こんな記事を目にしました。
まるで日本社会の負の側面のオンパレードでした。
いろんなことが重なり、次から次と負の連鎖です。
どこかで食い止められる社会であってほしいものです。
45歳東大卒シングルマザーの重すぎる試練
「激しいパワハラのせいで障害者になった」
東洋経済オンライン 2017.2.14
井川優子さん(45歳、仮名)は大きな電動車椅子に背をもたれ、ゆっくりと私のほうを向いて会釈する。過剰に暖房が効く部屋、膝には毛布がある。電動式の背もたれは、45度程度の角度で半分寝た状態だ。声が小さい。耳を立てながら近づくと、「今日はよろしくお願いしますね」と聞こえる。事前に体調が悪いと聞いていたが、そういう次元ではなく、やっと生きているといった状態だ。
「そんな驚いた顔をしなくても(笑)。カラダが動かないだけですから」
驚く私の表情をすぐ察し、笑いながらそう言う。半分寝たきりの彼女は上品な淑女だった。なんと東大文科III類、最終学歴は東大大学院前期課程修了という。卒業後、臨床心理士として活躍する。
しかし2008年、特定疾患外の難病である慢性疲労症候群(別名:筋痛性脳脊髄炎)を発症し、ほぼ寝たきりにまで症状は悪化。現在のような厳しい状況を迎えた。全身の筋肉と自律神経の機能が低下して、体温調節ができず、全身を激しい痛みが襲い、カラダを満足に動かすことはできない。寝返りや取材のために右を向くようなこともできない。
さらに、2人の子どもを育てるシングルマザーである。公立高校と公立中学に通う兄妹。半年前から、10年以上費やしてやっと抽選に当たった公営団地で暮らす。収入は年間200万円の障害年金だけ。
重症の井川さんは、1人で入浴も食事もできない、ほぼ全介助状態。生活は毎日訪問するヘルパーに頼る。本当に肉体的、精神的、そして経済的にも、「やっと生存している」といった状態だった。
「生活保護は子どもの進路が制約される」
「児童扶養手当の月4万7000円、それと児童扶養証書がもらえないことが本当に苦しい。病気で働けないから、支援団体と区役所から生活保護受給を何度も言われました。けど、生活保護では障害加算と母子加算、どちらかしか選べない。障害年金が認定されると自動的に児童扶養手当が受けられなくなって、その証書がないと一人親支援のメニューが利用できなくなる。なぜか、そういう制度で、非常に苦しい。子どもの大学進学が視野にあって、生活保護だと進路が制約される。だから生活保護を受けないで、踏ん張っています」
経済的に最も負担が大きかったのは、月9万円の家賃だ。生活保護ではないので賃貸住宅を借りている。収入の半分以上は、家賃と光熱費で消えた。生活環境も悪く、10畳ほどの部屋に2台の介護ベッドがあり、狭すぎて2人の子どもが寝るスペースはなかった。現在の公営住宅に引っ越すまで、長男は押し入れで眠っていた。
「家賃4万円の公営住宅にやっと入れて、少しだけ肩の荷が軽くなりました。それまで子どもの食べ物にも困る困窮状態でしたが、最近はやっと食べて、寝るという最低限の生活環境は確保できています。私の担当医や子どもの学校の関係で、絶対に地域からは離れられない。新しい人間関係を作れるような状態ではないですし。人気の高い地区なので公営住宅は倍率700倍以上。生活の困窮に応じた抽選で、ようやく順番が回ってきました」
慢性疲労症候群が発症後、現住居に引っ越すまでの7年間は地獄のような日々だった。1年間、一度も外出しない年もある。前住居はエレベーターのない4階。車椅子で全介助に近い彼女は、とても外出することはできなかった。
「もう何年間も自分1人では生活できない状態。お風呂はもちろんですし、ご飯を食べたりもできない。こうしてカップを持てる日はいいけれども、1食を食べきる体力はないです。食べれば元気になる。でも、食べられない。体力落とす。その繰り返し。ちゃんと動く手と足が欲しい、そう毎日思っています。本当に情けないです」
日々状態が悪化して、7年前から手も足も満足に動かなくなった。寝たきりに近い状態になり、清潔は保てない。狭い部屋に介護ベッドを2台置き、汚れたら隣のベッドに移る。食事と入浴はヘルパー頼り。最悪な生活環境を子どもたちに申し訳ないと思いながら、ベッドでじっと天井を見ているだけの日々を送っていた。
「カラダが動かないのは、本当に気が滅入ります。それに症状が本当に苦しい。今はちょっと落ち着いているけど、疼痛がある。鋭い痛み。私の場合は肩の関節にキリを入れて、ぐりぐりされているような。それが何時間も続く。何年間も痛みに苦しめられて、ここにきてちょっと緩和しました。やっぱり生きているのが、しんどいってなります。自殺して亡くなった人たちがうらやましいな、って思っていました。慢性疲労症候群の患者は自殺率が高い。私もやっぱり追い詰められて死にたいって時期は長かった」
