何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

誰も乗らなくなった自転車

2016年05月20日 | 悲しい
  

住んでいるマンションの前に、まだ祥一郎の愛用していた自転車が置いて有る。

自転車置き場など設置されていないしょぼいマンションなので、私の自転車とともに雨ざらしになっている。だから傷むのも早い。

銀色のフレームの、もう誰も乗らなくなった自転車。
出勤、帰宅する度にじっとそこで誰か乗ってくれないかとばかりにそこに有る。ときにあいつが座っていたサドルを触って、切ない気持になる。

部屋の前をしょっちゅう廃品回収の車がうるさい音を立てて周ってくるが、とても処分する気にはならない。

そうだ、この自転車は一度盗難に遭っている。

確かスーパーで買い物をしているときに鍵をかけ忘れ、探しても見つからず、一応防犯登録はしてあったので盗難届を出したんだった。

それからは仕方なく購入した新しい私の自転車を二人で使い回していた。

数年経ったころだろうか、ある日警察から盗難車を回収したので、取りに来るようにとの連絡が有った。

保管場所は、赤羽から少々離れた埼玉県川口市。

いったいどこのどいつが盗んで行ったのだろう。

大阪ではしょっちゅう自転車を盗まれていた。まあそれが大阪の悪しき文化でもあるが。

でも東京では初めての経験だった。

せっかく見つかったのだからと思って、電車で現地まで行き、帰りはもうあちこち錆ついてボロついた自転車に乗って遠い部屋まで帰って来た。

傷んでいた箇所を修理してもらい、祥一郎専用にすることにした。

物には使っていた人の念が宿るという。
この自転車も何かの縁が有って、戻って来たのだろう。

それを無下に放っておくのもどうかという理由もあった。

元々祥一郎はあまり自転車に乗る奴では無かった。何処に行くにもテクテクと歩いて行く奴だった。健康のためもあったのだろう。
でも、ちょっとそこまで行くのに自転車で行く便利さに気付いて、それからは愛用していた。

以降、この小さな街で、二人が連れ立って自転車で駆ける姿が頻繁に現れることになる。

祥一郎は、公園に行くにも買い物に行くにも以前書いたフィットネスクラブに行くにも、何処に行くにもこの愛車に乗って駆けて行った。
元気に颯爽と短い脚を一生懸命漕いで、風を切って駆けて行った。
元気な頃の祥一郎・・。

そして・・・・・・・祥一郎亡き後、また誰も乗らなくなった自転車に戻ってしまった。
もう盗難から戻って来た時よりも傷んでいるだろう。

やはり物は使ってやらないと、どんどん風化していく。
前に設置しているカゴなどはもう錆でまっ茶色になっている。

(もう誰も、乗ってくれないの?)・・馬鹿な話かもしれないが、自転車がそう呟いているような気がする。

そうだ、この自転車をもう一度修理に出して、私の自転車とともに使い分けしよう。

カゴも新しいものに替えて、油を差して、錆びた鍵も替えて、散歩に行く時などに乗ろう。

新しい自転車を買った方が安くつくかもしれないが、そんなことは問題じゃない。

祥一郎の汗や匂いの痕跡があるこの自転車を復活させてやろう。ひょっとしたら祥一郎が後ろに乗って喜ぶかもしれない。(二人乗りしても警察には見えないね。)

そしてこの街をまた駆けて行くんだ。あの頃のように・・・・・・・・・

祥一郎・・・・・・一緒に夏の街を駆けて行こうね・・・・・・





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私を助けた鯉のぼり  祥一郎の支え

2016年05月01日 | 悲しい



あれはいつ頃だっただろう。

もう5~6年前になるだろうか。

私はある金融関係のことで、大きなトラブルに巻き込まれた。

そして同時期にリーマンショック後の不景気で職場をリストラされてしまった。

加えて、祥一郎と一緒に住んでいた部屋の大家と、雨漏りのする屋根修繕の件で揉めていて、住居をどうするか悩んでいた。

重なる時は重なるもので、どれひとつとっても大きな問題だった。

これだけ重なると、さすがに私も参ってしまい、酷い鬱症状が現れ出した。
心臓を鷲掴みにされているような感覚、腕が痺れ、何をする気力も無くなり、ときどき大声を出す、泣きわめく等のパニックを起こすようになった。
一日中部屋のソファーで横になり、まるでゾンビのような状態になってしまった。

やっと見つけた近所の心療内科で貰った薬は効かず、眠れないので酒をあおるようになる。
精神薬と酒の同時服用が良い結果を招くわけがない。
幻覚まで見るようになってしまった。

