MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2667 不倫騒動とキャンセルカルチャー

2024年11月13日 | 政治

 今や国会運営のキャスティングボードを握り、飛ぶ鳥を落とす勢いの国民民主党。その代表にして東大出の元財務官僚のインテリ、甘い風貌も人気だった玉木雄一郎氏に突然降りかかった若い女性との不倫騒ぎに、「よりによってなんでこんな時期に…」と驚いた人も多かったことでしょう。

 ニュースコメンテーターの玉川徹氏は11月12日のテレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」で、不倫相手の女性が現在勤めている「観光大使」を解任される可能性があると話し、「ぼくは不公平な感じがします」と感想を述べています。

 不倫を「おおむね事実」と認め謝罪したものの、自身の進退については党の判断にゆだねた玉木代表。一方、お相手の元グラドルに対しては、観光大使に起用した先の自治体が「事実関係を確認中」と話しており、公の立場を失う可能性が高いということです。

 玉川氏はこうした状況に対し、「(彼女が)本当に(立場を)失われるとなれば、それは社会が不倫は許さないということですよね。そこで(一方の)玉木氏が代表を続投するのは、同僚議員がいいって言ってるから続けるんだっていう話になるんですかね?なんか僕は不公平な感じがします」とコメントしています。

 また、11月12日の東スポWEBによれば、コメンテーターの三浦瑠麗氏は自身の「X」(旧ツイッター)でこの件(玉木代表の不倫騒動)に触れ、「人を外見や職種で判断するのは社会の常だが、人権は平等に守らなければならない」ことを確認したとツイートしているということです。

 確かに、本件に関する様々な報道を見ていても、「元グラドル」「39歳にしてミニスカートにタイトなTシャツ」などと、服装や容姿を年齢や経歴と絡めて揶揄しているものが数多く見受けられるところ。報道のされ方について、「フェアじゃないな」と感じたのは私だけではないようです。

 こうした状況に対し、三浦氏は同ツイートで「『地元のプリンス』と『グラドル』では後者を切り捨てるのがこの社会であり、結果的に女性は(浮気された妻の立場と既婚者と不倫した女性との利害が対立するゆえに)分断されていき、いざというときにたった一人になってしまい、誰からも守られない」と指摘。「昔なら、政治家と浮気したというだけで女性がこんなに礫を投げられるのは『正義』ではなかっただろうなあ。もちろん堂々とするのも間違っているが」と呟いているということです。

 さらに三浦氏は、「玉木雄一郎氏をクビにすることに情熱を燃やす人たち」にも注目。「戦前は姦通罪が夫に適用されず、道を外れた女が生きにくい社会だったから、今度は男も同じくらい生きにくい社会に全員のスタンダードを下げていこうということなのか。自分が個人的に生きづらくて苦しいから、みんな苦しくなれ的な世界観はまったくもって理解に苦しむ」と呟いている由。

 「不倫は許されない。みんな揃って地獄行きじゃ!」と、(メディアも含め)この機とばかりに「正義の味方」や「上級国民」を貶め、憂さ晴らしを仕掛ける人々が増えていることを嘆いているということです。

 一方、こうした状況に対し、また少し違った視点から述べられる意見もあるようです。11月13日の同サイト(東スポWEB)によれば、元国民民主党衆議院議員で弁護士の菅野志桜里氏は自身の「X」でこの話題に触れ、「政治家のプライベートを進退に直結させると、『そして誰もいなくなった』になってしまうから、政治改革のためにも、玉木さん辞任とならなくてよかったと思っています」とツイート。

 玉木氏が代表を辞任しなかったことについて、「政治家に限らず、私生活を理由に問答無用で職業人がキャリアを奪われるようなキャンセルカルチャーも、日本の活力をどんどん奪っていく」とプライベートのスキャンダル報道のありかたについて疑問を呈したとされています。

 そして、「男性より女性の方が割を食う」といった問題提起についても、『だから平等にどっちもキャンセル、どっちにも制裁』が最悪で、『基本、皆がキャンセルされず活用される社会』が建設的だと思う派です」と私見を述べたということです。

 さて、Wikipediaによれば「キャンセルカルチャー」とは、『容認されない言動を行った」とみなされた個人が「社会正義」を理由に法律に基づかない形で排斥・追放されたり解雇されたりする文化的現象』とのこと。(最近では「メシウマ」などという言葉もありますが)個人の倫理的に問題のある言動をもとに、法に基づかない「集団リンチ(私刑)」のように感情に任せて一方的に排斥する「文化」を指しているということです。

 翻って、たしかに配偶者の信頼を裏切る「不倫」は(男女にかかわらず)人として決して褒められたものではありませんが、少なくとも政治家としての適格性を判断するのは一人一人の有権者のはず。もちろん、政治家の「不倫」などの事実を報道することには価値があるとしても、問題なのは、その情報が(当該)政治家や芸能人の「人となり」を知る情報としての域を超えるようなものなのかどうか。

 ある意味当事者間の個人的な問題を、「社会正義に反する」とメディアやSNSを通じて強い言葉で発信することにどれだけの創造性があるのかについては、一人一人がしっかりと判断していく必要があるような気がするのですが、果たしていかがでしょうか。


#2540 「政治とカネの問題」再び

2024年02月08日 | 政治

 国会議員に採用された公設秘書のうち552人の雇用情報が国会のルールに違反し、公表されていなかったことがわかったと1月29日の毎日新聞が報じています。

 国会議員が公設秘書を雇う場合、秘書名や採用日、勤務地などを示す文書を国会に届け出ることが義務付けられているとのこと。一方、これを怠ったまま秘書を雇用している(雇用しているとして給与を受け取っている)議員は衆参両院で273人に上り、その中には岸田内閣の閣僚や野党代表も含まれているということです。

