2月7日の記事2025年02月07日 | 社会・経済(北原みのりさんの)の最後で紹介したドキュメンタリー映画『小学校 それは小さな社会』劇場公開日 2024年12月13日を紹介した。わたしも90何分かの長編は見ていない。観たのは紹介した短編部門だけだ。
これを観て、これが日本の「教育」の本質だったのか?
良い意味でも、悪い意味でも、そう感じた。
協調性、社会性、他人を想いやる心。
その一方で従順な人づくりがなされてきたのではないか?
今朝になって、さまざまなニュースを見ているとこの「映画」のレビューが紹介されていた。興味深く読ませていただいたので、紹介しておこう。
安土留之さんの映画レビュー(感想・評価)
映画com2025年2月12日
昭和の学校?
シンバルをうまくたたけない子に大きな声で怒鳴り、委縮させ、泣かせる教師。提出物を期限を守って提出しない子に、「そんな状況では、提出物の多い中学校ではダメだぞ」と威嚇する教師。皆の前で厳しく叱ることが教育と思っているのかもしれないが、ほめる時は皆の前、叱る時は個別に指導することが基本だと思うのだが。
命令と統制のシーンが多く、60年前の私の小学生の時代とあまり変わらない。公立小学校は世の中の変化から遅れているのだろうか。どうして評価が高いのか疑問。
また、この映画が海外で上映され、こういう上から目線、集団主義的な教育が日本の学校教育だと誤解されてしまうのも怖い。
日本の学校では、皆で掃除をしたり、給食を配膳するなどは素晴らしいと思うし、ワールドカップで日本チームの控室がきれいで賞賛されたことは、日本的教育の成果であり、良い部分だと思う。ただ、もっと児童生徒の自発性を大切にする教育に転換しないといけない。
命令に服従する子をうみだす教育、自主性を阻害する教育から脱しないかぎり、日本の再生は遠いでしょうね。
umisodachi 2025/02/11 18:08
世田谷区にある公立小学校の1年間に密着。1年生と6年生の生徒数人、さらに教師数人にフォーカスしながら、日本の教育の在り方を捉えていく。賛否両論を巻き起こしているとのことだが、私はどちらかといえば「否」の立場かな。ちょっと気味が悪いと思ってしまった。
まず、世田谷区のお行儀が良さそうな地域の小学校で、前向きで頑張り屋さんで賢いタイプの子ばかりに注目している点。その子たちの背後には「そうではない子」がちょいちょい映り込んでいるのだが、彼らはないもののように流れて行ってしまう。逆に、フォーカスされていたある先生は明らかにギリギリで、ケアが必要なのでは?思われるほど追い込まれていた(新学年で彼が担任だと発表された時の子供達の微妙すぎる表情とかさ……見ていてキツかった)。落ち着いた客観的風なトーンなのもあって、ちょっと怖かった。
最も気になったのは、懸命にがんばることを是とする展開。そのために大きなおうちのお庭で自主練したり、他の生徒大勢の前で詰められたりというシーンに引いた。頑張って縄跳びができるようになった子の後ろの子は本番で全然できてなかったし、わずか小1にして大勢の前で責められた女の子に対して、周りの子は「私たちは(あなたと違って)ちゃんと家で練習してきてるんです」と言うように促されていた。私はこういうのをグロいと思ってしまった。
後ろで縄跳びが全然できてない子が映っていることに気づいていないの?それともわざと映しているの?努力が足りないから仕方ないよねってことなの?厳しく責められる6歳の女の子を「可哀想だけど、練習してないから仕方ないよね」と他の子が見つめていて、しかもそういう視線に誘導させられている状況について異様だと思わないの?私の感覚が変なの?
下駄箱に上靴を揃えて置けているかとか、校長先生のお話(モニター)を聞いているときに机の上にタブレットがあるかとか、私の価値観では「どうでもいい」でしかないのだが……違うの?見ていてなんだかよくわからなくなってきてしまった。だって、全体的に肯定的な視線を感じるんだもの。どうでもいいよね?
