(写真は、吉野ケ里遺跡の物見櫓)
昨年の冬、熊本の実家へ帰省の際、羽田から福岡
へ飛び、福岡空港から高速バスで佐賀へ向かい
ました。
佐賀市の外れの「吉野ケ里遺跡」に寄り道して
から、JR吉野ヶ里公園駅で長崎本線に乗り、
鳥栖駅で鹿児島本線に乗り換えて熊本に帰り
ました。
(JR吉野ヶ里公園駅)
昭和61年の発掘調査によって発見された
「吉野ヶ里遺跡」(よしのがり いせき)は、
佐賀平野の東部の段丘地帯に位置する、
1700年前の弥生時代末期の大規模な集落跡です。
(国特別史跡)
ここ「吉野ケ里遺跡」に来てみて、先ず、驚く
のは、とにかく、歩いて回るのが無理なくらい
”広大”なことです。
その広大なエリアに、竪穴住居、高床住居、
物見櫓、堀、柵、高床式倉庫、墳丘墓など、
何と!、
98棟もの建物等が復元されています!!
これらの98棟は、遺跡の柱の跡や、遺構として
残っていた木材をもとに復元されたそうです。
広い公園内は、下記の①~③の3つのゾーンに
区分されています。
①「環濠集落ゾーン」では、多数の遺構が復元
されており、出土した土器や装飾品などを
陳列した展示室も設けられています。
②「古代の原ゾーン」は、レクリエーション
ゾーンで、赤米などの古代米を栽培する
水田の他、広場や水辺に遊具が設けられて
います。
③「古代の森ゾーン」は、官衙跡が復元されて
おり、古代植物の栽培の他、キャンプ場
などがあります。
1日で全部回るには余りにも広大なので、
①の「環濠集落ゾーン」の更にメインルート
のみに絞って歩くことにしました。
「吉野ヶ里歴史公園」の入口です。
(入場料:460円)
南の守りの「南内郭」です。
「南内郭」には、リーダー層が住んでいました。
日本の「城郭」の始まりと言われている弥生時代
の「環濠集落」です。
周囲を「環濠」と「城柵」に囲まれてます。
吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが、集落の
防御遺構です。
当時としては珍しい、外壕と内壕の二重の環濠が
あり、深さ3メートル、幅7メートル、
斜面60度で、総延長約2.5キロメートルの城柵
を巡らした堀です。
壕の内外には、木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)
といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていました。
また、見張りのための物見櫓が、環濠内に複数
置かれていました。
竪穴式住居や高床住居は、祭祀に携わる者や
その側近が暮らしていたそうです。
写真は「物見櫓」で、兵士が監視してました。
物見櫓の上からの眺めです。
次頁の写真は、展示室です。
遺体を入れる「瓶」です。
左が庶民の服装で、右が上層人の服装です。
「北内郭」に入ります。
「主祭殿」です。
王と、各地のムラから集まってきている
リーダー達です。
祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っています。
主祭殿の上からの眺めです。
次頁の写真は「斎堂」です。
「祀りの道具」を保管する場所と考えられて
ます。
300年以上も論争が続いている「邪馬台国」の
場所について、現在有力なのは、ここ佐賀の
「吉野ヶ里遺跡」(九州説)と、奈良の「纏向
(まきむく)遺跡」(近畿説)だそうです。
昨年放映のTBS・BSにっぽん歴史鑑定の
「邪馬台国はどこにあった?」では、九州説の
根拠として、「魏志倭人」に、「卑弥呼」の
居所に「宮室 居処 楼観 城柵」があると
記述されており、これが「吉野ケ里遺跡」の
構造と符合するそうです。
つまり、南内郭=宮室、北内郭=居処、物見櫓=
楼観、柵=城柵と符合するのだそうです。
(外壕と内壕の二重の環濠:にっぽん歴史鑑定
から)
二重の環濠など、これほど厳重な守りを築いた
のは、主祭殿の卑弥呼を守るためだったと推測
されるそうです。
更に、「魏志倭人」には、邪馬台国では、鉄の
矢尻を使用していると記載されています。
吉野ケ里遺跡では、多数の鉄の矢尻が発掘されて
いますが、近畿地方では鉄の矢尻はほとんど発掘
されていないそうです。
北内郭を進んで行くと、次頁の写真の「北墳丘墓」
がありました。
「北墳丘墓」と「南墳丘墓」は、集落の首長などの
墓らしいです。
次に、「倉と市」エリアにやって来ました。
写真は、「織物の倉」です。
ここには、当時の倉庫が20棟ほど復元されて
います。
この場所は川に隣接しており、また干満の差が
激しい有明海の海岸線にも近いので、海外や
地方との交易品・食糧・金属製品・武器等を
収める倉庫群だあったそうです。
この倉と市エリアの先に、下の写真奥の一般人
が住む「南のムラ」があるのですが、この倉と
市エリアまで歩いたところで、もう疲れて
クタクタになったので、途中ですが、
吉野ケ里遺跡の見物はここまでで切り上げる
ことにしました・・・