 公設秘書は衆参両院で約2000人いるとされいるが、(そのうちの)「4人に1人」の割合で存在そのものが公になっていなかったというこの話。衆参合わせて710人の国会議員の実に4割が勤務実態が分からない公設秘書を雇っていた計算になると聞けば、その杜撰さには驚かされるばかりです。

 自民党の派閥の政治資金パーティーをめぐる事件が正解を大きく揺るがしている昨今ですが、さらに、国民の税金を原資とする数十億円にも上るような公設秘書の人件費が、実体がよくわからないまま各議員に支給されていたとすれば、それはそれでかなりの問題と言えるでしょう。

 税金で給与を賄う公設秘書の存在そのものが開示されず、ブラックボックス化が横行している実態が明らかになったと、同紙は改めて指摘しています。雇用情報が分からない秘書を採用したされる国会議員の中には、閣僚や与野党の最高幹部を含む大物議員も名を連ねている。国会議員が自ら襟をただすことを誓った20年前の反省は、もはや影も形もないというのが記事の指摘するところです。

 国会議員が地方議員を公設秘書にしていたケースが与野党で相次いで判明し、問題視されたのは記憶に新しいところ。公設秘書の兼業自体は禁止されていないものの、「兼業できるような業務ではない」「国と地方の(給料の)二重取りではないか」といった批判も相次ぎ、野党からは「政党が自ら律するべき問題」との指摘もあるようです。

 折しも、1月26日に開会した第213回通常国会では、自民党の派閥の政治資金事件を受け、(開会早々から)衆議院予算委員会で「政治とカネ」をめぐる集中審議が行われています。一方、自民党が国会開会前にまとめた党改革の「中間とりまとめ」では、政治資金規正法の改正こそ課題に挙げられているものの、具体的な改正内容には一切触れられていないのが現実です。

 仮にも国会議員足るものが、テレビカメラを前に「知らなかった」「秘書に任せていた」といった情けない言い訳を吐くのは教育上もよろしくありません。

 野党は(集中審議において)自民党派閥の「裏金疑惑」の実態や、関係者の政治責任を明確にするよう求めている由。議員を確実に処罰対象にできるような「連座制」の導入や(実体のない)政策活動費の使途公開など、政治資金規正法の改正に向け議論を戦わせてほしいと願うところです。

 特に今年は、「平成の政治改革」から30年の節目にあたる年とのこと。税金を原資とする「政党交付金」の導入を決めた当時の原点に立ち返り、(今度こそ)時代に合ったしっかりした議論を行ってほしいと願ってやみません。


#2513 裏金問題は財務省の陰謀?

2023年12月16日 | 政治

 自民党安倍派(清和政策研究会)の政治資金パーティー裏金問題を巡り、同派所属の閣僚は12月14日、岸田文雄首相あてにそれぞれ辞表を提出しました。

 交代することになった4人の閣僚、政権の要を担う松野博一官房長官と西村康稔経済産業大臣、鈴木淳司総務大臣、宮下一郎農林水産大臣に加え、自民党の要職にある萩生田光一政調会長、高木毅国対委員長も近く退任する見込みと報じられています。

 安倍派は直近5年間で議員に還流した総額が約5億円に上る可能性が浮上しており、東京地検特捜部は近く政治資金規正法違反容疑で同派閥の強制捜査に乗り出すとされています。

 自民党所属議員の4分の1を超える100人規模を誇る安倍派が閣僚ゼロになるこの事態。さらに影響は安倍派を超えて広がる可能性も示唆されており、首相の求心力に影響するのは必至の状況です。

 政策のふらつきのもと、首相自身が「増税メガネ」などと揶揄される中、岸田政権の支持率の低下に追い打ちをかけるような今回の事態は何故このタイミングで表面化したのか。

 総合情報サイトJ-CASTニュースに、経済評論家で元内閣官房参与の高橋洋一氏が、「裏金問題で考える財務省の思惑と岸田政権の意思」と題する(ある意味大変興味深い)一文を寄せていたので、参考までに小欄にその視点を残しておきたいと思います。

 令和6年度予算編成を控え、大揺れの岸田政権。筆者は今回の政局を財務省発と考えていると、高橋氏はこの論考の冒頭に記しています。

 ちょっと穿った見方だが、岸田文雄首相は親戚縁者が財務省官僚も多いため、財務省にとっては身内の存在。しかし、2023年11月に取りまとめた経済対策で、岸田首相は少し自分を出してしまった。財務省関係者なら口に出してはいけない「減税」がそれだと高橋氏は言います。

 結果として、岸田首相の従兄弟で、元財務官僚の宮沢洋一自民党税調会長は、先の臨時国会では所得税減税を処理せずに来年度に回した。つまりこれは、(件の)所得税減税は来年通常国会で処理するということで、言ってしまえば「簡単にやらないぞ」という財務省の意思表示だというのが氏の見解です。

 11月2日の経済対策の閣議決定では、岸田首相は過年度の税収増3.5兆円を(減税で)「還元する」としていたが、11月8日の衆院財政金融委員会で鈴木俊一財務相は、増加した税収増はすでに使われていると岸田首相のハシゴを正面から外した。

 そして、財務省のこうした「倒閣」まがいのスタンスを見て、検察も自民党議員の裏金問題を表に出す決心をした。財務省(国税庁)と検察はともに国家権力を支える役所として交流が深いこともあり、今回の事案を(形式犯としての政治資金規正法違反だけでなく)税法違反(脱税)までもっていきたい検察は、財務省と水面下で手を握ったというのが高橋氏の見解です。

 財務省としては、岸田首相に「自我」を覚醒させ「減税」を吹き込んだ安倍派幹部をよく思っていない。「安倍晋三回顧録」では、財務省と故安倍晋三首相の暗闘が赤裸々に描かれているが、その流れを汲む安倍派を排除できるのであれば検察の動きを財務省も後押しするだろうということです。

