歌:加門亮
作詞:麻こよみ:作曲:森川龍
風が出て来たね 夜も震えてる
おまえの肩先 抱き寄せる
たとえどんなに 愛していても
世間が許さぬ 恋がある…
この手に奪えぬ 腑甲斐(ふがい)なさ
髪の匂いが せつなく揺れる
むかしむかし、味真野(あじまの)の里の文室(ふむろ)
という所に、円海(えんかい)という長者がいました。
ある時、その長者が水無川(みずなしがわ)のほとりを
歩いていると、川原に見た事もない大きな赤牛が寝て
いました。
「これは、何と大きな牛じゃ」と、感心していると、
次の日も同じ牛がいるので、「はて、飼い主はいない
のだろうか?」と、不思議に思いました。
そしてその次の日も、やっぱり牛は同じ所にねそべって
います。
長者は立ち止まって、その牛をつくづくながめると、
「ははーん、きっと底なしの大食らいじゃから、
捨てられたのだな。よいよい、わしが面倒をみてやろう」
と、言いました。
すると牛はむっくりと起きあがって、うれしそうに
体をすり寄せてきたのです。
「おお、わしの言葉が分かるとは、感心じゃ」
喜んだ長者は、そのまま牛を家へ連れて帰りました。
さて、この牛は毎日、まぐさを山ほど食べては寝て
ばかりいたので、『なまくら牛』と呼ばれるように
なりました。
その頃、都では、法皇が三十三間堂という大きな
お堂を建てる事になって、その棟木(むなぎ)に使う
大木を山から都まで運ぶのに国中の力持ちを
集めていました。
ところがどんな力持ちが引いても、大木はびくとも
しないので、「さて、どうしたものだろう?」
と、役人たちが困っていると、
「それなら、円海長者の大牛に引かせてみたらどう
だろう?」と、言う者がいました。
それでさっそく、円海長者の所へ使いが出されました。
話を聞いた円海長者は、(さて、あのなまくら牛に、
そんな大仕事が出来るだろうか?)と、
心配になりましたが、それでも大牛の鼻づらをなで
ながら言いました。
「お前の力を見せる時が来たぞ。せいいっぱい頑張って、
働いて来ておくれ」
すると牛は、のっそりと小屋から出て庭石によだれで
字のようなものを書くと、門の外で待つ役人のもとへ
歩いていきました。
役人が力試しにと、三かかえもある大石を牛にくくり
つけました。すると牛は、平気で大石を引きずって
いきます。
「おお、これはすごい!」感心した役人たちは、
さっそくその牛を長者ともども若狭(わかさ→福井県)
の国へ連れていきました。
さていよいよ、大木を運ぶ日がやって来ました。
円海長者は、そわそわと落ちつきません。
たくさんの見物人が集まるなか、牛の体に大木を
くくりつけた太いつなが何重にもまかれました。
ここまで来た以上、もう後戻りは許されません。
「よし、いいか。わしの気合いで一気に引けよ。
わかったな。そーれっ!」
長者は大きなかけ声とともに、力一杯たずなを
引っ張りました。
大牛は足をふんばって頭を下げると、グイ、グイ、
グイーと、つなを引きました。
するとそのとたんに、ミシ、ミシ、ギギーと、
大木が動き出したのです。
長者は、顔をまっ赤にして応援しました。
「そーれっ! そーれっ!」
そして見物人たちまでが、それに合わせてかけ声を
おくりました。
そしてそのかけ声に合わせるように、ズズズーッと、
大木は若狭の山を下り、都へと無事に引かれて
いったのです。
これを知った法皇さまはとても喜んで、円海の牛を、
「日本一の力牛じゃ!」と、ほめたたえました。
それからそのほうびとして、たくさんの土地を飼い主
である長者に与えたのです。
大牛がよだれで文字を書いた庭石は『よだれ石』として、
今でも文室(ふむろ)の正高寺(しょうこうじ)に
残っているそうです。
おしまい
故人が残したブログやSNSページ。生前に残された最後
の投稿に遺族や知人、ファンが“墓参り”して何年も
追悼する。ただ、残された側からすると、故人のサイトは