私は小中高とエスカレーターの学校に通っていて、小学校はめちゃくちゃ厳しかった。それこそ「どうでもいい」ルールのオンパレードで、互いを監視してチクり合うみたいな文化。とにかく優等生像がハッキリしていて、成績優秀でルールを守り、他の子に対して親切な行動をする子が「優等生」としてクラス内で序列ができていた。もちろんそうなると「優等生ではない子」への差別意識も発生し、序列で最下位だと見做された子に対してはクラスぐるみで陰湿ないじめが行われた。こういった経験は、皆の前で叱責する、努力し成果を上げた子だけに注目する、などといった行為は明確にNGだと私が認識する大きな要因になっている。
反対に、同じ学校だが校舎の場所が異なる中高はかなり自由な校風で、一気にルールが緩くなった。成績優秀者というものはあれど「優等生」という概念は崩壊し、それぞれが個性を発揮する文化に変化した。カトリック系だったので寄り道禁止、メディア出演禁止などそれなりに厳しい校則はあったものの、小学校のときのような空気は消滅した。いじめがあっても、小学校のときのそれとは性質が異なるものだった(グループ内でのシカトなど)。
息子は公立の小学校に通っていたのだが、自発性と自己肯定感を育むというタイプの校風で、息子のように比較的積極的で自己表現するタイプの子には合っていた。でも、もちろん不登校の子も各クラス1人ずつくらいはいたはずだ。ただ、上履きの向きを揃えて点数をつけるといったことは行われていなかったし、かなりの範囲で各人の自由意志が尊重されていたように感じた。
ヨーロッパにいたときの1年半については、英国系のインターナショナルスクールだったのでルールや身だしなみについては比較的厳格だったものの、勉強にしても運動にしても「この子は算数が得意」「この子は運動が得意」といった感じで、それぞれの長所を認め合いましょうという方針だった。だから、皆んながそれぞれ楽しそうに過ごしてはいるけれど、全体で何かを揃ってやるタイプのプログラムでは緩い感じになっちゃうよね。
このように、教育というのは国によってはもちろん、学校によってすら全然ちがうのだろうということは、自分が実際に経験した狭い範囲でも痛感する。でも、私と息子が経験した学校だけを見てもひとつだけ明確な事実があって。それは、「公立小学校には色々な子どもがいた」ということ。経済状況も、国籍も、家庭環境も、本当に様々な子どもがいて、そのことが前提となった運営がなされていた。本作に出てきた小学校だって同じはずだ(裕福な地域にあるとはいえ)。なのに、それが見えてこなかった。私が息子を自分が経験した私立ではなく、公立小学校に通わせたいと思った理由もそこにあるのに、そのことが見えてこなかった。
とりとめのない文章になっている自覚はある。本作に対して抱いた違和感がうまく言語化できないのだ。どうしても何かが違うと感じる。あまりにも一部を切り取りすぎているし、あまりにも批判的な視点が欠如しているし、あまりにも先生たちへの眼差しが無責任なんじゃないかと感じてしまう自分の感覚を否定できない。ドキュメンタリーの視点は公平ではあり得ない。誰かの意志で編集される以上、それは仕方がない。でも、周囲に映りこんでいる「できていない子」たちを、あの先生を苦しめている何かを、あれ以上見つめようとしないのは不誠実ではないのか?あの映像で「こうやって日本人は作られる」「努力している子どもたちに感動する」としたり顔で言われることに、全国の教師たちは納得するのだろうか?
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検事総長談話は「名誉毀損」 袴田さん弁護団、提訴の方針
共同通信2025/02/13
1966年の静岡県一家4人殺害事件で再審無罪が確定した袴田巌さん(88)の弁護団は13日、畝本直美検事総長が控訴断念を表明した談話で袴田さんの名誉が傷つけられたとして、国に損害賠償を求め提訴する方針だと明らかにした。別に冤罪の責任を問う国家賠償請求訴訟も起こす方針で、いずれも袴田さんの成年後見人の意向を確認し、最終判断する。
弁護団は、検事総長談話で「判決は、理由中に多くの問題を含む到底承服できないもの」などとしたのは、「袴田さんを犯人視するもので、名誉毀損に当たる」と指摘している。
無罪とした昨年9月26日の静岡地裁判決に対し、検事総長は10月8日に談話を出し、「袴田さんが相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれた」などとして控訴断念を表明。静岡地検が同月9日、上訴権を放棄する手続きをとり、無罪が確定した。
そうよ!
検事総長としての第一声は「謝罪」であるべき。
それを偉そうに…
わたしでも腹が立った。
当人やお姉さんにとっては耐えがたきものではなかったではないだろうか。
司法「仲間」で、あるいは上下関係の中においては難しい判断であろうことは予想される。
それでも一撃を与えたことにはなるだろう。
よくやった!