MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2691 お金は「使ってなんぼ」のもの

2024年12月22日 | 社会・経済

 総務省が10月8日に発表した8月の家計調査によると、2人以上世帯の消費支出は29万7487円と物価変動の影響を除いた実質で前年同月比1.9%減少したということです。

 同省によれば、勤労者世帯の実収入は実質で前年同月比2.0%増えた一方で、消費支出は1.2%減と4カ月連続で減少している由。南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が8月上旬に発令されたほか、台風の影響もあり自動車の購入や旅行への支出が減ったほか、節約志向が止まらず野菜や果物、肉類の購入点数などを減らす動きも続いているとされています。

 個人消費が伸び悩んでいる背景に、(賃金の増加が物価の上昇に追いつかないことによって)実質賃金が依然マイナスで推移している現実があるのは言うまでもありません。少なくとも消費者は「可処分所得の増加は一時的なもの」と捉え、生活の先行きに根強い不安感を抱いているものと考えられます。

 とはいえ、日本人の持つ金融資産が増加傾向にあるのもまた事実。日銀が9月に発表した2024年4〜6月期の資金循環統計(速報)によると、6月末時点の家計の金融資産(総額)は前年同期比4.6%増の2212兆円。6四半期連続で過去最高を更新中とのことです。

 では、そうしたお金が「どこ?」にあるかと言えば、その多くが「高齢者のお財布の中」という指摘があるようです。

 内閣府が今年8月に結果を公表した世代ごとの家計が有する金融資産の分析調査によると、80代前半の金融額は平均で1564万円、85歳以上では1550万円とのこと。世代別で金融資産が最も多いのは退職金を受け取る60代前半で、平均で1838万円となっているが、(それでも)80代との差は15%程度にとどまっているということです。

 その意味するところは、高齢世代はお金を持っているのに「使わない」ということ。調査報告書は、高齢者の間で長寿に備えて金融資産の取り崩しを控える動きや、将来への不安から子どもに財産を残したいという意向が背景にあると見ています。

 「資産運用立国」への脱皮を掲げる政府は、「資産所得倍増プラン」(令和4年11月策定)に基づきNISAや idecoなどを活用した国民の資産形成を促していますが、いくらお金を貯めてもそれを使わなくては経済が回らないのは自明です。

 折しも、10月11日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」が、『消費あっての資産運用立国』と題する一文を掲げていたので、参考までのその主張を小欄で取り上げておきたいと思います。

 内閣府がまとめた2024年度の経済財政報告によれば、老後に備えてためた金融資産が85歳以上でも、ピークの60代前半から平均1割強しか減っていないとのこと。人生100年時代を迎え「倹約は美徳」と考える人も多いが、この美徳は経済に負の影響をもたらす恐れがあると筆者はコラムに記しています。

 コラムによれば、筆者の知人の母親が99歳で他界されたとのこと。(その生活ぶりから)遺産などは誰も期待していなかったが、結局、彼女が残した預貯金や株式などの総額は予想以上に多かったということです。

 しかし、その知人も既に70歳。子育ても終わり消費支出も限られる。(遺産が手に入ったからと言って)資産から消費に回る金額は、実際そう多くないだろうと筆者は言います。

 そして、彼の資産は30年後に70歳になる子供に相続されるのだろう。かくして金融資産は消費に向かうことなく、高齢者から高齢者へ引き継がれることになるというのが、筆者がコラムで指摘するところです。

 こうした「倹約のループ」は何をもたらすのか。政府は「資産運用立国」を掲げて新NISA(少額投資非課税制度)などの政策を打ち出してきた。預貯金偏重の日本人にとって積極的な資産運用は重要だが、資産運用だけでは勿論お金は回らないと筆者は話しています。

 (「オルカン」で知られるようになった)全世界株型の投資信託の人気ぶりからも分かるように、低成長の日本では投資家の多くが海外を見ている。資金が国内での消費に向かわなければ日本経済の成長に貢献しないし、現在の円安もその状況を反映したものだということです。

 (それ以上の問題として)そもそも日本人は倹約で幸せになっているのだろうかと、筆者はここで問いかけています。最近「DIE WITH ZERO」という本が売れているが、消費して資産を遺さないことが幸福につながると説いている。資産運用は(あくまで)手段に過ぎず、資産を消費して幸福になることが目的のはずだということです。

 投資理論でも、「生涯を通して消費を増やすこと」を資産運用の目的関数としている。方や、現在の日本人は消費を我慢して、個人の幸せを諦めているようにみえるというのが筆者の認識です。

 資産運用立国を掲げるのであれば「消費立国」も目指さないとバランスを欠く。そのためには将来不安を減らすことが重要だが、資産を持つシニアから子育て世代への資産移管を促す大胆な優遇策が必要だろうと筆者は提案しています。また、金融機関は資産運用だけでなく、資産を賢く取り崩して消費し生涯の幸福度を高めるメニューも強化すべきだということです。

 さて、確かにコラムも言うように、お金を「今必要としている人」に効率的に渡していくことは、「相続税の税収を挙げること」よりも経済に与える影響ははるかに大きいことでしょう。また、例えば「70歳で5000万円を預けてもらえれば、責任をもって(衣・食・住)死ぬまで(この)レベルの生活を保障します」といった商品を提案してもらえれば、手を挙げる高齢者もきっと多いのではないでしょうか。

 いずれにしても、どんなお金持ちだってお金はあの世までは持っていけない。何より重要なのは、消費を通して人生を豊かにするというポジティブな消費者教育だと話すコラムの指摘を、私も頷きながら読んだところです。


#2689 「壁」の撤廃は誰のため?

2024年12月18日 | 社会・経済

 今年の暮れも差し迫った12月17日、自民、公明、国民民主3党の税制調査会長は所得税の非課税枠「年収103万円の壁」をめぐって国会内で協議。国民民主の古川元久税調会長らは自公の提案を不服として10分ほどで会議を退出し、「協議は打ち切りだ」と述べたと報じられています。

 キャスティングボードを握る国民民主は、「国民の手取りを増やす」として所得税非課税枠の拡大を目指しており、最低賃金の伸び率に合わせ103万円から178万円への引き上げを求めています。一方の自公は、7兆円とも言われる税収減を理由に2025年は20万円上げて123万円にする案を提示したものの、国民民主により強く拒否された形です。

 この流れに、(女性問題で)役職停止中の国民民主党の玉木代表は自身の「X」に、「温厚なわが党の古川元久税調会長も席を立ったようです。『178万円を目指す』と合意したのに123万円では話になりません」と投稿したとされています。一方、17日午後に開かれた自民党の税制調査会では、出席者から「責任ある財源論から考えて、できないものはできない」などとの意見が出されたということです。

 この話を聞いて、所得税の控除額を引き上げれば確かに「手取り」は増えるのだろうけれど、それはあくまで所得税を(それなりに)払っている人の話。低所得者への恩恵はそれほど大きくないのではないか…などと考えていた折、12月17日の日本経済新聞の投稿欄「私見卓見」に、京都産業大学教授の八塩裕之氏が『拙速な所得税改革は避けよ』と題する投稿を寄せていたので、参考までにその主張を小欄に残しておきたいと思います。

 国民民主、党が主張する「103万円の壁」に関する所得税改革が論争になっているが、国民生活に広く影響する所得税の在り方については、時間をかけて冷静に検討すべきだと八塩氏はこの論考で述べています。

 同党の主張は基礎控除の75万円引き上げで、現在の政局では、これによって生じる国や自治体の税収ロスが注目されている。しかし、税収ロスを問う前に、そもそも所得税の減税の仕方自体に大きな問題があるというのが氏の主張するところです。

 今回の問題の発端は、最低賃金が上昇し、大学生などの被扶養者のアルバイト所得が増えて、所得税が課され始める103万円を超えるケースが出てきたこと。(氏によれば)それによって扶養者に適用されていた特定扶養控除が適用されなくなるため、仕事を控える動きが生じているということです。

 今回の学生の問題は、インフレで所得が増えると所得税の適用税率が上がり自然と増税が起きる「ブラケットクリープ」をどうするかという話。もちろん何らかの対処は必要だが、ただ、そのために基礎控除を大幅拡張することには問題があるというのが氏の見解です。

 例えば、仮に「75万円の基礎控除拡張による減税」を来年から実施するとして、それを現在の所得税(+復興特別所得税)・個人住民税を維持しつつ給付を行う政策に置き換えてみる。するとこれは、年間給与2000万円の人には32.77万円、年間給与1300万円の人には25.11万円の給付金を(毎年)配り続ける政策に等しいと氏は説明しています。

 一方、年間給与400万円の人には11.33万円の給付金が毎年配られるが、税を払わない低所得者には一切給付はない。こうした(再分配に逆行する)給付政策に対して強い批判が出ることは間違いないが、国民民主党が主張する所得税改革は、まさにこれを実行するものだというのが氏の指摘するところです。

 この問題を「所得税制度」に則してみると、所得控除を拡張することによる減税効果が、高い限界税率に直面する「所得の高い層」に大きく及ぶことは明らかだと氏は言います。

 諸外国では近年、この問題を避けるため、所得控除のあり方の改革が行われてきた。また、仮に基礎控除を引き上げる場合でも、それによって給与や年金への控除の上限を下げるといった改革を合わせることも考えられるということです。

 (いずれにしても)所得税は、国税制度の中核をなす紛れもない基幹税。今回、基礎控除を一度大きく拡張してしまうと、これを戻すのは政治的にも極めて難しくなると氏は言います。

 政治的な意地の張り合いや人気取りのために、朝三暮四に走るようなことは厳に慎む必要があるということでしょう。せめて拙速な改革は避け、時間をかけて、冷静に所得税のあり方を改めて検討すべきだと話す八塩氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2688 「出会いがない」にはワケがある

2024年12月17日 | 社会・経済

 1970年ごろまで年間100万組を超えていた日本の「婚姻数」が2011年以降は年間60万組台に減少し、昨年2023年には(ついに)47万4717組と戦後初めて50万組を割り込んだと、6月5日の「朝日新聞DIGITEL」が報じています。

 一方、同記事によれば、結婚した夫婦が持つ子どもの数を示す「完結出生児数」は1970年代から2.2前後で推移し、現在でも1.9と大きくは変わっていない由。日本は婚外子が少ないことから、専門家は少子化の主要な原因が(この)「未婚化」にあると指摘しているところです。

 まあ、若い人が減っているのだから婚姻数が減るのも当然ですが、それにしても(特に未婚の女性たちから)よく聞くのは、「出会いがない」とか「適当な相手が見つからない」という言葉。正直、私の周りでも独身男性が余っているように見えるのに、これは一体どうしたことなのでしょう?

