第二章:呉の興隆 罪人を将とす
包胥は、目の前の光景を惨状と捉えた。しかし
その光景は、闔閭や伍子胥にとっては勝利
の証である。
敵将の首を掲げ、それを衆目に晒すということは、
一方には口惜しく、もう一方には清々しい行為
なのである。
しかし、殺された本人に思いを寄せる者は
あまりいない。
このとき包胥は、鐘吾の城門に晒された属庸
の首級を奪おうとして、あえて攻撃を仕掛けた。
呉軍の主力はすでに撤退し、城内には守備隊
が残されているだけである。
しかし包胥は、城を取り返そうとはせず、
城門付近の敵兵を蹴散らすのみに留めた。
属庸の首を奪還することだけを目標と
したのである。
そしてそれに成功すると、鉾を収めて撤退した。
「危険を犯して、わざわざ首を確保したのは
なぜだ」 奮揚の問いに、包胥は真剣な表情
で答えた。
「こういうことこそ、私が追い求めている『道』
なのだ。もちろん、この鐘吾には属庸以外
に命を落とした者がいるだろう。
できることならそのすべてを保護し、安全な
ところに葬ってやりたいが……いま私にできる
ことはこれだけだ。
生前の誇りや人格は無視され、切り落された
首が晒されるなんて……あまりにひどい。
奮揚どのは、そう思わないか」
「しかし、戦争とはそういうものだよ」 「だからこそ、
否定したいのだ。
無論、私も自分の力はわかっている。しょせんは
蟷螂とうろうの斧を振りかざしているに過ぎない
……だが、私はそれを振りかざし続ける男で
ありたいのだ」
奮揚は納得した。いかにも包胥らしいことである、と。
「奮揚どのに聞きたい。呉軍はこのまま楚の
内部に侵攻するつもりだろうか」
包胥は聞いたが、その答えは明らかである。
呉軍の主力は、すでに撤退していた。「次に
どこに現れるかを聞きたいのだろう。それは
私にも、わからぬ。
しかし明らかなことは、我々を翻弄することが、
彼らの狙いであること。次に現れる場所を
特定させず、我々の兵力を分散させることだ」
「だがそうとわかっていても、我々には国境
付近の警戒を解くことができない。それらを
見放して郢の防衛に集中すれば、国を守る
こと自体はできよう。
しかしそれは人道上、許されぬことだ。我々
が守るべきは、あくまで人であり、国という
仕組みなどではない」
包胥は相手の意を知りながら、あえてそれに
正面から付き合うというのである。
奮揚はそれに理解を示したが、将来への
不安を感じたことも事実であった。
「包胥どのの言うことはわかるが……長い目
で見れば、国を守れなければ人々の暮らしも
守れない。
あえて言わせてもらうが、君の愛する嬴喜さまも
守ることはできないぞ。
彼女は……言うまでもないことだが、国の中心
にいるのだ」
「わかっている。そのときのことも考えてある。
人を救うものは人であるが、国を救うものも人だ。
人の縁こそが、国を救う。……
相手の意志が我々を奔命に疲れさすことに
あったとしても、最後には撤兵させる手段が、
私には残っているのだ」
包胥はそう言い、自信に満ちた表情を見せた。
絶対に成功する確信がありそうな表情のように
奮揚には見えたが、それがどのような手段
なのかを、彼は知らない。
※
年が明けて間もなく、孫武は闔閭を説き伏せて
再び楚に侵攻した。
伍子胥ははやる気持ちを抑えながらも、孫武
の戦略に付き合っている。
「楚国の内部、奥深くに侵入する日はいつに
なるのか。間違いなくその日は来るのだろうな?」
「いずれは来るさ。しかし、私がそう考える理由を、
君に知らせるわけにはいかない。……
これをもちうるに事を以てし、告ぐるに言を
以てすることなかれ(犯之以事、勿告以言)、
と言うだろう?
