何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

自分を責め、後悔すること それは死ぬまで続く

2016年05月18日 | 菩提を弔う



私を慰めようとしてくれる人達は言ってくれる。

「そんなに自分を責めないで下さい。貴方はやるだけのことをやったではないですか。これは貴方のせいではないのです。どうしようもないことだったのです。」

その事に対して私は反論したりムキになったりは決してしない。
純粋に良心から言ってくれていると思うから。


しかし、それで私は自分を責めるのを止めることができるだろうか。

できない。その人達には悪いができないのだ。

祥一郎は出逢った頃から生まれつき心臓に疾患があることはわかっていて、心臓の薬を飲んでいた。ニトログリセリンや求心という薬も常備していた。

だからちょっと興奮すると息が切れることもときおりあった。

風邪も私よりひきやすく、よく微熱を出していた。

インフルエンザになっても、私はあまり熱発しないのに、あいつは39度ほども熱発する。

出逢って暫くしてからそれはわかっていたことなのだから、祥一郎にはもっと働きかけるべきだったんだ。

仕事運が悪く、アルバイトも切れ切れで勤めたり辞めたりするものだから、国民健康保険証も有ったりなかったり。

私はもっとあいつの為に、長く続けられる仕事を探すのを手伝うべきだったんだ。

そしてまがりなりにも、いつでも病院に行ける体制と収入を準備してやるべきだったんだ。



そして出逢って10年あまり後の、肝炎での入院、加えてHIVキャリアであることの発覚。

あの出来ごとがひとつの転機だったのかもしれない。

泣いて落ち込んでいるあいつを見て、わたしはうるさく「働いて、ちゃんとしようよ。」とあまり言えなくなってしまった。

HIVのほうはまだ発症しておらず、それからも見かけはあまりかわらない年月が続いたため、やはり油断していたのだ。

HIVキャリアであっても、発症を抑える薬を飲みながらまがりなりにも働いている人は大勢いる。
現に私の知り合いにも居た。

それを考えると、「こういう例もあるのだから、お前もできるよ。ね?」とときおり説くこともあったが、以前のように小うるさく言う事はできなくなってしまった。

そして祥一郎の大きな体調変化も無く、年月は過ぎて行った。

私は仕事をし、祥一郎は家事全般をやってくれる。そんな生活の形も有りかなと、自分で納得しようとしながら、年月は過ぎて行った。

だが、それがいみじくもあの悲劇を招いてしまった。

心のどこかで、爆弾を抱えているのはわかっていたのに、今の暮らしに胡坐をかいて漫然と過ごしていった。

結果的に後になって、祥一郎の身体は肝ガンの為であろう、少しずつ確実に蝕まれていったことがわかり、それがあの突然の死に繋がった。

私はもっと行動するべきだった。もっと早くから。もっと強い意志を持って。
例えそれで二人の関係が険悪になろうとも。祥一郎を死なせてしまう事に比べれば、何ほどのことでもない。

愛していたのだから、かけがいのない家族だったのだから、きょう出来る事を後回しにするべきではなかった。
愛する人の命を守るために。


このブログを読んでくれている人にも伝えたい。

もし貴方に愛する人が居るのなら、そして身体に少しでもどこかに異常があるのなら、きょう出来る事を後回しにしないでほしい。私と同じ轍を踏んで欲しくない。


何とかなるさと思い、不安を押さえつけて今を過ごしたため、取り返しのつかないことになってしまった私の愚かさを、どうか他山の石にしてほしい。

私は後悔を続ける。自分を責める。自分の愚かさを恥じる。
おそらくそれは私が死ぬまで続くだろう。



にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

月命日  そして皮肉な誕生日

2016年04月28日 | 菩提を弔う

祥一郎・・・・・

4月28日、四度目の月命日だ・・・・・・・・・

東京は冷たい雨だよ。

自分で勝手に思ってる。おっちゃんの涙雨だと。

この四カ月・・・・長い長い四ヶ月だった。
人間歳をとると月日は早く過ぎるというけれど、この四ヶ月はまるでぬかるみに足を取られて歩いているような、粘るゼリーの中でもがくような、そんな日々だった。

