の変革を推進していくことだというのが氏の指摘するところです。

 我々の社会が目指す方向は、違法薬物には断固たる態度を取りながらも、その一方で末端の薬物使用者の人権を守り、社会復帰を後押しするような態度であろうと氏は話しています。模索していくべきは、刑罰に加えて厳しいバッシングや社会的排除を行うのではなく、彼らが健康的な生活を取り戻し、再び社会に包摂すべく手を伸ばすことを忘れない社会だということです。

 覚醒剤のような常習性はないにせよ、大麻は「ゲートウェイ・ドラッグ(入門薬物)」と呼ばれ、大麻に手を出した若年層がやがて覚醒剤やコカインに手を延ばしていくケースなども多い由。海外では大麻が合法化されている国もあり、海外遠征の多い運動選手などにもその傾向がある中、日大のアメフト部の事件などは、ある意味使用罪創設のいい喚起になったと思うと話す原田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2742 「令和の米騒動」はいつまで続くのか

2025年02月12日 | 社会・経済

 私たちの生活に身近なコンビニや飲食店などで、(昨年に引き続き)コメ商品の値上げが相次いでいると1月24日の日本テレビNNNニュースが報じています。

 セブンイレブンは1月20日、おにぎりや弁当など一部商品を値上げすると発表。『塩むすび』は税抜き108円から128円と2割アップ、『唐揚げ弁当』は530円から580円に値上げされるということす。

 また、コメが欠かせない回転寿司でも、はま寿司が昨年末から約半数の商品を165円から176円などに値上げしたほか、ファミリーレストランのデニーズでも、ライスを税込みで44円値上げした由。いずれも、最近のコメの価格高騰が理由とされ、消費者の財布に直接打撃を与えています。

 さて、こうした報道を見ても、店頭から在庫が消え「令和の米騒動」と言われた昨年の夏以降、(令和6年産米が流通して久しい現在でも)コメ価格の高騰はとどまるところを知らずに続いていることがわかります。

 各種報道によれば、首都圏のスーパーなどでの(令和6年産米の)販売価格は5キロで4000円程度とのこと。前の年の同じ月に比べ2倍近くとなり、「米騒動」と騒がれた昨年よりもむしろ値上がりしている状況とされています。

 農水省によれば、そもそも米農家から卸売業者に販売される際の『相対取引価格』(平均値)が、2024年産は60kgあたり2万3715円と前の年に比べて約1.5倍に跳ね上がり、比較可能な2006年以降最高値を記録しているとのこと。以前のような品不足感はないものの、これにより「卸→販売業者」間の取引価格はさらに跳ね上がり、5キロ5000円に迫る銘柄米も出始めていると伝えられています。

 外食やスーパーなど、売り先が確保できているのに手元在庫が乏しい業者は、高値でも買わざるを得ない状況に置かれ、そのコストが商品価格に反映されている。また、それを逆手に取って「コメ転がし」的なことを行っている業者なども現れて、悪循環が続いているということです。

 さて、こうしたコメ価格の高騰を受けて、1月31日、政府はようやく備蓄米の放出(厳密に言うと「貸出し」)を発表。江藤農相は7日に早期実施の考えを表明しました。不作や災害など、緊急時に備えた「政府備蓄米」は、政府がJAなどから毎年20万トンずつ主食用米(1万5000円/60kg)を買い入れ、放出する事態が起こらなければ5年後にエサ米(1000円/60kg)として処分するというもの。

 これまでほとんど放出した例がないので、その背景に「米価維持のための安定需要の確保策」といった(極めて政治的な)政策意図があるのは周知の事実ですが、いずれにしても年間500億円、100万トンの備蓄なのでトータル2500億円の財政負担が生まれていること、そしてもちろん、それを負担しているのが国民・納税者であることに間違いはありません。

 今回、その一部がJAなどの集荷業者を通じて市場に供給されるころになりますが、何とも面倒くさいのは、放出した同量のコメを政府が1年以内に買い戻すとしていること。何故そんなことをするかと言えば、その分を放出したままでは、市場にコメがだぶつき7年産米の価格が急落する恐れがあるからです。現在、高値は続いているものの、6年産米を大量に誰かが食べてしまったという話は聞きません。さらに、米価が異常に高騰していることもあって、米農家が今年(令和7年)産のコメの作付けを大幅に増やす可能性も考慮する必要があったのでしょう。

 おコメの値段が下がるのはもちろん消費者としては有難いことですが、主食の需給管理を担当する(そして生産者の味方である)農水省としては看過できようはずもありません。例え農水省が許しても、コメ農家やJAの庇護者である農林族政治家が黙っていることはないでしょう。

 簡単に言ってしまえば、米価が高騰しても備蓄米が「放出」されることはないということ。結局のところ、納税者であり消費者でもある国民が「備蓄米制度」の恩恵を被ることはなく、おまけに高いコメまで買わされる。こうして米価を維持することで利益を得るのは、米流通に携わる一握りの人たちあることはまちがいありません。

 さてその一方で、令和5年度産米が不作だったのは事実しても、令和6年産米の米が作況指数は101と平年を上回ったにもかかわらず、なぜ市場にコメが出回らないのか。

 農水省の調査によれば、令和6年産米の生産量は、前年より18万トン増えていたとのこと。しかし、収穫後の年末にJA全農などの大手集荷業者が集めた量は、前年よりも(少なくとも)21万トンも減っていたとのことです。

 と、すれば、通常の流通経路から消えたこの「21万トン」が、価格高騰の背景にあると見て間違いないでしょう。忽然と消えた(ご飯茶碗で実に32億杯という)大量のおコメは、一体どこへ消えたのか。報道によれば、農林水産省では、米の値上がりを見込んだ流通業者や生産者などが、米を抱え込んでいると見ているということです。

 生産者や業者が、コメをより高く売れるタイミングまで市場に出さずにいることは、(それだけのリスクやコストを背負うことになるだけで)もちろん違法でも何でもありません。昨今では、JA(全農)などの大手卸を通さなくても、スーパーなどの流通業者が生産者から直接仕入れるルートも一般化、さらにインターネット通販やふるさと納税などを通じて生産者から直接消費者に米を届ける仕組みも整ってきているので、それはそれで健全な姿なのかもしれません。

 ただし、もしも一部の流通事業者などが、投機目的で6年産米を(どこぞの倉庫などで)大量に抱えている状況があるとすれば、市場の大きな不安定要因になるのは明らかでしょう。消費に適するお米の期限は、持って2年間というところ。そうしたものが、(例えば「偽装」とかいった形で)今後、不適切に市場に流れ出れば、消費者に大きな混乱をも招きかねません。