 結婚問題に詳しいコラムニストの荒川和久氏が、9月25日のYahoo newsに寄せた『女性の上方婚志向「せめて私と同額か、それ以上稼げていない男は相手にしない」が9割』と題する論考においてその理由に迫っているので、指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 結婚における女性の「上方婚志向」というものが、しばしば指摘される。ここで言う「上方婚」とは、女性が結婚相手に対して自分より収入が上の相手を求めるという志向のことだと荒川氏はこの論考に記しています。

 とはいえ、これは圧倒的なお金持ちの男性を希望するという非現実的な「玉の輿」願望ではない。結婚後の経済生活や子育て等を考え、「せめて自分の年収よりも高い男性と結婚しておかないと…」というリスクを考えての希望だというのが氏の認識です。

 これは、これから結婚に踏み切ろうとしている女性としては、当然の願望(そして条件)の一つと言える。実際、昭和の皆婚時代も、大正時代の第一次恋愛至上主義旋風の時代も、「相手の稼ぎ」は優先順位の高い条件として存在していたということです。

 しかし、残念ながら、結婚を希望するすべての女性の上方婚を満足させられるほど、現代の結婚適齢期の男性は稼げていないと氏は言います。

 もちろん、(「机上の空論」と言われればそれまでですが)未婚男女の年収格差がないのだから、男女それぞれが年収同類婚を達成できれば(少なくとも数字上は)「皆婚」が可能となるはず。しかし、現実はそううまくいくはずもなく、年収同類婚で満足する女性の割合はせいぜい2割程度。7割以上の女性が「自分より上の収入男を狙う」ということです。

 結果、男性は順番に年収の高い方から男は売れていくが、女性の場合は、必ずしも年収基準で男が選ぶわけではないので、バラツキが出る。わかりやすく言えば、年収500万以上の男性は完売しても、同額以上の女性は余る可能性があると氏は現状を説明しています。

 そうした組み合わせのいたずらによって、女性は「自分より稼ぐ男が婚活市場にいない」という状況に直面する。婚活の現場で「適当な相手がいない」と女性が嘆くのはそういうことだというのが氏の見解です。

 そして、問題はここから始まる。上方婚する相手がいないとわかった婚活女性は、(だからといって)下方婚を選択することはしない。自分より稼げない相手と結婚するくらいなら、自分で経済的に自立してたくましく一人で生きることを選択しがちだと氏はしています。

 このようにして、本来結婚のボリューム層を構築するはずの(皆婚時代はまにそこが婚姻数のメインだった)300-400万円台の年収層が、軒並み「結婚相手がいない」と途方にくれることになる。同じ「相手がいない」でも、女性は相場通り「希望する年収の相手がいない」なのだが、男性は「こっちが好きになっても相手から好きになってもらえない」がゆえの「相手がいない」になるということです。

 だからと言って、「女性は上方婚志向をやめるべきだ」などと主張したいわけではない。それでなくても夫婦で生活していく中では、出産や子育て期にどうしても夫の一馬力にならざるを得ない場合もあると氏は言います。

 実際、1980年代から、フルタイム就業の妻割合は大体3割で変わっていない。そもそも、専業主婦世帯が減ったのも、夫の稼ぎでは回らなくなって妻がパートに出ざるを得ないようになったからだということです。

 そのような状況(リスク)を考えた時、今現在の結婚相手の収入に固執してしまうのは、将来の収入の見通しがあまりにも立たない不安があるからではないか。その不安の元凶になっていることこそが、若者の手取りが30年間も増えていないという「失われた30年」だと荒川氏はこのコラムの最後に綴っています。

 昨今では、さらに「新しい資本主義」だの「異次元の少子化対策」などの名のもと、社会保険料の負担までがそこに繰り返し加わっているとのこと。結婚を希望する男女のミスマッチは、政府主導のマッチングアプリとか、そうした「小手先」の対策で何とかなるようなものでないのは素人の私でもわかります。

 今、政府に必要なのは、若者たちが将来の家庭生活をイメージできるようなビジョンを持てる環境を整えること。「異次元の少子化対策」と花火は打ちあがるが、最近では政府の政策はまるで「結婚滅亡計画」のように見えるとコラムを結ぶ氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。


#2687 国民の不安を煽ってきたツケ

2024年12月16日 | 社会・経済

 厳しい厳しいと言われ続けてきた日本の財政状況が、気が付けば改善の兆しを見せている由。政府債務残高の対GDP比は既にコロナ前の水準に戻っており、「政府純債務/GDP比」も14年ぶりに100%を下回った。政府が長年財政健全化の目標に据えてきた「基礎的財政収支」(プライマリーバランス)の黒字転換も、来年度(2025年度)には達成される見込みだということです。

 おかしいな…大した努力もしていないのに、どうしてこんなに簡単に「改善」の姿を見せたりしているのか。その辺りのカラクリに関し、第一生命経済研究所首席エコノミストの永濱利廣(ながはま・としひろ)氏が9月25日の総合経済サイト「PRESIDENT ONLINE」に、『「増税しないと財政の危機」と不安を煽ってきた政府の大誤解』と題する論考を寄せているので、(前回に)引き続きその概要を追っていきたいと思います。

 おさらいですが、名目経済成長率(=経済成長率+インフレ率)」が国債利回りを大きく上回っていれば、債務残高/GDP比」は低下する。要するに、マクロ経済学の考え方では、インフレになれば財政は確実に改善するというのが氏の指摘するところです。

 しかしその一方で、(現在の日本は)少子高齢化の影響で約3~4割が年金で暮らす無職世帯となっている。賃金が上昇してもなかなか個人消費が増えていかないこの状況は、インフレに対して極めてぜい弱な側面を露わにしているということです。

 そもそも日本の個人消費が弱いのはなぜなのか。端的に言えば、その理由は国民負担率が急上昇したから。要するに「増税」と「社会保障負担増」によるものだと氏はここで説明しています。

 実際、2020年以降のG7諸国の国民負担率の変化を比較してみると、日本の国民負担率だけがダントツで上がっていることがわかる。経済の低迷で実質賃金が下がる中、消費税が2度にわたって引き上げられ社会保険料も繰り返し引き上げられてきた。つまり、家計の負担ばかり増えていたわけで、個人消費が伸びないのは当然と言えば当然だというのが氏の認識です。

 そうした中、(「増税メガネ」の名のとおり)「増税」のイメージばかりが強く残った岸田政権だが、(よく見れば)家計を支援する政策にも(結構)取り組んでおり、「エネルギー負担軽減策」や「定額減税」など(ある意味一般には評判の良くない)政策にも、その時々に切り込んできたと氏は一定の評価をしています。

 経済の構造改革についても、「新しい資本主義」の名の下、「貯蓄から投資」「GX(グリーン・トランスフォーメーション)」「半導体産業への投資」といった政策が進められた。いずれも競争力強化につながる政策で、世界的な潮流にも沿ったものだったといことです。

 中でも、成果として挙げられるのは「賃上げの実現」だと氏は話しています。今期、春闘の賃上げ率が5.1%と33年ぶりの大幅アップとなり、最低賃金の引上げも順調に進んでいる。日本の実質賃金は、27カ月ぶりにプラスに転じたということです。

 しかし、個人消費はまだまだ低迷しており、経済成長の足枷となっているのもまた事実。政府は家計支援や個人消費のテコ入れについて、もっと踏み込んだ政策を実施すべきというのが氏の見解です。

 そして、「もっと踏み込んだ個人消費テコ入れ策」が必要な理由がもう一つ。それは、お金についての「価値観」を刺激することだと氏はこの論考で説いています。

 2009年にギウリアーノ氏とスピリンバーゴ氏という2人の経済学者が連名で記した論文によると、各世代のお金についての価値観は、その世代が社会に出た時代、具体的には18歳から24歳までの経済環境に「一生左右される」由。つまり、例え今後景気が良くなっても、若い頃に不況を経験した「氷河期世代」の財布の紐は緩まないと氏は説明しています。

 実際、現在「新NISA」に積極的なのは、20代から30代前半くらいの世代とのこと。彼らは、アベノミクス以降の株が上がっている局面で社会に出た世代だと氏は言います。そして、次に積極的なのは50代後半以降のいわゆる「バブル世代」だという話です。

 一方、(氏によれば)氷河期世代は投資にあまり積極的ではないとのこと。そうしたデフレ環境の下で育った氷河期世代の財布の紐を緩めるには、かなり積極的な政策が必要だというのが氏の指摘するところです。

 日本は、過去30年にもわたりデフレ経済が続いてきた世界でも異例の国となっている。そんな中、人々の考え方や行動にはすっかり「デフレマインド」が染み付いていて、「実質賃金が安定的にプラス」という程度では、みな財布の紐を緩めてはくれないだろうと氏は話しています。

