上西充子(法政大学キャリアデザイン学部教授)
Imidas オピニオン 2020/10/08
このところ考えている。私たちは、「政治には関わらない方がよい」という感覚へと、無意識のうちに誘導されているのではないか、と。
政治をめぐる「呪いの言葉」
私たちは、政治的な発言をすると面倒なことになると思わされている。政治的なことには関わらない方が無難だと思わされている。自分が何を言っても、何をしても、誰に投票しても、どうせ社会は変わらないと思わされている。
あえて「思わされている」と書いた。「思っている」ではなく。なぜなら、政治をめぐる「呪いの言葉」があふれているからだ。
「呪いの言葉」とは、人の思考の枠組みを縛ってしまう言葉を指す。「親に言われ続けたあの言葉に、自分はずっと苦しめられてきた」――例えばそういう時に、「呪いの言葉」という表現が使われる。若い人にとってはなじみのある表現だ。
私は『呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)において、「嫌なら辞めればいい」のような「労働をめぐる呪いの言葉」や、「母親なんだからしっかり」のような「ジェンダーをめぐる呪いの言葉」、そして「デモに行ったら就職できなくなるよ」のような「政治をめぐる呪いの言葉」を取り上げ、そういった「呪いの言葉」の呪縛からどうみずからを解き放つことができるかを漫画やドラマ、事例を手がかりに考えた。
「呪いの言葉」は本当の問題を巧妙に隠し、「それはお前の問題だ」と枠づけて、相手を心理的な葛藤の中に陥れる。その罠にかからず、相手が勝手に設定した土俵にうっかり乗ってしまわずに、「これはあなたの問題だ」と、相手に返していくことが重要だ。
例えば「嫌なら辞めればいい」と言われたら、「辞めるわけにはいかないんです」のように自分の問題としては答えず、「あなたが部長のパワハラをやめさせれば済む話ですよね?」とか、「あなたがもうひとり雇えば済むのでは?」などと、相手が答えなければならない形での切り返し方を考えてみよう。すると、隠されていた本当の問題が可視化されてくる。
実際にそのような切り返しの言葉を口にするのは危険な場合もあるので注意が必要だが、そういう切り返し方を頭の中で考えてみることを繰り返していくと、「呪いの言葉」の目的が相手を黙らせること、孤立させること、葛藤させること、本当の問題から目を逸らさせることにあることが、次第に見えてくる。
そういう頭の切り替えはひとりではなかなか難しいので、できれば誰かと一緒にワークショップ的にやってみるとよい。オンラインでのワークショップを飯田和敏(立命館大学教授)と企画して9名で行ってみた様子がYouTubeに「呪いの言葉の解きかたゲーム」としてあげられているので、参考にしていただきたい。
野党を貶(おとし)める呪いの言葉
政治をめぐる「呪いの言葉」を、その目的に応じて大きく2つに分けて見直してみよう。1つ目は、「野党を貶める呪いの言葉」だ。
「野党は反対ばかり」「野党はパフォーマンスばかり」「反対するなら対案を出せ」「いつまでモリカケ桜やってんだ?」「野党はだらしない」「野党は18連休」、等々。
これらは一見したところ、「野党はちゃんと仕事しろ」と言っているように聞こえる。けれども、そう聞いてはいけない。そのように捉えてしまうと、相手の土俵にうっかり乗ってしまう。
「野党は反対ばかり」と言うが、そう言う人は、与野党対決となっている審議中の法案について、自分の賛否を示すわけではない。「この法案になぜ反対するのか、おかしいだろう」とも言わない。「野党は反対ばかり」と言うのは、野党に対して、漠然とネガティブなイメージを広げることをねらった言葉だ。
具体的に考えてみよう。例えば野党は、残業代ゼロの長時間労働を促進する危険がある高度プロフェッショナル制度の創設を含む働き方改革関連法案に反対した。官邸の恣意的な人事によって司法がゆがめられる恐れがある検察庁法改正案に反対した。しかし、「野党は反対ばかり」と言う人たちは、そういう一つ一つの与野党対決法案について、「賛成しろ」と言うわけではない。「反対するのはおかしい」とも言わない。
