(北条義時役の小栗旬と源義経役の菅田将暉
:大河ドラマ館)
前回は、「鎌倉殿の13人」の先週放映分までの
あらすじを載せましたが好評だった?ので、
今回も少し長くなりますが、以下「鎌倉殿の13人」
の次回以降~最終回までの”私の予想するあらすじ”
を書いてみました。
前回、頼朝は、平泉に兵を送り、義経を襲撃して
殺し、義経の首を鎌倉に届けさせましたが、義経
の悲運の次は、義経と同じ兄弟の「源範頼」の
悲運についてです。
(源義経の菅田将暉)
(源範頼の迫田孝也)
源範頼と源義経の兄弟は、息の合った連係プレー
で「一ノ谷の戦い」や「壇ノ浦の戦い」で見事に
平氏を滅亡させました!
頼朝の弟の「範頼」は、遠江国(静岡県)の蒲
御厨(かばのみくりや:浜松市)で生まれ育った
ことから「蒲冠者」(かばのかじゃ)と呼ばれて
いました。
頼朝は、富士の裾野で、大規模な「巻狩り」
(まきがり)を行いますが、この巻狩りの最中に
「曽我兄弟の仇討ち」事件が起きます。
(曽我兄弟の祖父の伊東祐親:浅野和之)
(曽我兄弟の仇の工藤佑経:坪倉由幸)
(「曽我兄弟の仇討ち」は、伊東家と工藤家の人間
関係が複雑なので、詳細な説明は、
この仇討ちの一報は、源頼朝が討たれたという
誤報として、鎌倉の源頼朝の正室「北条政子」の
耳に届きました。
政子は狼狽してしまいますが、「範頼」は政子を
安心させようと、「兄のあとには、私が控えて
いるので、心配ご無用です」との言葉を掛け
ました。
ところが、これを聞いた頼朝は、謀反の意志あり
と怒り、範頼は、伊豆国の「修善寺」に幽閉され
誅殺されました。
(源頼朝の大泉洋)
(義経と同時期に行った範頼の最初の挙兵について
は、「四日市~石薬師」の蒲桜を、範頼が幽閉
されて謀殺された寺と墓については、
「修善寺の歴史」の信功院を見てね。)
しかし、その”恐ろしい頼朝”も、相模川の
橋供養の帰路で落馬し、やがて、あっけなく
亡くなりました。
頼朝が急死すると、嫡男の「頼家」が2代将軍に
なります。
しかし、頼家には御家人達を統率する力量がない
とみた北条時政と政子は、「有力御家人13人に
よる合議制」を始めます。
そして、時政と政子は 2人だけで実権を握る
ために、「頼家」の弟の「実朝」(さねとも)を
名前だけの次期の将軍にしようと画策します。
これを知った「頼家」と頼家の義父の「比企能員」
(ひきよしかず)は、北条氏(時政と政子)の打倒
を謀りますが、逆に、時政と政子は、比企能員を
自邸におびき寄せて殺害し、比企能員の館を急襲
して比企一族を滅ぼしてしまいました。
(北条政子の小池栄子)
(比企能員の佐藤二郎)
これにより、頼家は「伊豆の修善寺」に幽閉され、
刺客によって暗殺されます。
(頼家の幽閉と墓については「修善寺の歴史」の
修善寺物語を、政子が我が子の頼家を供養した寺
については「修善寺の歴史」の指月殿を見てね。)
3代将軍・源実朝は、時政と政子の狙い通りに、
お飾りの将軍となります。
このため、北条義時を含む13人の家臣達による
内部抗争が激しくなりますが、最終的には、北条
義時がこの内部抗争を制し、遂には幕府の
最高権力者となりました。
(北条義時にとっては、めでたしめでたしの
ハッピーエンドです。← 私の最終回の予想です。
)
以下は、大河ドラマ館の展示内容です。
上の写真は、鎌倉幕府の雅な雰囲気の部屋の再現
で、烏帽子を被って記念撮影も出来ます。
以下は、出演者たちが身に着けた衣装です。
次頁の写真は、シアター映像の入り口のポスター
です。
制作のウラ側など面白かったのですが、映像は
撮影不可です。
(出演者の相関図、サイン展示:但しサインは撮影
不可)
(撮影小物)
なお、鎌倉幕府の当時の中枢を再現したジオラマ
もありましたが、残念ながら撮影禁止でした。
また、土産売り場では、鎌倉殿の13人にちなんだ
お菓子やTシャツ等を売っていました。
小町通りで、昼食にする予定でしたが、平日にも
拘わらず、どこも修学旅行の生徒とカップルで
満席でした。
小町通りでの昼食を諦め、下の写真の「まめや」
で北条義時の絵柄の豆の詰め合わせセットを買う
だけにしました。
食事は、鎌倉駅の構内の「風凛」で「小町御膳」
(3,280円)を食べました。
ps. これまでの大河ドラマについては、
を見てね。