五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊大阿蘇研修所の終焉

2012-09-23 03:56:53 | 五高の歴史

昨日は紀元2600年を期して阿蘇道場の寄贈が五高同窓会より五高へ行われたことを紹介したが、今朝はその熊大阿蘇研修所(阿蘇道場)の最後はどうなったかを記して見ることにする。もちろん俺はまだ現役の職員としてそれこそ週に2~3回は約一時間の道程を公用自動車トラックを運転して行っていた。

以下に戦後の阿蘇研修所(道場)の経過を紹介しよう。

第五高等学校は戦後の教育制度改革に伴い昭和二十五年三月を以て閉校になった。五高は熊本大学法文学部と理学部に改組され阿蘇道場は熊本大学阿蘇研修所と名前も一新されて管理は熊本大学学生部に引継がれていた。その土地については昭和二十九年になり『熊本大学が使用中の阿蘇道場敷地を無償提供する覚書』これは阿蘇町がその目的を達成するための真に必要最小限の土地と認めた面積を寄贈すると云う覚書文書が阿蘇町長から熊本大学学長宛に提出され、二十五年間の貸付約束であったので、昭和三十八年になり学長より『昭和二十九年の覚書により阿蘇研修所敷地を寄付願い度き件』として願出書が阿蘇町長宛に提出された。阿蘇町議会は『取扱について問題がなければ、教育の場として処分します』という、所謂町の不動産処分の議決を経て、阿蘇研修所敷地は国有財産上の事務手続きを経て昭和四〇年五月台帳面積二四〇四坪(七九四九,三二㎡)の土地寄付受入れを完了し、ここに五高阿蘇道場の敷地は正式に国有地として熊本大学の敷地の一部になったのである。  

五高生の修養道場から熊本大学学生の厚生補導施設へと使用目的は代わったが、熊本大学になってからは新入学生の合宿研修や新規に採用された教職員の合宿研修の場として、所謂、学生教職員の厚生補導の研修所として昭和五十年前半までは盛んに利用、活用された

 昭和五〇年代からはモータリジェーションの発達に伴い、加えて道路の整備も進み、特に昭和五十七年には九州地区の各国立大学が共同で厚生補導研修に使用せよという文部省の指導で大分県九重高原に九州地区国立大学共同利用研修所が建設された。このため熊大阿蘇研修所は建物の老朽化に加え旧態依然の設備で、その上研修所までの道路の狭隘等も加わり、学内では全く忘れ去られ利用者は激変の一途を辿っていった。更に昭和六〇年三月には管理人の定年退官もあり、公務員定員削減のため後任の補充は出来なかった。しかし学生サークルの夏季休暇の利用等を考慮し、一年間の猶予を置いたが、利用者は全くなくなり、翌年には管理は学生部から事務局管財係に任せられたので同時に事務局では全学を対象に学内利用を試みた。

 その結果は工学部土木工学科が使用したが、地理的な条件で一年間の利用で終った。その後薬学部から利用計画の名乗りもあり、更には阿蘇町でも「海外の青少年のキャンプ地として利用したい」という問い合わせ等もあったが、いずれもバブル崩壊の時期と重なり、人の問題、経済的な問題等々の諸般の事情により断念してしまった。そのため大学当局はこの老朽化した建物を何時までも無人のままの状態にしておくことは危険を伴うということで平成三年解体処分を決定した。平成四年三月、熊本大学阿蘇研修所(五高阿蘇道場)は五高・熊大と五十三年にわたる歴史の幕を閉じた。

その後この敷地は更地のまま残されていたが、政府の狭小地、未利用地の国有地処分政策により大蔵省(九州財務局)から平成十二年売払い処分がなされたと言う事であった。

 以上のような経過を辿って道場はなくなったのであるが、今になって思えばこれをどうして潰すか学内担当者である俺が一番せからしかったと言うことが言えた。先年など道場についての噂話があったとき、出向の課長か部長か関係ないと思われる人から、阿蘇道場取り壊しに関するとき誰々さんと一緒に見に行ったとか、、その後の話し合いに出たとか、平成四年に取壊してからさえ二〇数年も昔のことになるので、「そうですか、それはお世話でしたね」という案配で片づけてはいるが、そんな昔話俺の係が学内の直接の担当係であり、俺の阿蘇道場との付き合いは通算二十年以上に上ったと思うががただの一度さえ道場についての話があったことがあろうか?現在のように平和な大学になればすべての人は如何にも自分等が仕事を行った来たのであると言うのは何時もの公務員の性というものではなかろうか?