そして、実際には野党が賛成している法案の方が多いにもかかわらず、「野党は反対ばかり」と、事実と異なるイメージを流布させる。結局のところ、「野党は反対ばかり」とは、「野党には存在意義がない」と思わせるための言葉に過ぎない。
だから「野党は反対ばかり」と言われたら、相手の土俵に乗って「賛成している法案の方が多いんですよ」と返すのではなく、「こんな法案に、あなたは賛成なのですか?」と問うてみるといい。「いつまでモリカケ桜やってんだ?」と言われたら、「コロナもやっています」ではなく、「公文書の改竄(かいざん)や隠蔽(いんぺい)を、あなたは問題ないと考えるのですか?」と問うてみるといい。相手の土俵に乗らずに、相手が隠そうとしている問題、見えなくさせている問題を、可視化させることが大切だ。
「反対するなら対案を出せ」という言葉も検討しておこう。野党は、実際には対案を出している場合もある。しかし、その対案は与党が多数派を占める国会では、そもそも審議にかけられない場合が多い。そういう事情を知らずに、あるいは知っていても知らせずに、「反対するなら対案を出せ」と言い募ることは、これもまた、「野党には存在意義がない」と思わせる意図があると理解できる。「反対するなら対案を出せ」と言う人は、実際に野党が出している対案を見て、「この対案はここがダメだ」とか「この対案は良いものだから与党はまじめに検討せよ」などとは言わない。
それに、本来ならば、「変えるな」というのも立派な対案だ。変えるべきでないことは変えない。慎重な検討が尽くされていないものは、性急に変えるべきではない。それだって本当は立派な対案であるのに、「反対するなら対案を出せ」という言い方につられると、そういった見方ができなくなってしまう。
変えるべきでないものが数の力で変えられようとするとき、野党は審議拒否という手段に出ることがある。野党が取ることができる、数少ない抵抗手段だ。「野党は18連休」という言い方は、ただ野党がさぼっているかのように見せる言い方だが、審議拒否という戦術は、機を見て慎重に選択され、その中で野党は力関係を変え、状況を動かそうとする。辻元清美衆議院議員の著書『国対委員長』(集英社新書、2020年)に、その様子が具体的に書かれてある。「野党はだらしない」という曖昧な言葉も、ネガティブなイメージを広げる。野党にしっかりしてほしいと願う人であれば、「野党はしっかりまとまれ」とか、「野党はしっかりビジョンを示せ」とか、より具体的に指摘すべきだ。
メディアが多用する「野党は反発」という表現も考え直してほしい。まるで正当な理由もなく感情的に騒いでいるだけのように見える。「抗議」「反対」「反論」「批判」など、同じ字数で他により適切な言い換えはできる。
「煙幕」となる「呪いの言葉」の向こうにある事実に目を向ける
上記のような「野党を貶める呪いの言葉」が氾濫すると、野党に存在意義はなく、野党議員に投票することには意味がないように、あるいは恥ずかしいことのように、思わされてしまう。国会を見ることにも意味がないように思わされてしまう。
けれども、実際の国会質疑を見れば、野党は過労死から労働者を守るためであったり、官邸による行政の私物化を防ぐためであったり、新型コロナウイルス感染症の影響により休業を余儀なくされた事業者や労働者の生活を守るためであったり、大事な論点で質疑を行い、政府に対応を求めている。そしてその論点に私たちが注目し、意見表明を行うことによって、世論が動き、事態が変わることもある。働き方改革関連法案から裁量労働制の対象拡大が削除されたことや、新型コロナウイルス感染症の拡大防止の中で、収入が減少した世帯への30万円の給付案が特別定額給付金10万円の支給へと変更されたこと、検察庁法改正案が廃案となったことなどはその例だ。