 個人消費を盛り上げるためには、時に「お金を使えば使うほど得をする税制優遇」など、かなり思い切った政策が必要かもしれない。「景気は気から」という言葉もあるが、これも侮れない真実と言えるというのが氏の考えです。

 日本が長期デフレに陥った諸悪の根源は、日本人の努力不足でも何でもなく、ひとえにバブル崩壊後に続いた「政府の経済政策の失敗」にあると氏は言います。バブル経済の崩壊は、人々の生活を経済的に傷つけたばかりでなく、その意識にも深い傷跡を残しているということでしょうか。

 まずは、(「超高齢化」「老後の備え」などという言葉にビビらされ)「守り」に徹してきた日本人のマインドを切り替えていくこと。バブル崩壊とその後30年も続いたデフレによって歪められてしまった「日本人の価値観」を何らかの方策によって少しずつ解凍していくことができれば、日本経済復活の見込みは大きいものとなるだろうと話す永濱氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2686 インフレも悪いことばかりじゃない

2024年12月15日 | 社会・経済

 内閣府は7月29日の経済財政諮問会議で、財政健全化の指標となる国と地方の「基礎的財政収支」(プライマリーバランス)について、2025年度に8000億円程度の黒字に転換するとの試算を示しました。

 「基礎的財政収支(=PB)」とは、(一口に言ってしまえば)政策に充てる経費を税収などでどれだけ賄えるかを示す指標のこと。政府は、国と地方あわせて来年度における黒字化を目標としてきましたが、これが実現すれば、小泉政権で01年に政府目標として掲げて以来、実に四半世紀ぶりの黒字復帰となる見込みです。

 経済財政諮問会議後の記者会見で、新藤経済再生担当大臣(当時)は「基礎的財政収支黒字化の目標達成の道筋が見えてきた」と胸を張り、「今後の経済財政運営は、(中略)経済規模を拡大させ2025年度の黒字化を目指す目標に沿ったものとなるよう検討していく」と述べたと報じられています。また、黒字化への自信について聞かれた岸田文雄首相は「経済あっての財政」と述べ、経済成長を優先させつつ、財政健全化を図る方針を示したということです。

 さて、思えば、新型コロナ対策などを含め景気対策と称する幾多のバラマキにより、近年の自民党政権は財政状況の悪化を招いてきました。そしてコロナ後も、少子化対策やら防衛増税やらで国民負担率を上げてきた背景には、厳しい財政事情があったはずです。

 しかるに、(気が付けば)いつの間にか「PB黒字化が確実視」…などという調子のよい話を聞くと、なんか狐に摘ままれた、というか騙されたような気持ちになるのは私だけではないでしょう。

 財務省の「差し金」か何かは知りませんが、あれほど厳しかったはずの財政状況が、(手の平を返したように)どうしてこんなに簡単に「改善」の様相に転じたりするのか。その辺りの理由について、9月25日の総合経済サイト「PRESIDENT ONLINE」に第一生命経済研究所首席エコノミストの永濱利廣(ながはま・としひろ)氏が、『「増税しないと財政の危機」と不安を煽ってきた政府の大誤解』と題する論考を寄せているので、参考までにその指摘を残しておきたいと思います。

 「日本の財政が厳しい」と長年言われてきたが、実はここに来て財政指標が大幅に改善していると、長濱氏はその冒頭に綴っています。2024年1~3月期時点の「政府債務残高の対GDP比(粗債務)」は前年から▲5%ポイント近く低下し、コロナ前の水準に戻っている。「政府純債務/GDP比」に至っては前年から▲17%ポイント以上低下し、2010年1~3月期以来、実に14年ぶりに100%を下回ったということです。

 なぜ財政が急速に改善しているのか。その最大の理由は「インフレ」にある。近年の政権によって進められた増税によって、政府の税収が増えていることも一因だが、最も大きいのは「インフレ」の影響だというのが氏の見解です。

 一般的に、政府債務残高の対GDP比は、経済成長率やインフレ率によって変動すると氏は言います。(そこで)2023年度の低下幅(▲11.0%ポイント)の中身を見ていくと、「増税などで財政収支が改善した影響」よりも「名目経済成長率(経済成長率+インフレ率)」の影響のほうがはるかに大きい。名目経済成長率の中でも、「インフレ率上昇」の影響が95%以上と、はるかに大きいことがわかるということです。

 日本政府は、「政府債務残高/GDP比」の上昇を抑制するため、「プライマリーバランス(PB)」(基礎的な財政支出と税収が均衡している状態)を目標としてきた。しかし、財政を改善するには、(実際の)財政収支が黒字である必要はないと氏はしています。

 「名目経済成長率(=経済成長率+インフレ率)」が国債利回りを大きく上回っていれば、「債務残高/GDP比」は低下する(←たしかに!)。要するに、マクロ経済学の考え方ではインフレになれば財政は改善するが、増税したからといって財政が改善するとは限らない、というのが氏の指摘するところです。

 こう主張するのは筆者(=永濱氏)だけではない。例えば、アメリカのバーナンキ元FRB議長も、2017年に日銀が開催したシンポジウムで「日本はインフレ率を高めることで財政の持続可能性を高めることができる」と主張していたと氏は言います。

 日本政府もそろそろ、こうした「マクロ経済学の常識」を踏まえた政策に転換すべき時が来ている。具体的には「増税により財政を改善させる」方向ではなく、「賃金上昇によるマイルドなインフレ」、および「家計支援策による個人消費のテコ入れ」を軸に据えるべき時にきているというのがこの論考における氏の認識です。

 本当のところ、財務省を中心とした日本政府もこうしたことは(勿論)よくわかっている。特に「マイルドなインフレで財政を再建する」点については、強く意識しているのではないかと氏は話しています。

 ただ、インフレが続けばすべてうまくいくかというと、そんなに簡単な話ではない。通常の場合、インフレ下では賃金も上昇するため現役世代にはそれほど影響はないことが多い。だが、年金で生活している世帯などは、賃金上昇の恩恵を受けにくいため、物価上昇のデメリットが直撃しやすい点も考慮する必要があるということです。

 現在、日本では2%以上のインフレが続いている。決して激しいインフレではないが、年金で生活する世帯にとって無視できない負担となっている(し、世論や野党も「物価上昇」を黙ってはいない)と氏は説明しています。

 一方、日本の社会は、少子高齢化の影響で約3~4割が年金で暮らす無職世帯となっているのは皆の知るところ。賃金が上昇しても、なかなか個人消費が増えにくい構造を踏まえれば、(たとえ「バラマキ」の誹りを受けようとも)まずは家計を支え、個人消費をテコ入れする経済政策が必要不可欠となっていると話すこの論考における永濱氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2684 足りなければ「取りやすい所」から

2024年12月12日 | 社会・経済

 自営業者などが加入する国民年金の財政状況が悪化し、基礎年金の将来的な給付水準の低下が懸念される中、厚生労働省が11月25日の社会保障審議会の部会において、基礎年金(国民年金)の給付水準を底上げする年金制度の具体的な見直し案を提示しました。

 ところがこの(厚生労働省の)見直し案。巨額の財源確保を必要とするため、政府与党内には(政治的な立場から)慎重論も根強く、現行の年金制度やその持続可能性に対する誤解を与えかねないと反対の声も上がっているようです。

 厚生労働省案では、(現役世代の負担軽減の観点から)年金の給付水準を物価や賃金の上昇率よりも低く抑えている「マクロ経済スライド」について、現在2057年度までとされている継続期間を2036年度までに短縮するとしています。

 この措置によって必要になる財源は、会社勤めの高齢者や女性の増加などで比較的財政が安定している「厚生年金保険料」の積立金からの拠出で賄うとのこと。また、基礎年金の半分は国の負担となるため、給付水準の改善に伴い国庫からも最大で年2・6兆円の追加財源が必要となる模様です。

 では、それは誰が負担するのか。この措置によって恩恵を受けるのは、国民年金受給者(=自営業者等)だけでなく厚生年金の1階部分に当たる基礎年金の金額が増える厚生年金受給者(=サラリーマン)も同じこと。なので、厚生年金に加入する2号被保険者や雇用主に広く財源を求めるというのがこのプランの要諦です。

(簡単に言ってしまえば)これは結局のところ「取りやすい所から取る」ということ。所得税や社会保険料についても同様ですが、このニッポンでは賃金が白日の下にさらされている現役サラリーマンの悲哀は、これから先もまだまだ続きそうです。

 厚生労働省のこうした(安直な)動きに対しては、ネット上にも様々な反対意見が示されています。12月6日の総合経済サイト「PRESIDENT Online」に昭和女子大学特命教授の八代尚宏(やしろ・なおひろ)氏が、『取りやすいサラリーマンから取る"姑息な改革案"のカラクリ』と題する(タイトルからして「まさにそのまま」の)論考を寄せているので、一例として概要を小欄に残しておきたいと思います。

 基礎年金は現状、(マクロ経済スライドによって)33年後の2057年度まで支払う年金額の目減りが続き、65歳時点の受給額が現在より3割低くなると予想されている。一方、厚生労働省から提案された今回の改革案が実現すると、基礎年金の減額期間が21年前倒しされ、給付水準は3割上がる見込みだと八代氏はこの論考に綴っています。

 (これだけ聞けば)ほぼ全ての年金受給者が恩恵を受ける「いいニュース」のように聞こえてくる。しかし、この案の実態は、被用者(サラリーマン)の負担増による国民年金の救済策に他ならないと氏はこの論考で指摘しています。

 保険料の未納付率の高い国民年金の救済措置として、保険料を強制的に天引き徴収される被用者の負担増で対処するのはあまりに安易な手段。これは本来、必要とされる年金制度の抜本改革を避けて、単に保険料を「取りやすい被用者から取る」小手先の対応だというのが氏の見解です。