夜中に起き出して、壁から綿が出てくる幻覚を何度も見るようになり、その度に祥一郎が、

「おっちゃん、おっっちゃん、しっかりしい!なにもあらへんで!」

と言って私を我に返してくれた。

あの時、祥一郎が居てくれなかったら、自分は本当にどうなっていたか分からない。

祥一郎は、不安が酷いときずっと手を握ってくれた。

私がパニックを起こしている時、抱きしめてくれた。

その後、私に振りかかった災難は、各方面への相談や友人知人の助けも有って徐々に道筋が見え始め、未だ完全解決に至っていない問題もあるが、なんとか鬱状態からは脱した。

ちょうど今頃の季節だったと思う。

部屋に引きこもって茫然自失している私に、祥一郎が、

「おっちゃん、公園に大きな鯉が泳いでいるよ。」
とメールをよこした。

行ってみると、子供の日が近いからだろう、何匹もの大きな鯉のぼりが風にはためいていた。

少しでも私の気分を晴れさせようとしてくれたのだろう。

しばらく二人でその鯉のぼりを眺めて、気分を落ち着かせたものだ。

あの時、あの狭い部屋であんな状態の私に、よく祥一郎は耐えてくれたと思う。
一緒に暮らしている者にとっても、パートナーがそんな状態では普通で居られないだろう。

誰かが傍にいてくれる。
その有り難さを、あの時ほど感じた事はない。


今年もそんな季節になった。

祥一郎がよく日光浴をしていたあの公園に、また大きな鯉が泳いでいる。

祥一郎・・・・・・

ありがとう。あの時は本当にありがとう。

お前が居なかったらおっちゃんは、ひょっとしたらお前より先に逝ってしまった可能性だってあったよ。

二人は紛れも無く家族だった、支え合う関係だった、それをあらためて強く感じさせてくれたね。

あの鯉のぼりを見る度、毎年お前に感謝することになるよ。

祥一郎・・・・・・お前と出逢って、本当に良かった・・・・・・いつかまた逢えるよね。

絶対逢ってみせるよ・・・・・

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「詩(うた) ふたり一緒のとき」

2016年04月27日 | 悲しい


俯いて歩く癖がついた。

徒歩でも、自転車を引きながらでも、俯いて俯いて歩く。

何かを探している?

いや、そうじゃない。祥一郎が居ないこの世をまともに見ていたくないから。

次から次へと溢れてくる、あいつへの想いで頭と心がいっぱいになり、下を向く。

そして涙が地面を濡らす。

ときおり、前を向いて歩く。

どこの誰とも知れない人とすれ違う。

何の根拠も無く、「この人は、私が今感じているような悲しみには縁がないのだろうな。」などと思う。

ごくたまに、空を見上げる。

青い空だろうと曇り空だろうと、空いっぱいにお前の顔が見えやしないかと、見上げてみる。

でも、そこに見えるのは何も変わらない、普通の空。



振り返る癖がついた。

祥一郎がよく居た公園のなだらかな坂道を登る時や、一緒によく歩いた道を歩く時、何度も何度も振り返る。

でも、そこに見えるのは家族連れや、仲の良さそうなカップル、垣根や家並み、猫が居る屋根の下や、イチジクや柿の木達。
でもそこには、その風景の隣には、祥一郎と私、二人一緒の姿はもう見えない。

それでも何度も振り返る。あの頃の二人が居るのではないかと。



溜息が増えた。

以前の溜息は、疲れていたり、生活の苦しさからだった。

今は違う。仕事の合間、部屋で家事をしている時、風呂に入っている時、祥一郎はもう居ないのだと思うと、深い溜息が出る。



ひとり、部屋に居ると音が良く聞こえる。

雨の降る音、風の吹く音、時計の音。

部屋の外を通る車の音や、お喋りしながら歩く誰かの声。

祥一郎が居た頃は、私とあいつが立てる音、生活している音で満たされていたから、他の音など耳に入らなかった。

今は、私はひとりぼっちなのだと言い聞かせるように、あらゆる音が大きく聞こえる。



日常の何気ない行動や瞬間が様変わりしてしまった。

何をしても、何もしなくても、孤独というベールに包まれ、そこから逃げ出せる事は無くなった。



でも、たったひとつ、何も気にせずにできることがある。どんな癖がつこうと出来る事がある。

それは祥一郎を想い、大声を上げて泣く時だ。

その時だけは何も耳に入らず、他の事には気を取られることも無く、ただ祥一郎を想い、泣き叫ぶ。

このままずっとこうしていたいと思いつつ、泣き叫ぶ。

天まで届けと言わんばかりに、泣き叫ぶ。

今夜もそんな夜になりそうだ。

嬉しい。そんな夜だけは、祥一郎と私はまだ一緒に居るような気がするから・・・・・・・


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「メゾン・ド・ヒミコ」を観て 不幸な人がガンになる?