 おそらく、今となっては岸田首相も、芽生えた「自我」を悔やんでおり、この際、検察や財務省の動きを利用し安倍派一掃に出たと見ていいだろうと、高橋氏は推測しています。

 岸田氏はもともと、安倍首相の暗殺後、安倍派を一掃しようと旧統一教会騒動を利用しようとしたフシもある。今度こそ、安倍派一掃で、自前の内閣を持ちたいというのは、政策より人事をやりたいという岸田首相の悲願かもしれないということです。

 傍から見ると、政権支持率などから見て墜落寸前の岸田政権。人事こそ命の岸田首相は、好きな人事を自由にできるので充実感があるのだろうと氏は言います。

 今回の内閣人事で財務省の思惑通りに安倍派を一掃し、財務省に恭順の意を表した岸田政権。しかし、この裏金問題はどこの派閥にも他党にもある。一部新聞は、安倍派では「裏金」、岸田派では「不記載」と表記を変え印象操作しているが、本質的には変わらないというのが高橋氏の認識です。

 政治的には、自民党主流派から安倍派を一掃すれば、次にあるのは安倍派からの報復か。安倍派は会長不在でまとまらないとも言われるが、これから先は仁義なき党内抗争になるかもしれないと高橋氏は話しています。

 いわば「犬猿の仲」とも言える安倍晋三元総理と財務省。陰謀論と言ってしまえばそれまでですが、このような(さもありそうな)話に興味をそそられるのは私だけではないでしょう。

 しかし、どちらが勝っても結局は井戸の中の話。国民そっちのけの争いの中で、自民党の支持率はさらに低下する可能性が高いと話す高橋氏の指摘を、私もさもありなんと受け止めたところです。

 


#2440 そこに「根拠」はあるんか?

2023年07月14日 | 政治

 最近、メディアなどでしばしば目にするようになった「EBPM(Evidence-Based Policy-Making」という言葉。直訳すれば「根拠に基づく政策形成」となり、ロジック(理論)とデータ(数値)に基づき、効果との因果関係が証明できる政策を優先的に実行するという政策決定手法を指しています。

 簡単に言ってしまえば、これまでの「なんとなく効果がありそうだ」と言うレベルの政策を排し、「所定の目的を達成するために効果的な政策」に切り替えていこうというもの。EBPMを重視した予算配分は、欧米を中心に世界の先進各国で取り入れられているということですが、日本ではまだ十分浸透しているとはいえません。

 ということは、(逆に言えば)日本の政策のかなりの部分がしっかりしたエビデンスを踏まえたものではないということになりますが、それもそのはず。コロナ禍をはさんで、選挙をにらんだ人気取りのためのバラマキや経済対策名目での業界支援などが目立つ昨今の状況を見れば、さもありなんと言ったところです。

 民主主義の名の下で、世論は時としてとても最適とはいえないような政策を支持し、一方の政治はそうした(虚ろな)民意をくみ上げようとする。結果として最適解とは程遠い政策が優先されるのはよくあることで、こうした国民の意識と最適政策の乖離を少しでも小さくする手段としてEBPMが存在するのでしょう。

 こうして期待されるEBPMに関し、5月30日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」が『根拠に基づく政策の立案を』と題する一文を掲載していたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 岸田政権の看板政策の一つ「異次元の少子化対策」は本当に「異次元」の効果を上げることができるのかと、筆者はこのコラムの冒頭で厳しく疑問を呈しています。

 今回の対策では、児童手当の拡充など多子加算の強化が検討されている。しかし、結婚や出産に至らない世帯が増えており、むしろ、そうした層への支援を拡充する方が効果を期待できるとの指摘もある。

 そもそも異次元の少子化対策というのなら、日本の少子化の要因分析や、これまでの少子化対策の効果を検証し、(それらを踏まえた)効果的な政策立案や目標設定、財源の調達が図られるべきだというのが筆者の見解です。

 しかし、今回の少子化対策では「児童手当の拡充」が先にありきの感が否めない。なぜ多子加算が他の施策と比較して効果が高いのか、そしてその効果はコストに見合うのかなどについても判断材料に乏しいということです。

 昨今の政府の政策立案に関し、統計やデータに基づいた要因分析や、様々な施策効果の比較衡量が十分に実施されていないと感じるのは、少子化対策に限ったことではないと筆者は言います。

 欧米では統計やデータに基づき、因果関係や政策効果などを検証しつつ政策を立案する「EBPM」の導入が進んでいる。これに対し、日本では往々にして、限られた事例や経験のみに基づく(エピソードベースの)政策が立案され、政策とその効果を結びつけるロジックも不明、政策のコストと効果の関係も明示されていないことが多いというのが筆者の認識です。

 国の施策は規模も期間も多様だが、少子化対策、教育や社会保障関連施策、あるいは生産性向上を目指す成長戦略などは、規模が大きくロジックも複雑で、効果が表れるまでに期間を要するもの。こうした政策は、その効果を逐次検証しながら、打ち手を改善し、思い切って軌道修正していくことも必要だと筆者は言います。

 (そうした中)政府は今年度から約5000の予算事業すべてについて、EBPMの手法を導入することとしている。事業内容をレビューすることで、限られた財政資源の有効活用と、時代の変化に機動的、柔軟に対応できる行政の実現を目指すということです。

 (「やってる感」を醸し出す)思いつきのような政策が次々と五月雨式に降りてきた官邸主導の安倍・菅政権を経て、霞が関にももう少し落ち着いた政策議論ができる環境も整いつつあるような気がします。

 社会保障費の増大などにより財源不足が叫ばれる中、ぜひともEBPMを各省の政策立案や検証のツールとして定着させ、予算要求の際にも活用してほしい。また、一連のプロセスを「見える化」することで、国民に対する説明責任も果たすべきだと話す筆者の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2235 求められる政策形成の正常化