 それはどういうことなのか?自営業者などが主体の国民年金では、その保険料を強制的に徴収できない(注:滞納を続けると最終催告状などを経て、強制徴収にいたることもある…にはある)。このため保険料を実質的に納付した者の割合は、2023年の数字で全体の半数以下。44%にとどまっていると氏は説明しています。

 国民年金の「免除者」が将来受け取る金額は国庫負担分のみとなり、満額の半分となる。つまり、免除者の増加は(財務省の負担増にはなるが)年金財政には直接影響せず、見かけ上(いわば財務省が肩代わりすることで)の全体の徴収率を高めているだけだということです。

 日本の年金制度の最大の弱点は、この財政基盤の弱い国民年金にあると氏はここで指摘しています。

 国民年金は、基礎年金とも呼ばれるために混乱が生じやすいが、もともとは被用者年金と別個の制度であった国民年金を被用者年金と無理やり合併させ、共通の基礎年金制度としたもの。この基礎年金には独自の財源はなく、既存の国民年金や厚生年金などからの拠出金に依存していると氏は言います。

 その際、この拠出金の配分基準を、各々の制度の被保険者数ではなく、「保険料を負担した実人数」にもとづいていることが大きなポイントで、結果、国民年金でいくら保険料の免除者や未納付者数が増えても、(その分は)保険料を100%納付している被用者が負担するという、巧みなトリックが隠されているということです。

 このように、被用者年金による国民年金の救済措置は以前から存在しており、今回の国民年金の3割底上げ措置は、それをより拡大したものにすぎないと氏は説明しています。

 なお、厚生労働省は、被用者年金にも基礎年金部分が含まれることから、今回の措置では被用者も得になると説明している。基礎年金給付の半分は国庫負担のため、厚生年金に対する比率が(わずかでも)高まれば、その分被用者の受給額も増えるという理屈だろうが、厚労省には関係がなくても、国民全体の負担増には変わりはない。安易に一般財源に依存するのではなく、年金保険としての財政の健全化には、固有の財源を確保する必要があるというのが氏の認識です。

 少子高齢化がいっそう深刻となっている現在、年金制度改革自体は与野党一体となって、国民の理解促進のために多様な政策メニューの提示と活発な議論が必要だと氏は話しています。

 ところが、見直しの主体となるのは、年金制度の抜本改革を避けようとする政治家と、それを忖度し国民から大きな反発が出ないようなメニューに最初から絞り込んでしまう厚労省との組み合せ。(制度が複雑でわかりにくいが)これでは、今回のような「取りやすい被用者年金から財源を取る」という姑息な改正案しか生まれないというのが氏の懸念するところです。

 年金制度だけでなく、医療や介護、給付付き税額控除など、抜本的な社会保障制度の改革は、個別の利害関係が錯綜する厚労省の審議会に任せておいても容易に解決するものではない。総理直轄の経済財政諮問会議などを積極的に活用し、改革の基本方針を定めなければならないと話す八代氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2679 定年後も働くことで得られるもの

2024年12月03日 | 社会・経済

 定年を60歳から65歳に引き上げる企業が増加する中、私の周囲を眺める限りでは、65歳を過ぎてもサラリーマン生活に終止符を打たない(つまり、何らかの形で仕事を続けている)人がほとんどです。

 「家でブラブラしていてもしょうがない」「働けるうちは働きたい」…と彼らはそろって口にしますが、その裏には、老後の生活に対する不安があるのも事実でしょう。

 以前に比べ、リタイアの年齢が引き上がっているこの日本。そう言えば今から40年ほど前、55歳で定年を迎えた私の父親は、関連企業の役員を60歳まで務めたのち、70歳で亡くなるまで(仕事からはすっかり足を洗って)悠々自適で毎日釣りをして過ごしていました。

 しかし昨今では、70歳を過ぎても(元気なうちは)アルバイトなどで働きに出ている人も決して少なくはありません。内閣府が今年3月に発表した「生活設計と年金に関する世論調査」では、何歳まで仕事をしたいかという質問に対し、「61歳以上」という答えが71.1%に達し、「71~75歳まで働きたい」という人も11.4%いたとされています。

 まあ、「いつまでも現役でいたい」という気持ちはわからないではありませんが、だからといって私自身、「人に使われる」「働かされる」環境に、いつまでも身を置きたいとは思いません。日本人の平均寿命は2022年で男性81歳、女性で87歳。しかも、健康で自立した生活を送れる「健康寿命」は(平均寿命に比べて)男女で9~12歳も短いことを考えれば、残された時間を指折り数えてみる必要もあるかもしれません。

 定年後の人生をどう生きるか?先行き不透明な時代にシニアが直面するこうした課題に対し、セカンドキャリアコンサルタントの髙橋伸典氏が8月19日の金融情報サイト「Finansee」に『実は老後の1番の悩みは“年金額”ではなかった…! 定年を迎えた世代が痛感している「シニアの本当の課題」とは』と題する一文を寄せていたので、参考までに小欄に一部を残しておきたいと思います。

 定年前の40代、50代に感じる老後不安。多くの場合、漠然としたお金の心配事としての形をとるが、しかし実際に定年を迎えた人たちの話を聞くと、少し様子が変わってくる。「お金が足りないから生活のために働かなくてはいけない」と思っている人は、意外と少ないと高橋氏はその冒頭に記しています。

 その理由は定年後の収支を考えれば理解できる。まず、現役時代に支出の大きな部分を占めていた教育費、住宅ローンなどの負担がほとんどなくなって来ると氏はしています。収入面では、年金が一定の収入源として安心材料となる一方で、65歳までの雇用延長制度が整うことで(現役時代と比べて収入が激減したとしても)生活費はカバーできるようになった。そこに、多少の退職金と貯蓄を加えれば、不安解消の後押しにもなるということです。

 年金は「その額が少ない」云々とよく言われるが、現役一線から退いた立場から見ると、定期収入のベースとして安心感を与えてくれる存在になると氏は話しています。一方、「仕事はお金を稼ぐため」と考えると、確かに定年後は現役時代ほど稼げない。ファイナンシャル的にはネガティブになってしまいがちだが、実は、定年後の本当の不安はもっと別のところに潜んでいると高橋氏は感じているようです。

 氏によれば、(定年後の)大きな不安要素は「孤独」とのこと。老後資金に余裕があったとして、「年金で生活をして、足りない分は貯蓄を切り崩していけばいい」と働かないでいると、人との交流が少なくなり(多くの人が)1人取り残された感覚に陥って行くと氏は言います。

 人は現役時代に生活のために働きストレスを感じてきた経験から、定年後は「生活のために働かなくてもいい」と思いがち。しかし働かないことで孤独という新たな問題が浮き彫りになってくるということです。

 そして、もう1つの課題は、「健康」に関する不安だと氏は言います。60歳を超えると、身近な人が病気になったり、亡くなったり場面も増える。親の介護などがあったりすると、介護への出費や、いずれ自分もそうなるのではという不安も出てくるとのこと。自分自身でも、今まだできていたことが簡単にはできなくなったりして、健康にもだんだん自信がなくなって来る…。

 そこで定年後は「生活のために働く」のでなく、「自分のために働く」という考えにシフトし、積極的に働く気持ちを持つことが大切になって来るというのが氏の見解です。

 近年、「ウェルビーング」という言葉がよく使われるが、これは簡単に言うと「幸せな状態」を意味するもの。幸せな状態になるためには(ある程度の)お金がどうしても必要なので、「ファイナンシャル・ウェルビーイング」という考え方も生まれていると氏は説明しています。

 それは、お金を単に稼ぐものとして捉えるのでなく、自分が幸せになる手段として考るというもの。お金を得るためには働く必要があるが、働くのは「お金のため」だけでなく、「自分の生活を改善するためのもの」として捉え直すということです。

 (前述のとおり)シニアの本当の課題(そして不安)はお金が足りないことよりも、人との交流がなくなり孤独になること、健康を維持できなくなることにある。しかし、それらには働くことで解消できる部分もあると氏は指摘しています。

 仕事をすれば、(その内容に関わらず)職場での交流や人間関係が発生するもの。人間関係で多少のストレスは生じても、責任ある立場ではないのでそんなに深刻に考える必要はない。好きな分野で無理せず仕事をして、もしもそこで強みを活かせられれば、人からも喜ばれ感謝される(だろう)と氏は言います。

 決してフルタイムである必要はない。週数回、1日数時間だけでも、仕事にあわせて規則正しい生活を送り通勤時に体を動かせば、それが定期的な運動になって健康にもつながるということです。

 定年後も働くことは、シニアならではの課題である「心の安定」「健康」、そして「お金の不安」を解決することに役立つもの。働いてお金を得ることがシニアの課題解決に役立っているのなら、それは「ファイナンシャル・ウェルビーイング」を高めることになるだろうと話す高橋氏の指摘を、私も(身近な話題として)興味深く読んだところです。


#2678 コンパクトシティとシニアの住み替え

2024年12月01日 | 社会・経済

 最近しばしば耳にするようになった「コンパクトシティ」とは、住まい・交通・公共サービス・商業施設などの生活機能をコンパクトに集約し効率化した都市、またはその形成のための政策を指す言葉です。

 ある程度の人口がまとまって居住することで、福祉・商業等の生活サービスの持続性が向上するとともに、これらのサービスに徒歩や公共交通で容易にアクセスできるようになる。また、外出が促進され健康の増進につながるという生活面での効果も生まれると同時に、過度な自動車への依存が抑制され二酸化炭素排出量の削減につながるなど、多岐にわたる利点がある(国土交通省HP)ということです。

 まあ、政策論として聞いている分には「いいこと尽くめ」のように思えますが、分散して暮らしてきた住民を街の中心部に集めるには(まずは)街づくりをしなければならないし、引っ越し代だってかかってくる。「持続可能な暮らし」と宣伝しても、既に地域に根を生やしている住民にはなかなかメリットを感じにくいところがあるでしょう。

