五高同窓会会報十一号は昭和十二年に開校五十周年記念祭を迎えるに当ってか?原稿の収集が儘ならなかったのか?それとも義理で発行されたのか?今まで冊子として発行されていた会報がこの号に限って全紙二枚である。この十一号が発行されて既に七十年以上を経過しているので、残っている会報十一号は折りたたまれた部分は既に分離して解読することが困難である。出来る限り必要な部分は転写したが。・・・夏目漱石の家に居候していた湯浅廉孫(明治三十三年文卒)の「先生としての漱石」は漱石を知る上では面白い読み物がある。以下同窓会報十一号より転載する。
先生としての漱石
漱石は吾輩の先生であると同時に、大なる漂母の恩人であった。先生逝かれて方二十年、先生のロンドンより奥様への書簡に、何時も吾輩と並べ称せられ、来たら焼き芋でも食わしてやれ、と言外に情味達振りの御言葉を頂戴した俣野大観も脳溢血に倒れ、今頃は彼土で寝そべりながら先生の御話を承って居る事だろうと思えば往って見たくもあるが、死にたくもなしで、実に懐旧の情に堪えない。学校での先生は理智一遍の人に見えた。悪くいえば言葉遣いの上では冷酷の点もあったろうが、それと共に先生には同情もしないに同情しますとか気の毒に感じないのに気の毒がって見せたりする芸当は出来なかったのである。文芸にしろ、芸術にしろ、芸者にしろ、いやしくも芸の字がつくものが大嫌いであった。当年の吾輩には先生のこの無芸が大好きであった。しかし、これが為生徒の一部には、先生を以て理智一遍の人である。狭量にして人を包容することの出来ない人であると、思っていた者が多かったようであるが、社会人としての先生は知らぬが、教師としての先生は決してそんな人ではなかった。
一体剣道でも柔道でも然るが如く学問上でも、教師は一個の稽古代であるから、進度を緩めようが自分に当たるのを後ろさうとか時間潰しの愚問は固より慎むべきであるが、分からぬことは、問うて問うて問いましてよろしい、幼稚園ならいざ知らず高等学校や専門学校でノラリクラリと生徒の機嫌取るような、生徒に気兼ねするような教授の仕事振りは、教育学上善いか知らないが吾輩は大嫌いである。中にはこの気構えがないのみか、教場で生徒の及第を言い利目もないコワガラセ見せて、以て自ら衛る教師もあった。
これが生徒側から見た当時の状態であったが、このうちにあって先生の態度は実に痛快であった。男の中の男であった。狭量とか冷酷とか、生徒の一部で先生を評する者もあったのは恐らくこの態度を誤解したのであろう。彼ら生徒にして、親しく校門外における先生に接していたらんにはこの誤解は起こらなかったであろう教師と生徒の接触を繁くすることは、実に教育上の要件である.尤も接触するがために教師の欠点が暴露するものは別であるが、先生の如きはその然らざる者の適例であろう、思えば先生を忍びたい物は山ほどあるが、余り長きはお互いに迷惑であるので、五高時代の一個半個を書いて当年を忍びたい。
当時吾輩同志の間に同明会という会が作られ、一から五まである高等学校で同志が結合してそれが大学で一緒になるという、学生には珍しい大規模の者であったが,或土曜日の夜、その会を校後の龍田山で開いた。例の赤酒で、例の通り宜しくあって甲斐は閉じられたが空腹でたまらない。先生ならまだ起きておられるだろう、よし襲え、と大江の宅をたたくと先生は果たして起きておられた。来意を通じて有難く頂戴したが、まあ話して行けといわるるままに腰を据えつけた。
これより先、吾輩は中沼先生の宅で、浅見絅斎先生の大名非諸侯弁を読んで、その見識の正大とその識見を守り通された先生の高風清節とに、すっかり参っていた時であったから、どんな経緯で言い出したのか、全く覚えていないが絅斎先生を笠に、徳川三百年の学者を罵倒し余焔ひいて現代に及び、更に先生も学者だから、と例の怖い物知らずで八つ当たり最後に紙と筆とを請い受け陶淵明の乞食の詩を書いて辞退したことであった、翌日学校で先生に逢うと、吾輩より昨夜のお礼を言い後れたその間に、先生から湯浅君、昨夜は有難うと言われて冷汗三斗であった。先生の宅に居候になったのはこの後のことである。この前後狩野先生宅には吉丸一昌君が居った。居候になってからその暮の休みに留守を預かったことがあった。御出立に際し先生の曰く、君の友人が来たら引き上げて飲ましてもよいが書斎だけには侵入しないで置いてくれこのことを吾輩の口から吹聴したかしなかったか、覚えがないがいわゆる友人なる者の大入り満員で冬休みが愉快に過ごされた。今更の事でもないが先生は実に痛快で思い遣りのある人であった。生徒としての吾輩には気六ヶ数人とは思えなかった。