発症のとき長男は7歳、長女は5歳。家賃負担が重く、子どもたちは給食以外を満足に食べることができなかった。空腹の中で、交代で母親の食事介助やトイレ誘導など介護を手伝った。厳しい生活だった。
「カラダが許すかぎり、子どもたちにできることはしました。子どもがいなかったら、もっと療養に専念でき、早くよくなるかもっていう考え方もある。けど、私の場合は子どもがいるから希望があって頑張れた。子どもがいなくて1人だったら、たぶん3~4年前に自殺していました」
井川さんは体力がない。長時間しゃべることも難しい。ここまでしゃべったところで息切れが始まった。少し時間を置く。
「東大卒」でも就職は厳しかった
手元のスイッチで背もたれを倒し、目をつぶって休む。30分間、小さな声で話をしただけ。体温調整ができず、少し震えている。どうして厳しい現状に至ったのか、足早に聞かなければならない。
東大大学院在学中から、臨床活動を始めた。1998年に大学院を修了してからはフリーランスの臨床心理士になる。各地の教育委員会、総合病院の精神科、大学の学生相談室、私立大学や大学院の非常勤講師など、活発に仕事をした。
「私たちの世代は、東大卒でも就職は厳しかった。非常勤掛け持ちが一般的で、今、高学歴女性の貧困が問題になっていますが、まさにそれです。私はたまたま単価の高い仕事をもらったので、月収は50万円ほど。それで1999年に結婚して、すぐに長男が生まれました」
友達の紹介で2つ年上の男性と結婚。同じく大学院を修了して非常勤講師をする男性で、夫婦生活と家庭はそれなりに平穏だった。結婚生活で初めての壁は不定期で仕事依頼がくるフリーランスの臨床の仕事と、育児の両立が難しくなったことだ。
「勤務先は私立大学の学生相談室で、校内でリストカットとか、あと“自殺します”って予告する学生が多かった。具体的な予告になると、目を離すわけにいかないので学生相談室で保護、親御さんに引き渡す。親御さんが地方から来るのを夜まで待つとか多かった。時間的に育児をしながらは無理と判断して、転職することにしました。省庁の外郭団体でした。天下りが多い組織です」
某省庁の外郭団体に転職する。そこから転げ落ちるように人生は暗転した。
「カラダがこの状態になったのは、パワハラが原因です。客観的に原因を考え続けましたが、それしか考えられない。組織ぐるみ、執拗に執拗に執拗にやられました」
冷静沈着な井川さんは、初めて少し大きな声を上げた。
「始まりは苗字でした。私は通称で仕事してて、結婚で苗字が変わった。研究者の側面もあって名前が変わると、業績が検索できなくなる。それまで仕事では旧姓を使っていました。東京都教育委員会の仕事でも当時すでに通称を認めてくれた。でも2005年にその外郭団体に入るとき、通称使用は絶対に認めないと追い詰められた。どれだけ説明しても業務命令だから、苗字を変えろと。家庭裁判所に行けと。すごまれた。繰り返し恫喝されてペーパー離婚しました。名前だけが理由です。そうしたら旦那が古風な人で、ショックだったって。気持ちが離れてしまった。要するに私はフラれ、子どもは捨てられました」
世帯年収で1000万円は軽く超えていたが、離婚が原因で半減。約束した月10万円の養育費は一度も払われなかった。シングルマザーになって経済的、時間的に生活が苦しくなる。
勤務中に上司がワインをこぼして…
「恐ろしい職場でした。全職員の1割くらいが高学歴女性で、とにかく女性をイジメ抜く。ミスを女性に押しつける、時間内で処理が不可能な仕事量を課して恫喝する、男性上司が数人で囲んでののしるみたいな。最もひどかったのは、勤務中に自席で飲んでいたワインをこぼしてシミをつけた上司が近づいてきて“貴様を掃除係に任命してやる”と。500平方メートルくらいのワンフロアを日常業務しながら延々掃除させられて、それでちょっとのホコリや糸くずを持ってきて怒鳴るみたいな。その上司は総務部長でした」
年功序列が現存する公的機関は組織が硬直し、昔ながらの男尊女卑の意識が残りがちだ。彼女が働いた団体は女性職員へのイジメ、パワハラが常態化して、それまで何人も退職している。さらに女性というだけで正当な人事評価はされなかった。「私の在籍期間、数人いた女性職員は5段階ある人事評価で全員まず1にされました」という。どんな結果を出しても女性職員の職位は上がることはなく、男性が著しく有利な男性社会だった。
2007年、転職して2年目、ストレスの多い日々を過ごしているうちに体調がおかしくなった。
「週末は頭痛とかで寝込んでいましたし、お腹が痛い。普通じゃない痛さ。医師の知人らに相談すると皆そろって胆のう炎ではないかと言う。お腹が痛いときは、必ず前兆で激しい頭痛が伴う。基本的に頭痛と腹痛はよくなることはなく、我慢しながら働いて2008年1月ごろから胆のうの辺りが本格的に痛くなった。休日はぐったり疲れきって、頭が痛くて動けなかった。子どもの授業参観も痛くて行けない。仕事以外、いつも寝ていました」