 しかし、各地で人口の急激な減少が避けられない昨今のこと。長い目で見れば現状の経済規模を維持できる地域は限られています。市場の縮小により住民たちに生活物資やサービスを供給していた小売業が失われたり、公共交通サービスが維持できなくなったり、水道やガスなど社会基盤の維持管理費の上昇なども予想されるところ。除雪や消防、教育などの水準を維持することもままならなくなり、人口減少の負のスパイラルが転回していくのは目に見えています。

 自治体の首長や行政担当者にとって、どのようにして人々の暮らしを街の中心部に誘っていくのかが(今後の)大きな課題になるのだろうな…などと考えていたところ、(ひとつのヒントとして)9月12日の「AERA dot.」にライターの松岡かすみ氏が、『シニアは「持ち家」からマンションへ 「買い物も病院も徒歩圏内」でもシニアが多いマンションのリスクとは』と題する記事を寄せていたので、参考までにその一部を残しておきたいと思います。

 都心部でマンション価格が高騰する中、地方では「中心部」のマンションに移り住む動きが顕著だと、松岡氏は記事の冒頭に綴っています。シニア層が郊外の持ち家から中心部のマンションにシフトする動きが、さまざまな地方都市で目立つようになってきており、全国の各都道府県においても、県庁所在地におけるマンションの建設ラッシュが続いているということです。

 確かに、人口減少が続く地域でも、県庁所在地の中心部はスーパーや病院も近く、生活利便性が高い。将来の運転免許の返納に備え車が不要な場所に住み替えるニーズや、段差のないバリアフリーの空間へのニーズなども背景にあるようだと氏は説明しています。

 氏によれば、そんな地方都市の新築マンションには、「入居者の半数が住み替えシニア層という物件もある」(不動産会社)とのこと。確かに、家のメンテナンスも難しくなった高齢者にとって、戸建てより光熱費も安く済む都市部のマンションは、暮らしに(これまでにない)利便性を与えてくれるものかもしれません。

 実のところ、齢90歳を超える私の母親も、(すでに20年以上)都心のマンションでの快適な一人暮らしを楽しんでいる一人です。駅や病院、スーパーマーケットやコンビニなどが徒歩2~3分圏内に集中していることに加え、生活ヘルパーが毎日のように訪問してくれる今の生活は、維持していくだけで手間がかかる一軒家に暮らしていては想像もできない安楽さだと本人も話しています。

 「コンパクトシティ」と大上段に振りかぶっても住民は動かないかもしれませんが、本人がいいと思えば、これまでの暮らしぶりを大きく変えることだって(人は)厭うものではありません。要は、街の中心部において、ターゲットとなる人々にどれだけ魅力的な暮らしを提示できるかが重要となってくるのでしょう。

 さて(記事に戻れば)、その一方で、居住者にシニアが多いマンションは、管理組合の運営や、管理費や修繕積、積立金の滞納、認知症による徘徊など、高齢者ならではの問題もあると松岡氏は最後に指摘しています。

 国土交通省の「マンション総合調査」(2023年度)によれば、現在の分譲マンションは世帯主の2人に1人が60歳以上で、4人に1人が70歳以上である由。高齢化で認知症患者も増える中、シニアが多いマンションでは、さまざまな問題が発生する可能性があるということです。

 住まいの選び方は時代とともに変化する。いま、終身雇用制が崩れ、働き方も多様化し、生き方や価値観も多様化していると氏は言います。住宅価格は高騰を続ける中、住宅の購入を考える機会に人生のお金も棚卸しして整理し、自分がどう生きていきたいのか。この先どんなことにお金を使っていきたいのかを考えることを提案すべきと話す松岡氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2677 経済問題としての「孤独」

2024年11月29日 | 社会・経済

 誰にもみとられず(1人暮らしの)自宅で亡くなった10代から30代の若者が、平成30年~令和2年の3年間に東京23区で計742人確認されたと7月21日の産経新聞が報じています。(「広がる若者の孤独死」2024.7.21)

 記事によれば、令和2年までの3年間に監察医務院が取り扱った10~30代の1人暮らしの異状死(←自殺や死因不詳など)者は計1145人。このうち職場や路上などを除く、自宅で死亡した(いわゆる)「孤独死」は64.8%(742人)で、うち約4割(305人)が死亡から発見までに4日以上を要していたということです。

 因みに、死亡から発見に至る日数については、「8~30日」が114人、「31日超」も64人おり、たとえ若者であっても長期間発見されないなど、都会に暮らす人々の孤立が深刻化している実態が改めて明らかになったとされています。

 若者の孤独死増の背景には、社会との接点や関係を断ち生活の能力や意欲を失って「セルフネグレクト(自己放任)」に陥っている若者の存在が指摘されることころ。最近では若者の「風呂キャンセル化」が話題になったりしていますが、ゴミや排泄物の放置など、認知力や判断能力、意思決定能力が低下しているケースなども指摘されているようです。

 亡くなってから1か月以上も自宅で放置されている若者たち。都会暮らしの一体何が、このような深刻な孤立化を助長しているのでしょうか。7月26日の総合情報サイト「PRESIDENT ONLINE」に、独身問題に詳しいコラムニストの荒川和久氏が『政府が知らない「中年独身男性が孤立を深める本当の要因」』と題する論考を寄せているので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

 警察庁の発表によれば、全国で今年の1月~3月に自宅で(1人で)亡くなった一人暮らし者の総数は2万1716人。単純に換算すると、この日本では年間で実に8万6864人が孤独死・孤立死する推計になると、荒川氏はこの論考に記しています。

 「結婚しないでいると孤独死するぞ」などとよく言われるが、実際に孤独死している人のうち、年齢別でもっとも数が多いのは75歳以上。2024年時点でその年齢であればほぼ結婚していた皆婚時代の世代なので、決して「結婚したから孤独死しない」とは言えないと氏は話しています。

 とはいえ、残念ながら死とは誰の身にもいつかは訪れるもの。ことさら孤独死や孤立死を悲惨なものとしてとらえる必要はないが、ただ、何カ月も発見されずに放置されたりしない仕組みや体制は(社会として)築いておく必要がある。そして個人としては、一人で死ぬことを怖れるよりも、いずれ確実にやってくる「一人で生きる状態になった時にどう生きるか」を事前に考えていくことの方が重要ではないかというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 「一人で生きる」ということに関しては、昨今、何かとその孤独感を問題視する傾向が強まっている。「孤独で早期死亡リスクが50%上昇する」「孤独のリスクは一日タバコ15本吸うことに匹敵する」「孤独は肥満の2倍健康に悪い」などという研究結果もあって、2021年には政府に孤独担当大臣も設置されたと氏は話しています。

 しかし、こうして孤独を悪者に仕立てたところで、それで何かが解決するかと言えば、なかなかそうもいかない。そもそも「孤独を感じる」こと自体が悪いことなのか? もっといえば、「孤独を感じる」ことと「孤独を苦痛と感じること」とは別物だというのが氏の見解です。

 大事なのは、孤独を一括りですべて悪とするのではなく、「必要な孤独」と「苦しい孤独」とを分けて考え、特に「孤独を苦痛と感じる根本は何か」を正確に把握していくこと。内閣官房孤独担当室による過去3回の実態調査の結果から見えてくるのは、孤独の本性は、決して「家族がいない・友達がいない・頼れる人がいない」という人のつながりの問題(だけ)ではないということです。

 例えば、2023年実施の「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査」によれば、孤独を「常に感じる」「時々感じる」という人の割合に男女差はほぼ認められない。年代別では、(実は)高齢者よりも現役世代のほうが高く、夫婦や家族よりも単身世帯のほうが孤独感は高いと氏はしています。

 一方、注目すべきは、性年代別配偶関係別などの属性や外出・会う頻度の差よりも、経済的ゆとりの有無のほうがよっぽど孤独感に大きな影響を及ぼしているということ。さらに詳細に、男女年代別の経済的ゆとりの「あり+ややあり」「普通」「苦しい+とても苦しい」で3分類した孤独感などを見ると、明らかに経済的ゆとりのなさが孤独感に直結していることがわかるということです。

 さらに、孤独感に影響を与えた人生のイベンを見ていくと、「一人暮らし」など人との同居環境による変化が孤独感にほとんど影響を及ぼしてはいない一方で、男女ともにもっとも高いのが「生活困窮・貧困」だと氏は指摘しています。

 政治の世界では、「家族や友達など話し相手がいない」とか「コミュニケーションする相手がいない」ことだけが(感覚的に)孤独感の元凶のように語られていたが、実態調査から浮かび上がってきたのは、「孤独とは経済問題なのだ」という発見だということ。要するに、「足りないのは、家族や友達や会話ではなくお金だった」というのが氏の見解です。

 改めて言えば、孤独解決のためには「お友達を作りましょう」「趣味仲間を作りましょう」「誰かと同居しましょう」などと言われてきたが、解決の道は(実は)そこにはない可能性があるということ。経済的な欠落感がなくなれば、孤独感は解消されるかもしれないという新たな解決策も見えてくると氏は提案しています。

 「孤独だと健康を害する」という理屈も、元をただせば、お金がないことによって満足な食事や栄養がとれなかったり、お金がないことにより外出する機会や意欲も失ったり、お金がないことでそもそも医者に行くこともできなかったり…という因果があっての話。「貧すれば鈍する」といわれるように、「金がない」という環境は人間のあらゆる行動を委縮させ、「面倒くさい」「どうだっていい」といった状態に陥って、精神的にも病んでいくということです。