(同窓会報十一号より転載 湯浅廉孫 明治三十三年文卒)
先生としての漱石
漱石は吾輩の先生であると同時に、大なる漂母の恩人であった。先生逝かれて方二十年、先生のロンドンより奥様への書簡に、何時も吾輩と並べ称せられ、来たら焼き芋でも食わしてやれ、と言外に情味達振りの御言葉を頂戴した俣野大観も脳溢血に倒れ、今頃は彼土で寝そべりながら先生の御話を承って居る事だろうと思えば往って見たくもあるが、死にたくもなしで、実に懐旧の情に堪えない。学校での先生は理智一遍の人に見えた。悪くいえば言葉遣いの上では冷酷の点もあったろうが、それと共に先生には同情もしないに同情しますとか気の毒に感じないのに気の毒がって見せたりする芸当は出来なかったのである。文芸にしろ、芸術にしろ、芸者にしろ、いやしくも芸の字がつくものが大嫌いであった。当年の吾輩には先生のこの無芸が大好きであった。しかし、これが為生徒の一部には、先生を以て理智一遍の人である。狭量にして人を包容することの出来ない人であると、思っていた者が多かったようであるが、社会人としての先生は知らぬが、教師としての先生は決してそんな人ではなかった。
一体剣道でも柔道でも然るが如く学問上でも、教師は一個の稽古代であるから、進度を緩めようが自分に当たるのを後ろさうとか時間潰しの愚問は固より慎むべきであるが、分からぬことは、問うて問うて問いましてよろしい、幼稚園ならいざ知らず高等学校や専門学校でノラリクラリと生徒の機嫌取るような、生徒に気兼ねするような教授の仕事振りは、教育学上善いか知らないが吾輩は大嫌いである。中にはこの気構えがないのみか、教場で生徒の及第を言い利目もないコワガラセ見せて、以て自ら衛る教師もあった。
これが生徒側から見た当時の状態であったが、このうちにあって先生の態度は実に痛快であった。男の中の男であった。狭量とか冷酷とか、生徒の一部で先生を評する者もあったのは恐らくこの態度を誤解したのであろう。彼ら生徒にして、親しく校門外における先生に接していたらんにはこの誤解は起こらなかったであろう教師と生徒の接触を繁くすることは、実に教育上の要件である.尤も接触するがために教師の欠点が暴露するものは別であるが、先生の如きはその然らざる者の適例であろう、思えば先生を忍びたい物は山ほどあるが、余り長きはお互いに迷惑であるので、五高時代の一個半個を書いて当年を忍びたい。
当時吾輩同志の間に同明会という会が作られ、一から五まである高等学校で同志が結合してそれが大学で一緒になるという、学生には珍しい大規模の者であったが,或土曜日の夜、その会を校後の龍田山で開いた。例の赤酒で、例の通り宜しくあって甲斐は閉じられたが空腹でたまらない。先生ならまだ起きておられるだろう、よし襲え、と大江の宅をたたくと先生は果たして起きておられた。来意を通じて有難く頂戴したが、まあ話して行けといわるるままに腰を据えつけた。
これより先、吾輩は中沼先生の宅で、浅見絅斎先生の大名非諸侯弁を読んで、その見識の正大とその識見を守り通された先生の高風清節とに、すっかり参っていた時であったから、どんな経緯で言い出したのか、全く覚えていないが絅斎先生を笠に、徳川三百年の学者を罵倒し余焔ひいて現代に及び、更に先生も学者だから、と例の怖い物知らずで八つ当たり最後に紙と筆とを請い受け陶淵明の乞食の詩を書いて辞退したことであった、翌日学校で先生に逢うと、吾輩より昨夜のお礼を言い後れたその間に、先生から湯浅君、昨夜は有難うと言われて冷汗三斗であった。先生の宅に居候になったのはこの後のことである。この前後狩野先生宅には吉丸一昌君が居った。居候になってからその暮の休みに留守を預かったことがあった。御出立に際し先生の曰く、君の友人が来たら引き上げて飲ましてもよいが書斎だけには侵入しないで置いてくれこのことを吾輩の口から吹聴したかしなかったか、覚えがないがいわゆる友人なる者の大入り満員で冬休みが愉快に過ごされた。今更の事でもないが先生は実に痛快で思い遣りのある人であった。生徒としての吾輩には気六ヶ数人とは思えなかった。
(同窓会報十一号より転載 湯浅廉孫 明治三十三年文卒)