 首都圏でコメを作り続けている知り合いの農家の話では、昨年の稲刈りが終わった時分に、(少し強面の)見かけないおじさんたちが4トントラックで近所の農家を回り、JAに出す値段の1.5倍の価格で新米を買い集めていった由。全然知らない相手でも、その場で札束を置いて買い上げていくので、(いくら売ったか税務署にもバレないし)小遣い稼ぎにと10俵単位で取引した農家も多かったということです。

 ともあれ、この「令和の米騒動」はいつまで続くのか。6年産米がどこかに滞留しているのであれば、(コメ消費も落ち込んでいる折)いつかはその値段も下がっていくのでしょうが、心配なのは政府からは「相場を下げよう」という意思が感じられないこと。

 まあ、コメの市場価格が高止まりすれば、農水省のステークホルダーである米農家も流通業者も潤うので、放置しても(省益としては)問題はない。さらに、農家の所得が一定以上になれば農水省は補助金をカットできるので、今の相場を維持したいという動機もあるのかもしれません。

 しかし、いずれの事態となっても、迷惑をこうむるのが消費者であることは間違いありません。(それにしても)こうした事態に何もできない米行政のいい加減さに関しては、納税者であり消費者である国民はもっと怒っていいのではないかと改めて思うのですが、果たして皆さんはいかがでしょうか。


#2741 一番給料が上がっているのは誰?

2025年02月11日 | 社会・経済

 厚生労働省が公表している「令和6年賃金構造基本統計調査(一次集計)」によると、フルタイム勤務者を指す「一般労働者」の平均所定内給与額は33万200円で、前年調査結果の31万8300円と比べて3.7%増加したとされています。これを年齢別(大卒)に見ると20〜24歳が25万800円、30〜34歳が32万5100円、40〜44歳で40万5900円、50〜54歳で49万600円、ピークを迎える55〜59歳では52万3800円と、私が新入社員だった40年前と比べ(少なくとも初任給は)ほぼ倍増していることが見て取れます。

 しかしその内訳を見ると、大学卒の20~30代前半の労働者の賃金上昇率が実質で1.7~2.8%アップとなっている一方で、40代後半~50代前半の賃金上昇率は-0.2%~0.3%(厚生労働省「賃金構造基本統計調査(2024.1)」とばらつきも大きい由。ここのところの賃上げが若手中心に行われ、中高年層の賃金は(諸物価高騰の中で)実際には目減りしていることも見て取れます。

 産労総合研究所「決定初任給調査」によれば、大卒者の初任給の増加率は2023年が2.84%、2024年は3.85%と(他の年齢層に比べ)大きく増加しており、初任給引き上げの理由は「人材を確保するため」が最も多いとのこと。人手不足の折、新卒者の採用確保のために初任給が特に引き上げられていることが分かります。

 政治的には国民民主党の「手取りを増やす」がキーワードとなる中、実際に給料袋の中身が増えているのは誰なのか。昨年10月20日の経済情報サイト「現代ビジネス」に、リクルートワークス研究所研究員の坂本貴志氏が『一番賃金が上がっているのは誰か…意外と知らない、正社員と非正規の「賃金格差の実態」』と題する論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を紹介しておきたいと思います。

 厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」では、①一般労働者でかつ正規雇用者、②一般労働者でかつ非正規雇用者、③短時間労働者の賃金を比べている。この区分はそれぞれ①→「フルタイムの正社員」、②→「フルタイムの契約社員や派遣社員」、③→「パート労働者」に対応しており、その数字からは正規雇用者よりも非正規雇用者の方が賃金上昇のスピードが速いことがわかると坂本氏はこの論考に記しています。

 データによれば、「名目時給」が最も上昇しているのはパート労働者で、2013年の1067円から2023年には1318円まで上昇している(10年間で23.6%増)とのこと。次に賃金が上昇しているのは一般労働者の非正規雇用者で、1316円→1539円の16.9%増。そして、最も賃金が上がっていないのが正規雇用者で、同10年間で2370円→2537円と時給にして167円、7.0%増にとどまっているということです。

 昨今の春闘においては、大企業の正規雇用者や都市部の労働者ばかりが賃金上昇の恩恵を受けているとの指摘もあるが、(もう少し)長期的な目線でデータを丁寧に見ていくと、むしろ逆の傾向が窺えると氏は言います。では、その理由は何故なのか?…それは、非正規雇用の領域ほど労働市場の需給が賃金にダイレクトに影響を及ぼすからだというのが氏の指摘するところです。

 日本の労働市場においては、正規雇用者、契約社員や派遣社員、パート・アルバイトの労働者でそれぞれマーケットの特性は大きく異なっていると氏はしています。正規雇用者よりも契約社員や派遣社員の方が、また契約社員や派遣社員よりもパート労働者の方が労働市場の需給に対して感応度が高い市場となっている。つまり、労働市場の需給が緩んだときに真っ先に雇用を調整されるのが非正規雇用者であるのと同時に、労働市場の需給がひっ迫したときに先行して賃金が上がるのが非正規雇用者だということです。

 ここからは、まさに市場の硬直性・弾力性の話。労働市場の需給が緩ければ、企業は労働市場から安い労働力を大量に確保することができるが、需給がひっ迫した状態にあれば、(労働者としてはほかにも求人がいくらでもあるわけだから)より条件の良い求人に応募することになる。こうした(ある意味純粋な)労働市場のメカニズムの中で賃金は定まると氏は言います。

 そして、非正規雇用者と正規雇用者の賃金格差は、企業側の従業員の雇用形態の選択にも影響を及ぼすことになる。非正規雇用者の賃金上昇や社会保険の適用拡大によって「正規」「非正規」間の格差が小さくなれば、非正規雇用者の人件費が高騰することになり、企業としては従業員を非正規雇用の形態で雇うメリットが少なくなるということです。

 ではそこで何が起こるか。そうなれば非正規雇用の従業員を正規転換するなどして、企業としては戦略的に正社員を増やしにかかることになるはずだと氏は話しています。つまり現場では、例えば熟練のパートさんなど説得して正社員に迎え、安定的な労働力の確保につなげていくといった動きが増えるということでしょう。

 さて、「年収の壁」の撤廃が叫ばれる昨今のこと、労働現場でこうした流れが起こるとすれば、それ自体は日本の経済そのものにとって(おそらく)プラスに作用していくことでしょう。

 しかしその一方で、需給関係の変化によって雇用条件が良くなれば、時間に自由が利く「非正規」の魅力もまたアップするはず。売り手市場が(少なくともしばらくは)続くことを考えれば、買い手の雇用者としては「多様な働き方」を求める供給サイドの意向にどれだけ応えられるかが大きな鍵を握るのだろうなど、氏の論考を読んで改めて感じたところです。