 今後、この日本で独身人口や単身世帯が増えることは既に不可避な状況と言える。そうした中、孤独・孤立対策を検討するのであれば、彼らの健康をむしばんでいるのはタバコやアルコールや肥満よりも「金がない」ことであり、上がり続けている国民負担率のほうではないかと氏は話しています。

 「衣食足りて礼節を知る」とはよく聞く言葉。まずは、人としての尊厳を保てるだけの生活を保障することが、最大の対策ということでしょうか。

 深刻な孤独とは、人の心が生み出すブラックホールのようなもの。人口ボリューム層である中間層の経済環境の改善がなければ、結果としての孤独死・孤立死による死亡が、ますます増えていくのではないかと話す荒川氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2676 「主婦」という名の既得権

2024年11月28日 | 社会・経済

 今年の10月1日から、社会保険の適用範囲がさらに拡大されるとのこと。パートやアルバイトなどの短時間労働者で、1週間の労働時間が20時間以上などの条件を満たした人の社会保険については、これまでは従業員数が101人以上の企業で適用されていました。

 この10月からは、その適応範囲が従業員数51人以上の企業に拡大されることになり、厚生労働省によると(社会保険への)新規加入者は約20万人に上ると試算されています。

 そこで(現実に)大きな影響を受けるのが、非正規雇用の代名詞ともなっている「パート主婦」の皆さんです。彼女たちの多くは会社員の夫の「扶養」に入っていて、保険料を負担することなく夫の勤務先の健康保険に加入しています。もちろんこの状態は、彼女たちの社会保険料(雇用者負担分)を負担せずに済んできた企業にとっても、(安く雇える労働力として)多くのメリットを与えてきたわけです。

 「従業員数51人以上」と言えば、地域のスーパーマーケットや小売業などの中小企業の多くが該当することになり、(現在把握されている)20万人という想定以上に影響が広がることも考えられます。

 社会保険の適用範囲を広げ制度に守られた(というか、制度に囲い込まれている)「主婦」の垣根を下げることで、(いわゆる)「年収の壁」を突き崩し、彼女たちを(公平な)労働市場に解き放つことができるのか。

 10月7日の経済情報サイト「DIAMOND ONLINE」にフリーライターの早川幸子氏が『今すぐ「年収の壁」をぶち壊すべき納得の理由』と題する一文を寄せていたので、その指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 早川氏によれば、そもそも社会保険制度における「被扶養者」は、(国民健康保険とは異なり)健康保険や共済組合などの被用者保険にしかない概念とのこと。被保険者(加入者本人)と生計維持関係にある配偶者や子ども、親などの親族が、保険料の負担なしで給付を受けられる特典を指していると氏は説明しています。

 そこには所得要件があり、現在は被扶養者の年収は130万円未満(60歳以上、または障害年金受給者は180万円未満)で、被保険者の収入の2分の1と決められている。これを超えると扶養から外れて、自分で保険料を負担して国民健康保険や勤務先の健康保険に加入しなければならないということです。

 もちろん、扶養から外れ新たに社会保険に加入するということになると、(保険料負担により)目先の手取り収入は減ってしまう。そこで、この「年収の壁」を超えないように労働時間を調整し、被扶養者の立場を利用し続けるのが「賢いパート主婦」とされてきたと氏は言います。

 しかし、短時間労働者の中でも、こうした「お得な」制度を使えるのは、家族が会社員や公務員などで被用者保険に加入している人だけ。同じパート主婦でも、夫が自営業者の場合は国民健康保険に加入して保険料を負担しなければならないし、シングルマザーの場合は、その収入で子どもの分の保険料も負担している。同じ職場で同じように働いている短時間労働者なのに、家族の職業によって社会保険料の負担が左右されるのは不公平と言わざるを得ないというのが氏の指摘するところです。

 そもそも、「被扶養者」は、太平洋戦争開戦の翌年に行われた1942(昭和17)年の健康保険法の改正で導入されたもの。「産めよ増やせよ」のスローガンのもと、女性(妻)の役割は(立派な兵隊さんとなる)子どもを産み育てることとされ、男性(夫)に扶養される存在として意味づけられていたと氏はしています。

 健康保険をはじめとする社会保険も、総力戦体制を後押しする観点から1940(昭和15)年4月に家族の医療給付がスタート。被保険者に生計を維持されている家族(世帯員)が病気やケガをした際はその医療費の一部が補給金として給付されることになり、被保険者が徴兵された場合も家族の医療費の補給が行われることになったということです。

 この家族給付が1943(昭和18)年4月に法定給付となり、この改正で給付を受けられる世帯員を「被扶養者」と呼ぶことが決められた。同時に「配偶者分娩費」も創設され、夫に扶養される妻は保険料の負担なしで健康保険から給付を受けられる仕組みが誕生したと氏は説明しています。

 そして、戦時下で国の人口増加策を後押しする形でつくられたこの制度が、戦後の高度経済成長期に「企業が社会保険料を負担せずに安く使える労働力を確保するシステム」として定着していくことになった。しかし、制度の創設から約80年が経過し、家族のあり方も雇用形態も大きく変わった今、「被扶養者」制度は就労を妨げる存在になっているというのが早川氏の認識です。

 2016年以降、短時間労働者の社会保険制度は徐々に整備されてきたものの、新たに106万円という「年収の壁」がつくられたことで、これまで以上に労働時間を短縮する動きが労使ともに見られる。いくら国が適用拡大のための法整備を行っても、保険料なしで社会保険に加入できる「被扶養者」という制度がある限り、扶養の範囲内に労働時間を抑えようとする人はなくならないだろうということです。

 本来、社会保険料は、その人の経済的な負担能力に応じて決められるもの。であれば、職場も収入も同じ労働者なら納める保険料も同額のはずだが、現状では、本人の働き方に関係のない夫などの家族の職業によって、短時間労働者の社会保険の負担は大きな差が出ていると氏はしています。

 さて、思えば家事労働を(妻である)女性が担うことを前提とした「主婦」という言葉も、昨今ではずいぶんと古臭い響きを纏うようになりました。「ご職業は?」と聞かれ、「専業主婦」と答えるのにも(何やら)後ろめたさを感じさせられるようになった令和の時代、公平性の観点からも制度の在り方を見直す時期が来ているということでしょう。

 様々な矛盾を解消し、本当に労働者を守る制度にするためには、「収入の壁」をなくさなければならない。そのためには、少しでも収入のある配偶者は「被扶養者」制度から除外し、所得に応じた保険料を本人が負担するといった大胆な見直しも検討する必要があるとこの論考を結ぶ早川氏の指摘を、私もさもありなんと読んだところです。


#2675 103万円は「年収の壁」なのか?

2024年11月27日 | 社会・経済

 政府・与党は、働く学生らが年収103万円を超えると親の扶養から外れる仕組みを見直し、「特定扶養控除」の年収要件を引き上げる方向で調整に入ったと11月27日の読売新聞が報じています。

 19~22歳の学生世代を対象に、子どもの年収が103万円以下の場合に親の所得から63万円が控除されるというのが「特定扶養控除」のアウトライン。もしも子供の年収が103万円超え扶養から外れると控除が適用されなくなり、親の手取り収入が減るため学生バイトらの「働き控え」につながっているとの指摘が出ていたとされています。

 政府関係者によると、見直しに必要な財源は年数百億円規模とされ、具体的な引き上げ幅は今後検討する由。政府・与党は、年収103万円を超えると所得税が課される「103万円の壁」を引き上げる方針を既に決めており、もう一つの「103万円の壁」と言われる特定扶養控除の適用除外についても、国民民主党が対応を求めていたということです

 さて、こうして次々と壊されていく(かのように見える)「年収の壁」ですが、本当にこの103万円を何十万円か引き上げるだけで、(国民民主党が胸を張るように)専業主婦の「働き控え」の解消につながっていくものなのでしょうか。

 11月27日の総合ビジネスサイト「現代ビジネス」に、名古屋商科大学ビジネススクール教授の原田 泰(はらだ・やすし)氏が、『国民無視の「年収の壁」には、もううんざり…!』と題する論考記事を寄せているので、参考までに指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 国民民主党は、税金の年収の壁をなくし手取りを増やすために、所得税が課される年収の基準を103万円から178万円に引き上げるよう主張している。しかし、この主張はある意味政治的なパフォーマンスで、「年収の壁」という言い方自体、選挙対策としてのキャッチ―なコピーに過ぎないと原田氏は捉えています。

 冷静に見ればすぐにわかること。これは「年収の壁」の問題というよりは、物価が上がりまた名目賃金も上昇していることから、税が免除される「基礎控除」と「給与所得控除」(以下、「基礎控除」に統一して言う)の合計を(現行の103万円から)引き上げようという対応。

 基礎控除額が本当に178万円まで引き上がるかどうかは別にしても、インフレにあわせて控除額を引き上げるのは多くの国でやっている「当たり前」の政策で、私ももちろん賛成だと氏はこの論考に記しています。

 インフレが進む中、控除額を103万円に固定し放置したままでは実質的な増税と変わらない。物価や賃金の上昇で国は消費税や所得税の歳入が増えているわけだから、基礎控除額を増やすという実質的な減税をして調整するのは、まさに「当然」行うべき政策だということです。

 ただし、あくまで「年収の壁」に照らして議論を進めると、実は所得税は「103万円の壁」を作っているわけではないと氏は言います。年収が103万円を超えて113万円になっても、113万円から103万円を引いた10万円に5%(つまり5000円)が課税されることになるだけ。なので、9万5000円は収入になるということです。

 (「税金はびた一文払いたくない」という人は別にして)にもかかわらず、それでもこれが「年収の壁」と言われているのは、「扶養控除」の問題があるからだと氏は説明しています。