2022年08月23日 | 政治

 安倍晋三元首相への銃撃と死亡という大きな事件の直後に行われた7月の参議院議員選挙。気が付けば(多少の混乱はあったものの)結果は与党の順調な勝利で終わり、何かとバタついてきた岸田文雄首相にも、(ようやく)落ち着いた政策運営の時間が訪れようとしているようです。

 思えば、「アベノミクス」や「一億総活躍社会」、「地方創生」など、まさに手を変え品を変え、次々と新しい政策を打ち出すことで(史上最長の)長期政権を維持してきたのが第二次安倍政権の特徴です。

 官邸主導のその政策運営は、大は「オリンピック・パラリンピックの誘致」から小は「アベノマスク」まで、(良くも悪くも)官邸官僚の思い付きとトップダウンによって、世論にアピールする目新しさを維持してきたといえるかもしれません。

 安倍・菅両政権の政策の流れを受け継ぐ形で発足した岸田政権ですが、「黄金の3年間」を迎えるにあたり、この先どのような姿勢で政権運営に臨むのか。

 そうした折、総合経済誌「週刊東洋経済」の7月30日号に、東京大学教授の牧原 出(まきはら・いずる)氏が「いびつな政策形成から今こそ脱却を」と題する論考を寄せていたので、参考までに紹介しておきたいと思います。

 ここまで安倍・菅義偉政権の政策を継承しつつ、名称を付け替え徐々に新しい政策を打ち出す手法を採ってきた岸田政権。例えば、「地方創生」が「デジタル田園都市構想」になり、デジタル化を大きな柱として地域振興事業を行うこととなっていると牧原氏は指摘しています。

 もちろん、このままでは(新政権として)「新味」を出せるとは言い難い。新味のある政策として華々しく打ち出された「新しい資本主義」も、気が付けば当初の分配優位のものではなくなっているということです。

 しかし、こうした(次の)目新しさを求める前にしばし考えてみるべきことがある。それは、そもそも官邸が、自ら新政策を打ち出す必要があるのかということだと、氏はこの論考に綴っています。果たして、本当に官邸が打ち出す政策のみが政権の政策なのか。

 新型コロナウイスる感染症対策を常に念頭に置きながら、他方でウクライナ危機の状況に応じ諸国と連携してロシアと対峙する。そうしたことが、これから先も長期にわたって官邸の最重要課題になり続けるだろう。

 加えて、米国やG7・中国・韓国・北朝鮮などとの外交案件や予算編成、そして国家安全保障戦略の改定といった、官邸でなければ携われない政策もある。こうなると、安倍・菅政権やそのれ以前のように、官邸が常に新しい政策を打ち出し、政治を牽引する余裕は実際上乏しいというのが牧原氏の指摘するところです。

 翻って、そもそも内閣とは、それぞれの大臣が各省の政策を担いつつ、合議によって政策の方向性を決める仕組みであるはず。だとすれば、各省(大臣)が新規の政策を打ち出し、それが政権の施策となっても何ら不思議はないと氏は言います。

 次々と訪れる「複合危機」に対応すべく、官邸が危機対応に注意力を割かねばならない以上、代わって長期的な政策形成を果たすべきなのは各省のはず。そこには、主務大臣の下に多くの政策要員が抱えられており、いざとなれば独自に専門家を集め、政策形成を進めることができる条件がそろっているということです。

 実際、自民党の55年体制下では、実効性の高い数々の政策が担当省庁で立案され、政権を(ある意味)地に足の着いた存在にしてきたと氏はこの論考に記しています。

 つまり、このような政権は、単に官邸が形ばかりの政策を打ち出すよりも足腰の強いものになりうるということ。そもそも、各省が一斉に新規の政策革新を進め、官邸が最終的な調整を行うという体制は、内閣制度が本来、理想とするものであり、盤石なのだというのが氏の見解です。

 では、なぜ安倍・菅政権はこうした方向性を嫌ったのか。それは、各省にイニシアチブをとられ、首相の意向が届かなくなる事態を警戒したからだと氏は説明しています。

 具体的には、第一に、民主党からの政権奪取を遂げた安倍政権では、三年余りも民主党の下にいた官僚への警戒感が根強かったこと。第二に、政権発足時には内閣人事局はなく、各省に対する官邸の党勢には限界があったこと。そのして第三に、発足時の安倍首相には第一次政権の失態のイメージが色濃く残り、そのリーダーシップに疑念があったことを、氏はこの論考で挙げています。

 そして何より、そうした傾向を顕著にさせたのは、首相や官房長官だけでなく、官邸に呼び寄せられた首相子飼いの官邸官僚の間に、(事務次官以下)各省本流に対するルサンチマンが、長らく漂っていたことだということです。

 こうして安倍・菅政権は、官邸によるいびつな政策形成を9年もの間続けてきた。それは(あくまで)政治主導の「王道」というよりは「覇道」であり、現在現れつつある経済政策の行き詰まりや、長期政権にもかかわらず乏しい内政での成果は、その当然の帰結だろうと氏はこの論考の最期に綴っています。

 今後の岸田政権の浮沈は、官邸の危機対応と並行した各省の能動的な政策革新に懸かっている。そして、そうした動きの中から、ポスト岸田の有力な候補者も生まれてくるだろうということです。

 政策形成の主力を(問題を最もよく知る)各省庁に戻し、できるだけ早く正常化すること。日本の活路を見出すためにも、省庁の官僚が持つ知見やノウハウ、そして何より人材を有効に使うことが求められているということでしょうか。

 一部の人間の思い付き(と忖度)で政策が決められる時代はもはや過去のもの。これから先、政府内の有意義な政策革新が政治の原動力となる時代が開けてくるのではないかとこの論考を結ぶ牧原氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。

 


#2234 対策は自治体に丸投げ

2022年08月22日 | 政治

 三権分立とは、言うまでもなく、国会、内閣、裁判所の三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことにより権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障するための仕組みです。