戸惑いの対象になることもある。
翌年には腎臓障害が悪化して腎不全となる。
数日ほど胸焼けすると感じていたら夜中に突然吐き気が
襲い、息がほとんどできなくなって救急車を呼んだ。
そこから週に3度の人工透析が始まる。
動脈から血液を採りだし、ろ過装置(ダイアライザー)
を通して静脈に戻す。前準備や透析後の止血の時間を
含めると1回当たりおよそ5時間。
透析外来を怠ると待っているのは死だ。その数年後には、
うおのめが元で壊疽が始まり、左足も切断する手術を
受ける。
これで両足が義足となりなす。 なんか、生きたまま
ユウレイになる気持ちです。
(だってユーレイには足が無い。あははは。)
(落下星の部屋 「左足切断」より)
身体障害者手帳の障害名欄には、
「疾病による両下肢機能の著しい障害(両下肢欠損含む)
(2級)」と「糖尿病による自己の身辺の日常生活活動
が極度に制限されるじん臓機能障害(1級)」の
文字が並んだ。
失明や両足切断は行動の制約を生み、週3回の透析外来
は働く時間の制約に直結する。
長年勤めていたプラネタリウムからも身を引くしか
なくなり、職場を依願退職した。以来、職にはついて
いない。
重度の障害により受け取れるようになった生命保険の
保険金が生活をつなぐ命綱となった。
「落下星の部屋」を立ち上げたのは退職から1年近く
経った頃だ。
当初からコンテンツは糖尿病関連の記事が中心で、
相互リンクも同病を患う人が中心だ。
サイトのコンセプトは「人工透析」の締めの文章から
読み取れる。
現代の医学では糖尿病はなおせません。進行を遅らせる
だけでせいいっぱいなのです。 厳しい言い方ですが、
それが現実なのです。
これ以上悪くしないために、日々努力を重ねる覚悟で
いないと…… 私を「おろかなやつ」と笑って結構です。
でも、あなた自身は絶対に同じ道をたどらないと約束
してください。本当にお願いいたします。
(落下星の部屋 「人工透析」より)
自分の自堕落ぶりや甘さも含めて包み隠さず伝えること
で糖尿病の怖さを伝えたい。
そのワンテーマに絞って淡々と更新していたから、
その後も病気関連以外のコンテンツを大幅に増やした
痕跡はない。
当時、掲示板等で落下星さんと交流していたある男性は
こう述懐する。
「落下星さんと知り合ったのは状態が悪くなった
あとです。亡くなることも覚悟していたので、自分の
悪かったことも躊躇なく語っていたと記憶しています。
自分の半生をほかの患者に知らせることで、自分の
ようにならないようにと言っているようでした。
しかし、卑屈になっているのではなく、強い方だなと
思っていました」
文章全体からどこかのんきな雰囲気が伝わるのが
落下星さんのユニークなところだと思う。
サイト立ち上げの3カ月後、左目から眼底出血した際の
日記も“らしさ”がよく出ている。
うーん。いくら脳天気な私でも、そろそろ最悪の
シナリオに対して策を考えておかないといけないな。
とはいっても、昔買っておいた「ドキュメント・トーカー」
という音声読み上げソフトをインストールして悦に入って
るんじゃ、あんまり深刻になっているとはいえないな。
(^_^;) 性格異常なのかもしれないけど、そのときどきで
楽しめることを見つけられるから落ち込まないですむ
のかもしれない。(^_^)
しかし、悔いが残るのは買ったばかりのデジカメ。1
枚も撮影しないうちに使えなくなってしまった。
いや、やっばり目をなおさなくちゃ。
一瞬、ここまで来たらアルコール解禁にしようと思った
がデジカメを使えるようにしなければ…… (
落下星の部屋 「左目も眼底出血」)
最終的に左目の失明は免れたが、書いているときは
結果を知る由もない。それでも終始この調子を
貫いている。
それが表現上だけの強がりではないことは、この数カ月
後に、旅行先で透析外来を受け付けてくれる病院に
予約を入れ、仲間と連れだって沖縄旅行に出かけた
