何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

ふたり分の足跡

2016年05月16日 | ひとりぽっち


足跡が・・・・・

足跡が二人分、まったく違う方向から段々と近づいてくる。

そして、ある日同じ場所に二人分の足跡が向かい合っている。

その二人分の足跡は、行ったり来たりしながら、ときおり少し離れながらも、やがて同じ方向を向き、寄り添うようになっていく。

真っ直ぐの道を二人の足跡は続いて行く。

でも、ときおり曲がり路、坂道、砂利道、ぬかるんだ道などがあるが、それでもそのふたり分の足跡は寄り添いながら続いて行く。


やがて、一人分の足跡が遅れ始める。段々と足取りが重くなっていく。

もう一人分の足跡が、その周りをぐるぐる回り、あちこちの方向に少し行っては、また元の場所に戻ってくる。

そしてとうとう、一人分の足跡はもうまったく新しい足跡をつけなくなった。

もう一人の足跡は、やはりその場を小さくぐるぐる回り、動いてはいるようだが、先には進まない。

もう新しく増えなくなった足跡の周囲を、いつまでもよろけながらもう一人の足跡が同じ場所に増えて行くだけ。

まだ動いている足跡は、少し先に進もうとするが、半歩行っては増えなくなった足跡の元へまた戻ってくる。

足跡の周囲には、濡れたような跡も頻繁に見える。

うずくまっているような跡もある。

引き摺って歩いたような跡もある。

道はまだ続いている。

でも辛うじてまだ動いている足跡は、増えなくなった一人分の足跡の周囲から離れることはない。

いつまでもいつまでもほぼ同じ場所で、そこで立ちすくんでいるような、地団太を踏んでいるような跡が増えていくだけ。


祥一郎と私のつけてきた人生の足跡は、空から見たらこう見えるのかもしれない。

祥一郎・・・

そこからはお前と私がつけた人生の足跡は、どう見えるんだい?

おっちゃんは、これからどの方向に、どの道に足跡をつけていったらいいんだろう・・・・・・・。

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悲しいひとりご飯

2016年05月12日 | ひとりぽっち


納豆と何日か前に作った肉のスープ、キムチと冷凍御飯を温めたもの。

それがきょうの私の晩御飯。悲しいひとりご飯だ。

祥一郎が亡くなって、料理は封印しようと思ったけれど、激痩せして極端に体力が落ちた身体を維持するために、そしてやりたくも無い仕事をするために、悲しいけれど食べるしかない。

仕事帰りに牛丼屋やスーパーに寄ることもあるが、遠回りになるので、大概は泥のように疲れきってまっすぐ部屋に帰る。

その帰り路は薄暗い住宅街でコンビニ一軒無いので、いきおい少しは自炊じみたことをするしかない。

食べる為に生きるのか、生きる為に食べているのか、それすらわからずただ本能的に目玉焼きを焼いたり、みそ汁を作ったりしている。


あの頃は・・・・・

祥一郎が居たあの頃はそれでも何か美味しい物を、精のつくものを食べたいという欲求があった。

そしてオフの日には、その日の二人で食べる晩御飯の献立を考えて料理し、加えてポテトサラダやキンピラごぼうや酢の物、高野豆腐を煮たり、ひじきを炊いたりして、私が仕事で遅くなっても祥一郎がそれをおかずに晩御飯を食べられるように日持ちのする惣菜を作ることも多かった。

いきおい私が仕事から帰って来ても、私自身もそれを食べるので、それなりにバランスのとれたバラエティに富んだ食事が出来た。

今は、有るものを食べるしかない。

近くに牛丼屋でもあれば、きっと毎日のようにそれを食べるだろう。

それほど食事に対する欲求が無くなってしまった。

それでも以前よりは食欲は出て来たように思う。
心は食事することに拒否があるが、身体がそれに堪えられないのだろう。

食事というよりも、ただ口に食物を流しこむといった方がいいかもしれない。


皮肉にも、スカスカになった冷蔵庫には、何日分かのスープを作った鍋が丸ごと入るようになった。
あの頃は二人で食べる物でいっぱいだったので、鍋など入る隙間もなかったのに。