 日本国憲法第41条には「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」とあり、国民から選挙で選出された国家議員で構成される国会のみが立法権を有すると解釈されています。

 その「唯一」の意味は、①国会の立法は、原則すべて国会により行われること(国会中心立法の原則)と、②立法手続きに、国会以外の機関が参加することはできないこと(国会単独立法の原則)。つまり、国会議員によって発議・提出された法律案が国会において審議され、国会において可決されることで法律として施行されるというのが「本来の形」だということです。

 一方、例えば2013年から今年の6月までに整理つぃた906の法律のうち国会議員によって提案され成立した(議員立法による)法律は208本(23%)に過ぎず、その他全体の約4分の3の法律が政府(行政府)によるものであることはよく知られているところです。

 つまり、国民から選出された国会議員の仕事の多くが、「法律を作ること」ではなく、(言葉は悪いですが)政府の作った法案を認めるための手続きとして費やされているのが現状と言っても過言ではないでしょう。

 しかし、そうした中でも議員立法は、政府(行政府)が対応しきれないような新しい社会問題に光を当て、有権者に近い政治家の生の感覚を生かすことで、「国会=政治」の存在感を示す良い機会と受け止められているようです。

 近年では「自殺対策基本法」や「スポーツ基本法」「DV防止法」など、(各省庁の担当者からはなかなか出てこないような)国としての大きな方針や理念を法律がうたい、政府や自治体に対策を求める建付けのものが(議員立法により)数多く成立しています。

 こうした動き自体は歓迎すべきことだとは思いますが、一方で、このような議員立法が増えている現状に対しては、理念の実現可能性の観点から問題点を指摘する向きも多いようです。

 議員立法の多くは(提案議員の「思い」によって提案されるものが多いため)予算の裏付けがなく、「政策」としての実行力に乏しい。法律には問題解決に向けた方針が示されているものの、(結局)具体的な施策は省庁や自治体任せ。最終的な「落としどころ」として、それぞれの自治体に事業計画の策定を求め、省庁が認めれば「多少の補助金を出しましょう」というあたりに落ち着くことが多いように感じます。

 そうした中、若手国会議員らの活躍によって増加傾向にある議員立法の在り方について、全国知事会などが国会に対し「改善を求める要望」を行ったと、7月25日の共同通信が伝えています。

 議員立法には、(先にも述べたように)自治体に行政計画の作成を義務付ける内容が多い。そこで、政府はこの6月に「計画は原則増やさない」とする規制を決めたものの、この方針は(三権分立で)立法府には及ばない。このため、多くの自治体には「事務負担の増加が避けられない」との危機感が高まっていると記事は指摘しています。

 内閣府によると、自治体に計画策定の義務や努力義務などを課す法律・条項数は2020年12月時点で505条項に上り、10年前の約1.5倍に増えている。その内訳は、政府が提出した法律の条項数が385で、24%に当たる120は議員立法が規定するものだったということです。

 最近の例では、例えば「子ども読書活動推進計画」や「外国人の日本語習得を推進する基本方針」さらには「困窮女性への支援計画」など。自治体が個別に計画を策定することとされている法律は、今後も増える見通しだと記事はしています。

 さらに、こうした計画には「数値目標」や「実施事業」などを盛り込むのが一般的で、関連データの収集や審議会の運営なども必要となることから、職員が少ない小規模自治体の業務を大きく圧迫しているということです。

 今回の全国知事会の要望は、はこうした自治体の声を代弁し、国会と政府に対し計画策定を義務付ける新たな法令や通知を作らないよう求めるもの。議員立法による義務付けの抑制に向け、国会提出前に地方の意見を聞く機会を設けるよう求めているとされています。

 さて、基本的人権にかかわるような大きな内容から、細かくは子供の読書まで。法律で「あれをやれ」「これをやれ」と(大枠を)示すだけ示しておいて、具体的な施策や財源、人手は自治体に「丸投げ」では、都道府県や市町村もたまったものではないでしょう。

 「〇〇対策基本法」といえば見栄えは良いのですが、その実、内容はいわゆる「問題提起」や「宣言」に過ぎず、条文を読む限り、具体的な対策や財源は自治体に委ねる内容に過ぎないのはよくあることです。

 また、各地域ごとに(ある意味「付け焼刃」で)「計画」や「方針」を作ったからと言って、本当に問題解決に寄与できるかどうかは分かりません。

 「唯一の立法機関」である国会で国民の代表が審議するのであれば、自治体の「やったふり」や「議会対策」にならないよう、もっと丁寧で実効性のあるものにしてほしいと感じているのは私だけではないはずです。

 


#2010 これほどばかげた話はない

2021年11月07日 | 政治


 「政権選択選挙」として10月31日に投開票された第49回衆議院議員総選挙における国民の審判は、結果として与党自由民主党ばかりでなく、野党第一党の立憲民主党に対しても厳しい内容となりました。

 与野党がともに大胆な給付金支給や減税を公約に掲げる中(そして、その裏付けとなる財源論が置き去りにされる中)、最も議席数を伸ばしたのが「分配の前に成長戦略」を掲げた維新の会であったのは、皮肉と言えば皮肉な結果です。

 今回の総選挙における各党の選挙公約に関しては、「文芸春秋(11月号)」に掲載された財務省の矢野康治事務次官による「財務次官、モノ申す」と題する論文が波紋を広げました。

 国・地方の債務合計額が1166兆円に上り、国内総生産(GDP)の2.2倍という先進国の中でもずば抜けて大きな借金を抱えている日本の財政。それにもかかわらず、更に財政赤字を膨らませる「バラマキ合戦のような政策論」が行われていることに警鐘を鳴らす矢野次官の指摘に、国民がある種のシンパシーを覚えたとしても無理はないことでしょう。

