(写真は、上野原宿の本陣の屋敷門)
JR横浜線の新横浜駅から、始発電車に乗って、八王子駅で
JR中央本線に乗り換え、JR上野原駅で下車します。
下車した上野原駅から、前回のゴールの上野原市の中心街まで
歩いて戻るために、駅前からヘアピンカーブの急坂を必死で
上って行きます?
これは、上野原駅と上野原市街地との間には、非常に大きな
段差があり、その段差(断崖)の下にある駅から、断崖の
急坂を上って、前回のゴールの上野原市内へ戻る必要が
あるからです。
上の写真は、電車の車窓から撮ったものですが、駅が段差
(断崖)の途中にあるため、駅の改札口から駅の出口までの
僅かな距離を進むのに、写真の様に、エレベーターで下りる
必要があります。
古文書によると、上野原宿は、「四方崖高く、この崖の上の
曠野である」(上野原宿は、四方が崖になっていて、段丘
といわれる崖の上の広野原にある。)とあります。
これが”(崖の)上の原”(上野原)の地名の由来です。
早朝に、ヘアピンカーブの急坂を息を切らして上りながら、
上野原の宿場町が、相模川の河岸段丘の上にあることを、
身に染みて実感しました。
ようやく前回のゴールの上野原の新町二丁目交差点に
たどり着いた頃には、この日のウォーキング体力の
ほとんど使い果たしてしまいました・・・
上野原宿には、本町と新町があり、本陣1、脇本陣2、
問屋2、旅籠20軒で、人馬の継ぎ送り(注)は、
毎月15日迄は本町が、16日以降は新町が行なっていました。
(注)「人馬の継ぎ送り」:旅をする役人等のために、
その荷物を宿場から宿場へとリレー方式で受け継いで
送る制度。
上野原は、この地方の絹織物の中心地であり、一と六の日に
市が立って大いに賑わっていたそうです。
しかし残念ながら、宿場の町並みは、明治と大正の大火で
灰燼に帰してしまいました。
写真は、上野原宿の商店街です。
ここまで甲州街道を歩いて来て、八王子以来、久々に
キチンとした商店街のある街並みに出会いました。
街道を左に入る道沿いに、暴れ神輿で有名な上の写真の
「牛倉神社」があります。
1594年、武田信玄の娘が北条氏政に嫁いだ際には、武田側
一万数千、北条側五千の兵を、ここ「牛倉神社」に送り、
この神社で信玄の娘を北条方に引き渡したそうです。
上野原宿の商店街は、かなり寂れていますが、何となく昔の
宿場町の賑わいの雰囲気が残っています。
街道沿いの上の写真の「ホテルルートイン上野原」が
「脇本陣跡」です。
脇本陣跡の右脇の細い道を入って行くと、次頁の写真の
立派な「屋敷門」がありますが、これが「藤田家本陣」跡
です。
屋敷門には藤田の標札がかかっています。
藤田家本陣は、明治天皇巡幸の際は御小休所となりました。
しかし、上野原宿大火の際に、本陣の家屋の大半が焼失、
この屋敷門だけが、かろうじて火災の損壊を免れたそうです。
上野原宿の商店街には、上の写真様に、三井屋の文字が漆喰壁
に浮彫された蔵造りの家などが点在し、少しだけ宿場町の
雰囲気を残しています。
やがて、角に山梨中央銀行がある上の写真の三叉路で、
旧甲州街道は左折します。
地図を見ると、この三叉路を左折したのちに、更に左折する
細い道が旧甲州街道だとありますが、その細い道の入口が
見つかりません。
更に地図をよく見ると、この旧甲州街道は、この国道20号の
先の 歩道橋で直ぐに合流する様なので、上の写真の
上野原市役所を右手に見ながらそのまま進みます。
旧甲州街道との合流地点と思われる歩道橋が見えたので、
歩道橋の手前で国道20号線を右折し、標識に従って、
県道30号に入りその坂を下りて行きます。
坂道からは、これから向かう鶴川宿が遠望できます。
県道30号の坂の途中で左に入る歩道がありました。
この歩道で、県道30号をショートカットします。
鶴川を鶴川橋で渡り、鶴川宿に入ります。
これから先は、旧甲州街道は、徐々にJR中央本線から
離れてゆき、バス路線も無くなります。
ここから、上野原宿 ⇒ 鶴川宿 ⇒ 野田尻宿 ⇒ 犬目宿
⇒ 鳥沢宿と続きますが、鳥沢宿があるJR鳥沢駅までの
約15キロの間は、電車もバスも無い交通機関空白地帯
です。
従いまして、これから先は、「歩行は1日5キロ以内」という
整形外科医の指示を無視して歩き続けるしかなく、電車もバス
もタクシーも無い街道の途中で、股関節炎が再発しないか心配
です・・・
「上野原宿」から「鶴川宿」までは約2キロです。