#2740 市場では条件のいい物件から先に売れていく

2025年02月10日 | 社会・経済

 1970年ごろは年間100万組を超えていた日本の婚姻数。2011年以降は年間60万組余りでしばらく推移していましたが、コロナ禍に見舞われた2020年に前年比12.3%減と大きな減少を見せ、気が付けば2023年にはさらに6.0%減の47万4717組と、戦後初めて50万組を割り込む水準に減っています。

 一方、結婚した夫婦が持つ子どもの数(→完結出生児数)は、1970年代から2.2前後で推移し、21年も最低値を更新したものの1.9と大きくは変わっていない由。こうしたデータからは、昨今の少子化の(直接の)原因が、若者の「未婚化」にあることが見て取れます

 2020年の国勢調査によれば、「50歳時の未婚率」は(既に)男性が約28%、女性が約18%に達しているとのこと。昭和生まれの世代ですらこうなのですから、30歳半ばを迎える平成生まれが、今さらそう簡単に結婚してくれるとは思えません。

 そうした中で昨年話題を呼んだのが、東京都が提供する婚活サービスがかなりの人気を博しているという話。「TOKYO縁結び」と銘打たれたサイトに登録するとAIが信頼性の高い相手を紹介してくれるということで、(2年で11000円という登録料にもかかわらず)申し込みが殺到しているとの話を聞きました。

 そういえばこの年末に、地上波テレビの娯楽番組に小池百合子都知事が出演し同事業をPRしているのを見かけましたが、(知事の人気取りにはなるとしても)こうした官製マッチングアプリが少子化対策の「切り札」になると見るのは楽観に過ぎるというものでしょう。

 (いわゆる)適齢期の独身男女は多いのに、彼ら。彼女らはなぜ結婚に踏み出せないのか。参考になるかどうかは分かりませんが、少し前のYahoo newsに、マーケティングディレクターの荒川和久氏が『男の結婚は「年収の高い方から売れていく」が、決して婚活市場には登場しない』(2023.7.26)と題する一文を寄せていたので、指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 氏によれば、国の基幹統計では、初婚時点での年収がいくらだったかについての調査は存在していないとのこと。このため、氏が独自に「5歳単位での年収別の未婚率の逆数の累積値」を使って推計(←ご苦労様です)したところ、20-24歳で結婚している男性というのは最低でも年収400万円以上であった由。さらに、初婚のボリューム層である25-29歳では、年収500万円以上の未婚男性の4割以上が、29歳までに結婚していることがわかったということです。

 30-34歳になってもその傾向は一緒で、年収500万円以上だと累積で7割以上が既婚者となっていると氏は話しています。しかし、そうした動きも35歳までのこと。その年齢を超えるとどの年収帯でも既婚割合は一気に下がり、当然、未婚のまま生涯を過ごす可能性が高まるということです。

 これをどう見ればいいかというと、①そもそも高年収の男性自体の絶対数は少ない、②若ければ若いほど少ない、③その「ただでさえ少ない年収の高い男から順に売れていく(結婚していく)」ということ。男性の生涯未婚率は2020年時点で28.3%。約3割なので(残りの)7割は結婚するということになるが、44歳までの累積値で70%を超えるのは年収400万円以上だと氏は言います。

 もちろん、年収400万未満でも結婚している男性は勿論いるが、400万未満から下の層は一気に既婚率が下がっている。かくして、結果として生涯未婚率対象年齢の45歳以上で未婚である男性の年収は低くなるというのが氏の指摘するところです。

 婚活をしている女性から(しばしば)「結婚相談所でもアプリでも500万以上の年収の未婚で若い男なんてほぼいない。いたとしても、その年収が大嘘か既婚者が偽っている場合しかない」という声を聴く。しかし、それは当たり前のことだと氏は話しています。

 理由は、「若くして高年収の男性は早くに売れてしまう」から。婚活市場などに流れ、広く公開される前に「売約済み」だというのが氏の見解です。それでも、34歳くらいまでなら可能性があると思う人(←特に女性)もいるかもしれないが、結婚に至るまでの平均交際期間はおおむね4年間(出生動向基本調査)とされる。つまり、34歳で初婚する男性も結婚相手とは既に30歳の頃から付き合っていて、ある意味「売約済み」の状態だということです。

 さて、「そうね、年収はだいたい〇〇円以上」といった条件を譲らない婚活女性が一向にマッチングしないのは、婚活の現場そのものにそんな男はいないからだと氏は(ここで)厳しく指摘しています。

 それは、魚のいない釣り堀で釣り糸を垂れているようなもの。もしも本当に結婚したいなら、相手の年収云々はさておき、少なくとも相手男性が25-29歳の間に結婚しておくこと。そのためには最低25歳までには結婚対象と交際していないといけないと、この論考で氏は断じています。

 30歳を過ぎてから婚活しても既に遅すぎる。そして、同様のことは男性側にも言えることで、もし結婚したいと思っていて、40歳すぎて「結婚したかったなあ」などと不本意未婚の苦しみに陥らないためには、20代のうちに結婚に向けて邁進しておいた方が可能性が高いということです。

 一方で、年齢を重ねれば重ねる程、それだけ「選ばれる」ための年収のハードルも上がってしまう。データを見る限りでは、35歳を過ぎて年収400万円を超えてももう相手は見つからない可能性が高いと氏は見ています。

 「聞いてないよー」「そんなこと今更言われても…」と言う声が(あちこちから)上がりそうですが、実際の数字がそれを物語っているということなのでしょう。幸せのためには「早め早め」の準備が必要ということ。白馬に乗った王子さまやガラスの靴を履いたお姫様は、努力しない者には決して微笑まないという現実を、私たちは受け止めなければいけないのかもしれません。


#2739 助け合うのは「仲間」だけ

2025年02月09日 | 社会・経済

 「ジニ係数」とは、「所得や資産がどれくらい平等に分けられているか」を可視化するため、イタリアの統計学者コッラド・ジニによって考案された数字とのこと。(細かな計算式は省きますが)ジニ係数が0であれば、その集団の所得が完全に均一で全く格差がない状態。ジニ係数が1であれば、集団全体の所得をたった1人が独占している状態を指し、その集団の所得格差を数字的に表す指標として使われています。因みに、このジニ係数には「警戒ライン」というものが存在していて、一般的には0.4を越えると暴動や社会騒乱が増加すると言われているようです。

 さて、国連が発表している「世界経済状況・予測2022(World Economic Situation Prospect 2022)」によると、新型コロナウイルス感染症などによる経済への逆風が強まる中、先進各国でも格差の拡大が顕著である由。2022年の各国のジニ係数を見ると、先進国ではアイスランド(0.25)、ノルウェー(0.26)、デンマーク(0.27)、フィンランド(0.27)、スウェーデン(0.29)などの高負担・高福祉で知られる北欧各国が、世界的にも平等性の高いグループに属していることがわかります。

 一方、所得格差の大きなグループには、(先進国では)ジニ係数警戒ライン上にある0.40の米国や0.37のイギリスが並び、日本(0.34)、イタリア・韓国(0.32)、ドイツ・フランス(0.3)なども、比較的所得格差の大きな国と捉えてよさそうです。数字を見る限り、米国やイギリスなどのアングロ・サクソンの国々で(ある意味とびぬけて)所得格差が高い(→所得の再配分が進んでいない)ように見えますが、そこには何か特別な理由があるのでしょうか?