冷凍庫も、二人分の冷凍食品でいっぱいだったのに、今は一度に何合も炊いたご飯を小分けにして入れる事が出来るようになった。

祥一郎の食べる物が必要なくなったから・・・・・・・


私はもういつ死んでもいい。

ただ、そのいつ死ぬのかがわからない以上、生きて行くしかない。

生きるには食べるしかないのだ。

そして、祥一郎の生きた証を残すには、あいつが望んだ自分の生きた証を私が残すには、私自身が生きるしかないのだ。

そして私の虚しく悲しいひとりご飯は続く・・・・・・



祥一郎・・・・・・・・

お前が最後にスーパーで買った冷凍チャーハンや、レトルトハンバーグはまだそのままだよ。

おっちゃんはそれをいつまで残しておくのだろうね。

お前を忘れる事ができない以上、それを捨てることなど出来ないかも知れないね。

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「中華料理の晩餐  輝いていたあの頃の祥一郎」

2016年05月07日 | ひとりぽっち



私は中華料理店で働いたことがある。

専門に修行したわけではなく、宅配専門の、少々レシピと中華鍋の振り方を習えば、基本的には誰でもできる、安直な中華料理店だ。

都合7~8年くらい勤めただろうか。

大阪で勤め始めたのだがその店が閉店し、東京に舞い戻って来たのも、知人がその店のフランチャイズのオーナーをやっていて、人手が欲しいということが切っ掛けだった。
そう、今のこの街に住むことになったのもそれが理由だ。祥一郎と二人で。

もう何年も前にリーマンショックで売上がガタ落ちし、私はリストラされてしまい、その店も無くなったが。


でもまあそのおかげで、私と祥一郎と二人の食卓には、インスタントではないそれなりの中華料理が並ぶことも多かった。

マーボー豆腐、海老チリ、チンジャオロース、カニ玉、八宝菜、勿論カラアゲや、ニンニクの芽の炒め物等々、一応一通りの中華料理のスキルは持っている。勿論クックドゥなど使わない。

その中であいつが一番好きだったのは、五目あんかけ焼きソバ。
麺をこんがりきつね色に焼いて、野菜と肉エビタップリの、甘辛醤油味の餡をかける。
そこらの店で食べるとウズラの卵は一個しか入っていないが、あいつが好きだったからウズラは10個くらい入れる。

出来上がるとあいつは、自分のウズラの数と私のそれを数えて、自分のものが少ないと、「わああ、いやらしい。自分だけ。」などと言って、私のウズラをかっさらっていく。

そんな楽しいひと時が好きで、よく作ってやったものだ。

最後に作ったのはいつだったろう。もう今後、作る事は無いのかもしれない。


そういえば、祥一郎も、私の出逢う遥か以前の若い頃、大手中華料理チェーン店の東天紅という店でアルバイトをしていた。おそらく学生の頃だったのだろう。

その時の話をよく私に聞かせたものだ。

やれ厨房の中国人がムカつくだの、賄いが不味いだの、誰それの有名人がよく来ていたとか、東天紅のあれは美味しかった等々。

そしてアルバイト仲間とも仲良くやっていたらしい。その頃の楽しそうな写真が何枚も有った。

お前が亡くなった後、いくら探してもその写真は未だみつからないけれど・・・・・・・。

唯一残ったのがトップ画像に貼ってある、お前がその店を辞める時に貰った、仲間達からの寄せ書きだ。
私と出逢ってからも、大事に持っていた。

今は仏壇の上に飾ってある。もうセピア色に古びているけれど、楽しかったアルバイト仲間との触れ合いを象徴するものだから、いつまでも飾っておくつもりだ。

あの頃お前は若くて血気盛んで、自分のこれからの人生を夢見ていたんだと思う。

劇団の仕事も兼ねながらのアルバイトだったとも聞いた記憶がある。

一生懸命生きていたのだろう。
ある意味祥一郎が輝いていた時期だったのかもしれない。生活は苦しくとも、仕事と仲間、そしてまだ見ぬ輝かしい未来。

お前の遺品の中からその東天紅の誰かの名刺、おそらく上司の社員のものだろう、それがあったので一度連絡してみた。しかしもう何年も前に辞めてしまって、連絡も取れないとのことだった。

