(写真は、渋沢栄一が別荘として買い取ったという番所屋敷が
建っていた場所)
あけましておめでとうございます。
コロナがご存じの様な状況なので、現在、甲州街道踏破も中止
しています。
従いまして、今後は、手持ちの甲州街道をアップし終えたら、
コロナが落ち着くまで一旦中断します。
中断している間は、未だレポートしていなかった奥の細道の
続編をアップ予定です。
今年もよろしくお願いします。
前回の「関野宿」(神奈川県相模原市)の外れの増珠寺から、
次の「上野原宿」(山梨県上野原市)へ向かいます。
斜め右の上り坂の道に入ります。
その上り坂の先で、下の写真のY字路を斜め左の下り坂に
進みます。
更に、坂道を下り、国道20号に合流します。
国道20号の左側の歩道を、左手に相模川を見ながら下って
行きます。
上の写真の名倉入口の交差点を、左の下り坂に進みます。
坂を下って行くと、分岐点に上の写真の甲州古道「下小渕下」
標柱がありました。
甲州古道標柱に従って坂を下って行きます。
更に、下り坂を進み、「境沢」を「境沢橋」で渡ります。
「境沢」(境川)は、相模の国(神奈川県)と甲斐の国
(山梨県)との国境の川です。
江戸時代には、「境沢橋」(境橋)は、国境に架かる長さ
9メートルの土橋でした。
境沢橋を渡り、下の写真のヘアピン状の道を右折します。
その先は、ヘアピンカーブが延々と続く、つづら折りの
急な上り坂でした。
長かったヘアピンカーブを過ぎると、眼下に相模川の眺望が
広がります。
更に、ヘアピンカーブの坂を上って行くと、右手の石垣の上に
「諏訪関跡」碑が見えました。
案内板によると、「諏訪関」は、甲斐の武田氏が設置した
「甲斐24関」の一つで、相模国(神奈川県)と甲斐国
(山梨県)の国境にありました。
江戸時代に入ると、境川番所とも呼ばれ、江戸への出入りの
取り締まりを行っていました。
この番所の屋敷は、大変立派なものだったそうで、明治天皇の
巡幸の際の小休所にもなりました。
更に、この番所屋敷は、明治17年に「渋沢栄一」によって
買い取られ、東京の飛鳥山の別荘として移築された、
とあります。
驚き!
あの「渋沢栄一」が、この武田氏の関所の番所屋敷を
買い取って自分の別荘にしたなんて、知らなかった
なあ~!
しかし、飛鳥山の別荘として移築されたその後、この建物は
小泉策太郎という人に転売され、それ以降、どうなったかは
不明、とあります。
これほどの建物が不明って、どういうことなんだろう?
(渋沢栄一については、「谷中霊園散策」を見てね。)
諏訪関跡からしばらく進むと、上の写真の日蓮宗「船守寺」
(ふなもりじ)の並びに、下の写真の「諏訪神社」があり
ました。
この地を支配した古郡(ふるごうり)氏が、長野の諏訪神社に
勧請(かんじょう)して分霊を迎えところから、古郡神社とも
呼ばれたそうです。
更に進むと、油屋の表札を掲げた上の写真の旧家があり、
その先に、次頁の写真の旧甲州街道の大きな石碑が
あります。
碑には「あいさつをかわす思いやりの道、昔をしのぶ
思いでの道」と刻まれています。
その先の諏訪橋で中央高速を跨ぐと、右手に1661年創建の
「疱瘡(ほうそう)神社」がありました。
疱瘡(ほうそう、天然痘)は、当時、鬼神の仕業(しわざ)と
恐れられていたので、三月と十二月の祭礼は参詣者で賑わった
そうです。
この疱瘡神社の裏手には、私有地なので近づけませんでした
が、「塚場の一里塚」の片塚が残っていました。
塚木はモミの木だったそうで、江戸日本橋から数えて18里目
(72キロ) です。
旧甲州街道は、上野原の町に入り、新町交差点で右からの
国道20号に合流します。
この合流地点辺りが「上野原宿」の東口です。
今日は、JR上野原駅から、八王子駅経由で新横浜駅に
帰ります。
「関野宿」から「上野原宿」までは約4キロです。