 そんな疑問を抱いていた折、日本経済新聞のコラム「やさしい経済学」に連載中の東京理科大学准教授松本朋子氏が、12月27日の「所得再分配を支える世論(7)」において興味深い指摘をしていたので、参考までにその内容を小欄に残しておきたいと思います。

 所得格差の拡大は、社会の安定や民主主義の維持に大きな負の影響を及ぼすことから、再配分による所得の平準化が暮らしの向上や生活の安寧に重要な意味を持つことは(理屈としては)理解している人が多い。しかしそれも、ある程度、衣食が足りていればのこと。例えば、明日の糧にも困るような経済状況に置かれた時でも、人は他者に優しく、支えようと思えるのか。

 たとえ支えることが正しいと理解していても、先行きが不安な状況で全員を支える余裕がないと感じれば、支える相手を選ぶべきだと考え始めるかもしれない。人は感情の動物であり、特に自分が苦しい状況にあれば、支える相手を「自分たちの仲間」と見なせるかどうかでその意欲に差が生じるかもしれないと、松本氏はコラムに記しています。

 氏によれば、こうした問題は20世紀後半、西欧に比べ、米国がなぜ所得再分配に消極的なのかという問いから議論されてきたということです。米国には多様な人種が共存し、しかも人種間の所得格差が大きいという特徴がある。研究者たちはこうした特徴に注目し仮説を提起したと氏は話しています。それは、人は自分が属する集団内での格差が広がると再分配を支持する一方、自分とは異なる集団の貧困には冷淡になり、再分配を支持しにくくなる…というものです。

 この議論はさらに進み、米国が移民国家であることから、「所得再分配と移民の共存は難しい」という仮説が生まれてきたと氏は説明しています。近年では移民を積極的に受け入れた西欧でも、この視点が注目されているとのこと。トランプ新大統領の再登板により不法移民への風当たりが強まると予想される米国では、所得再配分へのハードルはさらに高まることも考えられます。

 移民と再分配政策の関係については現在も分析結果が定まっていないが、これは(他人事ではなく)今後の日本にも大いに関係のある課題だと、松本氏はこの論考の最後に指摘しています。

 過去10年間、日本では外国人労働者が急増している。少子高齢化が進む日本において、即戦力として労働人口を支えている外国人労働者に、(日本人と同様の)福祉を提供するのは当然のことだと氏は言います。また、外国人労働者を含めた所得再分配は、外国人の増加によって一部で懸念されている治安悪化の防止にもつながるだろうということです。

 しかし、(感情論として)日本社会は本当に外国人労働者を「仲間」として受け入れることができるのか。この問いは近い将来、日本が向き合うべき課題になるかもしれないと話す松本氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2738 社会の流動性と「親ガチャ」

2025年02月08日 | 社会・経済

 イソップ寓話「アリとキリギリス」は、寒い冬に備えず夏を遊び暮らしたキリギリスが、食べ物がなくなってアリを訪ねるも「自業自得」と追い返される厳しい物語です。子供たちはこのエピソードから地道な努力の大切さを学ぶ…というか、「努力しないとひどい目に合うよ」と脅かされるわけですが、一方で、人一倍の努力をしたからといって成功が約束されるわけではないのが現実でしょう。

 かつて日本のプロ野球界を引っ張ったホームラン王王貞治さんは、「努力は必ず報われる。 もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」と話したと伝わっていますが、過酷な令和の時代を生きる若者たちには「それは将来に夢を持てた昭和の話だろ?」と一蹴されてしまうかもしれません。

 とはいえ、何の努力もしないまま大人になって、結果「闇バイト」などに走ってうえで、「自分の人生が望み通りにいかなくなったのは親や家庭環境のせい」などと裁判でうそぶいても誰も許してはくれません。

 なので、多くの大人は子供たちに努力を求め、「頑張れ」などと(無責任に)口にするのですが、苦しくても頑張れるのは「努力すれば報われる」という期待(というか確信)があってこそ。誰だってコスパの悪い無駄な汗はかきたくないし、いくら「根性」があっても(結果を残さなければ)昨今のデジタル社会では評価の対象にもなりません。

 さてそこで、格差の拡大が進むとされるこれからの社会において、私たちは働く意欲やモチベーションをどのように維持していったら良いのか?という話。東京理科大学准教授の松本朋子氏は、12月25日の日本経済新聞のコラム「やさしい経済学」に、『「親ガチャ」が強まる日本社会』と題する一文を寄せています。

 努力の多寡が所得に反映されたり成功に繋がったりしないのであれば、努力すること自体にインセンティブは湧かないもの。それでは人は、努力をすれば運命に打ち勝つことができるのか?

 歴史の教科書には、親の地位や職業に関係なく個人の能力が評価され、努力が報われる「実力主義社会」が誕生したのは近代だと書かれている。日本でも、明治維新によって職業の選択が自由になったとされるが、ここ数十年の実証研究は、この「近代化が実力主義社会をもたらした」とする考えに疑問符を投げかけていると松本氏はコラムで指摘しています。

 英国では、封建領主だった郷紳(ジェントリー)たちが産業革命期に金融業に進出し、子孫の多くが現在も富裕層として名を連ねている。また、富裕層の名字を多国調査した結果を見ても、同じ名字が時代を経ても富裕層リストに残り続けているということです。

 そしてこの日本でも、明治維新後の最上層のエリート層の入れ替わりは限定的だったことがわかっていると氏は話しています。(いわゆる)「クラス」は脈々と次代に受け継がれている。近代化は私たちが思ったほど、社会に流動性をもたらしたわけではないというのが氏の認識です。

 親の所得や職業が、どの程度子どもに引き継がれていくかを調べる社会階層論の研究によると、日本では21世紀に入ってから社会的な流動性、つまり階層間の移動がさらに少なくなっていると氏は言います。ホワイトカラー上層で非流動的な傾向があるほか、非熟練ブルーカラー層や自営業層でも閉鎖性が高まっている。その結果に、日本で世襲議員が多いことを想起した人も多いだろうということです。