2016年04月21日 | 悲しい
「メゾン・ド・ヒミコ」
という映画を御存知だろうか。

とあるゲイの男性が銀座でゲイバーを経営して、その後引退してゲイ専用の老人ホームを立ち上げ、その入居者とそれにまつわる若者たちの人間模様を描いた映画。

祥一郎がまだ元気だった頃、ケーブルテレビで放映していたその映画を最近何度も何度も観ている。

別に自分の老後を重ね合わせているわけでもなく、ストーリーにさほど感動してるわけでもなく、なんとなく観ているわけだが。

しかしその映画の中で、そのゲイ男性に捨てられた女性の娘が言う一言が妙にいつまでも引っ掛かる。

要するに捨てられた女性はそのゲイ男性の妻だったわけだが、ある日カミングアウトされて夫だった男性は消えてしまう。そして妻だった女性は心労のためほどなくしてガンで死んでしまう。

その捨てられて死んだ女性の娘がゲイの父に言った一言、「お母さんがガンで死んだのは、不幸だったからよ。」

そのフレーズが妙に引っ掛かる。

私の周囲にも、ガンになるのは良い人ばかりよ。周囲に気を使ってばかりいたり、苦労の絶えなかった人がガンになりやすいのよ、という説をとなえる人が何人か居る。

私は親戚付き合いは殆ど無く自分から避けて生きてきたが、そこそこ仲の良かった同じ歳の女性の従姉妹が居た。

自己主張が強く我の強い従兄弟達の中で、唯一その同い年の従姉妹だけは毛色が違い、おっとりして周囲に気を配り言いたいことも控える人だった。33歳の若さで大腸がんで亡くなったが。


祥一郎が亡くなる何年か前、私にとってゲイの世界で唯一といっていい親友もそうだった。

苦労人だった上、八方美人で気配りばかりする人だった。その後骨髄腫というガンで亡くなった。

少なくとも私の周囲では、苦労人で良い人と言われる人、気配りの出来る人、言いたいことも堪える人がガンで亡くなっているケースが多いような気がする。


祥一郎はどうだったのだろう。

私には言いたい事を吐き出せていたのだろうか。

私の前では、素の自分で居られたのだろうか。

20数年一緒に暮らしてそんなこともわからないのかと言われても、何十年も連れ添ったカップルでも、本当の、心の奥底の本音まで理解し合えていたと自信をもって言える人はどれほど居るのだろう。

