五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の資料整理顛末記 2000

2010-05-29 03:37:07 | 五高の歴史
六月六日 火 晴
九州地区も梅雨に入ったと言うことであるが。しかし今日は梅雨の一休みだそうで晴れ晴れとした上天気である。八時十五分に駐車するが少々早い気がする。昨年はバスを使っていたので八時二十分のセンター発で大学前には四十分には着いていた。この時間帯に通勤する大学職員が多かったことをふと思い出した。朝は早い方が気持ちがいい。
室内に掃除機をかける予定にしていたので二階の倉庫から掃除機を下ろして電源を入れてもモーターが全然回転しない。誰かが使って壊してしまっている困ったものだ。
雑件書類の綴じ方を始める。昭和十四年度、十五年度の通知等の文書だからからか他の書類に比べると紙質が非常に悪い。綴じ紐で一旦とじてあるが現在では綴じ紐の役割は果たしていない。そのためであろうか年度毎にビニール紐で一束に括ってあるのは同じであるが、例えば昭和十五年度の其の一は表紙がなくなっているので申し訳のように付箋紙でS15と指示してある。各年の表紙がないものは表紙をつけて整理していく。特に感じたことは十七、十八,十九年と時代が変わるごとに紙質は悪くなり、完全に茶褐色に変色している。通知、科研費、卒業生名簿の送付、とあらゆる雑の部類に入れるべきものを綴じこんであるのでとても分厚くなっている。また十八年、十九年、二〇年の分では綴じこんだ状態で破り捨ててあるので面白くない。これは戦後駐留軍が検閲するとの評判があったのでそれに対する処置である。航空機関係高等専門学校緊急勤労動員に関する件、五高報国隊出動者名簿送付の件、緊急航空機増産学徒動員実地調書及び動員除外調書送付の件、学徒動員調査送付の件等々と戦争遂行のための案件である。破り捨てた内容はなくなっていたが表題はそのままの状態で残っていたので書き出したが、こうも綺麗に破り廃棄する必要があったのだろうか、
熊本城宇土櫓明治十年の戦役のとき焼けなかった櫓


昭和十七年は一回の東京出張は一週間を予定していたのか、この年の十一月二十五日午前十時から本省の四階会議室で高等学校制度改正委員会が開催されると言う案内が来ている。文部省専門教育局長から、五高校長添野信がその委員を委嘱されている。学校側は出張期間を二十三日から二十九日にするか、はたまた二十四日から三〇日までとするか検討した様子も窺える。そのご三〇年を経過した四十七年の東京会議での出張は一週間を予定して旅費の計算を行っている。今日のように東京日帰りを原則をしていることを考えると交通機関の発達、特に航空機の発達は如何に急速であったかと言うことが理解できた。昭和十七年は軍事色が段々濃くなる時代であり。朝香宮殿下御成りに関する件では、高校、中学共出向えが強制され、場所が指定されている。昭和十八年六月三〇日の通知には台湾向帰省学生計画輸送の件として連合国の太平洋進出が顕著であり台湾学徒を帰省させるために日本政府の対応が右往左往している様子が知れる。三時には昭和二〇年の雑件まで紐を綴じ直しを終了した。