お前が急激に体調を悪くして、そしてそのまま天に召されて行き、その後の地獄のようなおっちゃんの時間、それらはまだ連綿と続いている。あの時からのお前の死とそれに関連した出来ごとの真っただ中にまだ居るんだ。

本当はお前の霊前で、一日ゆっくり過ごしたいけれど、きょうは仕事だからごめんね。

そのかわり明日は休みだから、新しい花を供えて、お前の好きだったものを買って一緒に食べよう。なに、いつもそうしているけど、ちょっと明日は豪華にね・・・・

一日お前の為に過ごすんだ。お前の為だけに・・・・・



そして・・・・・・・
きょうはおっちゃんの誕生日でもある。なにか皮肉だね。

28という数字になにか因縁でもあるんだろうか・・・・・・・

お前が初めて誕生日にくれた手袋・・・ありがとうね。バイクで通勤していたあの頃、寒くないようにってくれたんだよね。

それからも、毎年ささやかに祝ってくれてありがとう。

お金が無い時も、小さなケーキや、煙草を買ってくれたり、お前がその時できる精一杯のことをやってくれた・・・・・・・・・

もうおっちゃんの誕生日を祝ってくれる人は居ない・・・・・

こんな歳だから今更どうでもいいんだけど、お前が傍に居ないことで、何より悲しい誕生日になってしまった。

毎年こんな思いをするんだろうか・・・・・きっとそうなんだろうね。

今強く思うのは、おっちゃんの寿命がまだあるのなら、それをお前に分けてやりたかった。
そして、天に召されるのなら、できるだけ時間差が無いようにしたかった。置き去りにされる月日が短くなるようにね。

祥一郎・・・・・・・
お前は今何処に居るんだい?

お前を感じたい・・・・お前の気配を、温もりを、息づかいを、存在を・・・・・・

きょう明日は、お前が来てくれることを祈ります・・・・・・・・・・・・・

雨が強くなってきたよ・・・おっちゃんの悲しみの深さを表すように・・・・・・


にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

仕事に邪魔されたくない 祥一郎を想う時間

2016年04月16日 | 菩提を弔う
一日の通常の業務が終わる。しかしその後には山のような、やれご利用者の記録だの、介護経過だの、
委員会の仕事だの、ご利用者の一日の様子だのというパソコンに打ち込むデスクワークが待っている。勿論その分の残業代は出ない。

以前はそれでも、そのサービス残業を2時間から3時間平気でこなしていた。

しかし今は、通常の業務が終わると、ものの30分位で会社を辞する。

疲れ方が以前と全く違うのだ。急激に12キロ以上も痩せたせいか、精神薬のせいか。

きょうも上司に、「きょうは1時間残業と思っていて下さいね。」と、当然のように告げられた。こちらの都合も聞かずに。用事があるかどうか一応聞くのが筋ではないだろうか。
以前の飲み会で、私の祥一郎の死と自分のたかが失恋を同列に扱った女上司だ。

