五月九日 火 晴
全くの五月晴れ、連休中から雨なしで各地の行楽地はとても、にぎあったそうである。車で行って八時十五分到着し開室は四十五分に行った。先の入学式一件書類を点検する。
入学式挙行日、明治三十七年九月十三日分から大正十三年四月分まで一括りとしてあるので一件一件封筒から取出し新入生総代の宣誓書を読んだ者、校長式辞の原稿の有無を確認、これを書き出す。先週までの卒業式関係に比べると簡単な気がする。卒業式に関するものが入学式に関するものより重要視されている。台帳とも殆ど合致している。
十二時には二十一年間分の整理を終わった。
この時代はとても出席の重要視が見られ、必ず前学年皆出席者氏名が清書され発表されている。また式次第の中から聞いたことのある名前があるのでそれを掲げてみる。明治三十七年の答辞を読んでいる高田保馬、特待生選定では大内兵衛、大正七年には本田弘人,本田は大正二年の入学式では新入生答辞を読んでいる。大正九年には医学部外科の勝屋弘辰、十一年には後の熊大学長柳本武、さらに大正十二年には河原原正行、十三年には吉村常助等々が読んでいる。
管財掛長が熊本市の文化財指導の係官から重要文化財の修理は早急にという指摘があったことの様子を知らせてくれたので修理見積を貰っておけばいいのではなかろうかとアドバイスしておいた。
昼食後創立記念式関係分を整理確認した。
創立記念日は十月十日、残っている資料から見えることは入学式、卒業式以上に重要視視されている。これだからU氏が言っていたように俺は大学から雇われているのではなく同窓会から雇われていると言われていたことを思い返した。これまた二十一年間分明治二十六年十月十日の挙行分より明治四十四年十月十日挙行分までを校長祝辞、教員総代祝辞、生徒総代の祝辞と一件毎にワープロに転載した。明治三〇年十月十日挙行の教員総代夏目漱石の祝辞は有名であるが、貴重な資料としては同じ教員総代で祝辞を読んでいる明治二十六年の内田周平、二十九年の菅虎雄、三十六年の遠山参良、四〇年の小島伊佐美、等々も忘れてはならないだろう。
「
生徒総代の祝辞としては二十九年、三〇年の早春賦の作者吉丸一昌、三十二年後に五高教授になっている山形元治ありで「武夫原頭」の作者恵利武も明治三十六年には祝歌を披露している。漱石の祝辞も本人の自筆とか色々議論もあるようであるがここではどっちでもいいじゃないかと言いたい。
今日も三時を過ぎたので掃除機をかけたが、年数は同じように経過しているものであるが、紙の資質が上等のものを使ってあると見え殆ど紙の崩れなく室が綺麗である。残りの分は来週のお楽しみにして置く。
全くの五月晴れ、連休中から雨なしで各地の行楽地はとても、にぎあったそうである。車で行って八時十五分到着し開室は四十五分に行った。先の入学式一件書類を点検する。
入学式挙行日、明治三十七年九月十三日分から大正十三年四月分まで一括りとしてあるので一件一件封筒から取出し新入生総代の宣誓書を読んだ者、校長式辞の原稿の有無を確認、これを書き出す。先週までの卒業式関係に比べると簡単な気がする。卒業式に関するものが入学式に関するものより重要視されている。台帳とも殆ど合致している。
十二時には二十一年間分の整理を終わった。
この時代はとても出席の重要視が見られ、必ず前学年皆出席者氏名が清書され発表されている。また式次第の中から聞いたことのある名前があるのでそれを掲げてみる。明治三十七年の答辞を読んでいる高田保馬、特待生選定では大内兵衛、大正七年には本田弘人,本田は大正二年の入学式では新入生答辞を読んでいる。大正九年には医学部外科の勝屋弘辰、十一年には後の熊大学長柳本武、さらに大正十二年には河原原正行、十三年には吉村常助等々が読んでいる。
管財掛長が熊本市の文化財指導の係官から重要文化財の修理は早急にという指摘があったことの様子を知らせてくれたので修理見積を貰っておけばいいのではなかろうかとアドバイスしておいた。
昼食後創立記念式関係分を整理確認した。
創立記念日は十月十日、残っている資料から見えることは入学式、卒業式以上に重要視視されている。これだからU氏が言っていたように俺は大学から雇われているのではなく同窓会から雇われていると言われていたことを思い返した。これまた二十一年間分明治二十六年十月十日の挙行分より明治四十四年十月十日挙行分までを校長祝辞、教員総代祝辞、生徒総代の祝辞と一件毎にワープロに転載した。明治三〇年十月十日挙行の教員総代夏目漱石の祝辞は有名であるが、貴重な資料としては同じ教員総代で祝辞を読んでいる明治二十六年の内田周平、二十九年の菅虎雄、三十六年の遠山参良、四〇年の小島伊佐美、等々も忘れてはならないだろう。
「
生徒総代の祝辞としては二十九年、三〇年の早春賦の作者吉丸一昌、三十二年後に五高教授になっている山形元治ありで「武夫原頭」の作者恵利武も明治三十六年には祝歌を披露している。漱石の祝辞も本人の自筆とか色々議論もあるようであるがここではどっちでもいいじゃないかと言いたい。
今日も三時を過ぎたので掃除機をかけたが、年数は同じように経過しているものであるが、紙の資質が上等のものを使ってあると見え殆ど紙の崩れなく室が綺麗である。残りの分は来週のお楽しみにして置く。