 例えば、(先にも述べたように)学生が103万円以上稼いでしまうと親の特定扶養控除63万円がなくなって、親の税金が一気に増えてしまうこと。仮に親の所得が600万円だったとすると、地方税も含めて税率3割で18万円程度は家計の手取りが減る計算になり、親の扶養に入っている学生などは、働くことを控えるように親から申しつけられているということです。

 さてそこで、このような状況に対し考えられる「所得税の壁」の解決策は、子どもの所得が5万円上がるごとに扶養控除額を5万円ずつ段階的に引き下げていくことだと、この論考で原田氏は提案しています。

 ちなみに、実際、配偶者控除は妻の収入に応じて段階的に引き下げられている。財務省の性格からして、扶養控除を段階的に引き下げる改革をするのは「面倒だ」と言いそうだが、なぜ配偶者控除と同じことができないのか「意味が分からない」というのが氏の見解です。

 結局のところ、103万円の所得控除の引き上げは、時代の変化の中でおのずと必要な対応であって、「壁を壊す!」と大上段に振りかぶるほどのものだはないということでしょうか。政治には「やってる感」「やったふり」も大切で、特に、現在政治のキャスティングボードを握る国民民主党に、政府与党が「花を持たせている」という状況かもしれません。

 とはいえ、こうした問題よりもより厄介なのが「社会保険料の壁」の問題だと、原田氏はこの論考の最後に綴っています。(税控除の問題はともかく)社会保障の問題は本物の壁として機能している場合も多い。私はこれをなくすことが何より重要だと考えていると話す氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2674 「年収の壁」の壊し方

2024年11月26日 | 社会・経済

 11月20日、与党自民、公明両党と国民民主党は、政府が週内に閣議決定する総合経済対策に、年収103万円を超えると所得税が生じる「103万円の壁」の引き上げを盛り込むことで合意したと、大手新聞各紙が報じています。

 いわゆる「年収の壁」のひとつとされる103万円の所得税非課税枠。11月21日の日本経済新聞(『国民民主「最賃が根拠」178万円案 自公は物価で反論』)によれば、かつてインフレが定着していた時代には非課税枠は断続的に引き上げられてきた由。しかし、それも1995年が最後で、物価が上がらないこの30年間は103万円のまま据え置かれてきたということです。

 今回、国民民主が引き上げ額の根拠として挙げているのは、「最低賃金の上昇率」とのこと。全国加重平均で1995年の611円から2024年に1055円とおよそ1.73倍になっていることを根拠に、非課税枠を73%引き上げ178万円に上げるということのようです。

 一方、同記事によれば、政府与党には最低賃金を根拠にする国民民主の主張に疑問を呈す向きも多いとのこと。この30年間の消費者物価の上昇率を踏まえて控除額を算出すると、1.1倍の113万円に過ぎないというのがその根拠で、そのうえ、地方交付税の減少分と合わせると地方で5兆円超、国では2兆円台半ばの減収になるということになれば、抵抗があるのも当然かもしれません。

 このような指摘に対し、国民民主の玉木雄一郎代表は22、23年度にそれぞれ11.3兆円、6.9兆円の予算使い残しがあり、税収も想定よりそれぞれ5.9兆円、2.5兆円多かったとし、「予算計上を精緻化すれば7兆円程度の減収への対応は十分可能だ」と話しているということです。

 確かに、(ここのところの)補正予算を活用した政府の「経済対策」の杜撰さには目に余るものがあり、結局、基金に積まれたまま放置されている予算が多いことも事実です。しかし、言ってみれば「それはそれ」で、「年収の壁」とは関係のない話。政府の無駄使いが多いことを理由に、給与所得者の所得控除額のみを増やすというのも理屈に合わない話です。

 そもそも、誰かの被扶養者であれば、所得があっても税金がかからないこと自体が基本原則に反した話。そのうえ、その所得が一定以内なら扶養者の扶養控除にも影響がないというのでは、孤独な独り者は浮かばれないことでしょう。

 「年収の壁」を取り去ることが目的であれば、まず「壁を低くする」ための議論があってしかるべきはず。本来であれば、(このような)専業主婦を優遇する(旧態然とした)制度自体を見直すのが筋なのに、国民民主党の主張を聞いた時に「え、そっち?」と思ったのは私だけではないはずです。

 11月21日の日本経済新聞の社説(『「就労の壁」は扶養のあり方から議論を』)は、この「年収の壁」壁をどかす方法は(実は)「2つある」と話しています。

 それは、税や保険料を求める年収基準を引き上げるか、(反対に)段差を小さくするために基準を逆に大きく引き下げるか。勿論、国民民主が「手取りを増やす」として求めている「所得税の控除額を103万円から178万円に上げる案」は前者だが、年収基準を上げれば(配偶者の)労働時間は増えるかもしれないが、税優遇の拡大は肝心の「フルタイム就労」を見送る誘因にもなりかねないというのが記事の指摘するところです。

 そもそも、「働く配偶者」の今の控除額が妥当なのかどうかも議論すべき。共働き世帯が一般的になった現在、収入を得ている専業主婦らが「基礎控除」と「配偶者控除」という二重の控除を受ける現状は、不公平感を引き起こしていると記事は主張しています。物価動向を踏まえた基礎控除の一定の引き上げには検討の余地があるとしても、実施するなら働く配偶者の控除縮小と一体で行うべきだというのがその根拠です。

 もとより、収入に応じて税や保険料を納めるのは社会の基本であるはず。働き方が多様化した時代に求められるのは「就労の選択」をゆがめない制度であり、税も保険料も徴収ラインを大きく下げ働く配偶者の優遇を見直す改革こそが必要だと結ぶ記事の指摘を、私も(大きく)頷きながら読んだところです。


#2673 「第三次ベビーブーム」はなぜ幻に終わったのか

2024年11月25日 | 社会・経済

 近年、ひとりっ子が増加しているという話があるようです。

 「出生動向基本調査(2021)」によると、子どもを産み終えたとみられる夫婦(結婚から15~19年が経過)のうち、子どもが1人の割合は、19.7%。この割合は、1980年代から02年までは10%程度で推移してきたが、05年に11.7%へと微増。その後、10年は15.9%、15年は18.5%と増加し、約20年でほぼ倍増したことがわかると9月9日の毎日新聞が報じています。

 記事によれば、実際に生まれた子どもの人数を結婚当時の予定と比較すると、妻の初婚年齢が高くなるほど予定を下回る傾向がある由。この数字からは、一人っ子増加(つまり少子化)には晩婚化の影響がうかがえるというのが記事の指摘するところです。

 さて、少子化問題に詳しいコラムニストの荒川和久氏は、9月11日のニュース情報サイト「Yahoo news」に寄せた論考(『「今は一人っ子は増えていない」むしろ深刻なのは「子沢山と無子・未婚の格差」』)において、この記事の主張を真っ向から否定しています。

 記事が引用している統計(出生動向基本調査)は、あくまで子どもを産み終えたとみられる夫婦(結婚から15~19年が経過)を対象としたもの。わかりやすく言えば、50歳以上の親が持つ子どもの数のようなもので、(少なくとも)現在出産期にある若い夫婦の話ではないと、荒川氏はこの論考で説明しています。

 女性がもっとも出産をする年齢帯を25-34歳とすれば、この統計の対象者が出産をしたのは1996-2006年あたり。この時期は、まさに「本来は第三次ベビーブームがやってくる(べき)時期」であったのだが、結局のところそれは幻に終わり、今日の急激な人口減少の端緒となったというのが氏の認識です。

 それではなぜこの時期に、第二子の出産が減少したのか。荒川氏はその原因を、この直前から始まっていた経済状況の変化、バブル経済の崩壊と「就職氷河期」と呼ばれる時代の始まりに見ています。

 新卒有効求人倍率がもっとも低くなり、若者の完全失業率が急上昇した「就職氷河期」は、1995-2005年あたりまで続いた。その間、第二次ベビーブーマーであるところの当時の若者たちは、自分たちの就職や生活に汲々としていて、実際結婚どころではなかったと氏は言います。

 記事でいう(ところの)対象者が結婚・出産をする時期は、まさにこの時期に当たる。たとえ結婚して第一子をもうけた夫婦でも、この環境では第二子を産むことをためらわざるを得ない状況にあったと見るのが妥当だろうということです。

 事実、出生の統計にもそれは如実に表れている。バブル経済崩壊後の1990年代初頭から就職氷河期にあたる2005年にかけて、第一子出生率はほぼ変わらないのに、第二子以降出生率だけが激減している状況が見て取れると氏はしています。

 これは、この時期に第一子を産んだ夫婦が、以前ほど第二子以降を産めなくなっていたことを示すもの。この時期に生まれた子にひとりっ子率が高かった背景には、そうした経済情勢があるというのが氏の見解です。

 そして、記事の誤解はもう一つ。2005年以降は、「第一子<第二子」という傾向に戻っている。これは、第一子を産めば、それ以上に第二子以上を生んでいるということ。つまり、「第二子が生まれにくい」という状況は、その後も同様に続いたわけではないというのが、この論考において氏の指摘するところです。

 実際、直近において出生した子どもの出生順位別割合から、「単年ごとの出生児は何番目の子か」が計算できる。それによれば、もっとも数値が低くなったのは(氷河期のど真ん中の)2000年の1.68人。一方、氷河期が過ぎた2005年以降復調し続け、2021年には1.77人と1980年とほぼ同等にまで復活していると氏は数字を追っています。

 3人目以上の比率を計算しその推移を見ても、2022年の17%は1965年より高いくらい。令和の一人当たりの母親が産む子どもの数は、映画「三丁目の夕日」の時代と比しても大差ないということです。

 それでは、なぜ令和の今でも、生まれて来る子供の数は減り続けているのか。確かに1995-2005年あたりまで、夫婦が産む子どもの数が少ない事が少子化の要因だったかもしれない。しかし、現在は「夫婦が子どもを産んでいない」からではなく、そもそも出産の前提となる婚姻数が減っているからだと氏はしています。