体調が悪くなっても、職場のパワハラは続いた。上司や上層部は井川さんを集中的にイジメ続け、子どものために定時に帰ると勤務態度をののしった。シングルマザーなので、辞めるわけにはいかない。頭痛と腹痛の前兆が出ていたが、肉体的にも精神的にも我慢に我慢を続けた。
「最終的に壊れたときのことは覚えています。総務部長に代休振替を頼んだ。“私の振り替え休日どうしたらいいでしょう? ”って尋ねた。“は、捨てろよ? ”と言われて、その瞬間に突然ポンって熱が出た。確か部長たちは大きな声でホステスとかゴルフの話をしていた。そんな話を聞きながら、スイッチを入れたように熱が出て倒れてしまったのです」
2009年3月。井川さんの健康は、その日から戻っていない。
「39度の熱が、いつまでも38度までしか下がらない。翌日、発熱を報告すると、組織最大の収入源の担当に任命され、無理に仕事を続けました。最初は運動不足と思ってジムに行ったり、ウォーキングしたり。それで、ますます悪化。羞明(しゅうめい)というけど、目がおかしくなってまぶしい光に痛みが走るようになって、運動しても筋肉がげっそりと落ちるばかりで、体温調節ができなくなったのもその頃です」
だんだんと筋力が落ち、手が使えなくなり、足も使えなくなった。手が震えて、ペンもコップも満足に持てない。悪化は続き、現在は長時間座位を保つのも難しい状態だ。入浴も食事も1人ではできない。頭痛と目痛、全身の痛みは治まらない。パワハラが原因と思った。悔しくていくら涙を流しても、壊れたカラダは戻ってこなかった。
170万円の「返金」を迫られた
2010年8月に倒れて休職し、そののち解雇。雇用保険の傷病一時金と児童扶養手当で生活をする。しかし、いつまで経っても回復しない。2011年に障害認定を受け、障害年金を受給する。するとすぐ児童扶養手当、そして、だいぶ経ってから傷病一時金の返金を迫られた。失業保険を頼りたかったが、就労できない身体状態とされ、支給されなかった。
「ギリギリの生活だったので、170万円の返納はパニックになりました。持つおカネを全部払っても足りない。私は1日1食だけにし、せめて子どもだけ最低限にと願っても、1つの菓子パンを3人で分ける、みたいな生活です。それと障害年金と児童扶養手当の併用ができない。それがここ数年の生活が苦しい原因です」
生活苦に涙を浮かべる。傷病一時金の返金はまだ終わっていない。
歩くことすらできない。2人の子どもに親らしいことをしてあげられない。謝ってばかりだった。利用できるサービスがないかと区役所に問い合わせるたびに「子どもを施設に入れろ」と言われる。井川さんは何十回とその提案をされたが、拒絶を続けている。
「今の日本は一人親で病気になって、こんな全介助みたいになったら子どもは施設に入れろって社会です。カラダは動かないかもしれないけど、私はまだ考えられるし、感情もある。ヘルパーの方の手を借りれば、まだいろいろなことはできる。全身痛くて毎日、毎日苦しいけど、私が子どもたちにしてあげられることは、勉強を教えてあげること。長男が中学2年、長女が小学校5年のときから、私が勉強を教えてきました」
長男は都立最難関校に合格し、現在そこに通っている。母親と同じ東大を目指しているという。
「毎日のように死のう、死にたいって思っていたけど、受験を乗り越えて子どもが元気になった。長男は希望の高校に進学してから、自信に満ちてきた。それまではいつも引っ込み思案で、自信がない僕っていう感じ、すぐに涙が出ちゃうみたいな。長男が元気になったら、長女も笑顔で頑張りだして、今は本当に子どもに励まされながら生きています」
行政の助言は「子どもを施設へ入れろ」ばかり
再びカラダが震えだした。寒いようだ。小さな声はさらに小さくなり、そろそろ限界だった。自宅は徒歩圏だが、体力のない彼女がここまで来るのは大変な労力だ。この取材に応じたのは、おそらく制度に言いたいことがあるからだ。最後に聞く。
「子どもたちにとって、障害のある親が子どもを育てるサポートがほとんどゼロなこと。現在に至っても、児童相談所も子育て支援課のソーシャルワーカーも“子どもを施設へ入れろ”ばかり。障害がある親が子どもを育ててはいけないと、制度側の人たちは思っています。それはおかしい。障害のある親が子どもを育てると、苦しめられることばかり。私は全介助みたいな障害者だけど、子どもと暮らしたい、親として生きたいのです」
自分ではコートを着ることができない。ヘルパーの女性がやって来て、慣れた手つきで着衣する。湯たんぽを背中に入れ、背もたれを起して電動車椅子はゆっくりと動く。公営団地まで20分ほどかかるという。
暴力ですべてを奪われた。最後に残されたのは、一緒に生きる子どもだけ。日本最難関の大学院を卒業した頭脳があっても、健康を取り戻すまで頼るものは社会保障しかない。排除しないでほしい、彼女はそれだけを言っていた。