私は「ええ?残業ですか。きついです。」と言ったら、「・・・・・じゃあいいです。」

「いいえ、やれと言うならやりますよ。業務命令なんでしょ。」

上司は無言だった。その後、更に上の上司に泣きついたのがありありとわかる。

泣けば上役にとりなしてもらえると思ったのだろうか。めんどくさい女上司だ。

別にやりたくてしている仕事でもなく、微塵も楽しいとも愛しているとも言い難い仕事、馬車馬のように働いて上を目指す気持ちなどさらさら無い仕事。

そんなものに、私の大事な、祥一郎の死によって更に大事になった時間を割きたくない。

した方がいい仕事を後日に回して、最低限の残業をしてさっさと帰宅する。上司にどう思われようが知ったことか。

そんな仕事ぶりのきょうこの頃。


痩せて疲れきった身体をなんとか鞭打って自転車をこぐ。坂道の多い帰り路が、以前より更に過酷になっているのがわかる。

春に咲く花々、穏やかな季節の風をできるだけ目に入れないように感じないように、下を向いて自転車をこぐ。

常夜灯をつけていくのが常になった部屋に帰宅し、照明を点け、祥一郎の遺影に「ただいま。」と呟く。

遺影を見つめ続けながら、ひとつひとつ祥一郎との暮らしの想い出を紐解いていく。

そして指が動くまま、心のまま、それを文章にしていく。

今はその時間が私の一番大事な時間だ。いや、今後ずっとそうかもしれない。

文章を書くうち、涙が滲む、悲しみに溺れそうになる、孤独感に押しつぶされそうになる・・・・・・

それでもそんな時間が今は一番大事だ。

そんな大事な時間を、くだらない仕事に邪魔されてたまるものか。

分かって欲しいなどと言わない。そもそも分かって貰おうとしても無駄なことだと思うから。


祥一郎の生きた証を残すこと。

それがあいつの望みだったのだから、それを私は引き継ぐ義務がある。

それしかできない。そんなことでしか、あいつが20数年間の年月を私に与えてくれた事に対する恩返しができない。

それを邪魔するものは、何者をも排除するんだ。

祥一郎・・・・・・・・

おっちゃんのこんな生き方をお前はどう思う?

「おっちゃん、ほどほどにしときや。うちのことはもうええんやで。」

なんて言うはずが無いよね。

「おっちゃん、ありがとう。うちのこといつまで忘れんといてや。」

って言うに決まってるよね。

忘れるものか。お前はおっちゃんの全てだったのだから。おっちゃんの身体と心は、お前と共にしか存在し得なかったのだから。
涙を流す度、お前の証を文章にする度、それをますます自覚していくんだ。

おっちゃんの人生で何かを残せるとしたら、お前の証を残すこと、それしか有り得ないんだよ。祥一郎・・・・・・・・・・・


にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

グリーフケア グリーフカウンセリングに参加してみた

2016年04月09日 | 菩提を弔う

先日の土曜日のオフの日、遅く起きていつものごとく孤独感に苛まれながら過ごしているとき、ふと一カ月程前にネットで検索したグリーフケアの団体に問い合わせたことを思い出した。

グリーフケア・・・・要するに伴侶や肉親を亡くした人達が集まって自分の経験を告白し合い、段階を踏んで悲しみを忘れないまでも、人生の中で昇華していく方法を見つけることらしい。今回は伴侶を亡くした人に特化した集まりだった。

問い合わせたものの、実際に参加すること自体は迷っていたんだが、ふと当日になって思い出した。
開始は13時から。時計を見ると10時だ。まだ間に合う。一応当日飛び入り参加が可能かどうか問い合わせたところ可能だとのこと。

その日も何も予定が無かったし、長い悲しみに満ちた一日をどう過ごすか呆然自失していたので、意を決して参加する事にした。

東京のとある私鉄沿線の駅に降り、会場につくともうほぼメンバーが集まっていた。

主催者側が5人ほどと、今回参加したメンバーが9人。9人の内女性が7人で男性は私ともう一人だけだった。

年齢はまちまちだが、概ね40代前半から60代後半くらいまでか。

今回は第1回目ということで、それぞれの伴侶を亡くした経緯や原因、今の心境を告白した。まあ自己紹介代わりのようなものか。

それに対して主催者が二、三質問するという形式、

当然ながら伴侶を亡くしたシュチュエーションはそれぞれ違っていて、入院闘病を経験した人も居れば、私のように突然予期せぬ形で亡くした方もいた。しかし概ねガンで亡くした方が多かったようだ。