私は働き方改革関連法案が国会で審議されていた際に、広く市民に質疑を見て問題を考えてもらいたくて、そして論点をずらして問題に向き合わない政府側の不誠実な答弁を見てもらいたくて、街頭で国会質疑を解説つきでスクリーン上映する「国会パブリックビューイング」の取り組みを始めた。2018年6月のことだ。その後も入管法改正案や毎月勤労統計不正問題、桜を見る会問題などを街頭上映で取り上げてきた。その様子はYouTubeのチャンネル(国会パブリックビューイング)にあげている。『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』(集英社クリエイティブ、2020年)にもその活動とそこで取り上げた国会審議の実情を紹介した。
その私からすれば、「野党は反対ばかり」のような「呪いの言葉」は、国会で何が行われているかに目を向けさせないための「煙幕」に思えてならない。大切なのは、隠そうとしているものを可視化させることだ。その煙幕の向こうにある実際の国会審議に私たちが目を向け、野党が、そして政府・与党が、実際に何をしているのか、大事な論点がどのように扱われているのかを、みずから確認することだ。そしてみずから考えることだ。
市民の政治参加を萎縮させ、あきらめを誘う呪いの言葉
政治をめぐる「呪いの言葉」の2つ目は、「市民の政治参加を萎縮させ、あきらめを誘う呪いの言葉」だ。「デモに行くより働け」「デモで世の中は変わらない」「デモに行くと就職できなくなるよ」「デモは迷惑」「売名行為だ」「左翼」「反日」「〇〇も知らないくせに」「応援していたのに残念です」「選挙で勝ってから言え」「だったらお前が国会議員になってみろ」等々、私たちが政治に関わる行動を取ったり発言を行ったりすると、それを否定しにかかる「呪いの言葉」がSNS上で見知らぬ人から投げつけられる。そういう言葉を投げつけられることが予想されるため、行動や発言を控える人も多いだろう。
しかし、投票に行くことだけが容認され、その他の政治的な行動や発言は叩かれるというのは、考えてみれば異常なことだ。私たちには言論の自由も集会の自由も憲法によって保障されているし、日頃から政治について考える機会があった方が投票行動も適切に行えるだろう。なのに、権力者の意に沿わない行動や発言が、目障りなものとして、誰だかわからない匿名の人たちによって、寄ってたかって口汚く非難される。なぜか。
権力を獲得した側からすれば、選挙とはみずからの権力が脅かされる可能性がある節目だ。自分たちに投票してくれる人たち以外には実際のところ、投票には行ってほしくないだろう。そのため、日頃から市民には、自分たちと対抗する勢力への投票につながりそうな形での政治的な問題意識は、持ってほしくないだろう。
そのような権力者の意向と、声を上げることを萎縮させるような「呪いの言葉」の氾濫に、直接的な関係があるかどうかは不明だ。しかし、「おかしい」と声を上げる者はおびえを乗り越えて発言しなければならないのに対し、「うるさい」と批判する側はおびえとは無縁だ。そこには明らかに非対称的な関係がある。
2000年夏の第42回衆議院議員総選挙の際、森喜朗首相(当時)は投票日5日前の講演で有権者の投票態度について、「まだ決めていない人が四〇%ぐらいある。そのまま(選挙に)関心がないといって寝てしまってくれれば、それでいいんですけれども、そうはいかない」と発言した(朝日新聞2000年6月21日朝刊)。この発言は問題となり、自民党はこの選挙で大きく議席を減らしたのだが、日頃は口に出さないだけで、それは政権与党の本音だろうと思われる。
そして、自民党が民主党から政権を奪還し、第二次安倍政権を生み出すこととなった2012年の第46回衆議院議員総選挙以降、下記の総務省のグラフに見る通り、投票率は低迷傾向を強めており、与党のねらい通りとなっているように見える。特に若い世代の投票率が低い。それは「政治に関わらない方がいい」と思わせる「呪いの言葉」がネット上にあふれていることと、無関係ではないと私は思う。