 国民一律の給付金や消費税減税、所得税減税などが競うように語られた今回の選挙戦に関し、(投票日前の)10月27日の日本経済新聞(経済コラム「大機小機」)は「バラマキ合戦は国民に失礼」と題する論考を掲げています。

 矢野康治財務次官が文芸春秋に寄稿した論文に、留飲を下げた経済人や国民も多かったのではないか。後藤田正晴元官房長官の「五訓」にある「勇気を持って意見具申せよ」「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」に従ったものだとするこの行動。安倍・菅政権下で忖度官僚が跋扈し、国会での官僚の惨めな姿を見飽きた中、使命感に燃え個人的リスクを負っても国民へ事実に基づき意見具申する官僚がいることに心打たれるとこのコラムは指摘しています。

 論文掲載の前に、矢野次官は官邸や麻生太郎前財務大臣の内諾を得ていたとされている。鈴木俊一財務大臣の「今までの政府の方針に基本の部分で反するものではない」というコメントからも、国の台所事情を熟知する為政者たちは、我が国のGDPに占める一般政府債務残高が第2次大戦直後を超えて過去最悪であり、他のどの先進国より劣悪であることを憂慮していることが窺えるということです。

 矢野氏の主張に関しては、経済界からも賛同する声が出ています。経済同友会の桜田謙悟代表幹事は10月12日の記者会見で、「(寄稿で)書かれていることは100%賛成だ」と述べたことには、当の矢野氏も勇気づけられたことでしょう。

 一方、同じ寄稿をめぐって、自民党の高市早苗政調会長らは「大変失礼な言い方」だとして不快感を示しました。基礎的な財政収支にこだわって、今本当に困っている方を助けない。これほどバカげた話はない」というのが高市氏の主張するところです。

 もとより、矢野論文は政策的な支出自体を「駄目だ」と言っているわけではありません。しかし、財源論の議論不足を様々な角度から厳しく指摘する氏の論調が、(「官僚ごときが何を言うか」と)お気に召さなかったのかもしれません。

 実際、現在の日本には、新型コロナウイルス対策に加え医療・年金・貧困・科学技術・エネルギー・防衛その他、政治課題が山積しているとコラムも指摘しています。

 既に財政措置が終わったもの、民間主導で行うべきもの、まだ使われていない予算の繰り越し分などに(少なくとも)新たな予算をつけていく必要はない。巨額のファンド設立はクールジャパン機構や産業革新投資機構など官民ファンドの失敗の再現にならぬよう、予算規模でなく内容の吟味が求められるというのが筆者の見解です。

 矢野論文には「本当に困っている方が一部いるのは確かで、その方たちには適切な手当が必要」「国民は本当にバラマキを求めているのか。日本人は決してそんなに愚かではない」とある。全くその通りで、バラマキをすれば国民から投票してもらえるなどと考える政治家は、「国民に対して大変失礼」であると筆者はこのコラムを結んでいます。

 さて、今、財源論が何故大切なのか。このまま国の借金が増え続ければどういうようになるかを知るには、ほんの少しの想像力があれば事足ります。

 現在の日本政府は(世界でも類を見ない)1000兆円を超える多額の国債を発行しています。現時点では金利がゼロに近いため、毎年の利払いは9兆円程度で済んでいますが、仮に金利が少しだけ上がって3%まで上昇すると、最終的に政府の利払い費が(理論上)30兆円程度まで膨らむことは中学生でも計算できます。

 日本ではこの10年以上、(政策的なマイナス金利も含め)異常とまでいえる低金利が続いてきましたが、こうした状態がこれから先も(未来永劫)続いていくと考える経済学者はほとんどいないはず。コロナ禍からの出口政策としての金利上昇の動きはすでにアメリカで始まっており、恐らく近い将来、日本にも影響が及んでくると考える識者は多いはずです。

 2021年度の日本の国家予算(一般会計:当初)の歳出額106.6兆円で、その財源となる税収は約60兆円に過ぎません。その半分が国債の利払いで失われるとしたら、以降、いくら「本当に困っている人」が出てきても、政治が手を差し伸べられなくなるのは自明です。

 そうなってしまってからでは遅すぎる。「これほどばかげた話はない」とはまさにこうした状況を指すのでしょう。

 選挙も終わり、コロナも何とか静かになって、世の中もいよいよ「岸田政権のお手並み拝見」という状況を迎えています。これから霞が関も予算編成の時期を迎えますが、選挙公約にかかわらずぜひ慎重な財源議論をお願いしたいと、改めて感じるところです。

#2009 政治に民意が反映されない(と感じる)のはなぜか?

2021年11月06日 | 政治


 自民党総裁選に勝利した岸田文雄氏が10月4日、国会で第100代首相に指名され、岸田内閣が発足しました。

 岸田総理大臣と20人の閣僚の平均年齢は61.81歳で、去年9月に菅内閣が発足した際の60.38歳より、1.43歳、高くなりました。最高齢は金子原二郎氏と二之湯智氏で77歳、最年少は牧島かれん氏で44歳と、「老壮青」のバランスを重視したのが特徴だと言われています。

 岸田内閣の閣僚を年代別に見ると、70代が2人、60代が12人、50代が5人、40代が2人で、うち初入閣が13人。安倍内閣で初入閣が最も多かった一昨年安倍改造内閣と並ぶ規模となり、そういう意味では自民党にも世代交代の波が訪れていると言えるかもしれません。 10月31日に投開票された第49回衆議院議員総選挙は、結果として自由民主党にはやや厳しいものとなりましたが、個別に見れば今回も97名の初当選議員が生まれています。

 政治と権力闘争はカードの表裏のようなもの。議員になったらなったで「雑巾がけ」もいとわず期数を重ね、より将来につながるポストの獲得に彼らも汗水流さなければなりません。多くの貸し借りを作りながら大臣を目指し、さらに総理大臣を目指す新たな戦いが始まったということでしょう。