私は最後に発言したが、涙声であまり冷静に話せたとは言えない。

それでもその後はやや落ち着いて、質問することもできた。

参加メンバーのモチベーションも様々で、積極的に発言して見た目はほぼ立ち直っているように見える人、殆ど最初の告白だけで後は殆ど発言せず、この会に参加して果たしてよかったのか懐疑的になっているのではないかと思われる人、まあ参加するだけ参加してみようという様子見のような人、これもまちまちだったような気がする。

この会の目的としては、月2回開催してそれを合計8回、4ヶ月かけて伴侶の死を受容し、人生の道筋を歩いて行けるようにすることらしい。

月日が経てば経つほど祥一郎を亡くした喪失感が大きくなっていく中で、果たしてこの会に全回参加して私の心がどう変化していくのか、それはまだ未知数だ。毎回参加するかどうかもわからない。

しかし、何かをしていなければ、何かに縋っていなければ、自分の心身が瓦解するかもしれない状態の中で、可能であれば参加を続けてみようと思っている。

その経過と結果はその都度また綴っていくつもりだ。

会が終わって希望者だけで近くのファミレスで、肩の力を抜いた会食会も催された。

そこでは初めての参加で緊張していた雰囲気とは変わって、話題は暗いはずなのだが、ややざっくばらんでそれぞれのメンバーの笑みも見られた。

ひとつ感じたのは、女性の参加メンバーのある意味逞しさだ。

悲しいし辛いのは同じなのだろうが、女性同士、「今度皆で旅行に行きましょうよ。」などとお喋りを楽しんでいる様子が見られた。
もう一人の男性メンバーとも話したのだが、男性同士だと旅行に行こうなどという発想はまず出てこないだろうし、女性同士のように会話もはずまないだろう。せいぜい「今度機会があったら一献やりましょう。」くらいだろう

同じ悲しみを共有する者同士だが、女性同士のお喋りというツールは、こんなとき役立つのかなと思った次第。。


会から貰った資料の中の一文に、自分の愚かさを認識させる文言があった。
「私たちは、伴侶の死という貴い犠牲を払う事で、これまで気づくことの無かった命の大切さや、愛することの大切さに初めて気づいたのではないでしょうか。」

そう、あまりに近くにあまりに当然に傍に居たからこそ気付かなかった。それを認識させられ、改めて愕然としてしまった。

かけがいのない祥一郎の命の大切さと、彼を愛する気持ち。
それを彼が亡くなってから気付くなんて、犠牲はあまりに大きすぎた。

果たしてこのグリーフケアによって、その私の愚かさと自責の念は少しでも小さくなっていくのか、それもまだ分からない。
漆黒の暗闇の中で僅かな光も見えないまでも、進む方向ぐらいは見つけていけるか、少々の期待を持ちたい気持ちはある。

