今や国会運営のキャスティングボードを握り、飛ぶ鳥を落とす勢いの国民民主党。その代表にして東大出の元財務官僚のインテリ、甘い風貌も人気だった玉木雄一郎氏に突然降りかかった若い女性との不倫騒ぎに、「よりによってなんでこんな時期に…」と驚いた人も多かったことでしょう。
ニュースコメンテーターの玉川徹氏は11月12日のテレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」で、不倫相手の女性が現在勤めている「観光大使」を解任される可能性があると話し、「ぼくは不公平な感じがします」と感想を述べています。
不倫を「おおむね事実」と認め謝罪したものの、自身の進退については党の判断にゆだねた玉木代表。一方、お相手の元グラドルに対しては、観光大使に起用した先の自治体が「事実関係を確認中」と話しており、公の立場を失う可能性が高いということです。
玉川氏はこうした状況に対し、「(彼女が)本当に(立場を)失われるとなれば、それは社会が不倫は許さないということですよね。そこで(一方の)玉木氏が代表を続投するのは、同僚議員がいいって言ってるから続けるんだっていう話になるんですかね?なんか僕は不公平な感じがします」とコメントしています。
また、11月12日の東スポWEBによれば、コメンテーターの三浦瑠麗氏は自身の「X」(旧ツイッター)でこの件(玉木代表の不倫騒動)に触れ、「人を外見や職種で判断するのは社会の常だが、人権は平等に守らなければならない」ことを確認したとツイートしているということです。
確かに、本件に関する様々な報道を見ていても、「元グラドル」「39歳にしてミニスカートにタイトなTシャツ」などと、服装や容姿を年齢や経歴と絡めて揶揄しているものが数多く見受けられるところ。報道のされ方について、「フェアじゃないな」と感じたのは私だけではないようです。
こうした状況に対し、三浦氏は同ツイートで「『地元のプリンス』と『グラドル』では後者を切り捨てるのがこの社会であり、結果的に女性は(浮気された妻の立場と既婚者と不倫した女性との利害が対立するゆえに)分断されていき、いざというときにたった一人になってしまい、誰からも守られない」と指摘。「昔なら、政治家と浮気したというだけで女性がこんなに礫を投げられるのは『正義』ではなかっただろうなあ。もちろん堂々とするのも間違っているが」と呟いているということです。
さらに三浦氏は、「玉木雄一郎氏をクビにすることに情熱を燃やす人たち」にも注目。「戦前は姦通罪が夫に適用されず、道を外れた女が生きにくい社会だったから、今度は男も同じくらい生きにくい社会に全員のスタンダードを下げていこうということなのか。自分が個人的に生きづらくて苦しいから、みんな苦しくなれ的な世界観はまったくもって理解に苦しむ」と呟いている由。
「不倫は許されない。みんな揃って地獄行きじゃ!」と、(メディアも含め)この機とばかりに「正義の味方」や「上級国民」を貶め、憂さ晴らしを仕掛ける人々が増えていることを嘆いているということです。
一方、こうした状況に対し、また少し違った視点から述べられる意見もあるようです。11月13日の同サイト(東スポWEB)によれば、元国民民主党衆議院議員で弁護士の菅野志桜里氏は自身の「X」でこの話題に触れ、「政治家のプライベートを進退に直結させると、『そして誰もいなくなった』になってしまうから、政治改革のためにも、玉木さん辞任とならなくてよかったと思っています」とツイート。
玉木氏が代表を辞任しなかったことについて、「政治家に限らず、私生活を理由に問答無用で職業人がキャリアを奪われるようなキャンセルカルチャーも、日本の活力をどんどん奪っていく」とプライベートのスキャンダル報道のありかたについて疑問を呈したとされています。
そして、「男性より女性の方が割を食う」といった問題提起についても、『だから平等にどっちもキャンセル、どっちにも制裁』が最悪で、『基本、皆がキャンセルされず活用される社会』が建設的だと思う派です」と私見を述べたということです。
さて、Wikipediaによれば「キャンセルカルチャー」とは、『容認されない言動を行った」とみなされた個人が「社会正義」を理由に法律に基づかない形で排斥・追放されたり解雇されたりする文化的現象』とのこと。(最近では「メシウマ」などという言葉もありますが)個人の倫理的に問題のある言動をもとに、法に基づかない「集団リンチ(私刑)」のように感情に任せて一方的に排斥する「文化」を指しているということです。
翻って、たしかに配偶者の信頼を裏切る「不倫」は(男女にかかわらず)人として決して褒められたものではありませんが、少なくとも政治家としての適格性を判断するのは一人一人の有権者のはず。もちろん、政治家の「不倫」などの事実を報道することには価値があるとしても、問題なのは、その情報が(当該)政治家や芸能人の「人となり」を知る情報としての域を超えるようなものなのかどうか。
ある意味当事者間の個人的な問題を、「社会正義に反する」とメディアやSNSを通じて強い言葉で発信することにどれだけの創造性があるのかについては、一人一人がしっかりと判断していく必要があるような気がするのですが、果たしていかがでしょうか。