第2幕は退職してからの往復介護の期間。
そして母の介護に専念しても良いという許しをもらえたこれからを第3幕と名付けようと思っています。
充実した日々の現役時代でした。
生徒に癒してもらいながら、コロコロと笑いの絶えない毎日でした。
そのころ要介護1の認定が退職する1年位前からはじまり、どこまで認知症が進むのか不安な気持ちを抱えていました。
1年早い退職でしたが、独居の母を体調が悪いと知りつつ月曜日の勤務のために奈良に帰るときなどは、すべてを放り出してしまいたい心境でした。
お茶や水を飲みたいと思っても、自分が動かないと誰にも手助けをしてはもらえません。
奈良での大家族を経験しているからよけいに孤独の辛さが堪えて感じられたのでしょう。
「もう、今年一杯で辞めてもいいかしら?」と連れ合いに年末に話しかけたのを思い出します。
「おう、もう良いんじゃない♪」とすんなり認めてくれました。
150年の農家の家は8部屋もある広さでした。
母が使っているのは3部屋で、北側の寒いところが居間となり、明るい日差しの部屋は座敷や広間となっていてお客さん用です。
お風呂も段差があり、母の足腰を思うとバリアフリーの家をまず思い切って新築しようと思い、これも連れ合いは二つ返事で認めてくれました。
母はこの旧い家とともに朽ちていきたいという考えでしたが、
「妹たちが故郷に帰りたいときに家がなかったらかわいそうだから、ヒロちゃんの別荘として建てるのよ♪」と説得したのです。
「ヒロちゃんの別荘の留守番をするからね~」と受け入れてくれました。
毎月の給料は生活の足しに使ったので、退職金は付録のような感覚に思えたのです。
老後の小遣いは年金があるし、まとまったお金は息子たちに悪い影響を与えるかもしれないので、現金は持ちたくありませんでした。
別荘として別の形にしておいたら、みんなが利用してくれます。
バリアフリーの家なら将来の自分のためにも!
思い通りに振舞うことが出来、ルンルンの2年半が経過しました。
まさか!
どす黒い煙がくすぶり始めていようとは・・・
すべてに恵まれている奈良の母と、実家の母は同じ大正5年生まれ。
介護にかける比重も半々なら公平だと、焼き餅もでないだろうにと思っていました。
ところが全くの計算違いだったのです。
実家のことは少しも気にかけてはいけないという掟があったのでした。
それを理解できていなかった私の負け~~
掟に従う気などさらさらないし、好きなように後は頼みますとさっさと見切り発車をしてきました。
血圧の変化もかなりあり、そう長く親孝行は出来ないと思うよとヘルパーさんの弁です。
本当に良い選択ができたと喜んでいます。
悔いのない人生なんて、選択を間違えると取り返しのつかないことが多々あります。
これでよかったんだといつも喜べる延長線上に私の人生はありました。
間違いのない選択ができたと、連れ合いの決断に感謝しています~♪
昨日は母を乗せてお悔やみに行ってきました。
「お気の毒なことで~。私よりも11歳もお若いのに~」と涙を流してお別れしていました。
認知症の母はその時はいませんでした。
元気な時の母でした。
大きな恩返しが出来たと実感できたんですよ~~
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