 2021年の「新語・流行語大賞」で「親ガチャ」がトップ10に入ったのも、努力より、生まれ持った初期条件(運)が所得を決定する比重が(思ったより)大きいことに、人々が気づき始めたからかもしれないと氏は話しています。

 親子間の継承性が高いという現実は、所得再分配の必要性を裏付けるだけでなく、社会福祉のあり方を見直す必要性も示唆している。格差が大きく流動性が低い社会で福祉を市場や家族に任せることは、格差の固定化を助長することにつながりかねないということです。

 さて、一方で「親ガチャ」の影響で発射台は多少低くても、地道に誠実に努力すればいつかきっと報われるという考え方をする人も、(そうはいっても)少なくはないでしょう。それでも人の世は捨てたものではない。社会は公正で、神は見ているに違いないと考える人は多いはずです。

 因みに、このような世界観を、社会心理学では「公正世界仮説」と呼ぶそうです。公正世界仮説の持ち主は、「世の中というのは、頑張っている人は報われるしそうでない人は罰せられる」と考える由。こうした世界観に従えば(努力への中長期的なモチベーションが喚起されるので)世の中的にはありがたい話ですが、実社会ではそうした理想も裏切られることが多く、結果、自暴自棄になるといった弊害も生まれてきます。

 また、この仮説でさらに問題なのが、「頑張れば報われる」→「報われていないのは頑張らなかったから」という論理に陥りがちなこと。「強者総取り」は当然として、弱者が切り捨てられるのは「自業自得」だというのが、この(仮説の)世界の住人にありがちな考え方だということでしょう。

 得てして人の世は、自分ではどうしようもないことに縛られがち。世の中を長く生きていると、人々が平等に価値を置く「努力」すら、健康や環境、経験などに大きく左右されていることがわかります

 キリギリスだって、隙でキリギリスに生まれてきたわけではない。運がすべてでもないし努力が全てもない。うまくいったら「運がよかった」、上手くいかないのは「努力が足りない」くらいに考えるのが丁度よいのかもしれないと、改めて感じる所以です。


#2735 積極財政論は所詮“お花畑”

2025年02月06日 | 社会・経済

 経済学者で上武大学教授の田中秀臣氏は、12月17日の夕刊フジ「zakzak」において、今や「国民の敵」は緊縮主義の権化として減税を増税で取り返す、自民税調や財務省の幹部たち「懲りない面々」だと断じています。

 氏によれば、日本経済を長く低迷させてきた要因の一つは、財政政策の緊縮スタンスとのこと。不況から完全に立ち直るのを待たずに、増税や負担増をしてしまう。あげくには不況に苦しむ中小企業などを「ゾンビ企業」呼ばわりし、その淘汰を押しする。緊縮主義者たちは、中小企業が淘汰されれば日本の国際競争力が増すといっているが、それは単にトンデモだ…とその舌鋒に容赦はありません。

 こうして元気のよい積極財政論者に対し、(近ごろでは)財政のひっ迫を懸念し緊縮政策を唱える(ある意味真面目な)論者は「ザイム真理教」信者などと誹られ、批判の的となることも増えているようです。

 そこで今回は、そんな彼らに光を当てるべく、財政緊縮派の主張を敢えて正面から取り上げてみたいと思います。日本外国特派員協会(FCCJ)に所属するジャーナリストで作家の山田順(やまだ・じゅん)氏はニューヨーク発の情報メディア「DAILYSUN NEW YORK」に『「年収103万円の壁」合意は子ども騙し。バラマキ政治を続ける限り衰退は止まらない!』と題する一文を寄せ、もはや日本の政治の基本と化している経済対策としての「バラマキ」を強く批判しています。

 日本の政治家は、右派、左派、リベラル、保守、与野党を問わず、すべてバラマキ政策しか言わない。私たちが「窮状に陥っているあなたを助けます」と言って、自分のものではないカネ(つまり税金)を勝手に分配することを公約する。そうして選挙戦を行うのが既に常とう手段だと氏はその冒頭に綴っています。

 失業対策、企業支援、生活補助、子育て支援、教育無償化など、すべてがバラマキ。 バラマキばかりになると、それを獲得するための争奪戦が起こり政治家は「口利き」で儲けられる。また、官僚は采配を振るえるうえに、業者からの接待が増え天下り先も確保できると氏は言います。

 こうして縁故資本主義(クローニーキャピタリズム)は強化され、本来の資本主義が持つ競争によるダイナミズムは失われ、同時に自由市場も侵害される。本来、バラマキの恩恵に預かるのは一般国民のはずだが、(それも過ぎれば)いくら働いても給料が上がらないという社会ができ上がるというのが氏の認識です。

 このバラマキ政治を後押ししているのは、全政党に存在する「積極財政派」と、国民の間に蔓延する「積極財政世論」というもの。積極財政派は、財政支出を増やせば消費や投資が喚起され、景気は上向き、雇用創出にも繋がり、(それに伴い)税収も増えると説く。また、社会インフラ整備に予算を投じれば、国土も強靭化され、まるでいいことずくめであるかのようだと氏はしています。

 財源がなければ国債をどんどん発行すればいい。国債は国内で消化されている限り問題ないというのが彼らの主張。しかも、最近では日本が成長しなかったのは緊縮財政を続けてきたからで、その元凶は財務省であるという「ザイム真理教」陰謀論を信じる信者まで増えているということです。

 (しかし、この主張は)まさに“お花畑”でしかない。積極財政論は、それ自体は経済的に間違っているといは言えないが、それを国債という借金でまかなうのは間違っていると氏はここで断じています。

 バブル崩壊後の1990年以来、日本が続けてきたのは(緊縮財政ではなく)バラマキのために国債を大量発行するという「放漫財政」に外ならない。しかし、いつまでも放漫財政が続けられるはずもなく、もうこれ以上赤字国債を発行できない瀬戸際に来ていることを現在の超円安が示していると氏は言います。

 日本は財政規律を重視していない、無視しているのだということが世界の共通認識になれば、市場の円に対する信頼は失われる。ただでさえ国家債務のGDP比が世界第2位の252.36%(2023年度)に上る「借金大国」が国債を発行して補正予算を組むというのは、さらに借金を重ねていくと世界に公言しているようなものだということです。

 現在、スタグフレーションに陥っている国が、これ以上、中央銀行が国債を引き受ける「財政ファイナンス」を続けていけばどうなるのか。円安に歯止めがかからなくなり、ドル円はすぐにでも200円になるだろう。もちろん、物価上昇も止まらない。そしてその先にあるのは、国債暴落、ハイパーインフレだと氏はこの論考の最後に記しています。

