五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の資料整理顛末記 2000

2010-05-24 01:11:06 | 五高の歴史
五月十六日 火 曇
朝七時四十五分車で出発する.泰平橋を渡り国道三号線を浄行寺交差点まで、そこから五十七号線を右折していくと左右に熊本大学の構内が開ける。現役の時代には余りこのコースは利用したことがない。ラッシュ時でも二十五分では行ける。四十分開室する。駐車場に入れ事務局へ鍵を借りに行くその往復でも二〇分近く係る。大学は狭いと感じていたがこうしてながめてみると広い。管財に先ごろの木下三郎氏から返事が来ているものを見せてもらった。資料整理は先週の続きで開学記念式関係書類の一連を確認する。台帳との突合は殆ど合致していた。折角だから生徒総代の名前も出してあればよかったのにと思う。

校長の祝辞、職員総代の祝辞、生徒総代の祝辞、一応斜め読みしてみる。校長の祝辞はいや式辞か、大正時代になると殆どが前年度、前々年度の式辞を少々の手直しで新しく作文してあるものは見受けられない。昭和になるともっと酷くなっている。さすがに明治時代のものは毎年新しく作文されていたようであったが、校長さんの性格にもよろうが段々マンネリになっている。これに比べると生徒総代の祝辞、職員総代の祝辞は毎年人物が変わり時代を反映した文章になっている。その内容はかっての日本帝国の思想が脈々と流れているところは面白いといっていいのかわからないが・・・・・・。

昨日森総理大臣が日本国は天皇を戴く神の国と公式の席上で言ったとか一寸問題になっていたが、・・・。今日整理した処は昭和十年までであったが当時の人であったら、当たり前のことであるといったことであろう。

開学記念日に合わせて運動会も開催されていた。特に大正二・三・四年の封筒にはそのプログラムも同封されていて、その中の面白い出し物には武夫原をスタートゴールとするクロスカントリー競技が行われていることである。コースは武夫原―第一師範―本妙寺―洗馬橋―記念碑前―水前寺―藤崎大鳥居―武夫原となっている。記念式が十月十日に行われていたがこのクロスカントリー競技は翌十一日に開催されている。
十一時頃から周辺の除草作業が行われ騒音がひどく整理は中断させられた。昼食もそこそこで作業を続ける。
二時過ぎ頃二階の展示室の戸を開ける音がしたので上がってみる。文学部の教務の職員が外人を案内していた。アメリカから日本の教育制度についての研究に来ていると紹介があり漱石、ハーンのコーナーを照会説明してやった。日本語が達者で明治の歴史についても詳しかった。俺でわかる処は教えてやるといっておいた。廊下が騒がしいので出てみると数名の男女の学生がプラニメーターで廊下の巾天井の高さを測っていた。工学部の建築科の学生だろう