ももたろうパートナーズ 2006

視覚障がいのある方といっしょに走るジョギングクラブ・ももたろうパートナーズ 

広島~長崎ピースラン 6日後半です。

2022-08-07 06:57:59 | 広島ー長崎リレーマラソン2021.22.23.24

太陽が現れてきました。

日差しが強くなってきました。

弥生式高床倉庫前を通過しています。

後ろに旧偕行社が見えます。

朝ドラ「カムカムエブリバディ」の舞台になりました。

「スポーツの森」の周回道路を回っています。

昭和の岡山国体開催前に整備されました。

森の向こうにはスタジアムがあります。

キッズ・サッカー教室を開いています。

背景はスポーツの塔と野球場です。

左手に池があります。カワセミが飛んでいました。

周回を重ねて持久戦になってきました。

 

暑いです。

さすがの体力です。

休憩と水分補給が欠かせません。

終盤です。

いよいよラストスパート。3時間走りました。

3時間走り切りました。

後片づけです。

実行委員の方を中心に手際よく進みます。

お疲れ様でした。

最後に、朝の黙とう前の「お話」の全文を掲載しておきます。

 

いまから77年前の今日8月6日午前8時15分に原爆が広島に投下されました。
原爆死没者名簿(令和3年)によりますと、
広島原爆では32万9千人。長崎原爆で18万9千人、合計51万8千人の方々が死没されました。
現在、生存する被爆者の方は12万7千人です。
広島市は4万2千人、長崎市は2万4千人です。
岡山県でも1102名の被爆者の方がおられます。
毎年全国で約1万人の方が亡くなっています。
平均年齢は84歳です。
被爆当時、5〜10歳だった方が中心になっています。
被爆を体験した方のお話を直接聞くことができにくくなって来ました。

誰が語り継ぐのかが課題となっています。
先日、岡山では山陽学園の中高等生がオルガホールで戦争体験の発表会を行いました。
一人の女学生による曾祖父の「氷点下20度のシベリア抑留体験」のお話です。ひい爺さんが戦争体験者ということです。77年前は遥か昔になっていますね。
紙芝居は「フジ子ちゃんと原爆〜ひとりの卒業生もださなかった学校で〜」です。男女の学生さんが順番に話しました。
倉敷で育ったフジ子ちゃんは広島に新しくできた広島電鉄家政女学校(1943年~45年)に進学しました。(男性が戦争に行ったため女性運転士を育成するための学校)
そして原爆の日を迎えます。被ばくしながらもなんとか倉敷に帰ったフジ子さんは悲惨な体験を語り続けていましたが、高齢になってしまい引き継ぐかたちで中高生が紙芝居として発表したものです。語り部の継承として大切なことだと思います。

岡山空襲について。
1945年6月29日未明の大空襲です。
前日の午後7時15分にテニアン島を出発したB29138機が岡山市の市街地を波状攻撃をしました。1時間30分にわたる空襲でした。
テニアン島はどこにあるのでしょう。グアム島、サイパン島の隣です。
今ならジェット機で3時間ですが、
巡航速度450kmのB29では7時間かかっています。
グアム島、サイパン島にも空港がありました。
いっときに500機のB29を飛ばすことができる能力がありました。大阪や名古屋には500機が襲来しています。
大都市と中小都市では規模を変えています。
B29が開発された時にはドイツ爆撃はほぼ終了していました。後は日本だけです。
日本の家屋向けに開発された爆弾が使用されました。
使われたのは3種類の焼夷弾です。焼夷爆弾、焼夷弾、集束焼夷弾です。
約900トンでした。油が飛び散り人や家屋を焼き尽くす化学兵器です。
現在使用禁止になっています。
ウクライナでロシア軍が使用したと言われているクラスター爆弾や、ベトナム戦争で使われたナパーム弾の元になっています。
このような爆弾を抱えたB29138機が1時間半に渡って岡山市を襲いました。高度は1500m程度と超低空です。
日本軍には迎え撃つ高射砲も飛行機ももうありませんでした。
無差別攻撃ですが、米軍兵士50万人を守るための攻撃だと言われていました。原爆の投下理由と同じです。

岡山市への侵入コースは、東山方面~中心部(クレド目標)~半田山(笹が瀬)です。今の津島小学校上空を目指していました。
南東から北西に抜けていきました。
この上空を空を覆うようにして通過していったはずです。
近くでは清心町、奉還町、駅前、西川、柳川、表町商店街、城下、東山がコースになります。

昨年秋から今年春に掛けて放送された朝ドラ「カムカムエブリバディ」でアニー安子さんが偕行社から走って逃げに逃げたコースは、まさにこの空襲のコースでした。最後にたどり着いたのが東山の護国神社という設定だと思います。6〜7kmあります。
すごいランだと評判になりました。
和菓子屋「たちばな」は表町商店街にあったと設定されていました。
戦後77年、私たちに戦争の悲惨さを思い起こさせるドラマでした。

しかしそのカムカムが放送中にウクライナで戦争が始まってしまいました。21世紀になっても戦争は過去のものになっていません。
多くの方が今もウクライナで亡くなっています。
核の脅威も現実のものとなってしまいました。
少しでもなにかできることはないかと思う日々です。
今日の「広島―長崎ピースラン」の活動を一人でも多くの方に伝えらえればと思います。

「カムカムエブリバディ」のラストシーンは2025年でした。
コロナも終わり戦争のない2025年でした。
現実でもそうであってほしいと切に願います。

お聞きいただきありがとうございました。

 

およみただきありがとうございました。

💛ウクライナに平和💛