 厳しい状況から目を背け、無責任に現状を肯定しても、外から見る目は厳しいもの。日本全体が「茹で蛙」になる前に、常識に立ち返る必要があるということでしょうか。

 (兎にも角にも)“お花畑”に暮らす積極財政派は、国民を地獄に導こうとしている。そんな地獄が来る前に、富裕層から有為な若者たちまで、この国を出ていくだろうと話す山田氏の指摘を、私も襟を正して読んだところです。


#2732 経済を回すのは「不安のない老後」

2025年02月03日 | 社会・経済

 日銀が12月18日に発表した2024年7〜9月期の資金循環統計(速報)によると、9月末時点の家計の金融資産残高は6月末に比べて1.5%減の2179兆円。前四半期末からの8四半期ぶりの減少となったということです。

 株式相場の下落や、円高による外貨資産の円換算額の低下がその原因とされており、その実相は消費に伴う減少とはいささか趣を異にしている様子です。実際、現預金は0.3%増の1116兆円で、保険・年金・定型保証は540兆円で横ばいが続いている由。構成比を見ても、現預金が51.2%、保険・年金・定型保証が24.8%と、1位、2位を占め、「老後の備え」に重きを置く家計の姿が見て取れます。

 一方、内閣府が今年8月に発表した経済財政白書によれば、年齢別でみた世帯あたりの金融資産の平均額は50代までは年齢が上がるごとに増え、60~64歳でピークの1838万円に達しているとのこと。60代後半からは減少に転じるものの、「取り崩し」のペースは緩やかで、85歳を過ぎても1500万円超の金融資産を保有し(←つまり、20年間で300万円ほどしか減っていないということ)、その減少率は1割半にとどまるということです。

 また、米国FRBの調査との比較では、70歳以上の層が保有する資産の割合は、米国の約3割に対し日本は約4割と大きく上回り、構成比でも、日本人の資産の約7割が「預金」なのに対し、米国では預金は1~2割、株など有価証券が3~5割と、日本の「資産保全第一」「リスク回避」の傾向が際立っていると白書は指摘しています。

 「老後生活の安心材料」として、消費されることなく高齢世帯に滞留している日本の富。一方で、利殖や投資ではなく定期預金に(手つかずで)積み上げられたまま放置されている「お宝」を活用しようという意欲は、(政府からも経済会からも)余り感じられません。

 それでは、こうして貯めこまれた資産はその後どうなっていくのか。白書には、被相続人(遺産を残す側)の7割超が80歳以上(2019年時点)なのに対し、相続人(遺産を受け取る側)も60歳以上が5割超(22年時点)となっており、「老老相続」で財産が引き継がれている実態も示されています。

 還暦を大きく過ぎてから親の家や土地を相続したとしても、個人では既に使いようがなく、貸したり売ったりといった手続きも億劫なもの。使う当てのない現金も、(今さら株に手を出すつもりもないし)銀行に言われるまま手つかずで定期に積み置かれることになるのでしょう。

 お金が必要な時、必要な人にお金が回らない世の中を、もう少し何とかできないものか。こうした現状について白書は、「資産移転が高齢者間にとどまり、子育てへのニーズが高い若年世代への移転が進まない課題がある」と指摘しています。

 資産が有効に使われるため、①経済成長に対する期待を引き上げる、②教育資金の一括贈与にかかる非課税措置などで資産移転を後押しする、③長生きリスクに対して公的年金制度の持続可能性を確保する、④「貯蓄から投資」の流れを進め、若年期から収益性の高い資産形成を促す、などの対策を積極的に進めていく必要があるということです。

 まあ、いずれにしても、高齢者のお金が(使われずに)貯め込まれるのは、老後の生活に不安があればこそ。北欧ではありませんが、国や自治体が福祉制度によりしっかり面倒を見てくれると判れば、(それなりに)「きっちり使い切ろう」という気持ちにもなろうというものです。

 人生は、楽しんでこそなんぼというもの。おカネだって、使われなければ世の中の役に立ちません。我慢して、切り詰めて、その結果が預金通帳に並んだゼロの数というのでは(何とも)悲しすぎると思うのですが、果たしていかがでしょうか。


#2731 「ザイム真理教」と国民生活

2025年02月02日 | 社会・経済

 政府の経済対策として、12月17日の参院本会議で2024年度補正予算が、自民、公明両党や国民民主党、日本維新の会などの賛成多数により可決、成立しました。一般会計補正予算の歳出総額は実に13兆9433億円に上る由。財源の約半分に当たる6兆6900億円は、新規に国債を発行して賄うとされています。

 財源不足が叫ばれる中、財政の在り方を巡っては、国債の発行を極力抑え「身の丈に合った支出」(→税収の範囲内での政府支出)とすべきとする財政均衡主義に基づく指摘がある一方で、(昨今では)政府は一時的な財政収支の悪化にとらわれることなく、必要な財政出動を行うべきとするMMT(現代貨幣理論)の台頭なども注目されるところ。

 中には、「失われた30年の真犯人」として(国民を脅し、常に財政出動に「待った」をかけ続けてきた)財務省の名を挙げ、国民生活を犠牲にして財政均衡主義という「邪教」を布教する「ザイム真理教」だと揶揄する声も聞かれるところです。

 実際、国民には「財政破綻」をチラつかせ増税や福祉の切り捨てなどを迫っておきながら、政治に対しては十兆円を超える「経済対策」を認める彼らの姿に、「オオカミ少年」の面影を重ねる国民も多いはず。財務省の言う「お金がない」は、本当に本当なのか?…国民としては、誰を信じてよいのやらわからないというのが本音のところかもしれません。

 補正予算成立の報にそのようなことを感じていた折、12月17日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」に、『税収見積もりの玉手箱』と題する一文が掲載されていたので、(参考までに)その指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 今からちょうど1年前、岸田文雄前政権の打ち出した所得税の「定額減税」が税収減を招くと騒ぎになっていたのを覚えている人も多いはず。そして今年は、国民民主党の唱える「年収103万円の壁」引き上げで、税収に穴が開くと大騒ぎだとコラムは綴られています。

 政府の所得税収は、2024年度は当初予算で17兆9050億円の見通しだった。補正予算後の23年度の見込みに比べ、定額減税の影響で3兆3900億円減るとみられていたと筆者は話しています。(財務省は)24年度の税収全体では、総額で69兆6080億円を予想していた。これは23年度の補正後の見込みとほぼ横ばい。所得税の落ち込みについては、法人税や消費税で補う予定だったということです。

 当時は、財政当局の厳しいやり繰り算段に同情の声も漏れていた。しかし、それから1年。私たちは不思議な発表を目にしたと筆者は指摘しています。それは、今回(24年度)の補正予算の財源内訳の説明に当たってのこと。税収の上振れ分である3兆8270億円を、財源の一部に充てるという財務省の説明に驚いた人も多かっただろうということです。