・・・・・・・・
・・・・・・・・

忘れていたこの会のこと、急に思い出し、行く気になったのは、

祥一郎、お前がきっと「おっちゃん、行くだけ行ってみたら?」と肩をたたいたからなんだね、きっと。

会の最中、耳鳴りがして、お前の存在を感じるような気配がしたのは、あれは気のせいだったのだろうか・・・・・

にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

生ききれなかった明日からの人生

2016年04月07日 | 菩提を弔う

祥一郎・・・・・・・・・

お前は自分の人生をどのように思っていたのだろう。とても生き切れたとは言えないお前の人生・・・・・・・・・

色々複雑な幼少期を送ったのは知っている。両親、特に父親と弟にはお前はあまり思い入れが無いようだったね。

たまに私にする父親と弟の話も、おおむねネガティブな話ばかりだった。

父親は、お前の好きだった母親をあまり大事にせず、DVじみたこともあったと話していたような気がする。

弟は弟で、兄のお前に甘えるばかり、迷惑ばかりかけられたと聞いている。「長男て損だわ。弟って面倒ばかりで、すぐ泣くし。」なんてときおり呟いていたね。

お前が早い時期に家を出て、一人暮らしをしたのはそういうことも原因だったのかな。

まあ、両親のいるまともな家庭でも、居場所が無いと感じて若い内から家を出るゲイは多いのだけれど。

かくいう私も、家族との不仲もあったけれど、ゲイであることで疎外感を感じていたから10代後半には家出同然で家を出たという側面もある。。

まあ似た者同士と言う面もあったのかもしれない。

実家を出て私と出逢う前までの暮らしの話はあまりお前はしてくれなかったね。

それでも、一人で部屋を借りて、食べる物も無いような極貧の生活をしていたとも聞いたことがあるし、好きな男ができて何度か付き合ったこともあると聞いた。

そう出逢った頃、まだ一緒に暮らす前にも、お前は誰かのマンションに居候していたね。私には血縁の人だと言っていたけれど。多分それは違うだろう。

家を出て、自由気ままな生活の見返りに、一人でなんでもかんでも抱えて苦悩するのはよくあることだ。

そして私との運命の出会いがある。

その後の暮らしも貧乏続きで、それでもお前は着いてきてくれたけれど、やりたいことも色々有っただろう。

お前が亡くなってから、血眼になってお前のツイッターやブログ、メル友とのやり取り等からそれは推し量ることができる。そしてたまにおっちゃんに何気なく呟いた言葉からも。

劇団で俳優の道をもう一度目指したかったのだろうか。

化粧品のバイヤーをして、ひと儲けして店舗でも構えたかったのだろうか。

或いはバレエの講師をして、世界中を飛び回る?

身体を鍛えるのが好きだったから、フィットネスクラブのインストラクターかな。

日焼けサロンの店長なども似合ったかもしれない。

でも、どれもチャンスに恵まれなかったね。

身体が弱くて、思うように就職活動も出来ず、不治の病も発覚し、共に暮らす私が生々流転でいたって生活が不安定。

おっちゃんも二人で食べて行くだけで精一杯で、お前の夢の為の援助など少しもしてやれなかった。

本当はね、おっちゃんにもっと経済力が有ったなら、お前に好きな事をやって欲しかったんだよ。どんなに荒唐無稽なことでもいい、失敗するのが目に見えることだっていい。おっちゃんにその力があったなら、やらせてやりたかったんだ。

お前が生きている間にそんなこと、あまりに夢物語過ぎて言えなかったけどね。
言っても淋しそうに笑って「おっちゃん、もうええねん。貧乏やし、うちの人生こんなもんやから。」なんて言葉が返ってくるのがわかっていたから。

それは別にそんな夢物語な話をしなくても、お前はたまに呟いていたものね。

「うちの人生、嫌なことばかりで、こんなもんや。」と。

「そんなこと言わずに。しょうがないやん。目の前の人生を生きて行かなしょうがないやん。おっちゃんかて夢も希望もないけど、二人でなんとか生きていかなしょうがないやん。おっちゃんはお前のこと本当に家族や思うてるんやから。」

とおっちゃんは何度かたしなめた覚えがあるよ。お前も覚えていると思う。

お前は黙ってそのおっちゃんの言葉を肯定も否定もせず、受けて止めていたね。

でもお前が人生を本当に諦めていたとは思えないんだ。

あの時の、お前の意識が遠くなっていく瞬間の、悔しそうな残念そうな顔がそれを物語っている。

「まだ死にとうない。今はまだ死にとうない。」って思っていたに違いないんだ。

46歳・・・・・生きていたらひょっとしたらその後何かがまだできたかもしれない。何か形あるものが作れたかもしれない。

おっちゃんはお前の最期の想いをそう理解しているんだ。

まだ若いのに可哀想だのと、そんな陳腐な言葉では言い表せない、お前の壮絶な最期。

生きたかった人生を生ききれなかった祥一郎・・・・・・・・・

そのことに関して、おっちゃんはどんな申し開きができるだろう。

祥一郎・・・・・・・・お前とあの世で逢ったなら、おっちゃんはお前の足に縋りついて、申し訳なくて泣き崩れるかもしれないな・・・・・・・・・。


にほんブログ村 家族ブログ 死別へ