できればその人を通して、あの寄せ書きを書いてくれた仲間達にお前が天に召されたことを知らせたかったのだけれど。それは出来そうもない。



祥一郎・・・・・・

あの頃は楽しかったんだろう?でなければ、後生大事にあの寄せ書きを持ち続けていないだろうし、その当時を知らないおっちゃんに話をするはずが無いものね。


お前が生きていたら聞いてみたいような気もする。

「おっちゃんと出逢ってからとあの頃と、どっちが楽しい想い出が多いの?」と。

「そんなん、あの頃に決まってるやん。」なんて言われたらおっちゃん立つ瀬が無いな。

でもひとつ覚えておいて欲しいよ。

お前の生きた証を残すのはおっちゃんしか居ないと信じているし、誰よりも愛していた、今も愛しているのはおっちゃんだけだって。

それだけは覚えておいて欲しい。

ねえ祥一郎・・・・・・・・・・・

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ダイレクトメール  生きていることになっている祥一郎・・・

2016年04月30日 | ひとりぽっち



階段下の、ポスト、祥一郎の名前がもう消えかかっている。

あいつは毎日自分宛ての物がないか確認していたけれど、私はあまりしない。

三日か四日に一度くらいだ。
どうせ請求書と、くだらないチラシくらいしか入っていないから。

でも・・・・・

ときおりまだ、祥一郎宛てのダイレクトメールが届く。

もうこの部屋に、この世に居ない祥一郎に届く。

殆どがコスメ関係の会社からのものだ。

あいつはそれはそれは多くのコスメを通販で買ったり、ネットで試供品を申し込んだりしていたから、
今だに届くのだ。


それを手に取り、わたしはどうしていいのか迷う。

すぐ処分するのもなんだか切ないし、かといって取っておいても祥一郎はもう居ない。

結局はしばらくテーブルの上に放っておいて、やはり処分する事になってしまう。

先日 再春館製薬という会社からのDMが届いた。あのドモホルンリンクルの会社だ。

何を思ったのか、わたしはそのDMに書いてある電話番号にかけてみた。

「すいません、〇〇祥一郎宛てに届いたDMの事なんですけど。」

「はい、いつも有り難うございます。本日はお買い上げですか?」

「いえ、実は・・・・・私はこの〇〇祥一郎の同居人なんですけど、彼はもう亡くなったんです。」

「・・・・そ、それはそれは・・・・お悔み申し上げます。あの、念の為御住所を確認させて頂いてもよろしいですか?」

私は住所を伝え、

「そう言う事なので、お宅に会員登録しているのなら、抹消して頂きたいんです。」

「はい、かしこまりました。わざわざ有り難うございます。この度は本当にお悔やみ申し上げます。今までありがとうございました。」

・・・・・・・・
・・・・・・・・

というようなやり取りがあり、電話を切った。

切った後、やるせなくて切なくて涙が溢れて止まらなかった。

これからも別のDMがときおり届くだろう。

祥一郎の住所なり会員番号なりがまだ登録されていてまた届くだろう。私の知らないところで、祥一郎はまだ生きていることになっているのだ。

それを思うとなんとも言えない感情に襲われる。

やはりDMが届く度、上で書いたようにちゃんと報告した方がいいのだろうか。

その度に哀しくなるが、かといってそれをしないとまた届いてしまってその封筒を見るとはやり哀しくなる。

祥一郎・・・・・・・

おっちゃんはどうしたらいいんだい?

どっちにしても悲しい思いをすることになるよ。

だから、だからあまりポストの中を見るのが嫌なんだ・・・・

祥一郎・・・・・・切ないよ・・・・


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「風呂好き祥一郎」

2016年04月26日 | ひとりぽっち

祥一郎・・・・・・・

昨日はちょっと足を伸ばして、スーパー銭湯に行って来たよ。

先日、お前がいなくてあまりに寂しいから、職場の仲間とうちで飲み会をやって飲み過ぎて調子が悪かったから、酒を抜こうと思ってね。

お前にも献杯したけど、飲んでくれたかい?