 何のことはない。定額減税に伴う所得税の減収分を埋めてお釣りが出ている、税収の上振れが起きているとのこと。

 具体的には、法人税や消費税が想定を上回る伸びを記録したとのことで、4~10月の税収は、法人税が前年同期比で100.3%増、つまり倍増し、消費税も10月までで16.4%増加。24年度の当初予算の段階では、23年度の補正後に比べ法人税が16.3%増、消費税は3.6%増と、何とも控えめな予想だったにもかかわらず…ということです。

 財務省の説明によれば、過去最高の企業収益が、実際の法人税収を押し上げた由。しかも、モノやサービスの価格上昇で、消費税の税収も予想以上に増えたようだと筆者は理由を解説しています。

 企業の売り上げや利益、働く人の給与明細、そして政府の税収はすべて名目値であり、日本経済がデフレを脱しインフレとなったおかげで税収も無理なく伸びた。24年7~9月期の名目GDP(国内総生産)は年換算額で610.2兆円。1年前に比べて17.1兆円拡大した。GDPは国全体の付加価値の合計であり、個人と企業と政府がそれらを山分けする構図だということです。

 もちろん、政府はそのうちの「税収」という取り分を増やしている。企業も売り上げや利益を伸ばしている。しかし、個人はどうか。給与が増え始めたものの、給与から税や社会保険料を除いた実際の手取り(可処分所得)が伸び悩んでいると筆者はコラムの最後に指摘しています。

 実際のところ、財務省の発表によれば、2024年度の国民負担率は45.1%となる見通しとのこと。12年連続で40%を大きく超える高水準となるのは確実で、江戸時代に百姓一揆の目安とされた(いわゆる)「五公五民」ももう目の前と言えるでしょう。

 因みに、国民負担の内訳を見ると、租税負担率26.7%(国税16.9%、地方税9.9%)。に加え、医療費や年金などの保険料の社会保障負担率が18.4%と、税以外の部分も国民生活を圧迫している状況が見て取れます。

 賃金の上昇は始まったものの、一人一人の手取りを増やすには、賃上げと並んで税や社会保障費の負担の軽減がカギを握っているということでしょうか。インフレと成長に伴う税の自然増収こそ、そのための元手となり得るとコラムを結ぶ筆者の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2729 七つの大罪

2025年01月31日 | 社会・経済

 「七つの大罪」(英: seven deadly sins)は、キリスト教の主にカトリック教会における用語で、(簡単言ってしまえば)人間を罪に導く可能性があると見なされる7つの欲望や感情を指す言葉とのこと。現在広く知られているそれは、①傲慢、②強欲、③嫉妬 、④憤怒、⑤色欲、⑥暴食、⑦怠惰…の七つで、時代の変遷とともに少しずつ修正が加えられてきたとされています。

 そうした中、2008年3月、ローマ教皇庁は、今までの7つの大罪はやや個人主義的な側面があったとして、今後憂慮すべき新しい七つの大罪を発表しています。それは、①遺伝子改造、②人体実験、③環境汚染、④社会的不公正、⑤人を貧乏にさせる事、⑥鼻持ちならない程金持ちになる事、⑦麻薬中毒の七つで、科学や資本主義の傲慢さ、そしてそれに伴う人心の荒廃に対する宗教上の危機感が浮かぶものとなっています。

 「七つの大罪」と言えば、インドを独立に導いた指導者マハトマ・ガンジーもまた、1925年10月22日に雑誌『ヤング・インディア(英語版)』において「七つの社会的罪」(Seven Social Sins)として次の問題を挙げています。

 それは、①理念なき政治(Politics without Principle)、②労働なき富(Wealth without Work)、③良心なき快楽(Pleasure without Conscience)、④人格なき学識(Knowledge without Character)、⑤道徳なき商業(Commerce without Morality)、⑥人間性なき科学(Science without Humanity)、⑦献身なき信仰(Worship without Sacrifice)の七つで、いずれも人の理性や良心の大切さを問うもの。「理に適わずに利を得る者は大罪人」というガンディー指摘は、きわめて功利的な価値観の下で暮らす我々にとって(今も)耳の痛い言葉として響いてきます。

 極端な新自由主義の跋扈と民主主義の崩壊が懸念される現代社会において、私たちはこのガンジーの言う「大罪」にどのように向き合えばよいのか。2月6日の日本経済新聞(夕刊)に、丸紅会長の國分文也氏が「ガンジーの示すもの」と題するエッセイを残しているので、参考までに小欄でも取り上げておきたいと思います。

 「理念なき政治」に始まり、「献身なき信仰」で結ばれるインドの哲人、マハトマ・ガンジーが唱えた「7つの社会的罪」。1925年に発表され100年の歳月を経た今も、人類への戒めとしてまったく古びることがない。むしろより強い警告として21世紀に生きる我々に突きつけられているように感じると國分氏はこの一文に綴っています。

 世界で貧富の格差は毎年、確実に拡大している。特に、手段を選ばず個人の資産を膨張させる一部の人たちには強い違和感を覚えると氏は言います。

 リスクをとって起業した創業者や、苦労して会社を成長させた経営者は報われるべきだが、「強欲資本主義」は趣を異にする。新自由主義の流れが加速する中での行き過ぎた株主資本主義が、ステークホルダー資本主義へと流れを変えたのは当然のなりゆきだというのが氏の見解です。

 「7つの社会的罪」の「労働なき富」「道徳なき商業」は、まさにこうした強欲さへの戒めとなる言葉。一方で、今年は主要国で国の方向を決める選挙が実施され、政権与党側の敗北が相次いだと氏は続けます。

 国民の審判による政権交代は民主主義の根幹だが、ポピュリズムによって「理念なき政治」に陥ることの危険性も改めて考えさせられる時代がやってきた。他方、人工知能(AI)の週単位といっていいほどの劇的な進化は人々の想像力をも超えており、「人間性なき科学」のリスクをますます実感する毎日だということです。

 さて、この日本では、新一万円札の発行により「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一が新札の顔としてクローズアップされる機会が増えましたが、彼が著書「論語と算盤」で訴えた「道徳経済合一説」などはまさに、(こうした)個人利益を絶対視する風潮に釘を刺したものと考えられます。

 経済発展に伴う利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に富は社会に還元すべきもの。「金銭資産は、仕事の滓である。滓をできるだけ多く貯えようとするものはいたずらに現世に糞土の牆を築いているだけである」と綴られた、波乱の時代を生きた資本家としての彼の言葉に嘘偽りはなかったことでしょう。

