(写真は、曽我兄弟の首塚)
伊豆・熱海・箱根の一帯で、私が一番好きな
温泉地は「伊東温泉」です。
昨年の年末は、伊豆の伊東温泉にある「曽我兄弟
の首塚」(注)にお参りに行き、伊東温泉で1泊
しました。
(注)「曽我兄弟」 : 源頼朝が行った富士の
裾野の”巻狩り”(当時の軍事演習)の際に
「曾我五郎」と「曾我十郎」の兄弟が、父親の
仇である「工藤祐経(すけつね)」を討ちました。
しかし、兄の十郎は、騒ぎに気付いた武士たちに
討たれ、弟の五郎は取り押さえられて斬首され
ました。
兄の十郎には、東海道の大磯宿に、恋仲の「虎
御前」(とらごぜん)がいましたが、仇討ちの
後、虎御前は、兄弟の遺骨を持って出家します。
その後、虎御前は、兄弟の仇討ち話を語り継いで
いきますが、この話が次第に世間に広まり、江戸
時代に入ると、歌舞伎などで、”曽我物”として
演じられ、人々の心をとらえました。
(上の絵は、富士の裾野仇討ちの図
:伊東温泉・東海館の展示パネルから)
(前頁の下の写真と下の写真は、小田原の
曽我梅林で売られている曽我兄弟 の
「五郎餅」)
(「曽我兄弟の墓」がある城前寺については、
「曽我梅林」(小田原市)を見てね。)
(大磯宿の虎御前の墓については、
「8.大磯」を見てね。
我が家から徒歩10分で新横浜駅、新横浜駅から
新幹線で25分で熱海駅、熱海駅から伊東線で
5駅の20分で、目的の伊東駅です。
伊東駅の観光案内所で、伊東市街地の散策地図を
貰って、市街地の外れにある「東林寺」を
目指して歩いて行きます。
東林寺の手前に、写真の「葛見(くずみ)神社」
がありました。
神社の本殿の左手奥には、国指定天然記念物の
写真の「大クス」があります。
葛見神社の先に、今回の旅行の目的地の「東林寺」
がありました。
「曽我兄弟」が、母の再婚先に預けられた関係で、
曽我兄弟は、その父や祖父とは苗字が異なり混乱
してくると思いますので、先ず、下記の苗字の
関係を頭に入れてから、先に進んで下さい。
「曽我兄弟」は「曽我十郎」と「曽我五郎」、兄弟
の父は「河津三郎祐泰(すけやす)」、兄弟の
祖父は「伊東祐親(すけちか)」、そして仇が
「工藤祐経(すけつね)」です。
「東林寺」は、伊豆の豪族である「伊東祐親」
(曽我兄弟の祖父)が、殺害された自分の息子の
「河津三郎祐泰」(曽我兄弟の父)の菩提を弔う
ために創建した寺です。
曽我兄弟の父の「河津三郎祐泰」は、領地争いが
原因で、「工藤祐経」に殺害されました。
殺害された「河津三郎祐泰」の2人の息子(曽我
兄弟)は、母の再婚先の「曽我家」で成長し、
富士裾野で、父を殺害した「工藤祐経」を
討ち取り、仇討ちを果たしました。
これが、冒頭でご説明した「曽我兄弟の仇討ち」
です。
伊東家の位牌などが並ぶ東林寺の本堂は拝観自由
ですが、私が訪れたときは、法要の最中だった
ため拝観は出来ませんでした。
(右側が曽我十郎の首塚)
(曽我五郎の首塚)
東林寺の境内の鐘楼の脇から、裏山に上る急な
細い山道があり、この坂道をしばらく登ると、
「曾我兄弟」の首塚がありました。
「曾我兄弟」の2つの首塚の横には、曾我兄弟の
父の「河津三郎祐泰」の墓もありました。
仇討ちを成し遂げた曾我兄弟の首塚は、父の祐泰
の傍らで、父の無念を晴らしたことを自慢げに
報告しているようです。
(河津三郎の墓)
3つの碑には、各々、「曽我之十郎祐成
御首塚」、「曽我之五郎時致御首塚」、
「河津三郎祐泰之墓」と彫られていました。
東林寺を出て、祐泰の父の「伊東祐親」(曽我
兄弟の祖父)の墓へ向かいます。
「伊東祐親」(曽我兄弟の祖父)の墓は、伊東家の
菩提寺である東林寺のすぐ近くにあるだろうと
思っていましたが、意外と離れた、東林寺の
向かいの岡の上にあり、かなりの距離を歩いて
行きました。
「伊東祐親の墓」には、写真の様に、祐親のものと
伝わる五輪塔がありました。
曽我兄弟関連の史跡巡りを終わって、歩いて市街
に戻ります。
次頁の写真は、明治時代の有名な詩人であり
ながら医者でもあった木下杢太郎の実家です。
「木下杢太郎記念館」として公開されていますが、
残念ながら、年末年始は休館でした。
ここから、市街地の中心を流れる松川沿いに、
海岸へ向かって歩いて行きます。
写真の「東郷記念館」は、日本海海戦で有名な
「東郷平八郎」元帥が、昭和4年に夫人の療養の
ために建てた別荘です。
東郷平八郎も、晩年はこの建物で過ごしたそう
です。
ボランティアのオジサンが、建物の内部を詳しく
説明してくれました。
海岸に出ると、写真の「按針メモリアルパーク」
がありましました。
次頁の説明板によると、将軍徳川家康の命を
受けて、ここで、日本初の洋式帆船を建造
したのだそうです。
按針メモリアルパークの横は、写真の「なぎさ
公園」です。
ps.更に複雑な曽我兄弟の仇討の背景
伊豆に流された「源頼朝」は、北条政子と出会う
前に、「八重姫」と愛し合い、「伊東温泉」で
密会を重ねました。
しかし、何と!、この「八重姫」の父は、罪人
である「頼朝」の監視役であった「伊東祐親」
でした。
そう、驚くことに、”曽我兄弟の祖父”の「伊東
祐親」は、「源頼朝」の監視役だったのです!!
「伊東祐親」は、平家の役人であり、頼朝の監視役
という立場もあり、罪人の頼朝と自分の娘の関係
を知り、激怒します。
そして、無残にも、何と!、頼朝と八重姫の子の
「千鶴丸」を殺し!、二人の中を引き裂きます。
この曽我兄弟の祖父の「伊東祐親」は、源頼朝が
挙兵すると平家の側に付いて戦いましたが、
富士川の戦いで破れ、最期は自刃しています。
この様な状況を利用して、「工藤祐経」は、頼朝
に取り入って、「伊東祐親」の「伊東荘」を
奪ったのでした。