も~さんブログ

日常の出来事や旅日記を書いています。

12月2日 山陰の旅を振り返って No.5 出石城跡に行く

2020-12-02 07:42:23 | 歴史
昨日キャンプ場に来た時は、空いていたキャンプ場だが、夜までに多くのキャンパーが入り、良い場所は超過状態だった。
人気の無料キャンプ場なので、混雑が予想されていた。
それを見込んで金曜日の早い時間に来ていたので良い場所が取れた。
下の様に少しの空き場所を見つけてテントを張る人もいる。
荷物の運搬や炊事場とトイレは遠いが、静かで自分達の空間が出来るのも良い。

自分のテントの直ぐ下にテントを張った人もいた。
ここの場所は古墳群があちこちにあるので、斜面の中にも平坦な小さいスペースがある。
このテントの下も古墳であろう。
テントを張ったままにして、出石城跡を見に行く。
小さな町だと思っていたら、城下町は結構な広さがあった。
出石城は江戸末期、仙石氏の居住だったが、明治になって廃城令で城は取り壊された。
振鼓楼、石垣、堀は残った。
隅櫓、登城門、登城橋が復元されている。
兎に角凄い人出であった。
コロナ騒ぎが全く感じられない。
一通り城を見て回るが、城は再建された小さな城でそれほどの興味は湧かなかった。






おどろいたのはこの城下町に蕎麦屋の多いことだった。
出石蕎麦の店が50軒もある。
出石蕎麦は城主仙石氏と共に信州から来た蕎麦職人が在来の技術に、自分達の技術を加えて完成させた。
出石焼の小皿に載せて出てくる。
5一人前で、その後は好きな数の皿を注文できる。
店が多く何処の蕎麦屋に入れば良いのか迷ってしまう。
面白そうな蕎麦屋があった。
白黒の2種類の蕎麦を出している輝山だった。


蕎麦を食べて無くなれば、直ぐに係りの人が来て、追加は如何ですかとやってくる。
2枚追加注文した。

画像が無いので店のホームページから流用しました。
ここでのチャンピオンは56皿だった私は6皿だ。
蕎麦も堪能し、古い町並みも歩いた。


帰りに食料を買ってキャンプ場に戻る。

キャンプ場は更に人が増えていた。
薪ストーブを持ち込んでいるキャンパーがいた。
テストをするのに持ってきたそうだ。


高そうだな。
私には無理だ。

今日の日記
先ずはウオッシユレットの改善。
時々ウオッシュレットに繋がっている部分から僅かな水漏れがすることがある。
それも常時漏れているわけでなく、ホースが動いたときに、漏れるときもある。
ホースの接続部はフローテイングになっている。
いわゆるホースがどの位置に行っても捻れない。
漏れるヶ所は見えにくいし、常時漏れているわけでないので原因を特定できない。
接着剤で固め様とも思ったが、水圧が掛かると水は漏れやすい。
そこで安易に考えたのが、ホースの途中に蛇口を設けて、ウオッシュレットを使うときは開き、使わない時は閉める事にした。

回転ノブの開け閉めは面倒なので、レバーに変えた。

これならワン操作で開け閉めが出来る。
早速取り付けた。

少しは不便だが仕方がない。

居間の上部は開口になっていた。
それを仮に塞いで見た。
暖房効果はかなり高かった。

これを外してOSBボードに変える。

先ずはOSBボードを取り付ける枠を付けてペイントした。
乾いたところで、OSBを取り付けた。
これで暖房効率が一気に上がるであろう。


昨日スーパーに行ったら野菜が凄く安くなっていた。
キャベツが98円だった。
他にも茄子やニンジン、玉ねぎも安かった。
沢山買ってきた。
そう言えば野菜を置場所が無い。
何時も適当に置いていた。
この際、収納庫を作ろう。
廃材で簡単に作った。

今日の仕事はこれでお仕舞い。
夕食は久しぶりに鶏の唐揚げ。
いい色に仕上がった。


良い色に出来上がった。























12月1日 山陰の旅を振り返ってNo.4 農匠の郷やくの~大師山自然公園キャンプ場に移動

2020-12-01 05:51:05 | 歴史
道の駅の裏にある東屋にテントを張ったが、夜中になって寒くなり、慌てて衣類を出して追加で着た。
それからは朝の4時半まで寝られた。
霧が出れば人気の竹田城跡に行く予定だったが、天気が良いので、霧の中に浮かぶ城が見られないので中止にした。

