貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・歌物語

2022年05月18日 | 流れ雲のブログ



















発売から1年ほどはあまり売れませんでしたが、
その後軽音楽の桜井潔のステージ演奏が評判になり、
それがレコードの元歌に逆流して空前のヒットとなりました。

この歌の大ヒットもあって、昭和30年代ぐらいまでは、
多くの人がジャガタラお春の名前は知っていました。
しかし、それ以降に生まれた世代では、彼女のことを
知らない人が大部分ではないでしょうか。

寛永(1624~1645)に入ると、徳川幕府はキリシタン弾圧
を強化するとともに、外国との交流を急激に狭め始めました。

寛永13年(1636)には、ポルトガル人をポルトガルの

植民地・マカオへ追放、さらに寛永16年(1639)には、

オランダ商館員を除くオランダ人をオランダの植民地

・ジャワ島のバタヴィアに追放しました。

いずれも、日本人女性との間にできた子や孫が
含まれていました。

バタヴィアは今日のジャカルタのことで、当時の現地民
たちはジャガタラと呼んでいました。

ジャガタラはこの地の古称ジャヤカルタあるいは

ジャカトラから来たとする説が有力です。

ここに追放されたり、それ以前から来住していた
日本人たちも、ジャガタラと呼んでいました。

バタヴィアには、世界で最初の株式会社として知られる
オランダ東インド会社の商館がありました。

株式会社といっても私企業ではなく、商業活動のほか、
条約の締結権や軍隊の交戦権、植民地経営権など
を与えられた準国家機関でした。

そのため、さまざまな記録文書は、オランダのデン
・ハーグにある国立文書館(Nationaal Archief)に
所蔵されており、今も見ることができます。

追放された日本人は帰国すると死罪で、日本との文通も
禁止されていました。

文通については明暦元年(1655)ごろから緩和されましたが、
それ以前でも、追放された日本人妻や混血児たちに同情的
なオランダの商館員や船員、出島のオランダ人との直接接触
が可能だった通詞(つうじ)や遊女などを介して密かに
文通が行われていました。

彼らが日本の親戚や友人に送った手紙は、ジャガタラ文
と呼ばれております。

ジャガタラ文のなかでも、イタリア人を父とする少女

・お春が、追放から数年後に友人おたつに書いたと

される手紙がとくに有名です。

お春は追放時14歳または15歳、おたつはお春より
2歳上で、長崎・筑後町の反物屋の娘でした。

その手紙は、望郷の思いを切々と訴える哀切なもので、
戦前に衆議院議員・貴族院議員を歴任した竹越與三郎は、

「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざる

者は人に非ずと申すべし」と述べているほどです。

また、長崎市の聖福寺(しょうふくじ)に建つお春の記念碑
の裏面には、歌人・吉井勇の歌が刻まれています。



お春を悲劇の美少女とするイメージは、江戸中期の
天文暦学者・西川如見(じょけん)が、著書『長崎夜話草
(ながさきよばなしぐさ)』にお春の手紙として掲載した
ものから生じたようです。

『長崎夜話草』は、西川如見が長崎の歴史、異国人・
異国船など海外事情、孝子・忠夫・貞婦、長崎土産など
について語った話を、子の正休(まさやす)が筆録・編集
したもので、5巻から成り、享保5年(1720)に京都の
版元から出版されました。

お春の手紙は、その第1巻のうち『紅毛人子孫遠流(おんる)
之事付ジャガタラ文』の項に載っています。

この項では、 「(追放された)11人のなかに紅毛人を
父にもつ長崎生まれのとても美しい14歳の少女がいて、
彼女もたびたび便りをよこした。

書道や読書を心得たその少女が3千余里も彼方の島で
綴った美しい文がとても珍しく、またとても哀れに思った
のでここに書き留める」と掲載の趣旨を述べ、それに
続いて手紙の全文を記しています。

なお、『長崎夜話草』のコピーは『富山大学学術情報
リボジトリ』にありますので、手紙の全文を読みたい方は、
そちらをご覧ください。














はじめて会う人に「何をしていらっしゃるんですか?」と
聞かれたことがありますか?

あなたは教師、学生、会計士、芸術家など、何でも自分の
職業を答えればいい。

しかし、いったんクエスト(冒険の旅)を始めたら、
別の答え方もできる。あなたのアイデンティティが職業に
縛られなくなるからだ。

あなたのアイデンティティは、あなたが本当はどんな
人間であるかによって決まる。

●私はすべての球場を訪れる予定です
●私は写真を100万枚発表するつもりです
●私は外国語をいくつも身につけています

1994年、16歳のクリステン・ゴールドバーグは最初で

最後のライフリストを作った。

『最高の人生の見つけ方』が上映される何年も前のことで、
クリステンのまわりにライフリストを作っている人は

いなかった。

クリステンにとっても、それはただ面白そうな思いつきに
すぎなかった。

20年後、クリスティンは今も同じリストに書いた目標を
追い続けている。

●日本語を勉強する
●護身術を習う
●ザルツブルグを訪れる
●ラスベガスで大勝ちする
●ドライブインシアターに行く
●結婚式の日に植樹する
●アメリカの50州をすべて訪れる

教師として働くクリスティンにとって、このリストは
人生の指針になっている。

毎年、彼女は15歳の新入生のためのセミナーを担当し、
授業の最後に『最高の人生の見つけ方』を生徒に見せる。

バスケットリストとは、死ぬまでにやりたいことの
リストをつくることです。

バスケットとはバケツのこと。
「kick the bucket」とは「死ぬ」を意味する言葉です。

そこから転じて、死ぬまでにやりたいことをリスト化し

実行する、という意味になりました。

クエストとは、探究とか、物語、冒険の旅のことです。
ゲーム用語では、クリアすべき課題のことでもあります。

●世界中のできるだけ多くの種類の鳥を見る
●世界の全ての国を訪問する
●195週間かけて毎週1ヵ国の料理をフルコースで作る

この最後の料理のクエストは、アメリカのオクラホマ州に
住む33歳のサシャ・マーティンさんのもので、料理を
通じて世界の文化に触れることだった。

それは、「コンロの上の世界旅行」と言われ、このことで、
講演を頼まれるようになったといいます。

自分の人生や生き方を変えるには、クエストが有効です。
自分独自のクエストを探し、自分を再起動できたら
素敵ですよねぇ。