祥一郎が亡くなってから、それは色々な感情が渦巻き、生活が激変し、悲しみのどん底に落ちる経験を今もしているわけだけれど、
日常の何気ない瞬間、その時々の感情の行方が、全く無くなってしまったことに気付いてしまったのだ。
祥一郎と私、四六時中濃密なコミュニケーションを取っていたわけではない。
それはどんなカップルでもそうだろう。
一日中抱き合って、「愛している。」だの、「一生離れない」だの、のたまっているカップルはそうそう居ないだろう。
違うのだ・・・・・・
一緒に居ることがまるで空気のように当たり前になると、あまりに近い存在になると、無言の時間でさえ苦痛にはならないと。
例えば、二人で一日中一緒に居て、殆ど二言三言しか口をきかない時も有る。
でも、それは決して苦痛にはならず、なにも会話しなくてもそこに居るのが当然という前提があるからなのだ。
ときおり片方が、何か言葉を発する。
それにもう片方がそれなりに反応して返答を返すこともあるし、生返事することもあるし、まるっきり無視して無言のままのときもある。
しかし、生返事されても無言で無視されても、苦痛に至るまでにはならない。
それは、そんなことぐらいでは二人の関係は崩壊しないという安心感からなのだ。
いちいちそんなことで不穏になっては、何十年もの関係は続けられない。
それが空気のような存在、言葉を尽くさなくてもお互いがお互いを受容している存在というものなのろう。
視線を交わさなくても、背中を向け会って寝ていても、決してお互いの存在が疎ましいわけではない。
信頼関係というのだろうか、それも一つの愛の形だったのかと思う。
私と祥一郎もそういう関係だったのかもしれない。
日常会話、例えば「今何時?」「風呂入るの?」「きょう何時頃帰ってくる?」「それとって。」「先に寝るで。」・・・・・・・・・
一日にそれだけしか会話しなくとも継続出来る関係。それが祥一郎と私の関係だった。
わかるだろうか。
一見会話の少ない、仲の悪そうなカップルに他人からは見えたかもしれない。
でもそこには、そうなるに至った濃密な時間があったからなんだ。
《なにも言わなくても一緒に居られる・・・・・・・・・・》
それが祥一郎と私との関係だった。
今、私は部屋でひとり、何も言わないし、何も会話しない。
ただ、強い思いだけが募るだけ・・・・・・・・
それを無言で受け止めてくれていた祥一郎はもう居ない・・・・・・・・・・