 1840年生まれの渋沢栄一は1916年8月、アジア人として初めてノーベル賞を受賞した(20歳以上年下の)インドの詩人ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore, 1861-1941)を(わざわざ)飛鳥山の私邸に招き、彼のための午餐会を開いたことで知られています。

 一方、タゴールはマハトマ・ガンジーとの親交が深く、精神的な支柱として彼らのインド独立運動を支え、ガンジーに「マハトマ=偉大なる魂」の尊称を贈ったのもタゴールだとされています。

 いずれにしても、人が本来備えているべき理性や知性を失いつつある時代への危機感が、同じ時代を生きる識者の間に共有されていたと考えることに無理はありません。そして、利益を紡ぎだしているのは仕事に汗する人々であり、(資本主義の利益は)最終的には社会全体で受益すべきものだというのがその考えの本質と言ってよいでしょう。

 ガンジーは、「働かない者にどうしてパンを食べる権利があるか」と、綿花から糸を紡ぐ糸車を生涯手放さなかったと、國分氏はこの論考の最後に記しています。ガンジーは、「良心なき快楽」や「人格なき学識」にも触れている。「7つの社会的罪」は今こそかみしめるべきより重い言葉になっているとこの一文を結ぶ國分氏の指摘を、私も時代を超えて重く受け止めたところです。


#2727 管理職になりたくない貴方へ

2025年01月29日 | 社会・経済

 「末は博士か大臣か」という言葉が示す通り、少なくとも昭和の高度成長期くらいまで、「出世」という言葉には人から羨ましがられる明るいイメージがありました(←本当です)。しかし、サラリーマンが臆面もなく「出世」を目指せたのも、(たぶん)団塊の世代まで。いつしかこの言葉は「気恥ずかしい」イメージを纏うようになり、「出世頭」などというのも、人を皮肉る時くらいしか使わないネガティブな言葉に変化しています。

 組織の中で出世するのは能力があるから。逆に言えば出世しないのは無能だからと単純に受け止められていた時代には、出世は皆が求める名誉なことであり、出世しないのは「落ちこぼれ」のレッテルを貼られるのと同じ。「うちの亭主はボンクラでうだつが上がらない」「隣の旦那は30代でもう課長」などと奥さんに言われ、(プライドが傷つき)つらい思いをしたサラリーマンも多かったことでしょう。

 しかし、そうした感覚も既に過去のもの。少しでも残業が続くと、共働きの奥さんに「偉くなんてならなくていいから」とくぎを刺されるサラリーマンも、それなりに増えていると聞きます。

 確かに給料や待遇に大きなメリットがなければ、例え出世をしても単純に責任が増えるだけのこと。価値観の多様化やライフスタイルの変化によって出世を積極的に望まないどころか、否定的に考える人の気持ちもわからないではありません。

 サラリーマンとして生きる以上避けては通れないこの「出世」というものの捉え方について、7月6日のキャリアマネジメントプラットフォーム「識学総研」が『3分で分かる管理職のメリットとデメリット』と題する記事を掲載しているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 内閣府男女共同参画局によると、課長以上への昇進を希望している人は男性一般従業員で5~6割、女性一般従業員では約1割にとどまる由。現代人はなぜこれほどまでに、出世や管理職への昇進が敬遠するようになったのか。

 (記事によれば)アンケート調査の結果、男性一般従業員(労働者300人以上企業)が「管理職になりたくない理由」として最も多く挙げているのが、「メリットがない(41.2%)」というもの。さらに、2位「責任が重くなる(30.2%)」、3位「自分には能力がない(27.6%)」と続いているということです。一方、女性一般従業員の場合は、1位が「仕事と家庭の両立が困難(40.0%)」、2位が「責任が重くなる(30.4%)」、3位は「自分には能力がない(26.0%)」…だとされています。

 女性の「家庭との両立が困難」はわかるとしても、男性一般従業員の4割もが、まだ経験もしていない管理職に(責任に見合うだけの)メリットを感じていないのは、職場の管理職の働き方を観察して出した結論ということか。また、女性の2位も「責任が重くなる」で、女性は管理職になることに家庭を犠牲にするまでの価値はないと感じている(のだろう)と記事は分析しています。

 さて、実際、現在の企業で管理職になるデメリットについて考えれば考えるほど、(管理職になるのは)損ばかりのような気がしてくる感覚はわからないではありません。それでは、管理職になることは本当にデメリットばかりなのでしょうか。

 管理職になりたくない人が、「管理職=責任が重い」「管理職=高い能力が必要」と考えていることは、アンケートの結果からも判るところ。確かに管理職の仕事を遂行するには、重い責任と高い能力が必要ということだろうと記事はしています。一方、これは見方を変えれば、管理職の仕事の価値の高さを意味しているともいえる。さらに言えば、(つまり)管理職にならないことの最大のデメリットは、価値の高い仕事ができないことにあるというのが記事の指摘するところです。

 逆説的に言えば、管理職ではない人の仕事とは、「権限がない仕事」と言い換えられる。ビジネスにおける権限とは、予算を決める権限、人材を割り当てる権限、事業計画を決定する権限、実行するか撤退するか判断する権限などで、管理職になることを拒んでいる人は、ベテランになっても一生、権限のない仕事を(権限のある人に言われた通り)続けなければならないということです。

 さらに言えば、管理職にならないと、いずれは後輩が管理職に就くことになる。つまり管理職を拒否し続けると年下上司を持つことになり、自分は年上部下になると記事は続けます。年上部下が年下上司を苦手とする以上に、年下上司も年上部下を邪魔に感じるもの。双方のストレスが高まりあって、職場にいずらい雰囲気は募るだろうと記事は見ています。

 と、いうように、管理職にならないことのデメリットの多さは、管理職のメリットの大きさの裏返し。自分の上司を見て(「管理職は大変だ」と)感じている人こそ、理不尽なことや不合理なことを自分が管理職になって改善すれば、組織にとってプラスになって皆も喜ぶということです。

 ひとりの管理職として、そうした新しいことが達成できれば「(顧客や従業員のために)いい仕事ができた」と満足できる。そして、満足できる仕事を続けていけば、いずれ経営を任されるかもしれないし、(そうでなくても)独立開業した際の訓練になると記事は最後に指摘しています。

 まあ、小学生だって、1年生の次は2年生、卒業前には6年生になって低学年の子供たちの面倒を見たりするもの。「経験を重ねる」とはそういうことで、経験相応の責任を負うのは、組織の中にいる以上(「面倒だから」だけでは)避けて通れないプロセスなのかもしれません。

 組織の構成員として、通常期待される役割、そして責任とは何なのか。利益の増大とミッションの遂行に価値を置くビジネスパーソンにとって、「管理職にならない」という選択はあまり有望ではないと考えてみてはいかがかと結ばれた記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。