(写真は「大内宿」)
芦ノ牧温泉駅から会津鉄道に乗り、 「大内宿」の最寄り駅の
「湯野上温泉駅」で下ります。
湯野上温泉駅は、全国的にも珍しい「茅葺き屋根の駅舎」
です。
駅舎の横には足湯もあります。
湯野上温泉駅から1日6便の大内宿行のマイクロバスが運行
されています。
福島県の南会津に位置する「大内宿」は、
江戸時代に、「会津若松」と「日光今市」を結ぶ
「会津西街道」の宿場町として、「会津田島宿」
などと共に栄えました。
日光街道と奥州街道については、
「中山道を歩く」の中程の日光街道、奥州街道を
ご覧ください。
「会津西街道」は、会津若松が起点で、日光の今市で日光街道
と合流します。
会津藩の参勤交代をはじめ、徳川家康を祀る日光東照宮への
参詣、江戸へ米などを運ぶ輸送路としての役割を果たして
いました。
幕末の「戊辰戦争」では、「会津藩」は、官軍の進軍を止める
ために、「会津若松城」へとつながる「会津西街道」を閉鎖
しました。
これにより、街道沿いは激戦地となり、街道沿いの多くの住民
が犠牲になりました。
会津藩は、会津若松城での籠城戦に入るため、大内宿や会津
田島宿で戦っていた藩兵を会津若松城へ呼び戻します。
このため、大内宿や会津田島宿は官軍の手に落ち、会津若松城
へと敗走する会津軍は、官軍の助けとなるのを防ぐため、
次々と付近の村々を焼き払いながら撤退しました。
このとき、大内宿だけは、奇跡的に焼き討ちを免れました。
ところが、思いもよらぬ会津軍の反撃が、ここ大内宿で
繰り広げられます。
会津軍の笹沼金吾は、ただ1人大内宿に残って官軍を
待ち伏せ、何と!官軍を12人も討ち取り、壮絶な最期を
遂げました。
更に、会津軍の城外奇襲作戦の指揮官だった佐川官兵衛は、
農民から兵を募集、この部隊が奮戦し、田島陣屋と大内宿を
奪還しました!
しかし、落城した会津若松城の藩主から佐川官兵衛に親書が
届き、官兵衛は、勝利を続けていたにも拘わらず、仕方なく
降伏しました・・・
湯野上温泉駅からマイクロバスで20分、大内宿に
着きました。
大内宿は、現在も、江戸時代の面影そのままに茅葺屋根の民家
が街道沿いに建ち並びます。
国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、
この景観を守り引き継いでいくために店舗兼住居になって
います。
以下は、大内宿の街並みです。
大内宿の名物といえば、なんといっても、箸を使わずに、
ねぎ一本で食べる「ねぎそば」です。
「ねぎそば」は、会津地方に昔から伝わる風習だそうで、
写真の様に、蕎麦のお椀に生ねぎが一本だけ添えられて
います。
すくって食べやすい様に、ねぎは、根の方を曲げて育てる
そうです。
ねぎソバの店は数軒ありますが、どの店も満員です。
以下の写真は「大内宿本陣跡」です。
(上段の間)
(中の間)
(次の間)
(トイレ)
宿場町の端の高台にある、観光用ポスターの撮影スポットに
行くために、急な石段を上って行きます。
大内宿~湯野上温泉駅のマイクロバスは、増便がないため、
ときどき積み残しが発生します!、とバスの車掌さんに
脅されました。
帰りのマイクロバスに積み残されたら大変と思い、見物を
30分早く切り上げて、バス停に並びました。
個人での電車を利用しての大内宿の観光は、この様な心配が
あるので、レンタカーか、大内宿、塔のへつり、龍王峡を
1日で廻るバスツアーの方が安心ですよ。
湯野上温泉駅から、会津鉄道に乗ります。
会津田島駅で乗り換えます。
会津田島駅で待ち時間があったので駅の周辺を散策します。
みんな大好き?、ウソだろう~!
会津田島駅から、特急リバティ会津で浅草駅まで乗り帰宅
しました。