政治参加に向けた「私たちの言葉」を
こういう状況は変えていく必要がある。誰が発しているのかも判然としないような定型の「呪いの言葉」に思考を誘導されたり萎縮させられたりしている状況は、健全ではない。私たちは主権者として、みずから社会を変えていく力を持っており、社会をよりよい方向へと変えていく責任がある。
しかし、政治をめぐる「呪いの言葉」があふれている一方で、「私たちが政治に関わることが大切だ」と思わせるような言葉は、今の日本においては、とても少ない。
言葉は認識を形づくる。「政治には関わらない方がよい」と思わせる言葉が意図的に流布され、そのような言葉によって私たちが政治から遠ざけられている現状を、私たちが「おかしい」と認識でき、自分たちが政治を変えていく主体であると認識できる言葉が、私たちには必要だ。
ラッパーのECDは、2012年2月20日に「経産省別館原子力保安院前抗議行動」で、「言うこと聞かせる番だ俺たちが」とラップを披露した。
「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」は関係を断とうとする言葉。「言うこと聞かせる番だ俺たちが」は関係を持とうとする言葉。
と、彼は2012年12月20日にツイートしている。
2018年4月に財務省セクハラ問題で麻生太郎大臣が「はめられた可能性がある」と二次加害につながる発言を平然と行ったときには、新宿駅東口・アルタ前で「#私は黙らない0428」と題した集会が若者たちの手によって開催された。その中でフェミニストの福田和香子は、
私は、私が誰であるのかを他の者に決めさせない。
と語り、
あなたの考えは、あなたの言葉は、あなたの行動には、常にパワーがある。何かを変えるだけのパワーが、いつも備わっている。必ず覚えておいてほしい。
と訴えた。(福田和香子ブログ:fem Tokyo「#MeToo #私は黙らない0428」より)
次にあげるのは政治をめぐる文脈の中で語られたものではないのだが、政治参加を支え、促すことにもつながりうる2つの言葉を、ここに加えておきたい。私が『呪いの言葉の解きかた』の中で紹介した言葉だ。
1つは、やまだ紫が1981年から1984年にかけて発表したコミック『しんきらり』(再録として、やまだ紫選集『しんきらり』小学館クリエイティブ、2009年など)の最後の言葉だ。
「妻」「嫁」「家」「親」……そんな言葉に縛られることへの違和感を抱え続けた専業主婦のちはる。パートに出て、後にその職を失う、そういう経験のあとで彼女は、穏やかな表情で夫に向きあって、こう語る。
仕事をしてみるようになって 気が付いた……
わたしは自由だったんだ
押し付けられた役割の呪縛に苦しんできたちはるだが、実はみずからその呪縛の中にはまっていたことに、気づいたのだと私は思う。
もう1つは、海野つなみのコミック『逃げるは恥だが役に立つ』第9巻(講談社、2017年)の土屋百合の言葉だ。アラフィフの百合が親子ほども年が離れた男性の思いを受け入れて、「あなたが好きなの」と口にすることを決意するときに、彼女は心の中で、こうみずからに語りかける。
周りに遠慮せず 自分の判断で自由に生きて
失敗したらそれも ちゃんと受け止める
それが大人ってもんでしょ
あたしがなりたかったのは
そういう大人でしょう
こういう言葉を前にすると、政治をめぐる数々の「呪いの言葉」が、一挙にその効力を失う。そして、そんな呪いの言葉で思考を誘導したり萎縮をねらったりすることの卑劣さが、浮かび上がってくる。
私たちを、無意識のおびえから解放する言葉。私たちが、みずからの声を取り戻すことにつながる言葉。私たちに、見えていなかった別の未来を展望させる言葉。そういう言葉を、私たちはさらに、意識的に豊かにしていく必要がある。一人ひとりが、これは私の言葉だと思えるような、そんな言葉が私たちには必要だ。
今朝のハウス内最低気温2.9℃でした。霜は降りていませんでした。