竹田城跡展望台までの登りが厳しいと言うのも、行こうと言う気持ちが動かなかった。
小排気のカブに荷物満載での登りはかなり厳しいのだ。
テントを畳み駐車場にバイクを移動したら、車中泊で来ていたご夫婦の奥さんに話しかけられる。
今日は旦那さんと二人で車で来ているが、旦那さんはカブで旅するのが夢だと言っていた。
自分と同じ思いの人が居るんだなと思う。
トイレから帰ってきた旦那さんと暫くバイクの話で盛り上がる。
きっといつかカブ旅に出ることだろう。
昨日温泉の主人に聞いた近くにある小倉の玄武岩を見に行く。
映画のロケ地にもなった場所のようだ
30万年から40万年前に出来た京都府唯一の火山、宝山(田倉山)の噴火で流出した溶岩が冷えて固まる際に出来た1辺40から50cmの六角径の柱状節理はその独特の美しさを表現している。
夜はライトアップされているようだ。



この後、イオンで買い物をして36km離れた大師山公園キャンプ場へ向かう。
Googlemapの案内通りに行って、キャンプ場も近づいた場所に来た。道は突然、細い急な坂道に入った。
対向車が来たら車同士は交わせないくらい狭い。
最後はローギアにまで入った。
道はうねうねと曲がって登っていく。
マップだと後、450mの所まで来た
すると舗装路が突然獣道になり先に続いている。
どうしたら良いんだ。
自転車なら迷いもなく押して突破しただろうが、バイクは重いので押していけるのか?
迷ったが安全策を取って戻ることにした。
ブレーキは掛けっぱなしでギアもセカンドに入れて、何とか下まで戻った。
少しうろうろしていたら、道に3人のお婆ちゃんが話をしていた
「この近く山の上にキャンプ場がある筈ですが知りませんか?」と聞いた。
お婆ちゃんの一人が「あん日本人じや無いね。東南アジアの人なの?」と聞く。
函館訛りはあるが、東南アジア人と呼ばれたのは初めてだ。
話している内に話も通じる様になり、キャンプ場の事を聞いたら、反対側にも道があると言う。
行ったら入口には立派な看板もあった。
指示通り進んでいく。
山に向かって行く道に入った。
あれ~ゲートがあり閉まっている。

一瞬キャンプ場はやってないんだと思った。
しかし良く見ると、この柵はクマが町に降りない様に設置したものであることが分かった。
鍵は掛かって居なかった。
片側を開けて通過した。
クマが町に降りられ無いと言う事はキャンプをしているエリアの方に熊が居ると言う事だ。
危ない危ない。
細い道を随分登ってキャンプ場の上部に着いた。
本来のキャンプ場は下の広い芝生のようだが、何も指示がない。
トイレや炊事場が近い方が良い。
早速テントを張った。


静かな場所なので安眠出来そうだ。
今日は6台の車と自転車が1台。
それに私のバイク。
自転車は更に上まで押して登っていった。
後から行ってみたら上にも炊事場があった。
その辺り一帯は桜の木がかなりの本数あった。
桜のシーズンは混みあいそうだ。
でもここの桜の木は肌が病気なのか、あの独特の艶のある木肌では無かった。



今日の日記
今日は居間の上部を塞ぐ作業をする予定だった。
しかし北斗市の某さんの奥さんから、DVDが再生できないし、録画も出来ないと言う。
行く事になった。

まず実家に寄っていく。
週一度は自遊旅の食料費の清算がある。
領収書を付けて提出する。
今週は3600円。
妻が持ってきたのは3300円。
300円足りない。
あらそうと言う感じで300円追加。
毎月月始めはささやかな小遣い支給日。
支給日何だけど----。
あらそうなのと言う感じで持ってきた。
誕生日プレゼント頂いたバイク用のジャンバーが暖かったので下も欲しいと思い、聞いたら買った店が分からない。
娘からワークマンでしょうと言われ、分かった様だ。
この年になればお互いボケてくる。
まあそう思って生きていこう。

北斗市の某さんの家に行く。
DVDの再生も録音も出来ないと言う
再生しようとDVDトレイをオープンしたが全くトレイが開かない。
これは重症だ。
最初から設定をやり直す。
まずはDVDの再生が出来た。
次に録画の何度も設定を繰り返して30分くらい経って録画も出来たのでほっとした。
旦那さんは電気は全く弱いと頼りならない。
バイクを持っていて、125ccハンターカブ。
今年は300km走って来たそうだ。
旅の話になり、退職して2日目に夫婦で屋久島に行って縄文杉を見てきたそうだ。
私は2003年と2004年に屋久島にそれぞれ1ケ月滞在した。
一番好きな場所である。
先日乗せたヒッチハイクのドイツ人も一番好きな場所と言っていた。
来年は九州一周を計画している。
南に行くのはこれが最後だろう。
屋久島まで行けるかな。
DVDシステムも直っておいとまする。
お土産を貰った。
かぼちゃ餅があった。
すいとん作れるぞ‼️

