ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

吉野ケ里遺跡 (日本100名城) (佐賀県) 2018.11.4


(写真は、吉野ケ里遺跡の物見櫓)

昨年の冬、熊本の実家へ帰省の際、羽田から福岡
へ飛び、福岡空港から高速バスで佐賀へ向かい
ました。

佐賀市の外れの「吉野ケ里遺跡」に寄り道して
から、JR吉野ヶ里公園駅で長崎本線に乗り、
鳥栖駅で鹿児島本線に乗り換えて熊本に帰り
ました。

(JR吉野ヶ里公園駅)

昭和61年の発掘調査によって発見された
「吉野ヶ里遺跡」(よしのがり いせき)は、
佐賀平野の東部の段丘地帯に位置する、
1700年前の弥生時代末期の大規模な集落跡です。
(国特別史跡)

ここ「吉野ケ里遺跡」に来てみて、先ず、驚く
のは、とにかく、歩いて回るのが無理なくらい
”広大”なことです。

その広大なエリアに、竪穴住居、高床住居、
物見櫓、堀、柵、高床式倉庫、墳丘墓など、
何と!、
98棟もの建物等が復元されています!!

これらの98棟は、遺跡の柱の跡や、遺構として
残っていた木材をもとに復元されたそうです。

広い公園内は、下記の①~③の3つのゾーンに
区分されています。
①「環濠集落ゾーン」では、多数の遺構が復元
されており、出土した土器や装飾品などを
陳列した展示室も設けられています。
②「古代の原ゾーン」は、レクリエーション
ゾーンで、赤米などの古代米を栽培する
水田の他、広場や水辺に遊具が設けられて
います。
③「古代の森ゾーン」は、官衙跡が復元されて
おり、古代植物の栽培の他、キャンプ場
などがあります。
1日で全部回るには余りにも広大なので、
①の「環濠集落ゾーン」の更にメインルート
のみに絞って歩くことにしました。




「吉野ヶ里歴史公園」の入口です。
(入場料:460円)




南の守りの「南内郭」です。
「南内郭」には、リーダー層が住んでいました。
日本の「城郭」の始まりと言われている弥生時代
の「環濠集落」です。
周囲を「環濠」と「城柵」に囲まれてます。

吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが、集落の
防御遺構です。



当時としては珍しい、外壕と内壕の二重の環濠が
あり、深さ3メートル、幅7メートル、
斜面60度で、総延長約2.5キロメートルの城柵
を巡らした堀です。
壕の内外には、木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)
といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていました。
また、見張りのための物見櫓が、環濠内に複数
置かれていました。



竪穴式住居や高床住居は、祭祀に携わる者や
その側近が暮らしていたそうです。


写真は「物見櫓」で、兵士が監視してました。



物見櫓の上からの眺めです。







次頁の写真は、展示室です。


遺体を入れる「瓶」です。



左が庶民の服装で、右が上層人の服装です。



「北内郭」に入ります。






「主祭殿」です。




王と、各地のムラから集まってきている
リーダー達です。





祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っています。


主祭殿の上からの眺めです。


次頁の写真は「斎堂」です。
「祀りの道具」を保管する場所と考えられて
ます。

300年以上も論争が続いている「邪馬台国」の
場所について、現在有力なのは、ここ佐賀の
「吉野ヶ里遺跡」(九州説)と、奈良の「纏向
(まきむく)遺跡」(近畿説)だそうです。 

昨年放映のTBS・BSにっぽん歴史鑑定の
「邪馬台国はどこにあった?」では、九州説の
根拠として、「魏志倭人」に、「卑弥呼」の
居所に「宮室 居処 楼観 城柵」があると
記述されており、これが「吉野ケ里遺跡」の
構造と符合するそうです。
つまり、南内郭=宮室、北内郭=居処、物見櫓=
楼観、柵=城柵と符合するのだそうです。

(外壕と内壕の二重の環濠:にっぽん歴史鑑定
から)
二重の環濠など、これほど厳重な守りを築いた
のは、主祭殿の卑弥呼を守るためだったと推測
されるそうです。
更に、「魏志倭人」には、邪馬台国では、鉄の
矢尻を使用していると記載されています。
吉野ケ里遺跡では、多数の鉄の矢尻が発掘されて
いますが、近畿地方では鉄の矢尻はほとんど発掘
されていないそうです。