 議員の序列には、年齢は無関係。当選回数だけがものをいう世界だというのは広く知られたところです。同じ当選回数の議員は「同期」と呼ばれ、同期の中でいかに早く出世するかが将来の明暗を分けることになる。一方、地盤・看板・かばんの三バンを備えた二世・三世議員はこうしたせめぎ合いにおいても発射台が高く、政務官→副大臣→大臣と、優先的に道が開ける場合などがあるようです。

 政治の世界を(少しでも)覗いたことのある人にとっては半ば当たり前のように見えるこうした状況について、在ワシントンのジャーナリスト冷泉彰彦氏が10月27日のニュースサイト「Newsweek日本版」に、「衆院選、民意の敵は党議拘束と当選回数」と題する興味深い論考を寄せているのでここで紹介しておきたいと思います。

 議会など廃止すべきで、ネットを利用した直接民主制が理想だなどという言論が流行した時代があった。確かに近年のデジタル技術の発達はガバナンス手法も可能にしたが、その一方で(その時々の)「民意」を唯一の拠り所とする直接民主制は、極端な減税とバラマキの双方を可決して国家を破綻に追い込み、最後にはポピュリズムが暴走して外部に敵を求めて戦争に訴え、本当に国を滅ぼす危険が予想されるなど、機能不全の問題を抱えていると冷泉氏はこの論考に綴っています。

 そんなわけで、民意と政策の間に代議員をはさむ間接民主制が「当面はベスト」という理解は揺らいでおらず、今回の衆院選もその間接民主制という思想のもとに行われている。しかし、有権者の間には、代議員、つまり国会議員を通じて民意が政策に反映されているという実感は弱いのではないかというのが氏の指摘するところです。

 それは何故か。具体的に言えば、例えば特定の小選挙区において、ある候補者がその選挙区の民意を受けて独自の政策を訴え、その選挙区の民意を代表して国会に登院したからといって、その政策を実現することはまず不可能だというのが氏の認識です。

 どうしてかというと、各政党には党議拘束というのがあって、法案の採決の際には党の決定に従わなくてはならないから。党の決定、つまり党議に違反すると懲罰を受けることになり、反対票などを入れたら除名にさえなりかねない。選挙区に強い反対論があるなどの理由でどうしても反対したい場合でも、せいぜい投票を欠席したり、棄権したりして処分を軽くしてもらうくらいしか方法はないということです。

 では、その党議というのは、どうやって決定するのか。党がまとまって行動する際の党議は、党内の序列によって権力を得た集団が決定すると冷泉氏は説明しています。そして、その党内の序列は、例外はあるものの(多くの場合)当選回数によって決まってくる。それは与党自民党だけの問題ではなく、日本の場合は少数政党でもこうした形での党議拘束は非常に強くなっているということです。

 候補者は、選挙運動の際にはそれなりに自分の言葉で、選挙区にアピールする発言を行い、その選挙区の民意を代表して国会に行くようなことを口にする。ところが一旦当選して議員バッジを身に着けると、選挙区の民意はどこかへ消えて「単なる一票」というモノになってしまうと氏は言います。

 部会とか研究会とか派閥の会合など、それなりに(若手議員にも)発言や意見交換の場はあるとしても、それは基本的に密室のコミュニケーションであり、基本的には当選回数の多い高齢議員がその発言力を行使しているに過ぎない。若者や女性など少数者の民意がほとんど国会に届くことがないのはそのためだということです。

 言うまでもなくこのシステムは、その選挙区で、その議員を選んだ有権者の民意を全くリスペクトしていない。党議拘束と当選回数の序列がある限り、選挙区の民意はダイレクトに国会に反映されないというのが冷泉氏の見解です。

 例えば、アメリカの場合、当選2回で弱冠31歳のアレクサンドリア・オカシオコルテス議員が下院民主党左派の実質リーダー格として国政に大きな影響力を行使していると氏は言います。これなどは、(巨大なミレニアル世代に支えられている部分が大きいとしても)党議拘束と当選回数序列がないという制度を前提としての現象だということです。

 もとより、議院内閣制を採る日本の場合、大統領と議会が分離しているアメリカと同じ土俵で議論するわけにはいかないという意見はあるだろう。総理大臣指名選挙や予算や重要な条約の批准などには強めの拘束もしかるべきだとは思うと氏はしています。しかし、それ以外の法案に関しては、法案の性格によって党議拘束に強弱をつけるべきではないか。また、党議そのものの決定も(重要法案については特にそうだが)、密室でなく党内での投票を行うとか、党内の少数意見を公開した上で決定プロセスを可視化して有権者の納得感を高めるなどの工夫が必要ではないかと言うのが氏の見解です。

 議員の意思を縛る党議拘束が乱用されている限り、日本の代表制民主主義は本来の機能を発揮することができない。党議拘束と当選回数による序列というガバナンスの手法は、各政党が自己改革をすれば実現できる問題であり、今回の選挙を機会に、この問題への関心が高まることを期待したいと話すこの論考における冷泉氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。

#2007 選挙に行くことの意味

2021年11月03日 | 政治


 10月31日に投開票された第49回衆議院議員総選挙の投票率は、速報値で55.93%。4年間に行われた前回(平成29年)衆院選の最終投票率は戦後2番目に低い53.68%だったので、それよりも2ポイントほど上回る結果となったようです。

 今回の選挙に当たり総務省では、若者に人気のアイドルや芸能人などを起用して、投票率上場に向けた様々なキャンペーンを行ってきました。そうした効果もあってか、投票率の低下が懸念された今回の総選挙では、長年下落傾向にあった国政選挙における投票率に、なんとか歯止めがかかった形です。

 しかし、「よかった、よかった」と喜んでばかりもいられません。菅首相の突然の退陣表明とそれに続く自民党総裁選。コロナ禍で政治のありかたに関心が集まる中、メディアでは幾度となく特集を組み、雰囲気は上々と感じていました。しかしそれでも、有権者の約半分しか投票行動に移していないという日本の社会の現実を、私たちはどう捉えるべきなのか。