実家からは期限切れのトバを貰った。
全く大丈夫だ。

帰りに北斗市のせせらぎ温泉に浸かって帰る。




















11月29日 山陰の旅を振り返る No.2 フェリーは退屈

2020-11-29 07:10:16 | 歴史
夜遅くフェリーに乗ったので、少し飲んで直ぐに寝てしまった。
バイクの走行も250km位なので相当頑張ったので疲れている。
朝起きればもうインターネットに繋がらない。
能登半島を越えるまでは繋がらないようだ。
朝起きて船内を一回りしても人とは殆ど会わない。
ツーリストの定員は12名なのに、私一人だけ。
コロナの感染防止での処置なのか、乗っている人が少ないのか。
船の窓からは大海原が見えるだけで、その景色は一向に変わらない。

こんな事もあろうと1冊の本を持ち込んでいた。

ペリーが来て開港する以前に多くの外国船が禁を破って日本に近づいていた。
当時の日本周辺の海は鯨が多くいて、アメリカの船も捕鯨に来ていたが、食料や水の補給をしたいのだが出来なかった。
彼らは数ヵ月に渡って捕鯨をするので、補給は重要な項目だった。
当時の日本の漁業は遭難が多く、大海に流され外国船に救助される事が度々だった。
ジョン万次郎もその一人だ。
彼はアメリカに渡り捕鯨技術を学び後に日本に帰ってくる。
函館にも来ており、函館の鯨塚には彼の名が残る。
多くの救助された漁師を日本が受け入れるのは、何処の港でも良いと言うことが無かった。
わざわざ長崎まで行かなくてはならない。
捕鯨を中断して長崎まで漁師を送り込むのは、大変な事だった。
しかしその時には食料や水の補給を受けた様である。
長崎まで送るのが大変なので、日本の近くで小舟を与え、漁師を乗せて日本に返したと言うアイデアも生まれた。
日本人が船で入国するのは問題無かった。
そんな本をずっと読んでいた。
途中の上りと下りの船がすれ違うときにボーと汽笛を鳴らす。
退屈なので見に行った。

夕食は船内のレストランで摂った。
昼もそうだったが若い男性の二人連れがいつも外のオープンデッキに食事を持ち込んで、楽しそうに会話しながら食事していた。
良い雰囲気だ。

かつ定食を地域クーポン券で食べた。
フェリーのレストランは高そうで、いつもは食事する事は無いのだが、意外と安かった。
肉厚のかつは美味しかった。
地域クーポン券は2日しか有効期間がない。
2日目の舞鶴に着くのは夜だ。
店が開いているか分からない。
残った分は船内の売店で消費した。
少し高めだが仕方がない。
夜8時過ぎに30分早く舞鶴港に着いた。

下船もスロープは急で更に照明も暗い。
一緒に乗っていたバイクの人に、よく転ぶ人も居るんですよと言われ緊張感全開。
慎重に下って無事下船。
ターミナルの外も暗くて寂しい。
事前調査ではこのフェリーターミナル付近に公園がある筈だったが全く分から無い。
結局、道の駅「舞鶴とれとれセンター」に行く。
もう閉まっていて真っ暗だ。
大型トラックが多かった。
エンジンがかけっぱなしだったが、気にせずにバス添乗員控え室の前にテントを張る。




今日の日記
今日は旅でのバイクの不具合を直した。
旅用にLEDライトを追加した。
古いカブは兎に角ヘッドライトが暗い。
特に暗いトンネルに入ると、左側の歩行者用の段差が見えず危険だ。
そこでトンネルの左側を照らすライトを付けた。
効果は有ったが、スイッチの位置が右手ハンドルから離れていて操作がしにくかった。

スイッチの左側に付いていた時計も旅の中で手が強当たり取れてしまった。弱いのは想定している100均だ。
この復旧も兼ねて改善を図った。
時計は台座に穴を明け、ボルトで固定した。


再取り付けを行った。

これで右側の赤いスイッチが、アクセルハンドルを離さないで操作が可能になった。
明日はLED照明の位置も変える。












































































11月26日 年金処理に喪中ハガキ製作

2020-11-26 18:44:02 | 歴史
喪中ハガキを作らなくてはならない。
何時もパソコンで1年間の我が家の状況を、知らせるのが例年だ。
カラー写真で楽しい年賀状なのだが、今年は喪中ハガキになる。
白黒の印刷は味気ない。
印刷リストを作って実家に行く。
妻の方の関係者に出す出さないの確認だ。
数量も確定したので郵便局で喪中ハガキを購入。

故人の後始末も後は年金処理で終わる。
旅以来のバイクで行く。
誕生祝いで貰ったバイクジャンパーは暖かい。
半袖のインナーと薄いフリースを下に着ただけで暖かい。
これなら冬も走れるかも知れない。
年金事務所に行ったら予約制になったという。
でも窓口はかなり空いている。
粘っていたら手続きしてくれることになった。
沢山の書類を持って行った。
八雲町からの指導で用意したのだが、年金事務所とは用意するものが違う。
無駄に資料を用意した。
結局足りなかったのはマイナンバーカードのコピーだった。
帰って喪中ハガキの宛名書きで夕方まで作業した。
70%は出来たかな。