将たる者の仕事は、任務だけを知らせることだ。
あまり仔細を語り過ぎると、人は得られる利益
ばかりでなく、その危険をも知ることになる。
人はそれによって尻込みし、その結果、
命令が徹底しなくなるのだ」
「それは時と場合によるだろう。ましてそれは
主に兵士に対して、将がとるべき態度だ。
私には教えてくれてもいいだろう」
伍子胥は恨めしそうな顔をして、そのように言った。
これは、すでに軍事の主導権が孫武の手に
あることを認めたことを示している。
「まあそう言うな」 孫武はそう言って、
取りあおうとしない。しかし、伍子胥もそれ
以上言おうとはしなかった。 …
…
一般病棟の大部屋に移り、他人がいるという
新たなストレスが加わったものの、だいぶ身体
が動かせるようになり、肩こりもなくなり、楽になった。
看護師さんと主治医が、さまざまな書類を
持ってきてくれて、説明を受けたり読んだり
サインしたりする。
本来、入院申込書は入院前に記入する
ものだが、救急車に運ばれての緊急入院
だったので、あとになった。
会計の係から、入院費の説明があった。
そこそこ高額になるから、医療費を少しでも
免除するために、加入している保険のほうから
必要な書類を取り寄せてくれ、と話をされた。
私は日本文芸家協会を通じて文芸美術国民
保険組合というのに加入していた。数年前から
こちらに保険料を払っている。
文芸美術国民保険組合のHPを見たら、メール
でやり取りできるようだったので、「国民健康
保険限度額適用認定書」申請の書類を自宅
に郵送してくれるように連絡する
。病院の会計の方によると、支払いは退院時
にしなくても、今月中でいいとのことだったので、
退院してから申請書を送ることにした。
今、印鑑持ってないし。 3食ごはんが出てくる
生活は優雅だが、頼むから少しでも入院費は
安くなって欲しい。
綿のパンツの素晴らしさと自分の心臓の恐ろしさ
夫が家からパンツを持ってきてくれたので、
紙パンツを脱いで、普段履いている綿の
パンツを身に着ける。 快適すぎて感動した……。
当たり前に履いている綿のパンツが、これほど
までに肌にストレスを与えない、心地よさだった
とは! 今まで君の素晴らしさに気づかなかった!
ありがとう綿パンツ! と、パンツに感謝する。
ちなみに通販で10枚3000円で購入した、
安くて地味で臍まで隠れるパンツだ。
綿パンツ最高! と、歓喜する。
書類を持ってきてくれた際に、主治医と話をした。
ICUを出てから、しんどくなったりもしないし、
調子はいい。
ただ、念のために幾つか検査はしますとの
ことだった。
衝撃だったのは、「病院に運ばれた時点では、
心臓の一部が、ほとんど動いてなかったんです。
今も完全とは言えないし、まだ弱いけど、だいぶ
動くようになっています」と言われたことだ。 …
…心臓の一部が、ほとんど動いてなかった。
身体は楽になっていたし、「ネタにしてやる」と
考えていたり能天気でいたのだが、あらため
て大ごとだったのだと思い知る。
そりゃ心不全て、心臓の動きが悪くなり命を
縮める病気だから、大ごとだ。
「心臓カテーテル検査はしたほうがいいな」と、
主治医が言うので、なんなのかわからないまま、
私は「はい」と頷いた。
あとで調べたり説明を受けたら、手首や頸部
などに局部麻酔をし、血管から管を通して
心臓の検査をする……って、血管に管!
心臓まで管! って、少しおののいた。
ごはんは美味しいけれどBさんは煩わしい。
洗ってない頭は痒くて不快だし、同室の人たち
はやたらうるさいし、心臓カテーテル検査は
怖いし、私は今後退院しても大丈夫なのか、
普通に生きていけるのかと不安はあったが、
今日もご飯は美味しい。 昼に卵焼きが出たのが、
嬉しかった。
iPadは来たけれど、すぐに活字を読む気に
ならず、鏡で自分の顔を眺める。 やはり
エクステしたばかりのまつげはバシバシだ。
当たり前だが、ずっとスッピンで、化粧はしてない。
ずいぶんとシミが増えたな、シミ取りしたほうが
いいかなとか考えながら自分の顔を眺めていた。
コロナで面会NGなのは、ありがたい。
洗っていないぐちゃぐちゃの髪の毛、シミだらけ
のすっぴんなんて、知り合いに見られたくない。
風呂も入らず、濡れタオルで拭うぐらいなので、
身体が臭かったらいやだ。
AさんとBさんは仲良しらしく、ずっと大声で
話していて、内容も丸聞こえだ。個人情報も
へったくれもない。
「窓際がいい!」と騒いでいたBさんは、看護師
さんが出ていった瞬間、何かしら愚痴と悪口を
発していて、改めて関わりたくないタイプの人間
だと思った。
ある看護師さんが立ち去ると、BさんがAさんに、
ひとしきりその看護師さんに対する文句を言った
あと、「あの人な、あの年でまだ結婚してへんねんて!
独身やねんて! やっぱりあかんなぁ」と続け、
Aさんが「最近は多いで、そういう人」と答えた。
出た! 結婚差別!
結婚してようがしてまいが、看護師の業務に
何の関係もない。
「あの年でまだ結婚してへん」というのは、40歳
になる直前で結婚した「晩婚」の私が、さんざん
言われたり、思われたりしていたことだ。
普段、私は出版業界の片隅にいて、接する人も
物書きだったり編集者だったり、あと若い人は
それなりの教育を受けているので、ジェンダー
問題などに敏感な人たちが多い。
そうなると、仮に結婚してないことであれこれ
思ってはいても、はっきり口にする人は少ない。
そもそも私の同世代って、独身も、離婚経験者
もめちゃくちゃいるし。
とはいえ、一歩、「世間」に出てみると、まだまだ
未婚であることで、何か劣っているような言われ
方をされるんだなと、現実を見せられた気になった。
……
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