米国の新大統領に復帰して早々、ドナルド・トランプ氏が矢継ぎ早に署名した大統領令の数々。大小さまざまなものがあったようですが、その1つが連邦政府の「DEIプログラム」の終了を宣言するものだったことに、「やっぱり来たか…」という感想を持った人も多かったかもしれません。
この大統領令は、連邦政府と請負契約を結ぶ民間企業にDEIの廃止を求めるもの。従わなければ、政府との契約が打ち切られたり、補助金の支給が停止されたりしかねない内容となっています。
ここで言う「DEI」とは、「Diversity(多様性)Equity(公平性)Inclusion(包摂性)」の略で、人種や性的指向、性自認などの属性を理由に不利な扱いを受けてきたマイノリティに「公平」な機会を与え、社会や組織に包摂するための取り組みのこと。
具体的には、人種や性別、障害の有無などに基づくクォータ制の採用や、マイノリティの割当枠を設けることなどが主な内容となるわけですが、マジョリティサイドから見ればそれはそれで「不公平」に見えるもの。特に米国においては、トランプ氏を支持する保守層を中心に、「逆差別」などの反発を招いてきたのも事実です。
大統領令の発令を受けて、非営利の公共放送ネットワークPBSは早速DEI担当部署の閉鎖を発表。アマゾンやメタ、グーグル、小売大手のターゲットなども、相次いでDEIの廃止や見直しを打ち出したとメディアは報じています。
同一性の高い日本ではまだまだ議論が深まっていないこの問題ですが、 流動性の高まりとともに世界のどの地域もいずれは通る道。「平等」を巡る様々な意見が戦わされれば、「差別のない社会」「機会均等」とはどういうものなのかを掘り下げて考えてみる良い機会になるかもしれません。
作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が「週刊プレイボーイ」誌に連載中の自身のコラム「そ、そうだったのか!? 真実のニッポン」(2月3日発売号)に、『DEI(多様性、公平性、包摂性)を推進すると差別的になる?』と題する一文を寄せているので、(まずはその呼び水として)主張の一部を残しておきたいと思います。
「アメリカ・ファースト」を掲げ、大統領就任と同時に支持者の前で多くの大統領令に署名したドナルド・トランプ氏。中でも大きな歓声が上がったのが「DEIの解体」だったと、氏はコラムの冒頭に記しています。
多様性を受け入れ、社会からマイノリティへの差別をなくそうというこうした動きがなぜ今、アメリカ社会で強い反発を受けているのか。
例えば、米保守系グループが差し止めを求め提訴した(マクドナルドが運営する)ヒスパニック系学生向けの奨学金制度の問題。この奨学金は「少なくとも片方の親がヒスパニックかラテン系」であることを条件に、大学生に最高10万ドル(約1500万円)を支給しているが、これが経済的に厳しい状況にある他の人種的少数派を排除していると訴えられたと氏は説明しています。
また、2023年に米連邦最高裁が、一部の有色人種を大学入試で優遇する措置を違憲と判断したのも記憶に新しいところ。この判決を受け、保守派団体が企業を提訴しはじめたことで、マクドナルドやウォルマートなどが次々とDEIから撤退したということです。
トランプ氏の署名した大統領令は、いわばこうした「反DEI」の集大成とも言えるもの。米国のような人種的多様性のある社会でDEIを進めると、大学進学や就職、昇進などで不利な扱いを受ける多数派の白人から「逆差別」との不満が噴出することになる。民主党リベラルはこれまで、こうした批判を「人種主義(レイシズム)」と黙殺してきたが、保守派が求めているのが(白人の優越ではなく)「人種の平等」であることも事実で、ここでは、「異なる正義」が衝突しているというのが氏の指摘するところです。
例えば、DEI(プログラム)を導入した企業や組織は、人種や性的少数者の問題を理解し、平等を実現するための研修を行わなければならないとされている。しかし、そこで困惑するのは、一部の社会学者(それも無意識のバイアスを研究する黒人女性の社会学者)から、この研修には効果がなく、かえって差別や偏見を助長しているとの批判があることだと氏は言います。
社会学では、「道徳の証明」が得られると、それを「免罪符」として不道徳なことを行なう効果が生まれることが知られている。米国の有名企業がDEIを導入するのは「社会的責任」の証明を得るためだったが、皮肉なことに、DEIに熱心な会社ほど社会的に無責任になる場合も多いということです。
アメリカでは、財務省など政府機関に対する多様性研修で、「事実上、すべての白人はレイシズムに加担している」と教えられる。しかし、この研修を受託している企業の代表者が白人であることが報じられ、保守派の憤激を買ったと氏は話しています。
氏によれば、多様性研修は、今では(かように)様々な利害関係者が群がる巨大ビジネスになっている由。少なくとも現在の米国では、「DEI」の旗を振っていれば「差別のない社会」が実現できるというわけではないというのがこの論考における橘氏の見解です。
さて、翻ってこの日本でも、マイノリティへの差別の存在を際立たせることについては、(かねてより)「寝た子を起こすな」といった議論があるのも事実です。マイノリティの存在を際立たせ、差別解消のために(なにがしかの)「特典」を与える対応を取れば、それがかえってマイノリティの存在を際立たせるというジレンマ。場合によっては「逆差別」といった反発を生む場合もあるでしょう。
しかし、だからといって放置していても、「時間が解決する」とは限りません。人権はすべての人間が、人間の尊厳に基づいて持っている固有の権利であり、現代社会において最も尊重されるべきもの。その侵害に対して何らかの対応を取るのは、近代国家として当然のことと言えるでしょう。
様々な差別感情やそれに基づく不利益を、社会の隙間や歴史の隅から掘り起こし、日の当たる場所で議論することもまた然り。放っておいて問題が解決するわけではないのであれば、例え「行ったり来たり」することはあっても、議論は続けていかなければならないと、私も改めて感じているところです。