祥一郎・・・・あの子は極端な内弁慶だった。あまり接点の無い人や、関係性の薄い人には妙に外面が良かった。

そして私の元へ帰って来ては、本音を出して愚痴を垂れ流すところがあった。そういう面では私には素の自分を曝け出せていたのだろう。

でも、100パーセントそうだったのかと考えてしまう。
ひょっとして私にも言えない、愚痴れない、甘えられない事をいくつか抱えていたのではないか。

私に気を使って、本当は言いたいことがもっとあったのに、言えずじまいだったことは無かったのだろうか。

家族同然だったのにあんなに近くに居たのにいつも一緒だったのに・・・だからこそ言えなかったことを抱えていたのではないんだろうか。

それがストレスや精神的な重荷になっていなかったのだろうか。

あいつの死んだ原因がガンだとして、それが遠因になっていたのだとしたら・・・・・・

あのメゾン・ド・ヒミコという映画の女優の一言が妙に引っ掛かるのは、最近そんなことを考えるからなのだ。

あまりに近すぎて言えなかった、それはやはりある意味不幸な事だろうと思う。

そして言おうとしてもあまりに突然の別れだったために言えなかった、そこまで考えるのは穿ち過ぎだろうか。

そう、あまりに突然の別れ。

それが故に、お互いに伝えたかった事はもう無いと、誰が言えるだろうか・・・・・。



祥一郎・・・・

少なくともおっちゃんは、ここに書ききれないほどお前に伝えたかったことが山のようにあるよ。

だから少しずつでもここに書き残していくつもりなんだ。

でも、お前がおっちゃんにまだ伝えたかったことがあるのなら、それはおっちゃんがそちらの世界へ行くまで聞くことはできないね・・・・・・・・・

それが切なく、悲しい・・・・・

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介護の仕事を続けることの意味  凍りつつある心と共に

2016年04月12日 | 悲しい



私の仕事は介護職員。

何度か書いたが、好きで選んだ仕事では全く無い。

あのリーマンショックによってその当時していた仕事をリストラされ、不景気の真っただ中、職探しに奔走することになった。

もうその頃私は齢50も過ぎていて、まともな仕事など有るわけがないと途方に暮れていた。

ハローワークに行っても、これがまともな大人の給料かという仕事ばかり。

祥一郎と二人、とても暮らしていける給料が貰える仕事など、目を皿のように探しても有りはしなかった。

有ったとしても年齢ではねられる、スキルではねられるのが目に見えていた。

そんな中ハローワーク職員に勧められ、給料が安いので悪名高い介護業界の中でも、まあましな職場を紹介された。まあ他に選択肢がなかったわけだ。

本棒がこれだけでも、まあ住宅手当やボーナスもこれだけ出るなら、以前よりかなり生活水準は下がるが、爪に火を灯せばやっていけるかなと応募し、採用されたのが今の職場だった。

介護業界の中でも最も過酷と言われる特別養護老人ホーム。そんなことは露知らず、見ず知らずの業界へ足を踏み込んだのだった。

御存じの方も多いと思うが、介護と言う仕事は感情労働だとも言う。

謂わば感情を押し殺して職務を遂行しなくてならない。

どんな仕事でもそういう面はあるだろうが、介護業界は特にその傾向が強い。
それもそのはず、認知症、それも重度の認知症の老人達何十人もを、数人のスタッフで相手しなければならないのだから。

普通にご利用者に接していても、暴言は吐かれる、暴力は振るわれる、介護拒否に遭う、陰口は叩かれる、やってもいない虐待をふれ回る、気が狂うほど同じ訴えを聞かされる、夜中の徘徊、尿漏れ便漏れの始末、数え上げればきりがない。転倒など事故が起これば全て職員の不注意。たとえ目がどうしても届かなかったとしても。

そして職員の対応がまずければ、モンスターカスタマーのような家族からの苦情がくる、それによって上司から注意を受ける、多大なストレスによって職員同士の人間関係は音がするくらいギスギスし、サービス残業をしなくては仕事が終らない。末端の職員は結婚するなどとても無理な収入。よって辞めて行く人は後を絶たない。

私はこの歳になってそんな業界に入ってしまった。

あれから三年半になろうとしている。おまけに介護福祉士の資格まで取ってしまった。

そして祥一郎の死。

この仕事は例えどんな扱いをご利用者に受けようとも、にっこり笑って天使のように振る舞わなければならない。

祥一郎の死によって今私の心は、厳冬期の湖のように周囲から急激に凍ってきている。

例えそこそこ気分が落ち着いているときでも、鏡で見る自分の表情は明らかに以前とまったく違う。
多大な悲しみが表情に染みついてしまっているのだ。柔和さなど微塵もない顔。

そんな状況で、にっこり笑って仕事ができるだろうか。
できない。今の私には到底できない。そしてその状態がいつまで続くかもわからない。

おそらく上司をはじめとした周囲からは、最低の介護職員の部類に入るだろう。そんなことは自覚している。

それなのになぜまだこの仕事を続けているのか。

理由は二つある。

ひとつは、今すぐこの仕事を辞してしまえば、私のこんな悲惨な状況にある程度配慮してくれている上司や同僚達に借りを作り返せなくなること。言葉は悪いが、その事がけったくそ悪い。

そしてもうひとつはただ生存するため。生存して祥一郎の生きた証を可能な限り残すため。
そんなこと、転職してもできるだろうという簡単な話では無い。私には選択肢が殆ど無いのだ。

祥一郎・・・・・

職場ではマスクが解禁になっても、おっちゃんは大きなマスクをかけて表情ができるだけ見られないようにしているよ。

おっちゃんの心はますます凍っていく。そして心が全部凍ってしまっていつかその重さに耐えきれなくなって割れてしまうのかもしれない。

お前と出逢う前の冷たい心とはまた違う、悲しみと喪失感を含み、お前を喪い精神が瓦解していくのに伴って凍っていくんだ。

もう誰も愛せない、誰にも優しくできない・・・・そんな人間になっていくのかもしれないね。

悲しみが多いほど人には優しくできるなんて、綺麗事には到底なりそうもないよ・・・・

お前はそこからおっちゃんを見ていても、「おっちゃん、もっと頑張って。」と言うのだろうか。

心の冷たい人間にはなりたくない。

でも、お前を喪ったあまりの悲しみの大きさに、おっちゃんの心は凍土のようになっていくのがわかるんだ。

それが悲しい・・・・・
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