(写真は、城山から望む桜島)
天文館通りの白熊本店で腹ごしらえをしてから、天文館通りの
繁華街を抜けて、国道3号沿いの中央公園に出ます。
中央公園の道路向いの広場に、明治維新に尽力した薩摩藩家老
の「小松帯刀(たてわき)」(西郷どんでの配役は町田啓太)
の銅像が前頁の写真の様に建っていました。
そして、中央公園の交叉点の正面は、 城山を背に、昭和12年
に建てられたという14メートルもの高さのある下の写真の
「西郷隆盛銅像」です。
この銅像は、戦時中の軍への金属供出にも、GHQの撤去命令
にも、官民挙げて拒否したために残ったそうです。
西郷隆盛銅像を左手に見ながら、国道3号を進むと、直ぐに
写真の「鶴丸城」があります。
「鶴丸城」は、「鹿児島城」の別名で、関ヶ原の合戦の後に、
島津家久が、ここに居館を築いて、周辺に家臣の屋敷を移し
ました。
77万石の大大名の島津氏の居城といっても、本丸、二の丸、
下屋敷が並ぶだけの「屋形づくり」で、天守閣や層楼は
ありませんでした。
これは、島津家の「城をもって守りと成なさず、人をもって
城となす」という考えに基づくものでした。
成程ね、島津は偉い!
明治維新後は、鶴丸城は、熊本鎮台の分営として使われました
が、明治6年に炎上、城壁と石橋だけが残されたました。
石橋の奥の「御楼門」は、来年3月の完成を目指して、復元
工事中でした。
現在は、薩摩藩主が暮らした本丸跡に、上の写真の「黎明館」
(歴史資料センター)が建っています。
「黎明館」の前には、上の写真の篤姫(天璋院)の銅像が
建っていました。
黎明館には、鹿児島の歴史や工芸などが展示されています。
(「鶴丸城」の復元模型)
(薩摩藩の溶鉱炉)
(昭和初期の天文館)
また、黎明館の隣の「二の丸跡」には、現在は、上の写真の
図書館が建っています。
黎明館を出ると、左隣に、写真の「薩摩義士碑」があります。
1753年、幕府に、木曽川の治水工事を命じられた薩摩藩は、
家老・平田靭負(ゆきえ)を総奉行として、約1,000人を、
三重の桑名に派遣しました。
しかし、これは大変な難工事となり、1年3カ月かけて完成
したものの、40万両の巨費を費やした末に、84人もの
犠牲者を出しました。
その責任を一身に負い、平田は自刃しました。
これらの藩士を供養するために、大正9年に建立されたのが
この「薩摩義士碑」です。
(薩摩義士の自刃については、「東海道を歩く・桑名宿」の
海蔵寺の記載を見てね。)
また、黎明館の道路向いは、西郷隆盛が創設した下の写真の
「私学校跡」の石垣です。
私学校の石垣には、西南戦争で政府軍が浴びせた銃砲弾の弾痕
が今もなお次頁の写真の様に残っています。
黎明館の前のバス停から、1日乗り放題「カゴシマシティ
ビュー」巡回バスに乗り、「西郷隆盛・洞窟」バス停で
下車します。
西南戦争では、熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れた西郷軍
は、多くの死傷者を出しながらも、九州を南下しました。
そして、故郷の城山で最後の決戦を行うために、西郷軍が城山
に入った時には、城山を包囲する政府軍5万に対し、西郷軍は
僅か300余りでした。
最後の一進一退を繰り返したであろう、坂の途中の崖に、上の
写真の横穴が2つ掘られています。
今は、崩れて、かろうじて2本の入口が確認できるのみです。
西郷軍は、最後の5日間、この洞窟を堀り、本陣としたそう
です。
木々に覆われて、ここからは桜島は見えません・・・
西郷軍は、政府軍の軍師を通じて、翌朝午前4時に総攻撃が
始まることを知ります。
総攻撃の前夜、西郷軍は、残った食料と酒で、この洞窟の
前で、宴会を開きました。
西郷軍は、降伏の勧めを断り、最後の戦いに挑む決意を
します。
そこへ、政府軍の軍楽隊が演奏する葬送行進曲が流れて来た
そうです。
一説には、明日には屍となる西郷軍の武勇をたたえ哀悼の意を
捧げるためだったそうです・・・
故郷の桜島を臨みがら最後を遂げた、というのはドラマの世界
の話で、現実には、この洞窟の前で、土にまみれて、銃弾に
倒れたそうです。
西郷は「もうここでよかろう」と別府晋介に介錯を頼み自刃、
介錯を済ませた別府もその場で切腹しました。
村田新八、桐野利秋など他の志士たちも全員突撃して壮絶な
最後を遂げました。
この「西郷隆盛・洞窟」バス停からバスに乗って、坂を更に
上って行くと、次のバス停が「城山展望台」です。
写真は、城山展望台から見た桜島と鹿児島市街地です。
この城山展望台の直ぐ下に、薩軍2,023名もの将兵が眠る
「南州墓地」がありました。
上の写真の常夜灯は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、
江戸城が無血開城されて、兵火を免れたことへの感謝のため、
昭和14年、当時の東京市によって寄贈建立されものだそう
です。
上の写真は、正面が「西郷隆盛」、右手が「篠原国幹
(くにもと)」、左手が「桐野利秋」の墓石です。
(西郷隆盛の墓)
(桐野利秋の白御影石の墓石)
「桐野利秋」(きりの としあき)は、当時は「中村半次郎」と
称しており、陸軍少将時代には、フランス製の香水を身に
まとったりと、なかなかお洒落だったそうです。
しかし、西郷隆盛から上田藩士の赤松小三郎の暗殺を
命じられた事などもあり、当時は、”人斬り半次郎”として、
新選組からも恐れられていました。
戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いで活躍、多くの首級を上げ、
駿府などを占領、その後、西郷隆盛と勝海舟との会談の席
にも同席します。
また、上野の彰義隊との戦いに参戦、その後、会津若松城の
落城の際は、城の受け取り役を仰せつかります。
この時の半次郎の対応に感動した若松城城主・松平容保が、
後に人を介して宝刀を贈ったそうです。
そして、西南戦争では、西郷軍の事実上の総司令官として指揮
を執りました。
ボランティアのおばさまの説明だと、桐野利秋の墓だけが
高価な白御影石で造られており、現在でも、花柳界の女性たち
のお参りの献花が絶えないそうです。
人斬り半次郎は、当時から、よっぽどモテたんですねえ~。
(篠原国幹の墓)
「篠原国幹」は、薩摩藩出身の陸軍少将でしたが、西郷隆盛を
助けて私学校を経営し、西南戦争では、西郷軍として田原坂で
戦死しました。
(14歳で戦死した少年烈士3人の墓)
(17~35歳の兒玉5兄弟の墓)
南洲公園内には、西郷隆盛の偉業を伝える上の写真の「西郷
南洲顕彰館」があり、西郷隆盛の遺品などを展示しています。