お前と一緒に行きたかったスーパー銭湯。

風呂が大好きだったものね。

お前と暮らし始めて、お前が風呂に入らなかった日の記憶が無い。律義に絶対風呂には入っていた。


そうそう、あの初めて一緒に暮らした東京谷中のトタン屋根のボロアパートには勿論風呂が無かったから、毎日銭湯に通っていたね。

二人で洗面器に入浴用品を入れて、寒い日は息を白くして足早に通ったよね。まるで神田川っていう歌に出てくるカップルみたいに。

おかしかったのは、やっぱり二人はゲイだから、イケメンが風呂にはいってくると、お互い目配せしたり、きょろきょろしたり、そのイケメンの身体を隅から隅までチェック。
そして風呂からあがってから、

「おっちゃん、あんまりきょろきょろしたらあかんで。みっともない。」「なに言うてんの。おまえこそ。」
なんて言い合ったものだ。

おかしかったね。二人とも腐ってもゲイなんだと自覚したもんだった。

ポカポカに温まった身体で二人で仲良く帰り、部屋でアイスを食べるのが習慣だった。

本当に貧乏な生活だったけど、今となっては懐かしく楽しい想い出だ。

ちょっと出世して、風呂付のアパートに住むようになってからは、お前は食後必ずほぼ同じ時間に風呂に入ってた。

おっちゃんがどちらかというと20分位のカラスの行水なのに対して、お前はゆっくりゆっくり40分くらいかけて入浴を楽しんでた。

そして上がると、身体や顔に色々なクリームやボディローションを塗りたくって、顔パックもして、入浴はお前にとって一日で一番重要な儀式だというようにね。

入浴用の色々な石鹸や、バスクリンなんかも揃えて。とにかく風呂に関するこだわりは半端じゃなかった。

朝は朝で、朝シャンは必ずしてた。あれはちょっと薄くなってきた髪の毛の生え際に刺激をあたえていたんじゃないかとおっちゃんは睨んでたんだ。

そしてその後は、風呂掃除。
パンツ一丁で、隅から隅まで綺麗にしてくれてたよね。おかげでおっちゃんも清潔な風呂に入れていたんだ。

後で知ったけど、水周りというのは清潔にしないと悪いものが寄ってくるという説があって、それでお前は風呂掃除をしっかりやっていたんだと思う。
掃除の後は、寒い日でもちゃんと窓を開けて換気していた。

そうだ、ときおり考えていたんだ。
お前をいつか関東近郊の温泉へ連れて行って、そこで二人で新年を迎えられたらいいなあと。「そんな遠出はしんどいわ。」とか言うかもしれないけど、予約してしまえば絶対お前はついてきたはず。

結局それは言い出せずに、お前はもう逝ってしまったけれど。

足を少しは伸ばせる広いバスタブのあるマンションにはついぞ住めなかったけど、ごめんね。

それでもお前は少しでも入浴を楽しもうと、色々工夫していた。

風呂好き祥一郎・・・・・・・・・・


あの日・・・・・・お前が倒れて吐血して、体中どす黒い血だらけになってしまってそのまま病院に運ばれた。

おっちゃんは思ったんだ。

可能なら、意識の無くなったお前の身体を、風呂に入れてあげて綺麗に綺麗にしてやりたかったと。

だってお前のあの最期の日だけは、お前は風呂に入れなかったんだもの。

冷たくなっていく身体を懸命に温めてやりたかった。「祥一郎、祥一郎、戻ってこい!、戻ってくるんだ!」と叫びながら。

・・・・・・・・・・

お前は戻ってこなかった・・・・この世でお前が風呂を楽しむ姿はもう見られなくなってしまった。


大好きな風呂にはもう入れないのかな。それともお前の居る世界には、豪勢なローマ風呂でもあるのかな。それにお前は先に行っていた愛する人たちと一緒に入っているのかな。

そんな想像もしてみる。

祥一郎・・・・・・・

昨日行ったスーパー銭湯で久しぶりにおっちゃんは体重を計ったんだ。12キロ以上痩せていたよ。
貧相になった身体、そして顔は目が真っ赤で、悲しみが顔中に滲みついた表情をしていた。

おっちゃんはこの姿で生きて行くのかなと思った。それもいいさ。

それがお前を亡くした悲しみの結果なら、この身体と顔がお前を喪ったことを表現するなら、本望だとおっちゃんは思っているんだ・・・・・・・

祥一郎・・・・・・・・お前は今どこに居る?どこに居るんだい?・・・・・狭いうちの風呂だけど、好きなだけ入っていいんだよ。

祥一郎・・・・・・



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