北内郭を進んで行くと、次頁の写真の「北墳丘墓」
がありました。
「北墳丘墓」と「南墳丘墓」は、集落の首長などの
墓らしいです。





次に、「倉と市」エリアにやって来ました。

写真は、「織物の倉」です。

ここには、当時の倉庫が20棟ほど復元されて
います。
この場所は川に隣接しており、また干満の差が
激しい有明海の海岸線にも近いので、海外や
地方との交易品・食糧・金属製品・武器等を
収める倉庫群だあったそうです。
この倉と市エリアの先に、下の写真奥の一般人
が住む「南のムラ」があるのですが、この倉と
市エリアまで歩いたところで、もう疲れて
クタクタになったので、途中ですが、
吉野ケ里遺跡の見物はここまでで切り上げる
ことにしました・・・





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コメント一覧

ウォーク更家
吉野ケ里遺跡で古代に思いを
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうなんです、吉野ケ里遺跡は、私もニュース程度しか知らないので、実際に行ってみて、想像以上に壮大な規模で驚きました。

吉野ケ里遺跡を見物しながら、だんだんと邪馬台国のイメージが湧いてきました。

そうですか、松本清張の「古代史疑」や「古代探求」ですか、面白そうですね。
tadaox
古代に思いを・・・・
https://blog.goo.ne.jp/s1504/e/8a497cdddf86f878ac296af3baac3b20
こんばんは。
今回はまた遠方まで足を運びましたね。

吉野ケ里遺跡はニュース程度しか知らないので、ただただ感心しながら読ませていただきました。
思っていた以上に壮大な規模でびっくりしました。

やはり、邪馬台国につながる印象が強いのが納得です。
松本清張の「古代史疑」や「古代探求」そして梅原猛の諸作を読みふけったころが思い出されます。

すばらしい旅でしたね。
ありがとうございます。
ウォーク更家
有名になる前の吉野ヶ里
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
発見されて間もない頃に吉野ヶ里へ行かれたとは、先見の明がありますね。

そうですよね、私は帰省途中だったので半日でしたが、やはり、丸々1日かけでじっくり見たかったです。

吉野ヶ里が100名城の1つと知って、100名城の時代の幅が相当に広いことを知りました。
こもよみこもち
こんばんは。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
吉野ヶ里は、昔、まだ発見されて間もない頃に家族旅行で行ったのですが、その頃でさえ、なかなか見るところが多く、時間に追われて欲求不満だったのですが、これだけ整備されるとまた行きたくなります。
1日かけでじっくり見たいものです。

100名城の1つに選定されているので、それでなくても行きたいのですが...
ウォーク更家
よく整備された吉野ケ里遺跡
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、吉野ヶ里公園は、完璧に近いくらい整備されていたので驚きました。

そう、JR長崎本線から吉野ケ里遺跡が見えますよね。

十日町市博物館の国宝の火焔型土器、美しいですね。
もののはじめのiina
吉野ケ里遺跡 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/9fe44312169e8def407179d1240134f3
JR長崎本線に乗ると、吉野ケ里遺跡の側を通るので跡地だけを何度か見ています。
           行きたいと思いつつ、まだ機会がありません。
吉野ヶ里公園は、ずいぶんと整備されたようですね。

昨年に、十日町市博物館を訪ねて笹山遺跡出土品を見学しました。火焔土器を見ました。^^
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/094dd76a1987f7b0e7bb919564363a31


ハイ、「山手(やまのて)線」が正しい呼び方でした。
iinaは、佐々木新一「あの娘たずねて」の歌にひきずられて「やまてせん」になります・・・("^ω^)

 

ウォーク更家
邪馬台国九州説は有力
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、想像を遥かに超える壮大な遺跡でした。

こんなに凄い遺跡があるのに、佐賀県は、観光アピールが下手だなと思いました。

ええ、この復元遺跡を現実に目前にすると、急に、邪馬台国の九州説が説得力を持つ様な気がしてきました。

ここに来る前は、近畿説の方が有力かなと思っていましたが、ここに来てみると、ホントに、ここに卑弥呼がいた様な錯覚に襲われました。
hide-san
邪馬台国?
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
この遺跡の規模からして邪馬台国?をしのばれますね。

卑弥呼も居たのではないか?

壮大な遺跡ですね。
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