 文字通り、婚姻の「母数」が減っているがゆえに絶対数としての出生数が減っているということ。今までの政府の少子化対策が的外れであるのは、今は「夫婦が子を産めない」問題ではなく、「若者が結婚というステージに立てない」問題であることをことごとく無視しているからだということです。

 よくよく考えれば当たり前の話ですが、第一子が産まれなければ第二子も第三子もないのは当然のこと。(この日本では)その前提となる「結婚」がなければ第一子も生まれないと、荒川氏はこの論考の結びに記しています。

 少子化は、あくまで「結果」として表れている現象のひとつに過ぎない。「ひとりっ子」云々を心配するより、まず「若者の無子化」の方こそ危惧すべきだとする氏の指摘を、私も(「なるほどな」と)興味深く読んだところです。


♯2672 市場価値と「エイジング」

2024年11月22日 | 社会・経済

 「エイジング」という言葉を聞いて最初に思い浮かべるのは、飲み物や食べ物の「熟成」という作業でしょうか。ワインだとかウイスキーだとか泡盛だとか、お酒の中にはより良い品質に変質させることを目的として、一定の環境に何年もの間保存しておくことで新たな価値を生み出すものがあります。また、ジビエや牛肉など、一定の熟成期間を置くことで肉に含まれる蛋白質を(多くは酵素の力で)分解させ、旨味を増すといった調理法もあるようです。

 時間の経過によって風味が増すと言えば人間だって同じこと。通の間で「名人」と呼ばれるような歌舞伎役者や落語家など、(「渋み」というか「円熟」というか)、人生経験が醸し出す得も言われぬ雰囲気をまとった大御所を、あれこれ思い浮かべるのは楽しい作業です。

 とはいえ、エイジングの原義は年齢を重ねていくということ…つまり「加齢」を指す言葉です。近年の医療や美容の世界では(社会の高齢化を踏まえ)「アンチ・エイジング」が重要なテーマとなっていますが、「加齢」すなわち「老化」をどのように防ぎ、また「活かして」行くのかが今問われているということなのでしょう。

 こうして、近年注目されるようになったこの「エイジング」。実はマーケーティングの世界でも、これからの市場を占う重要なキーワードとなっているようです。11月18日の日本経済新聞のコラム「経済教室」に、慶応義塾大学教授の白井美由里氏が『消費者の行動を考える(7) ―「エイジング」の理解が重要』と題する一文を寄せていたので、その指摘の一部を紹介しておきたいと思います。

 高齢化の進行に伴い高齢者市場が大きく課題する中、エイジング(加齢)が消費者行動に及ぼす影響を理解することが重要になっていると白井氏はコラムの冒頭に綴っています。

 氏によれば、人間の記憶には情報を長期的に保持する「長期記憶」と、取得した情報や長期記憶から想起した情報を用いながら思考する「作業記憶」がある由。両者とも加齢で低下することから同時に処理できる情報量が減るため、人は齢を重ねるにつれ多くの商品を比較しながらの選択が難しくなるということです。

 情報探索の部分で言えば、(高齢になるに従い)「探索時間の短縮」や「検討するブランド数の減少」といった収縮効果が見られるようになるとのこと。このため高齢者には、若者に比べリピート購買が増え、長く存在するブランドを好む傾向があるということです。

 ブランドへの愛着や郷愁、慣性など、高齢化によって顕著になるのが、感情的な情報をベースにした意思決定だと氏は話しています。感情的に意味のあるゴールを設定し、感情状態のバランスや後悔の回避、満足の最大化を重視する。例えば、コーヒーのフレーバーの楽しみ方を表現した広告は、コーヒー豆の種類や鮮度などを記述した広告よりも好まれ、記憶されやすくなるというのが氏の見解です。

 加えて、ポジティブ感情の強化に焦点を当て、ネガティブな刺激や情報を避ける傾向も強くなる。さらに情報の処理量が限られるため、自分と関連し、自分にとって意味のある情報を選ぶようになるということです。

 一方、様々な年代の消費者を対象にした製品やサービスの満足度調査から、高齢者は多くの製品やサービスに対する満足度が相対的に高いという結果が報告されているというのが氏の指摘するところ。新製品情報への関心が低下し、基本的なニーズを満たす製品やサービスへの満足度が高くなると氏は説明しています。

 高齢者は時間を有限と捉えるため、「今満足する」ことに視点を置くことも、満足度の高さにつながる由。また、その「満足度」や「幸福感」の捉え方も高齢者と若者では違っていて、高齢者は日常的な経験を幸福感と関連づけつが、若者が結びつけるのは非日常的な体験だということです。

 そういえば、以前にも少し書きましたが(♯2651 バイクはもはや年寄りの乗り物))近年では「旧車」と呼ばれる1980年代製のオートバイが市場でもてはやされ、時には数百万円の高値で取引されているとのこと。「ノスタルジー」とても呼ぶのでしょうか。若い時分には(高価で)手に入らなかったオートバイを磨いたり、週末ちょっと乗ったりしながら仲間内でめでる高齢者の気持ちもわからないではありません。

 市場は、「時代を映す鏡」とはよく言ったもの。高齢者は穏やかさに、若者はわくわくすることに幸福を感じるため、製品やサービスに求めるものは大きく異なると話す白石の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2669 「ラピダス」って知っていますか?

2024年11月17日 | 社会・経済

 半導体産業への支援について、政府が新しい国債を発行して資金を調達し、企業向けの補助金に使う計画であることが分かったと11月1日の朝日新聞が報じています。国から資金を調達するのは、最先端半導体の量産をめざす企業「ラピダス」など。複数年にわたってこれら企業を支援する体制を作るとされ、11月中にまとめる予定の総合経済対策で内容を示し、来年の通常国会で関連法案の提出をめざすということです。

 支援の原資としては臨時の「つなぎ国債」を発行し、国が保有しているNTT株の配当金などにより償還していく由。半導体産業への支援をめぐっては、政府はこれまでラピダスへの9200億円を含め計3.9兆円の支援を決めており、そのお金は目的が異なる三つの基金に積まれているとのことです。

 財政状況の厳しいこのご時世、国民の目も厳しい中、私企業への「4兆円」の税金の投入となるとかなり目立ってしまいます。特別会計にしたのは、基礎的財政収支の計算から外すことなども目的でしょうが、(それら)やり方の不自然さに何やらうさん臭さのようなものを感じるのは私だけではないようです。

 総合経済誌「東洋経済」(11月2日号『半導体ラピダス支援、あなたは4万円出しますか』)によれば、石破新政権の最初の仕事となる補正予算の編成に当たり、最大の焦点となるのは政府の半導体戦略、とりわけラピダスの支援に国民の理解が得られるかどうかだということです。

 最先端の2ナノメートル世代の半導体の国産化を目指すラピダス。100%の私企業でありながら民間の出資がわずかに73億円。対する国の支援は(決定ベースで)既に9200億円に上っており、実態は(官民連携とは名ばかりの)国丸抱えの国策会社だということです。

 記事によれば、そのラピダスが現在、民間企業からの資金調達に走り回っている由。当面の目標に掲げているのは総額1千億円の資本増強で、250億円を三菱UFJ銀行、三井住友銀行、みずほ銀行、日本政策投資銀行の4行で確保し、残りの750億円を事業会社から集める計画とのこと。得られた資金は、運転資金と2025年4月を予定する試作ラインなどの設備投資などに充てるということです。

 さて、これまで政府(岸田政権)が進めてきた経済安保の目玉であるこの「ラピダス」への投資が注目された際には、政府の半導体戦略が政権の足を大きく引っ張る大きな問題へと発展していく可能性も考える必要がありそうです。

 半導体が重要産業であり,巨額の資本が必要だということは理解できたとしても、国民1人当たりの負担が4万円と聞けば、誰だって「ちょっと待って!」と思うのは当然のこと。一般メディアが大きく取り上げてこなかった問題でもあり、「聞いてないよ…」との声が上がっても確かに仕方のない状況だと私も思います。

 報道によれば、ラピダスが目指す2027年の量産開始までに、概算で約5兆円の資金が必要とされているとのこと。政府は既に9200億円を支援しているので、残り約4兆円規模の資金の調達について、民間企業に対し国がその剛腕を振るっているのが現状なのでしょう。

 前述の東洋経済の記事によれば、メガバンクばかりでなく、NTTやトヨタなどの多くの大企業にも「奉加帳」が回ってきている由。いうまでもなく、民間の上場企業が国の圧力で無理やり資金協力させるということは、各社の株主に負担せよといっているようなもの。国民は税金に加え、投資先企業を通じて国策会社への協力を求められていると記事は指摘しています。

 多くの国民が知らされていない、政府による半導体企業への支援。国際競争にさらされている市場だけに、経済産業省主導で本当にうまくいくのかと不安に思う国民もきっと多いことでしょう。

 さて、そうした中、それほど国民に多くの負担を求めるなら、いっそラピダスの出資を広く国民に求めたらどうかと、同記事は最後に提案しています。リスクのある大きな事業に、広く出資者を募って事業を行うというのが株式会社制度の基本のはず。国や企業を間に挟むのではなく、出資した国民が株主として株主総会で経営陣の選任解任に関わり、必要があれば代表訴訟で責任追及するというのは理想的なのではないかというのが記事の指摘するところです。

 記事が言うように国民に出資を募った場合、本当にどれだけお金が集まるかはよくわかりませんが、自分が納めた税金を「そんなこと」に使わないでほしいと考える納税者も多いはず。私企業への投資に税金を充てるのがどれだけ乱暴な所業なのかを、政府はきちんと受け止める必要がありそうだと、記事を読んで私も改めて感じたところです。