ことからもわかる。
現状を受け入れて「その時々で楽しめることを見つけ
られる」性分なのは間違いなさそうだ。
デメリットを承知したうえで楽しさをとることが
多かったのかもしれない。
アーカイブに残された日記の断片を探っているとこんな
記述をみつけた。
昨夜、NHKで老人のリハビリに関する番組をやっていた。
歩ける可能性のある老人から、車椅子を取り上げる。
すると、しかたなく歩くようになり、生活そのものが
リハビリになって、回復が早まると言う内容。
卒中で麻痺していたのに、再び歩けるようになるのは
よいことだが、老人にとって楽なのは車椅子のはず。
残された人生、辛いリハビリに耐えて歩くか楽して
寝たきりになるか、本人の選択に任せるべきじゃないか
と思った。
寝たきりになるのが、必ず不幸とは限らないのではないか。
(落下星の部屋 「日記」より)
もちろん病状は悪化させたくないし、できる限り摂生に
努めたい。実際、「食事療法」のページからは病状悪化
を抑える食生活へまじめに取り組む姿勢がうかがえるし、
病院から下肢を切断した患者にリハビリを勧めるよう
に頼まれるなど模範的な患者の一面もあった。
サイトを立ち上げた頃は70歳頃まで生きる意識を持って
いた可能性がある。「亡くなることも覚悟していた」の
と同時に、長く生きる希望も抱きながらサイトを更新
していたのではないか。 ・・・
しかし、2002年の秋頃にはそんな長期的な展望が見え
なくなってしまったのかもしれない。
ところで、やっぱり「酒」もやめられない。(^_^;)
酒の悪い事は十分承知しているのだが、そして、この数年、
なにか特別な日にしか酒を飲むことはなかったが、
今日は飲みたくて我慢できなくなってしまった。
言い訳すれば、いろいろ言えるだろうが、結局は意志
が弱いだけなのだろう。ウイスキーを買って来て
しまった。もう、やめられないだろうなぁ
(落下星の部屋 2002年9月28日の「日記」より)
最後の日記は現在も読める。亡くなる半月ほど前、
2002年11月3日にアップされたものだ。
落下星さんの死は掲示板の投稿により読者の知るところ
となった。サイト上でも交流していた幼なじみの男性
による書き込みだった。
当時の「落下星の部屋」は落下星さん宅のネット回線
を提供しているプロバイダーのホームページサービス
を利用していたため、遺品整理の過程で回線契約を
終了した時点で消滅する運命にあった。
しかし、この男性がサイトの内容を丸ごとコピーし、
自らのホームページに使っているプロバイダーの
スペースに移管したことで生き残った。
2021年2月時点では誰でも読める状態が維持されている。
author:「落下星」は小山芳久のペン・ネームです。
涙がこぼれそうなとき、前に向かって上を向いて歩こう
歌「上を向いて歩こう」は、日本でのヒットを受けて、
1963年に「SUKIYAKI」というタイトルで
全米発売され、その後、世界中で大ヒットした曲です。
なんと世界69カ国で、これまでに推定1300万枚
以上の売り上げを記録しているとのこと。
作詞は永六輔、作曲は中村八大で歌は坂本九、後に
「六・八・九トリオ」と呼ばれた三人の最初の歌でした。
詞は、永六輔さんがある日落ち込んでいる時に、
俳優の中村メイ子さんがかけてくれた言葉が
きっかけで生まれました。
「クヨクヨしててもしょうがないじゃないの、
泣きたい時には上を向いて歩きなさい」と。
確かにそうですね。辛い時、苦しい時、うつむいて
いても何も解決しません。
そんな時はね、上を向くのです。空を見上げて立ち
上がりましょう。前へ一歩を踏み出しましょう。
歩き始めると、気分がだんだん晴れてきますよ。
そして、笑顔を取りもどせます。
幸せは胸をはって歩く人につかめるのです。
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