誰かの為に生きる・・・・・・・
誰かが居るから生きていける・・・・・・
なんと素晴らしい事だろう。
祥一郎と出逢う前、私は勿論そんなことは想像もしなかったし、この先そんな経験をするとも思わなかった。
独りで勝手気ままに暮らし、一人で好きなものを食べ、一人で遊び呆け、誰かのために何かをする、誰かの為に気持ちを割くなどという発想自体が無かった。
少しばかり寂しければ、友人がやっているスナックに飲みに行き、たわいもない会話をし、したたかに酔って帰り誰を気にする事も無く眠りにつく。
男と遊びたければ、それなりの施設があるのでそこで発散し、たまには短期間付き合う事も有った。
それでも一緒に暮らしたいと思ったことは無いし、自分のこの自由な時間を手放そうなどとはゆめゆめ思わなかった。
寂しい孤独だ、人肌が恋しいなどと殆ど感じたことが無かったのだ。
もちろんこの自由な時間がある見返りに、一生独りで暮らし、誰にも看取られずに死んでいくのだろうというそれなりの覚悟はあった。
親兄弟、親類縁者など、何年かに一度会うくらいで、どうしているのだろうと心配すらしたこともない。
別に最初からそんな人生観を持っていたわけではないが、環境が私をそうしていったのだと思う。
そんな自分に何の疑いも抱かずに、30代半ばまで過ごしてきた。
そんな私が、祥一郎という運命の人と出逢い、徐々に絆が深まり、家族だと思えるまでになるなんて。
人生はどこでどうなるか本当に見えないものだ。
私がどんな境遇になろうとも、決して別れることなど有り得ない、別れたいとも思わない人と、共に暮らすことができたなんて。
別にどちらの生き方が正しいというつもりはない。
しかし、人と人との触れ合いや温もりを感じながら、家族として暮らすという世間には普通に有るが、私には縁遠かった暮らしをすることになり、私の今までの人生観はまったく様変わりした。
何をするにも何を考えるにも、祥一郎の存在が中心になった。
祥一郎と二人で過ごすために人生航路の舵を切ることになったのだ。
そして20数年間、人生という海を航海していた二人が乗った船は、突然座礁沈没し、祥一郎は海の藻屑と消え、私一人が取り残された。
長い時間をかけて私の頑迷な人生観を変えていった祥一郎との暮らしは、もう失われてしまった。
そして私はやっと辿りついた岩礁に濡れ鼠のようにひとり佇み、消えて行った祥一郎のことだけを想い、何処へも行けずに死を待つだけの存在に成り果てた。
岩礁から泳ぎ出し、どこかの陸地へ辿りつこうという気持ちも微塵も湧いてこない。
いつまでもいつまでもその岩の上で佇み、海が涙で溢れていくのを見るとは無しに見ているだけ。
ときおり、あいつが消えて行った人生の海に向かって、「祥一郎!!!!!どこだ?何処に居る!?」と叫んではまた泣いている。
涙の海が満ちてきて、その岩礁を飲み込むその日まで、私はそこに居る。
きっとそこに居るに違いない。
そしていずれ広い海の中から、祥一郎を探しだす旅に出るのだろう。
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