あれはまだ前の部屋に住んでいた頃。
大阪から再び祥一郎と二人で東京に舞い戻って来た時だ。
たいそうなボロアパートだったがなんとか住む部屋をみつけ、引っ越しも終り荷ほどきをしている最中だった。
いきなり黒い猫が部屋の中までずかずかと入って来た。
なんとまあ人馴れしている猫かと思ったが、祥一郎も私も猫は嫌いでは無いので、その新居に住み出してからも、クロと名付けたその猫になにくれとなく世話をしていた。
クロは元々野良だったが、どうせ誰かに飼われていたのだろう、人を恐れることは全く無く、自分のテリトリーの中であちこちの人間に可愛がられて餌をもらっていたようだ。
私達と仲良くなってもずっと部屋に居る訳では無く、表に出てはあちこちの家に挨拶にまわり、言ってみれば半野良状態。
それでも祥一郎が大変可愛がるので、その内に滞在時間が長くなり、冬の夜などは大概私達の部屋で寝ていた。
ただ閉じ込めておくと、やはり元野良なのでフラストレーションが溜まるらしく、表に出せと騒ぐので、
純粋な家猫にはなれないようだった。
そんな折、以前にも書いたが部屋の屋根が雨漏りするようになり、大家と揉め出してこの部屋を出ることになった。
さて、クロはどうするか。
祥一郎は連れて行きたがったが、すぐ近くの部屋に引っ越すのでまた逢いに来ればいいこと、私達が居なくなってもそこらじゅうに可愛がってくれる人は居る事、半野良だからテリトリーから離れるのはクロにとっても辛いだろうと祥一郎を説得し、新居には連れて行かないことにした。
さて新しい部屋に住み出して暫く立った頃、私はクロに逢いに前の部屋辺りに探しに行った。呼ぶとすぐどこからか出て来て挨拶してくる。
ひとしきり再会を喜んだ後、私が帰ろうとすると着いてくる。
「もう、帰りな。」と手を振っても、追い払おうとしてもいつまでも着いてくるのだ。
結局新居まで恐る恐る付いてきて、部屋の中で久しぶりに餌をやる羽目になった。
しばらく部屋で遊んでいったあと、私はまたクロを連れて元の場所まで案内してやり、部屋に戻った。。
人間の足なら歩いて10分くらいの近所だが、猫にしたらけっこうな距離だったと思う。クロの大冒険だ。
この話を祥一郎にしたら、今度は祥一郎が抱いて連れて来た。
同じようにひとしきり遊んだ後、祥一郎はまた抱いて元の場所に返しに行った。
ところがどうだろう。
今度はクロが自分ひとりで、道を覚えたのだろう新居にやってくるようになった。
なんということか。
猫はあまりテリトリーから出ないはずで、他の猫とも争いが起きるはずなのに、ひとりでやってくるようになったのだ。
そんなことが続いた内、どうやらクロはこの部屋周囲を自分のテリトリーに決めたようで、根拠地は私達の新居になった。
当然今まで居たその辺の猫達としょっちゅう喧嘩しては、傷だらけで帰ってくる。それを祥一郎は抱き上げ慰め、薬まで塗って可愛がっていた。
私は内心(どうしたものかなあ)と思っていたが、もう昔のテリトリーに戻る気はないようで、祥一郎も喜んでいるので私は諦めることにした。
それでもクロは懲りない猫だ。
新しいテリトリーでも表に出たがり、また喧嘩して戻ってくる生活の繰り返し。
祥一郎はますますそんなクロが愛おしかったのだろう。それこそ猫可愛がりしていた。
私が仕事で居ない間は、クロが唯一の祥一郎の遊び相手兼、話し相手だった。
5~6年も経った頃はもう新しいテリトリーにも馴れたようで、友達の猫もできるようになった。
しかし周囲に猫嫌いの住人が居るので、部屋に居る時間は以前よりは格段に多くなった。
もう祥一郎とべったりの生活が続いて行った。
そして・・・・祥一郎は居なくなった。
クロは何を思うのだろう。
あの日、祥一郎が倒れた玄関先で狂ったように鳴き叫んでいたクロ。
そしてがらんとした部屋の中で、誰かを探すように鳴きながら歩き回っていたクロ。
寒い日などは、ずっと膝の上で寝かせてくれる人が居なくなったクロ。祥一郎の胡坐の上はさぞかし居心地がよかったのだろう。
今はもう、あの二人と一匹の生活は無い。
私が仕事で居ない間、クロは祥一郎の魂とまだ触れ合っているのだろうか。
ときおり虚空をみつめ、突然ひと声鳴くことがある。何をその瞳で見ているのだろう。
大丈夫だよ、クロ
お前はおっちゃんより多分早く、祥一郎に逢いに行けるはずだ。
後から行くおっちゃんを祥一郎とふたりで待ってておくれ・・・・・・・・