 こうした現実に対し、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が10月21日の自身のブログ(「橘玲の日々刻々」)に『「政治的無知」が大多数の現実と民主制(民主主義)が抱える問題点』と題する興味深い論考を掲載しています。

 そもそも、現代の(「先進国」と呼ばれるような)民主主義国家における有権者の実態はどのようなものなのか?…実は、こうした問いに関する調査はアメリカではかなり詳細に行われていると橘氏は言います。

 それによると、平均的なアメリカ人は大統領が誰かは知っているが、それ以外の知識はきわめて心もとないもの。オバマ政権発足後の重要な政治イベントである2010年の中間選挙では最大の争点は経済だったが、有権者の3分の2は前年に経済が成長したのか縮小したのか知らなかった。しかもその選挙が終わった後、アメリカ人の過半数は、共和党が下院を支配したが上院は支配しなかったことを知らなかったということです。

 一方、だからといって、「アメリカ人はバカだなあ」と笑っているわけにはいきません。2014年の国際調査では、平均的な日本の回答者は失業率を大幅に過大評価し、殺人件数が減少ではなく増加していると誤解し、移民の割合を実際より5倍も多いと信じていた。さらに、日本人の約3分の2は政府の14の省庁の名前を半分もあげられず、大半は自分の選挙区の国会議員立候補者についてほとんど知識をもっていないと氏は指摘しています。

 今回の衆院選は「安倍・菅政治の総括」がテーマ(のひとつ)となったが、「アベノミクスの3本の矢は何か」と訊かれて、「金融緩和(デフレ脱却)、財政政策(経済対策)、規制緩和(成長戦略)」と答えられる人がどのくらいいるだろうか。それ以外でもTPP(環太平洋パートナーシップ)協定や働き方改革、普天間基地移設問題、スパイ防止法案、安保法制などが大きな政治的争点になったが、例え概要でも説明できる人は相当の政治ウオッチャーではないかというのが氏の認識です。

 橘氏はこうした状況を、民衆が(かように)政治に関心がないことの証左だと捉えています。それは今に始まったことではなく、プラトンは「民主政は無知な大衆の意見に基づいていて、哲学者やその他の専門家のよりよい知識に基づく勧告を無視するから欠陥がある」と述べている。アリストテレスは、「女性や奴隷や肉体労働者や、その他にも徳と政治的知識を十分なレベルまで得る能力がないと彼がみなした人々を政治への参加から排除すべきだ」と主張していたということです。

 また、20世紀に入り近代民主性が広く定着するようになってからも、レーニンは「労働者が自分たち自身で社会主義革命を起こす十分な政治的知識を開発させるとは期待できない」として、「共産主義への移行のためには、労働者自身よりも労働者階級の政治的利益を理解しているメンバーからなる「前衛」政党による強力な指導が必要だ」と論じていた。ヒトラーは、「有権者は愚かでたやすく操作でき、この問題は遠くを見通せる指導者が率いる独裁によってしか解決できない」として、『我が闘争』で「大衆が知識を受け入れる能力はごく限られており、彼らの知性は小さいが、彼らの忘却力は巨大である」と書いたと氏は話しています。

 実際、民衆にとって最も合理的なのは、政治的知識を獲得するための努力をほとんどせずに、適当に投票して安心することだというのがこの論考における橘氏の認識です。

 誰もが気づいているように、国政選挙では1票の価値はほぼゼロに等しい。アメリカ大統領選の場合、自分の1票が当落に影響を及ぼす確率は小さな州では1000万分の1、カリフォルニアのような大きな州では10億分の1で、平均すると6000万分の1とされる。日本は議院内閣制で計算はより複雑だが、自分の1票で当選した候補者の政党が(連立を含めて)政権をとる確率は、せいぜい数百万分の1だろうと氏は言います。

 経済学が言うように人間が経済合理性に基づき行動するのなら、なんの価値もないことにコストをかけるわけがないから、そもそも投票所に行くはずがない。だが実際には、日本の場合1990年までは国政選挙の投票率は7割程度を維持していて、それ以降はかなり下がったものの、今回の選挙でも有権者の半分は投票に行っている。そう考えればその動機は、「選挙に行った→政治に参加している」という安心感と体面を保つためと考えれば、問題なく説明がつくということです。

 とは言え、大衆による選挙の成果として、有権者が投票所に足を運ぶことでその目的は十分発揮されると考える向きもあるようです。選挙と言うマーケットにおいて競争にさらされることで、候補者は切磋琢磨し政策は磨かれる。政策形成過程はオープンになり、定期的な選挙は情実や不正の防止にもつながるということです。

 実際、この問題は多くの知識人が気づいていて、経済学者のヨゼフ・シュンペーターは、「市民は現在公職についている人々の業績を評価して、パフォーマンスが悪い人々を投票によって排除することができれば(それで)十分だ」と述べていると橘氏はこの論考に綴っています。

 これが選挙の「回顧的投票(業績評価)」と呼ばれる機能であり、有権者がパフォーマンスの低い為政者を見分けることができれば多数決的な政府の支配が十分達成できるとするという、近代間接民主主義を支えるひとつの考え方。回顧的投票のためには、「現在その職にある人のパフォーマンスがよいか悪いかを確定するために、市民たちは自分たち自身の福利の変化さえ計算できればこと足りる」とされているということです。

 そう考えれば、候補者のことがよくわからなくても「とりあえず選挙に行く」というのは、案外重要なことなのかもしれません。話を聞いていてなんとなく納得できない。人柄や考え方がなんとなく気に入らない…訴える政策の中身は理解していなくても、そうした市井の人々が持つ漠然とした感覚が実は大切なのではないかと、橘氏の論考から私も改めて感じたところです。